『いけないことかい?傷付いても二度とはもう離したくない
息が出来ないほど愛してるよ……』
イケナイコトカイ
開発半の仕事に忙殺されながらも、彼女は忙しく日々を過ごす。
白衣に身を包めば雑念からは開放される。
今まではそうだった。
(どうしよう……あんなことまでしちゃったよ……)
初めて触れた他人の唇は甘く、優しかった。
あの時にその背を抱いたのは嘘ではない気持ち。
(でも、ボク……本当に道徳のことそういう風に見れるのかな……)
試験管を持ちながら揺れる指先。
ふらふらと混ざり合う液体はまるで自分の気持ちのよう。
「あアッ!!」
雑念は払われるばかりか沸き起こるばかり。
こぼれた薬液は普賢の指を焼き、床を焦がす。
「普賢さま!大丈夫ですか!?」
「あ、うん……ちょっと考え事してて……」
指を摩りながら普賢は苦笑する。
(きっと……あの人の好きと、ボクの好きは違うんだろうな……)
注意力は散漫で、頭の中は出ない答えで堂々巡り。
今日だけでもいくつかの薬瓶を割ってしまう有様だ。
沈着冷静が看板の普賢真人にあるまじき失態。
「普賢、疲れるみたいだな。休憩しないか?太乙も」
白衣に身を包み、雲中子、太乙真人、普賢真人の三人はあれこれと談義を。
少し疲れた顔ではあるが、それなにりに充実した結果に満足感のある笑みを浮かべる。
「太乙さま、道徳さまがお見えですが……」
「おいでって言ってきて。僕たちも丁度休憩中だから」
気付かれないようにちらりと普賢を見る。
雲中子との話に夢中で先ほどの言葉は耳には入っていないらしい。
(道徳、頑張れ。応援くらいはしてあげるから)
こつこつと近付く足音。
「太乙、居るか〜?」
「こっちだよ」
手招きして、太乙真人は道徳真君を招き寄せる。
「あ……その……元気か?」
「う……うん……」
目線すら合わせずに普賢は早々に席を立ち、自分の持ち場へと帰っていく。
その小さな背中を見送って、伸ばせない手を彼はぎゅっと握った。
(嫌われたかな……俺……)
がっくりと肩を落とす姿を同期二人は苦笑交じりに見詰めて、ぽん、と背中を軽く叩く。
「ほら、早く追いかけろ。鈍感男」
雲中子が背中を押す。
「あれは自分でも自分の感情が理解しきれてないだけだろ?さっきも手に薬品こぼしてたみたいだしね」
「なっ!?火傷とか……」
「してるだろうね。だから早く追いかけろ、ほら」
どん、と押されて彼は彼女の後を追う。
その姿が見えなくなるころ雲中子は今まで噛み殺していた笑い声を上げた。
「あははははっ!!無自覚ほど面白いものはないね。道徳も、普賢も」
籠に盛られた杏を一つ取って口に入れる。
「恋愛なんて本人たちが真面目であるほど周りにとっちゃ傍迷惑で滑稽なもんだと思わないか?」
少しだけ上がり気味の女の瞳がにやりと笑う。
崑崙における数少ない仙女の一人。それがこの女、雲中子だ。
「あの道徳に、あの子が落とせるかどうか……賭けるか?太乙」
「止めておくよ。道徳には落として欲しいからね。親友として」
「そうだな。一人身はあれだけだ。添い寝の相手くらい自力で手にしてもらわないと」
終南山に居を構える彼女は、何かと青峯山にも出向くこともあった。
だが、道徳真君に降って沸いた恋を見てからはそれもなくなった。
少しだけ上がり気味の瞳が、優しく細められる。
「でもねぇ……普賢はどうだろう?道徳を受け止められるだろうか。太乙は男だから道徳の気持ちは分かるだろう?
私もこれでも女だからね。普賢の気持ちが少しは分かるつもりだ」
茶器に口をつけて雲中子は続けた。
「他人の優しさには誰だって戸惑うものさ。若年ならば殊更にね……」
「だろうね……僕は道徳とはまったく逆の年齢差だから。応援したくなるんだよね」
真っ直ぐな親友は、その性格故に手を拱く。
せめてもとその背中をそっと押してやる。
「傷心を慰める準備はしなくないなぁ」
「そうだね。精々頑張って来いよ。清虚道徳真君」
空は快晴。
恋をするには絶好の天気だった。
回廊をぱたぱたと走り抜けて、普賢は中庭に身を寄せていた。
息切れもようやく治まって膝を抱えて座り込む。
(びっくりした……別に、逃げなくても良かったんだよね……?)
呼吸は整っても、胸の動悸はそのままで。
(だって……急に現れるんだもん……どうしたらいいか分からないよ)
意識してしまえば今までのように接することはとても困難で、どうしても目を伏せてしまう。
あの夜の甘い接吻が、暖かさが、何もかもがありありと思い出されてしまうのだ。
(やだ……どうしよう……)
耳まで真っ赤に染め上げて、普賢は自身を抱きしめる。
初めて触れた他人の唇の温かさ。
その腕に抱かれることの心地良さ。
(ちゃんとしなきゃ……師兄なんだから……)
自分とは各位も立場も違う相手。自分では釣り合いが取れないことは十分承知している。
醜い傷を持った自分が並べるような相手ではない。
「見つけた」
「え……」
薬箱を手に、にこにこと道徳真君が笑う。
「急に居なくなるからさ……指、見せて」
隣に座って普賢の手を取る。
小さな指先。右手の人差し指が薬液で爛れて、痛々しい。
「痛いよな……これじゃ」
薬瓶の蓋を開けて、軟膏を指先で掬う。優しく塗りこめながら、そっと当布で包んで包帯を巻きつけていく。
「ありがとう……」
「綺麗な指してるんだから、もっと大事にしろよ」
低く、優しい声が耳に沈んでいく。
「……離して……」
俯いたまま、目線すら合わせようとしない。
「……逃げられたかと、思ったんだ。恐がらせたって……」
「……………」
喉の奥で声が生まれては消える。
自分の気持ちを声に出すことがこんなにも困難だったなんて思ってもみなかった。
「避けられるくらい、嫌い?」
「………………」
小さな震えが指越しに伝わってくる。
絡めることも出来ず、ただ触れるだけの指先。
「……ごめん、そんなつもりじゃなかったんだ」
「……何て言ったらいいのか、分からないの……」
ただ、緩やかに時間は流れていく。
ここに居るのは仙道ではなく、ただの男と女。
「だって、あなたはずっと上の人だから……師兄だもの……」
「俺の階位は真君。お前は真人。位の上ならばお前よりも俺のほうが下だ。身体一つで昇格したから仕方ないけれどもな」
細い手首を取って自分のほうに引き寄せる。
「それに、崑崙の師表だもの……」
「空席は一つある。いずれそこはお前が貰うつもりなんだろう?そしたら同格だ」
その手を自分の胸にそっと押し当てて。
「俺が恐い?」
小さく首を振る。空いた手で顔を覆って、彼女は零れる涙を隠そうとした。
「一緒に居るだけで、どきどきする……柄にもないけれど……」
照れくさそうに笑うのは一人の青年の姿。
師表の一人ではなく、ただの不器用な男だった。
「……………けて……」
「?」
「……助けて……どうしたらいいか分からないの……」
嗚咽は殺して涙をこぼす。
声を上げて泣く事を知らない哀れな子供。
「……普賢……」
手を伸ばしてその細い身体を抱きしめる。
壊してしまわないように、そっと、そっと。
「泣いても、いいんだ。苦しい時には、助けてって叫んでもいいんだぞ」
「……っ……助けて…っ……!恐いよ……ッ…」
「何が、恐い?」
「だって、あなたもいずれ居なくなる…っ…だから、だから……」
子供が悪夢を見たときのように、ぎゅっとしがみ付いてくる。
幸せは泡沫で、砂のようにこの手から零れてしまう。
あの日の血の匂いは、今もこの手に染み付いて取れることがないから。
「俺は、普賢の傍から離れない。絶対に」
「……嘘……だってボクを残して逝くんでしょう?」
泣き腫らした大きな瞳。
灰白の目は、熟れた赤に変わっていた。
先に生まれたものの宿命を変えることは出来ない。
天数を変えることも、天命を変えることも出来ないように。
「俺は、どんな姿になっても、お前を一人にはしない」
この身体が朽ちようとも、土に還ろうとも。
姿形を変えても彼女を守りきろうと、誓ったのだから。
「何も、恐くないだろ?大丈夫、俺がお前を守るから。悲しいことや、嫌なことから、全部」
その腕の中、殺していた感情はゆっくりと解き放たれる。
恐怖感を消してくれるのは、その暖かさ。
他人の体温と、匂いがこんなにも優しいもだとは彼が教えてくれたから。
そっと頭をなでてくる大きな手。
溜まった涙を払う指。
胸の奥に生まれた小さく暖かい思いに名前をつけるならば、おそらくそれが『恋』というもの。
恋は降って来るものでも、誰かに与えられるものでもない。
自らが堕ちるものなのだから。
「……き……」
小さく細い声。
「……好き……」
涙で詰まりながら、たどたどしく紡ぐ言葉。
頬を包んで、その目を捕らえる。
「泣き顔でも、可愛いと思う」
「……やだ……」
掠めるような、ただ触れるだけの口付けは最初のそれよりもやけに熱く感じた。
重ねるごとに接吻は深く、甘くなっていく。
「……ッ……は……」
舌先が入り込み、絡まってくる不思議な感触。
甘く吸われて力が抜けていくのが自分でも分かった。
「……っふ……ぅ……」
離れようとしても、その度に奪われて強く抱きしめられる。
細い背中を抱いてくる腕。
ちゅっ…と唇が離れて、ただ、相手に身体を預けるしか出来なかった。
「こういうのは……嫌?」
彼女は小さく首を横に振る。
慣れない接吻は、身体を、意識を翻弄するから。
「俺は……そんなに出来た人間じゃないし、心も、身体も、全部欲しいって思っちゃうから。どうしても、
お前を抱きたいって考えてしまう……」
「………………」
「色欲を捨てきれない仙人なんて……在るべきではないのにな……」
「……ボク……どうしたらいいの……?」
預けてくる身体を受け止める。聞こえる鼓動は同じように早くなっていた。
「助けて。どうしたらいいかわからないよ」
とろんとした大きな瞳。
その先に進むことを前提とした接吻は、全てを奪い取るだけの力があった。
「じゃあ……全部俺に預けて。恐いことなんて、何もないから」
「……うん……」
甘噛するように重ねあう口唇。
抱きしめあって、何度も、何度も確かめ合った。
少しでも、空白と距離を埋めたくて。
互いの暖かさを確かめたくて。
いや、本当は……ただ寂しかったのかもしれない。
心の隙間を誰かで生めることで、それを忘れさせようと無意識に誰かを選んだ。
もし、そうだったとしても。
その決断を違えたと思うことなど在るのだろうか?
寂しがり屋の魂が二つ。
居場所を求めて触れ合った。
それを過ちというならば……もう、なにも要らない。
「……好きだ。お前のことが」
「……うん……好き……」
きつく抱き合って、重ねあう唇。
たった一つの真実は、互いの胸の中だけにあった。
あるがままに、あるがままに。
ただ、恋をした。
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