『未来なんてものは どこにもなくて 帰る場所も 既に 無くしたままで
役に立たなくても 構わないけど 守りたいプライド 一つ抱えて 』
「最近は大戦争がはじまって……怪我人が多いんだよ」
丹薬を作る男の傍らで女はざらざらと芥子の実をすりつぶしていく。
その漂う香りを薬臭いと嫌う者はおそらく病魔とは縁のないものだろう。
命を繋ぐ香りと取るのは死線を掻い潜るものたち。
「そらそーだ。あたしらはその治療のためにここに残ってんだし」
「ねぇ。本山ががら空きだと危険だから道徳は向こうに居るけども……
実際のところは普賢と何か動いてるし」
軍師である太公望は依然として動かないまま。
新しい王となった姫発の補佐官として静かに過ごす日々。
しかしながら直接の死因を作った殷王朝を彼女が許すことなぞあり得ない。
夜半に刃を研ぎ澄ますその姿は幽鬼にも似ていた。
憂いは空の上にも蝶となり羽ばたく。
もうひとつの仙界に謎が多すぎると溜息を吐く。
書物の山に埋もれることにも飽きたと普賢は寝台に体を投げ出した。
「おお、珍しい。普賢がこんな恰好でさぼっておるとは」
懐かしい声に体を起こせば親友の姿。
麗しい黒髪と鷲色の瞳の少女がにこり、と笑った。
「望ちゃん」
「休暇を貰ってきた。少しのんびりしようと思ってな」
彼女の住まいは本山の虚玉宮にある。
普賢真人の管轄する白鶴洞はそこからは大分離れた位置になった。
「宮に戻るの?」
「もうじき夕刻になる。スープーは帰してしまった。明日になるまでわしには移動手段がない」
ぎゅ、と取り合う二つの小さな手。
「じゃあ、泊って行ってくれるの?」
「初めからそのつもりじゃ」
道衣ではない部屋着の普賢と並べばまるで修行時代の二人のようで。
時間は過去を刻む時計に変わってしまい風景が優しく色褪せる。
「お休み、よくもらえたねぇ」
茶器を準備しながら問えば少女は唇に指先をそっと当てた。
それは隠し事や秘密を意味する合図。
「……え、本気でさぼり?」
悪戯気たっぷりに閉じられる左目。
「修行しにきた。この間……苦戦を強いられたからな」
未完成の強さを確実なものにしたい。
風の道士は城をそっと抜け出してきたのだ。
風になびくのは黒髪と僅かな慕情。
そっと手首に巻きつけていた束帯を天に還した。
「ボクでよければ」
「お主にしか頼めぬ。何よりも確実に強いものの方がいい」
香は柑橘、味は甘め。
透通の茶湯の美しさに目を細める。
「向こうみたいに上等なものじゃないけど」
その言葉に太公望がせきこむ。
「いやいやいや……あそこの茶は……わしのは白湯と変わらぬぞ?官女たちはわしのことを
好かぬからな。やれ、発を体で誑しこんだだのなんだの……あやつにそんなことをするならば
その前に昌と既成事実を作るわ!!」
葬儀も終わり喪も明けて改めて彼女は宮中孤軍となった。
この思いを知るのは親友唯一人だけ。
「昌さん、若いころ素敵だったもんね」
「死ぬまで素敵だったわ。どうして……あんなに幸せに笑ってくれたのかのう……
わしはただ……昌の隣に居たかっただけで……」
過ごしたのはほんのわずかな時間だけ。
それでもそのささいな思い出が鮮やかに色ついてこの胸を締め付ける。
もう二度と会うこともできない永遠の片思い。
「望ちゃん」
「?」
「偉かったね。ちゃんと葬儀もして……お見送りもして……がんばったね」
一番ほしかった言葉は誰もくれなかった。
思いがけない親友の声にこぼれる涙。
自分が深く悲しめばそれはすべてに対して負の要因になってしまう。
だからこそ冷徹だといわれるまでに哀悼は呑み込んで隠しきった。
「一番大好きな人がいなくなって悲しくないなんてことないのにね」
堰き止めていたものが外れて感情が洪水になる。
声を殺して毎晩泣いた。
朝になれば何もしならない顔をして軍師としてふるまう。
ただ手首に巻きつけた束帯だけが喪に服しているという意味で。
「お疲れ様。偉かったね、望ちゃん」
そっと抱きしめてくる細い腕。
普賢は彼女にとって最後の砦だった。
同じ仙道として生きる死には関わらない存在のはずだった。
「……昌なんか……大嘘つきで……っ……」
黒髪をなでる白い手。
「わしを一人にして……もう……会えぬ……」
夜は優しく風景を変えてくれる。
誰にも言えない話もここならば秘密裏に。
彼女は逃げ場所を求めて帰還したのだから。
せめて一晩は西からの使者は排除してやろうと普賢は眉を寄せた。
たまには一番風呂でもと思いあれこれと香りを選ぶ。
彼女の置かれている境遇を思えば健康を維持しているのは薬師たちの賜物だろう。
夢色虹色に泡立つ湯船。
「望ちゃーん!!お風呂できたよー!!入ってー!!」
いつもの癖で後でいいと答える彼女の背中をずい、と押す。
「冷める前に入って」
「う……うむ……」
「宮のほうにはボクが連絡付けるから。まったく……教主が一番弟子に手荒い扱いを
する官女連中になんか道行あたりが天罰を落としてくれればいいのにっ」
まだまだ仙人としては年若い少女は人間の事情もすんなりと呑み込める。
そして娘のようだと可愛がる年長者の味方もしっかりと準備してあった。
道行天尊も文殊広法天尊もこの年若い二人の少女を大層可愛がる。
多少の我儘はかなえてしまうのも日常茶飯事。
宮においても太公望は師叔の言を持ち、敬われる側だ。
加えて麗しい乙女ならばそれは過分に加算される。
「ゆっくり入ってね」
「すまんな」
「うふふ、お泊りだもんっ♪」
聞こえてくるかすかな鼻歌を確かめてから符印に手を伸ばす。
打ちこまれていく数位は光の羅列となり別な場所へ転送されていく。
宮への連絡は間違った言葉ではない。
しかし彼女もほかの道士たちもおそらくは伝えてはいない不遇を普賢真人は知っていたのだ。
(こういうときはおじい様たちにも助けてもらおう)
孫娘よろしく伝言すれば即座に帰ってくる返事に綻ぶ唇。
(おじいさまたちも望ちゃんが居なくなって寂しがってたもんね)
出来れば少しでも親友が苦しくないように。
傷ついた心身を癒すことが休めることができるようにと願うばかりで。
夕食を終えれば疲れが出てきたのか転寝をし始める。
決して起きることが無いようにと特製の香木を焚いて彼女を眠らせた。
闇に踊るのは星に似た光。
軍師の消えた城内では騒ぐ者と傍観する物に別れていた。
仙界の者は太公望の不遇をどうにかしよとはしてきた事実がある。
文王亡き後の軍師への風当たりはお世辞にもいいものではない。
「さて、僕は発君が何を思ってるか聞きたいね。師叔のこれは家出だろうし」
男ばかりがずらりと顔を合わせた一室。
いざ彼女が消えてからたった一日で細かな城の機能は停止し始めたのだ。
軍師は宰相たちと何日かの予定をまとめていく。
しかし数日中に彼女が戻らなければそれすら終わってしまうのだ。
「師叔ってあっちじゃ宮住まいさねぇ……いわばお姫様扱いって感じさ。あの人、道士
だけどもコーチたちと同じ師表同格の扱いさね」
教主の直弟子はそれだけで階位が保障される。
なぜならば才の無い物を弟子するほど開祖は暇ではない。
「今頃、うまいもん食ってあったかい風呂入ってるさねぇ……こっちきてから師叔、
碌なもん食ってないさ。痩せたし」
「そうそう!!肋が浮いてて!!」
「な!!俺っちもびっくりしたさ!!あれ、女の体じゃねぇし」
天化とヨウゼンは顔を見合せてそんなことを言い始める始末。
文王と送り為された姫昌がいるときはこうではなかった。
それだけ父王は偉大な男だったということだ。
日に日にゆっくりと痩せていき、減って行く口数。
夜半の月を見ながらまるで隣に誰かがいるかのように笑う横顔。
異変はこの頃から始まっていたのかもしれない。
「で、発君はどうする?」
「そうさ。師叔の性格ってそう簡単に落とせるもんじゃないさ」
二本目の煙草に火を点けて吸いこむ。
「うー……そこまで酷ぇいじめってか……綺麗なねーちゃんたちってえげつないのな……」
からら…と開く扉。
「ああ居た天化、ヨウゼン」
振り返れば羽衣を腕に巻きつけた雲中子の姿。
薬師装束ではなく謁見用の誂えに目を見張る。
普段は全身を白衣に包む彼女が見せた正装はそれだけでも何かを予感させた。
「崑崙に一度戻るようにって命令が出てる。二人とも連帯責任かな?」
薄く引かれた口紅は淡い橙。
蕩けそうな月によく似たその色は彼女の黒髪に映える。
「さあね。私は知らないよ。私の職務は薬師だ」
「そういえば、ナタク君は……」
「帰ったよ。道行から連絡が入ってすごい速さで。太乙を乗せてね」
湯浴みの香りなど柄でもないと冷酒を盃に注ぐ。
こんな時は差向いに恋人の姿が欲しい。
眺める月に思いを馳せて気障な台詞を考えてみてもそれは誰かがいればこそ。
(うっわ、こそばゆいぜ……俺の性分じゃねぇ……)
どれだけ飲んでも乾きは癒されず。
この飢えを満たしてくれるのは誰かの体温。
くだらない言い訳を考えてどうやって彼女を出し決めようか。
(ん?なんだ……?)
ひらり、舞い落ちる人型。
拾い上げればぼんやりと形を作り出しそれは恋人の姿を成す。
(ほう……太公望がなぁ……ま、天化に監督不行き届はこねぇだろうけど……ヨウゼンには
若干処罰が行くか?じーさんたちがどう動くかだろうし……)
白紙に戻った型紙を拾い上げてそっと唇を寄せる。
「ひゃん!!」
離れた場所に居たその使い手が上げた可愛らしい悲鳴。
おやすみの接吻でもするかのように感じた彼の気配。
(もう……何やってくれるんだか……おじい様たちも結構な御立腹……)
霊宝大法師も懼留孫大法師も人の世には関与せずを貫き通してきた。
それは開祖の意思として師表は忠実に守ってきたのだ。
しかし、守られるだけで守護者を傷つけるのならば話はちがってくる。
(さて……うちからは霊宝おじい様の方が近いから……)
符印を抱えなおして掌を押しつける。
内部に高炉を埋め込まれたそれは使いようによっては飛行も可能だ。
頭の上に乗せた光輪は闇夜でも正確に進める機能も持つ。
(さて……全て夜が明ける前に終わらせなくちゃ……)
星空を撃ち浮くように進む少女の姿。
明るすぎる客星を通り越して全速前進。
降り立って呼吸を整えて尋ねれば並ぶのは大法師二人と天尊二人。
「おう。太公望が何かやっかまれてんだってな?」
「季節神でもぶつけて大凶作にでもしてやろうか?」
普段の老人の姿はなく雄々しい青年の姿。
「えええええっ!おじいさま!?」
「客星の明るい夜だけだがな。けけけけ……」
「この酔人が。似非仙人とはまさにな」
椅子に座ってまじまじと見えても普段の面影はない。
考えてみれば八千年を超えて時間を止めてしまった二人もいるのだからこの二人とて
そのままに老いてきたと考えるのがおかしいのだ。
「ううん。望ちゃんを虐めてるのは官女たちだけ」
困り顔の少女と腕組みする四人。
「んってことは、あの官女をなんとかすればいいんだな?」
「いえいえ。元をただすならば国の王がしっかりしてないってことなんですよ」
「んじゃ国王を締めあげりゃいいのか?」
「そういうことです。それと清源妙道真君、黄天化。それと監督不行き届でその師匠」
まるで掛け合いでもするかのように進む会話に普賢が目を瞬かせた。
「昔からああじゃ。あのじーさんたちは。人の話など聞かん」
「ああ。しかも孫みたいなもんだからな」
流石の道行と文殊も口を噤んでしまう。
「よしよし。俺の可愛い太公望にそんな思いをさせる連中には愛の鉄槌を下してくれるわ!!」
止められない止まらない。
こんな夜には仙人様も人に還る。
「普賢、お前は荷物まとめて道徳連れて逃げとけ」
「え?」
「あの爺たちは手抜きという言葉を知らん。だから……前線に出せんのじゃ……」
常に前線に出ていたのは天尊位の二人。
実動部隊に加えてはいけない存在というのがどの組織にもある。
「元始もなあ……太公望にかんしてはいろんな意味で可愛がっておるからのう……」
遠いを目をしながらそんなことを呟く道行の姿に感じる確かな殺気。
「わしも先刻、太乙とナタクを引き上げさせた。雲中子も戻ってくる。天化とヨウゼンも
ついてくるだろうな……」
「え……その……」
「害の少ない最上級の嫌がらせが発生するぞ」
作戦会議から抜けることはできない二人を置いて少女は真っすぐに紫陽洞を目指していく。
夜が明ける前に全てを終わらせなければならない、と。
「道徳!!」
「おう!?どうした!?」
「二、三日逃げよう!!」
「ほあ!?」
12:18 2009/05/16