『まだ不器用に笑うね まだ悲しみが似合うから
 キミと出逢う為だけに、そう……生まれたなら 変えられるかな……』
                 I FOR YOU



「太公望!」
玉虚宮の回廊を歩く小さな影。
「おお、道徳か。どうかしたのか?」
短く切られた黒髪。年のころは十四、五といった風情の道士。
教主の直弟子で『師叔』の敬称を持つこの少女。鷲色の瞳が道徳真君を見上げてくる。
「いや、普賢が仙人の昇格試験を受けるって聞いたから」
「ああ、あやつならばもう試験に入っておる。封印牢の中で今頃苦闘しておるだろうしのう」
最終試験は精神力の検証だった。
知力、武力、精神力の三つの均衡が取れていなければ仙人になることは出来ない。
たった一人飲まず喰わずで独房の中でただひたすら時間との戦い。
「今も見に行こうと思っておったところだ」
「俺も一緒に行ってもいいか?剣術の指南をしたから気になって……」
建前はそれなりに。
本音を言えば心配で堪らなかった。
まだ不安定な心を抱えて、たった一人雨の中を歩く小さな子供の姿を見てしまったから。
「ならば、行こうぞ。道徳」
普賢と違って太公望は仙人に対して敬称は使わない。
それは彼女の物怖じしない人間性でもあった。
そして普賢が唯一心を許し、『親友』と呼ぶのがこの少女なのだから。
太公望に先導される形で静かに室内に入る。
音も空気の流れもない、ただ在るだけの空間。
かつて自分も同様の試験を受けたはずなのに、まるではじめてきたかのように感じる不思議さ。
その中央に置かれた籠の中、普賢は印を結び目を閉じている。
額に浮かぶ汗と寄せられた眉。
封印牢の中で座する姿はどことなく痛々しくさえ思える。
「かれこれ一週間になる。未だ終わらぬ……」
最終試験は己との対峙。個人個人で期間は違い、普賢も際限なき時間との戦いを余儀なくされていた。
心の殻を剥がされて、何もかもを曝け出す。
向き合うのは自分の心の奥底に閉じ込めたはずの暗い気持ち。




小さな子供が泣いていた。
ただ一人で、膝を抱えて。
(ねぇ、どうしたの?どうして泣いているの?)
真っ暗な道の途中、泣き声だけが響き渡る。
(私を残してみんな死んじゃった。私だけが生き残ってしまったの……)
触れようとする指先がその言葉でびくりと止まった。
(どうして、あなたが生きてるの?)
(止めて!)
(どうしてあなただけが生きてしまったの?)
(言わないで!止めて!!)
両手で耳をふさいでも、鼓膜に、脳裏に、直に響くその声。
振り向いたのはかつての自分。
す…と伸びる指先は冷たい感触。
(死んじゃえば良いのに。生きていたくないんでしょう?)
(そんなこと……)
(嘘。苦しくて、辛くて、そのくせ自分を誤魔化して嘘ついて生きてるくせに)
それは誰にも離さずに来た本当の心。
(止めて……お願いだから……)
(誰からも必要とされない……愛されないかわいそうな子供)
(止めて……)
頭を振って必死に振り払おうとする。
(必要だって……生きててくれて良かったって言われたの……)
(そんなのただの奇麗事)
(要らない子供じゃないって言われたの……)
(だってあなたは……)
「普賢!!」
引き戻す声は見慣れた友のものではなくて。
「道徳……さま……?」
定まらない視点で見つけた姿。
「お前ならやれるから!大丈夫だから!!」
渇いた喉が出すのは掠れたか細い声だけ。
届かない言葉を唇の動きだけで読み取る。
小さく笑う彼女の唇が紡いだのは『ありがとう』と。
再び目を閉じて、印を結ぶ。
(ねぇ……ボクは確かに要らない子供だったかの知れない)
(………………)
(皆はボクが殺したのかもしれない)
(………………)
(だから、ボクは……ボクとして生きてく。悲しいことが出来るだけ少ない世界を作るよ)
幸せには罪の匂いが。この手にはあの日の血の感触が染み付いているから。
人は誰しも罪を背負いながら生きていく。
あの日のことは決して忘れることはない。
(泣かないで……キミがもう泣かなくていいように……そんな世界を作るから……)
小さな影がぼんやりと光を放ちながら消えていく。
それはこの空間の終わりをも示していた。
(待って……)
消えかけた小さな身体を抱きしめる。
(泣かなくて……いいよ……)
ほんの少しだけ、小さな唇が笑ったように見えた。
幼年期の終わりのように、彼女は仙号を取得する。
異例の速さで『真人』の称号を得て一人の仙人が生まれた瞬間だった。



それからの日々は忙しく駆け巡ることとなる。
周りばかりが焦り、当の本人はなんら変わりなくのんびりと過ごしてるのだ。
「おぬしが仙人になるとは思わなかったぞ」
並び合わせた寝台に寝転びながら二人して笑いあう。
「ねぇ。ボクもそのつもりはなかったよ」
手を伸ばせば、触れることのできる親友。
「望ちゃんとこうしていられるのもあとちょっとなんだよね……」
仙人となればそれぞれに洞府が耐えられ、弟子を取った生活をすることになえる。
普賢も例外ではなく洞府選びが行われている最中だ。
玉虚宮で過ごすのもあとわずかばかり。
「望ちゃん、一緒に寝ても良い?」
「構わんよ」
一つの寝台で、寝息の掛かる距離で少女二人は様々なことを話し合う。
いつも一緒に居た。
離れることなく同じ夢を抱いて眠った。
喧嘩した日々も、過酷な現実に苛まされた日々も、泣きながら手を繋いで前を見た日々も。
何もかも、全てが愛しく懐かしい。
「手、繋ごっか」
「うん……」
離れ離れになるその日まで。
「望ちゃん、ボク……望ちゃんに会えてよかった……」
「どうした?急に」
「今言わなかったら、これからも言えない気がしたから」
零れるような暖かい日々は大人になるための通過点。
身体は大人になることを拒絶したまま、一歩一歩その階段を登っていく。
時間の流れは優しくて、残酷だから。
「ずっと、ずっと、望ちゃんと一緒に居るよ……」
それは恋にも似た気持ち。
繋いだ手は、離れてしまわないように静かに絡めた。
これからも。
進むべき道は同じだと、二人だけの約束をした。





仙号の授与式を終えて彼女の名前は『普賢真人』となり、仙人としての生活が始まった。
与えられた洞府は九巧山の白鶴洞。
元の住まいの玉虚宮からもそれ程は遠くはない場所だ。
同じ研究班の道士を数人、弟子として取り慣れない生活が始まった。
弟子といっても生活を共にするわけでもなく、研究班での師弟関係が優先されている。
普賢は核開発の第一主任の立場。
今までの道士としての長閑な日々は一転して騒がしい日々に変わっていく。
(疲れた……たかが仙号を取得しただけでこんなに忙しくなるの?)
倒れるように寝台に身体を横たえる毎日。
一人で暮らすには広すぎる邸宅。
(早く、この宝貝使いこなせるようにならなくちゃ……)
普賢に与えられた宝貝は『対極府印』という元素を操ることのできる逸品。
人工知能を搭載した崑崙の文明の集大成とも言える宝貝だ。
新しき世代の仙人には新しい宝貝を。
教主は若き仙女にそう告げた。
(持ってるだけ疲れる……ねぇ……)
仙人としての仕事も、開発班としての仕事も、どちらも投げ出すわけには行かない。
寝に帰るだけの邸宅は一人には寂しすぎる。
聞こえてくる虫の声だけが耳に響く。
(望ちゃん、やっぱり望ちゃんが居ないと寂しいよ)
悪戯に手を掛けてくる道兄たちよりも上の立場となり、幾分か気苦労は減った。
仙人の中でも高位に値する『真人』の称号はそれだけでも威力を発揮する。
元々、教主に直弟子という立場だったのだが物静かな概容は不埒な心を呼びさせるには十分で。
それを良い事に言い寄る輩も今度はおいそれとは手出しできない立場を手に入れたのだ。
(ねぇ……望ちゃん……)
夢を見る余裕もないほどの疲労。
いつもと同じようにうとうとと目を閉じた頃だった。
(誰……?)
とろんとした瞳を擦りながら、扉に手を掛ける。
対極府印が反応を示さないところを見ると自分に危害を加える相手ではないらしい。
「どなたですか?」
「ごめん、遅い時間に……俺だけども……」
声の主は道徳真君。
普賢は静かに扉を開ける。
「ご用件は?」
「いや……その、用って程でもないんだけども……」
「寒いから、お茶でも飲んでいったら?」
寝巻き姿に息を飲む。
予想以上に細身の身体と括れた腰はそれだけで目を奪う。
(細いよな……ちゃんと食ってんのかな……)
ほんのりと甘い香りの薄紅色の茶を出されても、気になるのは真向かいに座る少女のことだけ。
「昇格、おめでとう」
「あはは。ありがとう。特訓のおかげかな」
(どうやって……言おう……)
仙人になったら、自分の思いを告げようと決めてきた。
それなのに、いざ本人を目の前にすれば決心が鈍るのだ。
拒絶されることの恐怖。
避けられるくらいならばこの曖昧なままの関係でもいいのかもしれないと。
「前にね、どうして仙人になりたいんだって聞いたでしょ?」
「あ……うん……」
指を組みなおしながら、普賢はくすくすと笑う。
「一つは煩わしいことから逃げたかったから。もう一つは、望ちゃんの力になりたかったから」
いずれ戦地に赴く親友のために強くなりたいと彼女は武器を取った。
その小さき手に。
「もう一つはね……」
少しだけ、伏せられた目。
「あなたと同格になりたかったから」
教主の直弟子が仙人になれば、それは師表十二仙と事実上同格になる。
道士であっても『師叔』の敬称を持つのだから。
「……普賢……」
「これで、あなたを名前で呼べる。道徳」
それは他意も何もなく、純粋に同じ立場にありたいと思った気持ちだった。
子ども扱いされるのを許容できるほど大人に離れなくて、彼女は仙号を手にした。
それはほんの些細なきっかけ。
さらさらと指の隙間を零れるような、運命の悪戯。
「なんてね。でも、やっと同じになれた」
儚げだと思っていたその笑顔は、まるで大輪の向日葵のようで。
「冷めちゃったね。温かいの入れなおすね」
立ち上がって給湯しようとする姿。
「普賢」
「何?」
その手を取って、抱き寄せる。
(うわ……腰、細い……)
早くなる鼓動を抑えながら、ぎゅっと抱きしめる。
「や……何?」
「ずっと……ずっと考えてたんだ。普賢が、仙人に昇格したら、言おうって決めてたんだ……」
布越しに聞こえる心音。
「……好きなんだ……お前のことが……」
一つ一つ、選んだ言葉たち。
飾ることも何もなく、ただ、伝えたかった気持ち。
震える指の感触。
ただ、恋に落ちた一人の男の姿がそこに在った。
何千年もの永い時を生きてきた大仙ではなく、不器用な一人の青年。
腕の中に感じる温かさを離したくないと、少しだけ力を入れる。
追いかけても、追いかけても、逃げていく月のような存在の少女。
同じように抱きしめることもできずに、普賢はその腕の中で目を閉じた。





例え、どんな言葉が返ってきたとしても。
明日は明日の風の中を飛ぼうと決めた。




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