『時の流れと空の色に 何も望みはしないように
 素顔で泣いて笑う君のそのままを……愛してる故に』
                     幸福論





たった一人、ぼんやりと壁の隅を見上げる。
まだ、腕が、指先がほんのりと熱い気がしてならない。
(……好きって……言われちゃった……)
年頃の女ならば、その言葉に心を躍らせたのかもしれない。
たが、自分は仙人に昇格したばかりで、その気持ちを理解するにはまだまだ時間が足りなかった。
(でも、好きって言われても、どうしたら良いかわかんないよ)
寝台の上で、一人で膝を抱える。
窓枠の中、欠けた月は優しく照らしてくれる。
この月明りの下、彼はどんな気持ちで帰ったのだろう。
(ねぇ……望ちゃん……どうしたらいいの?)
こんな夜は一人で過ごしたくない。
(助けて……)
こんな時に、全てを話せるはずの親友は離れた場所に居て、何も出来ない自分の心がここにあるだけ。
他人から寄せられる好意の心地よさは、それに随伴する気まずさも相まって。
ただ、舞い落ちる蝶の様にひらひらとこの空間を飛びまわっているように見えてため息ばかりがこぼれる。
(それに……道徳の言う『好き』って……わかんないよ……)
赤く暗い羽根はひらひらと頬をなで、ただ殻の中に追い込むだけ。
眠れないまま、普賢はただ窓の外を見つめていた。







「太乙〜〜〜〜〜っっっ!!!」
どんどんと戸を叩く音に、太乙真人は目を擦る。
(道徳め……自分が一人だからって僕まで一人だと思うなよ……)
のろのろと身体を起こして寝巻きをばさりと纏う。
寝台の上には眠る女の姿。
「どうした?客人ならば儂は帰るが」
「今帰れば、彼に君の事知られるからね。ゆっくりと寝てて。いくら彼でも人の寝所まで入ることはないだろうし」
小さな欠伸を噛み殺して、彼女は枕を抱く。
「声からするに道徳か?相変わらず騒がしい男よのう」
「厄介なことにならないと良いんだけれども」
「どのみち知れるならば、今顔をあわせておけば楽であろう?儂も付き合おう」
簪で巻き毛を留めて道行天尊は眠たげに身体を起こした。
道徳真君、太乙真人、普賢真人、この三仙と同様に崑崙十二仙の一人。
「……彼は君の顔を見るのは初めてだと思うけれども」
「おぬしが心配するほどのこともなかろう」
指先を動かせば脱がされた衣類が彼女の元に一人で舞う。
遥かに永い時を過ごしてきた仙女は意のままにその力を発揮することが出来るのだから。
道行はふわふわと宙を舞いながら太乙の肩に手を置く。
「君はうっかりしてると逃がしてしまいそうで恐いよ」
掴もうと手を伸ばしても、飄々と彼女は身をかわす。
「あまり待たせても酷であろう?」
「そうだね」
小さな手を取って傍らに引き寄せる。
すとんと爪先が床に触れ、道行は太乙の夜着の裾を掴んだ。
「どうも、地に足をつけることに慣れてはおらんからか……うまく行かない」
「君は、何時も宙に居るからね」
扉に手を掛けて、声の主を招き入れる。
「こんな夜分にどうかしたのかい?まぁ、どうかしたから来たんだろうけれども」
「……そちらは……」
「君も知ってるはずだよ。道行天尊」
「ど、道行!?」
普段の道行天尊は防護服に身を包み、その素顔を知るものは十二仙でも半分居るか居ないか。
年齢から察してもよもやこの少女があの道行天尊だとは思いもよらなかった。
「まさか、お前の相手って……」
「この時間に何が哀しくて赤の他人と寝所を共にする?」
腕組みをしながら太乙真人は道徳真君を見据えた。
「ま、話は聞くよ。座って」
いわれるままに椅子に座る。
まだ、夜半の月は窓の外で明々と輝いていた。
「どうしたの?」
「言ってきた……自分の気持ちを……」
「そっか……」
真っ直ぐな男はそのままに気持ちを伝えたのであろう。
下手な計算も画策もなく、ありのままの胸のうちを。
「どうだった?」
恋に落ちることは、予定も、準備も何もなしにまさに青天の霹靂だから。
思い悩んで堂々巡りの苛立ちばかりが積もっていく。
それでも、酷く暖かで幸せな気持ちになれるのはどうしてなのだろう。
「……分からないって、言われた」
「いきなり好きだとか言われて分かる子なんて居ないよ」
茶器を取りに、太乙は厨房へと足を向ける。
「道徳」
「道行がここに居て、そんな顔してたってのも驚きだ」
ふいに伸びる指先が、道徳の額に触れた。
「子供よのう、道徳。おぬしも、太乙も」
子供という単語は、外見上だけならば男二人よりも彼女のほうが遥かに似合うだろう。
その容姿にそぐわずにその言葉と声は妖艶ささえも含んでいる。
「だが、おぬしの思い人はおぬしよりもずっと子供だ」
「ああ……分かってる……」
「片道の思いは、幸せだったであろう?」
片思いは、それだけで胸を暖かくしてくれる。
けれども、それは永遠に実ることがないからこそ。
思いを告げずに居ればそれだけでも、この胸は穏やかで満たされたものだったのかもしれない。
捨て切れない欲。
この手に抱いてしまいたいと思うからこそ、告げた思い。
「叶わぬから、幸せなのじゃよ。だが、そればかりでは嫌であろうて」
「どうしても、言いたかった。それがどんな結果に終わっても、自分の言葉で言いたかったんだ」
いえない言葉は喉の奥を締め付ける。
あれこれ考えても、どうにもならないから。
ただ、一言「好きだ」と告げた。
いえないままの片道の恋は、叶わないからこそ、心を甘く溶かす。
自覚してしまえば、恋はするものでも、降ってくるものでもなく、『堕ちるもの』と知った。
自分以外の誰かが触れることを許容できる心は無く、嫉妬という感情に気が付く。
「気に病むな。女子(おなご)はそれ程かよわくは無いぞ」
「だろうな。けど、思ったよりもずっと細いんだ。壊れそうなくらい」
「どれだけ細くとも、器は同じじゃ」
簪からこぼれた後れ毛は、何千年も生きる彼女の色香を醸し出す。
自分よりも遥かに上のはずなのに、その目に吸い込まれそうになる。
「らしくないのう、道徳よ」
「そうだな。ダメならダメで諦めもつく。まだ答えは貰ってないけど」
ぐしぐしと頭を撫でてくる手。
その柔らかさと細さに忘れていたはずの女の感触がありありと思い出される。
「その意気じゃな。儂とて始めからあれを好いていたわけではない。どこでどうなるか分からないから面白いのではないか?」
道行の手を軽く打って、道徳は席を立つ。
「もう一回、行ってくる!」
ばたばたと走り出して、見る間なくその姿は消えていった。
「忙しない男じゃ」
「普賢が寝てるとかは考えないのかなぁ」
茶器を下ろしながら、太乙は道行の額に手を伸ばす。
「前髪を上げると、子供っぽくも見えるね」
「おぬしは儂から見れば曾孫よりもあれじゃがな」
出された桂花茶に口をつけて彼女はただ笑うばかり。
「祈ってやれ。親友の一世一代の大勝負じゃぞ」
「博打にでたねぇ。道徳も」
すとんと椅子に座り、凭れながら太乙は天を仰いだ。
(頑張っておいで。君は真っ直ぐに行くしか出来ない男なんだから)





素足を伸ばして、寝台に腰掛ける。
今更ながらに貧相な自分の身体は決して仙人に向いているわけではない。
それでも、自分なりに迷いながらもここまで来たことに対する自負はある。
願うならば、もう少しばかり立派な身体が欲しかった。
(母様に似たから……父様に似ればもう少し何とかできたのかな……)
手を握っては開く。
あの日もこの手は同じように白い月光に照らされていた。
拾い上げた木蓮の花弁が鮮やかで、あまりにも鮮やかで、目を開いていることを放棄した。
そして、その花は赤く染まる。
あの日からずっと、自分の場所を探していた。
(ボク……好きって言われたの……どうして?)
肉親以外からそれは聞くことの無かった言葉。
灰白の髪と眼は忌み嫌われる呪われた色。
(どうすればいいの?どうしよう……)
手に入れても、すぐ消えてしまう幸せは幻。
「誰か来たの……?」
こつこつと小さく扉を叩く音。
静かにずらして相手を確かめる。
「……どうしたの?さっき逢ったばっかりだよ?」
「もう一度逢いたかったから」
「どうして?」
「好きだから。普賢のことが」
隙間から覗く瞳が、困ったように瞬きを繰り返す。
「風邪引いちゃうよ。入って」
肌を刺す夜風は、彼の頬から体温を奪う。
夜分に外に居るのは、寂しくて辛いことは自分が一番良く知っている。
まして、それが一人きりなら殊更に。
「さっきも逢ったばかりなのに」
「逢いたくて、仕方なかったんだ。ゴメン」
ふいに伸びてくる指先が頬に触れる。
「冷たくなってるね。本当に、風邪引いちゃうよ」
「それでも、普賢に逢いたかった」
屈託無く笑う顔に、どうしたらいいかと戸惑う瞳。
指先をとられて、ぐっと引き寄せられる。
逃げることも、抵抗することもせずに、ただその身体を預けた。
「教えて欲しいことがあるんだけども、いい?」
「俺に答えられることなら」
「……好き、って何?」
誰かに愛された記憶はほんの少しだけ。
痛む傷を抱えて、自分は一つの商品に過ぎなかった。
「ボクは、こんな眼と髪してるよ」
「綺麗だと思う。作り物じゃない、本物の色だ」
色素の薄い母の血を色濃く継いだこの身は、呪われた色だと罵られながら生きてきた。
一枚一枚、仮面を作って誰にもその素顔を知られないように。
穏やかな笑みという名の無表情。
そうやって自分を守ってきた。
たとえ、どこに売られるようも、誇りと身体に流れる一族の血だけは絶やさないと密やかに誓いを立てて。
「……コレでも、綺麗だって言える?」
そう言って、夜着の裾を少しだけたくし上げる。
細い足首に彫られた小さな花。
赤い花に這う蔦の紋様は、奴隷市場に出されるものの印だった。
物珍しい外見と、その才は彼女の値段を大幅に上げていく。
嫌だと逃げても押さえつけられて、どこに逃げても逃げ切れないように烙印を押された。
同じように商品として値踏みされた子供たち。
その中で彼女は泣くことも、臆することも無くただ空を見上げていた。
運命は回り回る。
引き渡される前日も、同じように月を見上げていた。
白く細く長い月は、冷たい頬を暖めてくれる。
どこにいても、かかる月と見える星は同じ。
啜り泣きの聞こえる部屋から見上げる月は、何も替わらずに優しい光だけを注いでくれた。
うんざりした気持ちを押さえながらふらふらと外へ出る。
足に絡む砂はさらさらと、まるで世情の雨。
したたかに生きていくこと。自分を隠し通すこと。
それが求められるものだった。
そして、運命は絡み合いながらゆっくりとその手を彼女の伸ばす。
仙骨があるといわれ、仙界に来いと言われたのだ。
伸ばされた手。
迷うことなくその手を取った。
そして、今の自分がここに居るのだから。
「ボクは、綺麗なんかじゃない。君は、ボクの事なんか何一つ知らない」
優しく、全てを否定する声。
「君の言う好きって気持ちは、ボクにはよく分からない。君が、この身を欲しいと言うならばいくらでもあげるよ」
それでも、心だけは誰にも渡さない。
この心は、この傷は、誰にも触れさせないから。
「確かに、俺はお前のことは知らないことのほうが多い。けど……今から知る事だって出来ると思う」
「知ってどうするの?」
「……どうしたらいいかな。そのときになったら考えるよ。それじゃあ駄目か?」
それは、今までに見たことの無い彼の表情。
自分が知り得る男は、自信に溢れた師兄のはずだった。
それなのに、今、自分を抱いている男は酷く弱々しく脆くさえ思える。
「俺は……お前は綺麗だと思うよ。他の誰が何て言ったって、綺麗だ」
「抱きたいなら、抱きたいって言えばいいよ」
「……そりゃあ、抱きたくないって言ったら大嘘になるけれども。身体だけが欲しいわけじゃない」
「じゃあ、何が目的なの?」
不信と不安の入り混じった眼が見上げてくる。
「俺のこと、見て欲しいんだ」
「見てるじゃない。今だって」
「そうじゃない。師兄とか、同仙とかじゃなくて一人の男として見て欲しいんだ」
布越しに伝わる心音。
「なぁ、俺は何て言ったらお前の心を触ることが出来るんだ?」
「……………」
言葉を選ぶことが出来なくて、代わりにその背に手を回した。
拒絶の言葉はきっと彼を追い込んでしまうから。
そして、その言葉を探すことはとても困難で。
自分の気持ちさえも分からないまま、ただ、その背中を抱いた。
「俺はお前と違って頭良くないから、上手くいえないけれども……」
そっと抱きしめてくる腕。
壊れ物でも扱うかのように、優しく包み込んでくる。
「気の強いところも、考えすぎるところも、全部入れてお前のことが好きだ」
「………要らない子供でも?」
「俺には必要だ。だから……要らない子供なんかじゃない」
「……家族を……一族を殺したのはボクでも……?」
「父上も、母上も、普賢を守ったんだ。無駄に死んだわけでも、ましてやお前が殺したわけじゃない」
「こんな傷があっても?」
痛む足首。
枷が付いて取れないままに。
「痛かっただろ?もう、そんな思いさせない」
ぼろぼろとこぼれる涙。
「……わかんないよ…っ……なんて言ったらいいの?」
「何を?」
「道徳が言う……好きって……それはボクが思うのとは、違うの……?」
「……それが同じだったら、凄く……嬉しいよ……」
頬に触れる大きな手。
そっと包み込まれて上を向かされる。
ゆっくりと近付いてくる唇。
触れるだけの、甘い甘い接吻。
「接吻(キス)は、嫌い?」
初めて触れる他人の唇の感触。
静かに首を横に振るのが精一杯。
「良かった……」
額に触れる唇。
何度も繰り返しながら、涙の溜まった目元に、形のいい小鼻に、柔らかい頬に。
一つ一つ、確かめるように優しく降る唇を受け入れた。
「くすぐったいよ」
「ずっと、こうしたかったんだ……」
「私……男の人とこんな風にするの……初めて……」
「……今、私って……」
その言葉に思わず口元を押さえる。
崑崙の仙道は仙籍に入る際に女であることを捨てることを義務付けられる。
無論、普賢も例外なくその慣例に従ってきた。
仙界入りしてからの一人称はずっと「僕」として、「私」という言葉は使ったことなど無かった。
「今のは……忘れて。聞かなかったこと……」
最後まで続ける前に、言葉は唇に塞がれた。
さっきよりも少しだけ深く、ずっとずっと甘い口付け。
ちゅっ…と音を立てて離れる。
「忘れない。絶対に」
まだ少しだけ伏目がちなその瞳を。
穏やかに笑うことが出来るように守ってやりたいと心が呟く。
不安定なその思いはまるで水面に写る月の様で、指で弾けばゆらゆらと揺れて消えてしまいそう。
「……普賢……」
目を閉じて。
世界の中にただ二人だけ。
その錯覚に溺れてしまおう。
「お前が、生きてここに居てくれて本当によかった」
「……本当に?」
「きっと、ずっと探してたんだ……」
「……要らない子じゃない……?」
言葉の代わりに触れてくる唇。
何度も、何度も、重ねて抱き合った。
「ゆっくりお前のことを教えてくれ。一つずつ……ちゃんと全部知りたいんだ」
「うん………」




君が、ここに居て笑ってくれるのならば。
世界中を敵に回しても構わない。
その笑顔を守り通せるのならば。
少しくらいの苦労は、厭わないから。






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