『あなたの口唇に触れていたい あなたの愛に、そのものになりたい
 どこかでなくした心のかわりに 全て引き受ける……それもかまわない』
                     ALL STANDARD IS YOU





「道徳、君知ってた?あの子、僕と一緒の開発班に配属になるみたいだよ」
太乙真人はにこにこと道徳真君に駆け寄ってくる。
「ってことは雲中子も一緒か。変なことにならきゃいいけどな」
「ふ〜ん、そんなこと言っていいのかな?僕と一緒ってことは君があの子に会える機会が増えるってことだよ?
まぁ、部外者はそう簡単には入れないけれども、君くらいなんとでもできるからさ」
あれこれと世話好きなこの仲間はお膳立てをしてくれる。
「うまく行くといいねぇ。応援はするよ」
「なんか最近お前、機嫌良いよな」
「まぁね。素敵な恋をしてるから。だから、君の応援位してやろうかって気にもなるんだよ」
「……………そうですか」
「まぁ、僕のことはいいからさ。あの子をうまく連れ出すくらい造作も無いからね」
「連れ出すとか言うなよ」
道士の中でも彼女は物理学に精通している。
書庫に篭ったかと思えば武道の鍛錬に身を投じたりと目まぐるしく動いていた。
すれ違うたびに増える傷に少しばかり懸念しても、ただ彼女は笑うだけ。
異例の速さで研究班に抜擢されたというのも一種頷ける状態だった。
「さてと、僕はちょっと行って来るよ。新しい計画に着手してるからね」
「計画?」
「そう。君も聞いてるはずだよ。超重要計画を……」
太乙真人は少し遠くを見るように目を細めた。
彼には彼の、真意と計画があった。それは親友にさえも告白することの出来ないこと。
「不毛な片思いは何年目さ、道徳」
「丁度二十年で御座います」
わざと言葉尻を丁寧してやれば太乙真人は笑いが止まらない。
「あの子、仙人の昇格試験受けるって知ってた?」
「まだ若いだろ」
「教主直弟子だからね。才能もある。凄い子に惚れちゃったねぇ、道徳」
入山して二十年足らずで彼女は仙人と同様の実力をつけた。
「玉鼎も結構手を焼いてるみたいだけどね。あの子、誰にも靡かないし」
「玉鼎にだけは絶対に渡さんっ!!」



玉泉山に洞府を構えるのは玉鼎真人。
斬仙剣を手に長い黒髪の端正な青年である。
思慮深さと冷静さ。
道徳真君とは対極の位置に居るような男だ。
「普賢」
「玉鼎さま。ご機嫌の程は?」
書庫に篭り、史書を読み漁る道士にこの男は密かに思いを寄せていた。
物静かな口調と穏やかな性質。
「悪くは無い。今日は何を探しているのだ?」
「……姜族のことを、少しばかり」
小さな眼鏡を指で押し上げて、普賢は史書に目を戻す。
親友は過去の多くは語らない。少しでも力になりたいと彼女は修行の合間に史書を紐解いていた。
知れば知るほどに目を背けたくなる現実。
「太公望のことか?姜族というならば」
「はい……望ちゃんの力になりたくて……」
伏せた睫に香る色香。
「太公望は幸せだな。お前のように支えとなるものが居る」
そっと普賢の手を取り、玉鼎は静かに笑う。
(さて、この姫君をどうしようか?)
灰白の髪と瞳。細い線。小さな唇。
人形のようなこの道士に目をかけている仙道は少なくは無かった。
それを牽制し、気付かれないように片付けても来た。
(金霞洞にさえ呼ぶことが出来ればこちらの意のままに出来るのだが……中々に手強い相手だ)
普賢は穏やかに笑いながら数々の道兄たちの手を捻り上げてきた。
誰にも触れさせること無く咲く高嶺の花と揶揄されるほどに。
「私もお前の力になりたいと思うよ、普賢……」
「ありがとうございます。ならば今度是非、剣術の指南を」
とろんとした大きな瞳。
「ならば私の洞府に来るか?幸い今は弟子も取ってはいない。数日あればお前ならば十分に習得できるだろうし。
泊り込みならば見聞録を貸すこともできる」
「でも、原始様にお伺いを立てないことには……まだまだ修行中の身ですから……」
困ったように笑い、首を傾げる姿。
(まったく……この姫君には強く出れないとは……私も落ちたものだ……)
仙界でも有数の美男には絶えず恋噂。
「じきに仙人への昇格試験を受けるのだろう?噂で持ちきりだ」
「はい。いずれは」
「分からないことがあれば何時でも訪ねてきてくれ」
頑なな身持ちに手をこまねく自分が居ることにも驚く。
大概の仙女は煩わしいことなど無くこの手の中に抱いてきた。
同じようにこの年若い道士も簡単に陥落するだろうと高を括っていた。
難攻不落にふさわしい道士はただ穏やかに笑うだけ。
ため息ばかりが重なり、悪戯に時間ばかりが過ぎていた。



「久しぶりだな、玉鼎」
「ああ、道徳か。確かに久しいな。この間顔を見たのは何時だったか……」
顎に手を置き玉鼎真人は頭を捻る。
「別に何百年ぶりでも俺は構わないけどな。本ばっか見てると身体に悪いぞ」
「頭も使わなければ退化すると返しておこうか」
「俺とお前は趣味が似てるからな」
玉鼎真人はちらりと書庫のほうを見る。
「そうだな。随分と高嶺の花にお互い惚れたものだ」
「高嶺の花……か。確かに花だろうけれども普賢は……もっと違う気がする。おまえに話すことじゃないだろうけど」
「まだ書庫に篭っているぞ。私は洞府に戻る。お前とて同じ結果だろうがな」
ひらひらと手を振りながら玉鼎真人は帰路に着く。
入れ替わるように道徳真君は書庫の中に。
「普賢、何やってるんだ?」
「調べ物。望ちゃんの手伝いが出来ないかと思って」
頁を捲る指先と、嬉しそうな横顔。
(指……また怪我してる)
細い指は細かな傷で腫れ上がり、関節の辺りには瘡蓋が点在している。
「仙人の昇格試験を受けるのか?」
「うん。仙号だけでも取っておけば煩わしいことは減るでしょ?」
「煩わしい?」
「道兄たちがね……仙人になっちゃえば立場上なにも出来なくなるし」
(どこの馬鹿だ!俺の普賢に手を出そうとしてる命知らずの輩はっ!!!)
道徳もまた、玉鼎真人宜しく悪戯な道士たちを牽制してきたのだ。
「でも、本当の理由はもっと別にあるけれども」
「どんな?」
「教えない。ちゃんと昇格したらね」
最初のことよりも随分と笑うようにはなった。それでも、彼女の笑顔にはどこか影がある。
「指、大丈夫か?無理はよくないぞ」
「うん……ありがとう」
「自分の手に合わない武器は筋肉を傷めるから。大きさや重さもきちんと吟味したほうがいい。昇格試験を受けるなら尚更だ。
普賢の手には大降りの剣は負担が大きいと思うぞ」
「……ばれてたんだ……」
短時間で勝負を決めるならと、普賢は自分の身丈ほどの剣をここ数日使っていた。
破壊力も大きいが、それだけ身体に返ってくる負担も大きい。
「時間あるなら紫陽洞(うち)来ないか?武器の使い方、教えるよ」
「甘えちゃおうかな。専門外だからどうしたらいいか分からなくて」
才女と歌われても焦りは確実に彼女を追い詰めていた。
同期の親友は仙人にはならないと豪語しては師匠を困らせている。
いっそ同じように一道士のままで居ようかとも考えたがそれでは仙界入りした理由がなくなってしまいそうで。
成るも成らぬも同じならば成っておこうと考えてみたのだ。




「肩の力抜いて」
剣を握る手に、後ろから道徳の手が重なる。
「それだと指を痛めるから、こう」
「こう?」
言われたように指を掛けなおす。負担の来ない細身の長剣。
「もうちょっと腰引いたほうがいいな」
仙人の昇格試験は武術、知識、精神力の三つの課題をクリアして初めて仙号を得ることが出来る。
無論、道徳真君とて例外ではなくそうしてきた。
通常は百年以上の鍛錬と巧夫で一つ目を受けるのだが彼女の場合は特例ともいえる措置。
三つを纏めて受けるというのだ。
(髪とか……柔らかそうだ……)
間近で触れてしまえば否応無しに心は反応する。
自分の腕の中にすっぽりと納まってしまうほどの細い身体。
本来戦士系ではないのだろうが、懸命に自分の指示を聞いて型を取ろうとする。
「じゃあ、試してみるか?俺が使うのはこれ」
道徳が手にしたのは彼の愛用の莫邪の宝剣。
形有るものは全て切り裂くことの出来る秀逸なる宝貝だ。
「俺は、普賢には打ち込まない。どこから掛かってきても良いから」
「真剣(これ)で?」
「そう。でも、その剣じゃ俺は斬れないから。安心して掛かってきて良いよ」
「じゃあ、遠慮なく」
構えなおして普賢は大地を蹴る。
体格差を考えれば相手の懐に飛び込む戦法が一番破壊力がある。
しかし、それは両方が『攻める』という陣形の時にの生まれる僅かな隙を突く事で成しえること。
徹底した『守備』の相手の隙を拾うのは予想以上に困難なことだった。
そしてそれが格上の仙人、ましてやあの道徳真君であれば尚更だ。
(どうしよう……普通に切込むよりもずっと難しい……)
両手で剣を持つ普賢に対して道徳は片手だけで応戦してくる。
勝てなくとも、一矢報いたい。
それが彼女の根底にあるものだった。
(せめて……掠るだけでも!)
一際高く飛んで重心を刀身に掛けて彼女は道徳の懐目掛けて飛び込んで行く。
当然のように宝剣はその剣先を受け止め弾こうと振りかざされる。
「!!」
片手で宝剣の光を掴み、そのまま剣を振り下ろす。
肉の焼ける感触と鋭い痛みが全身を駆け回っても、普賢はその手を離そうとはしない。
「あああっ!!!」
痛みに歪む顔。
剣先は道徳の頬を掠めて小さな傷を作った。
「普賢!!」
それを見て満足そうに笑うと、彼女はその場に倒れこんだ。




焼けた掌に薬を塗りこんで、真白な包帯を巻きつけていく。
「大した度胸だ」
「……やられっぱなしは嫌だったから」
「でも、有効な策じゃない。まして昇格試験の直前に……」
包帯の終点を小さく結んで、道徳は普賢の手を取る。
「ごめんなさい……」
「今まであんな行動を取った道士は居ないぞ。もっと自分を大事にしろ」
じりじりと痛む焼けた傷は、暫く直りそうにも無かった。
「でも、いい太刀筋だった。昇格試験、がんばれよ」
ぽふぽふとまるで子供にするように彼は普賢の頭を軽く撫でる。
宝剣を掴むという行動にも驚いたが、それ以上にその眼に動くことを忘れた。
真っ直ぐに自分だけを見て、何も恐れずに立ち向かう強さ。
その目に自分だけを写して欲しいと思う気持ちの浅ましさ。
この腕に全部抱いてしまいたいという慕情。
「仙号は取得してからが大変だ。弟子も取らなきゃならないし、普賢の場合は研究のほうもあるし」
「ん……でも。いいの。どうしても仙号が欲しい理由が出来たから」
包帯を摩りながら普賢はただ笑うだけ。
その理由はどんなに聞いても答えてはくれなかった。
「次に道徳さまに会うときは仙号、取れると良いな」
「普賢なら大丈夫だと思う。なんとなくだけども」
他愛無い言葉たち。本当に言いたい言葉は恐くて言えない。
拒絶されるならば、曖昧なこの関係のままでも良いとさえ思えた。
「勝てなくても、いつか……道徳さまから一本取ってみたい」
無邪気に笑う顔。
(十分取ってるよ……俺じゃお前には勝てない……)
恋を知ってしまえば、一人で過ごしてきた夜は嘘のように思えて胸を締め付ける。
ここに居てくれるだけで十分なはずなのに、声を聞いてしまえば傍に置きたくして仕方が無い。
その唇に触れて、その心に触れたくて。
伸ばせない手を握り締めるだけ。
伝えたい言葉はいつも、喉の奥で噛み殺す。
「そろそろ帰りますね、望ちゃんに怒られそう。怪我してきたって知れたら」
「傷、残らないと良いな」
「残ってもかまわないよ、ボクは」
ちらりと見上げてくる瞳。
(ど、どーいう意味だよ……普賢……)
「だって、道徳さまにちょっとだけど当たったもの」
頬の薄い傷を普賢の指先がつつっとなぞった。
剣を握って傷だらけの細い指先。
無粋な剣は似合わないとさえ思わせるから。
「だから、残ってもかまわないよ」
(そうだよな、俺なんかよりもずっと人間ができてるよ……こいつのほうが……)
小さな影が見えなくなるまで見つめていた。
振り返らずに彼女は前に向かう。
一人取り残れたような思いだけが、夜の中に身をおけば身体を支配する。
慣れていたはずの孤独も。
忘れていたはずの慕情も。
何もかもが体中を支配して自分が一人の男だということを自覚させる。
(どうすりゃいいんだよ……この気持ちは……)
強い意志と、精神的な脆さ。
その危うい均衡が惹きつけて止まない。
(決めた……無事に仙人になったなら、言おう。そして、決着を付けよう)
痛む胸を鎮めるたった一つの言葉。
それを求めることは無駄だと分かっている。
望み通りの答えなど返ってこないことも。
それでも、この思いだけでも……届けたい。


ただ一言。
『好きだ』と。



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