『運命ってあるよね?こんな夜には……』





石琵琶の貴人はその姿を戻し姉の腕の中へ。
西へと逃れた少女の身を思いながらももう一人の少女は眉を寄せた。
「望ちゃんが西に向かってる」
巨大な味方を得るために彼女はひたすら西を目指している。
自分にできることを考えながら深いため息をひとつ。
「モクタクに、参戦命令が出たよ」
「…………………」
「明日にでも下山させようと思う」
淡々とした言葉の裏に隠された激情。
愛弟子に何かあれば彼女自らが出陣することは明白だ。
「ってことは、俺もそろそろ覚悟決めておくか。モクタクだけ参戦して天化に何も
 ないってことはありえないからな」
彼と彼女で違うことはその思考の根本だけ。
「そろそろ帰らなきゃ。モクタクに話しておきたいこともあるし」
同じことの繰り返しで投げ出しそうな日々の中、彼はいつも隣にいてくれた。
この人を恋人といわずして何を言えばいいのだろう。
「なぁ、普賢」
人は神にはなれはしない。
どんなに得を積んでもその力を強めたとしても。
もしも神となるならばそれはきっと思い上がりと傲慢さゆえの錯覚。
「そんなに思いつめなくたって良いと思うぞ。お前のモクタクはそこまで弱いか?
 お前がどれだけ時間と気持ちを費やしてきたのか俺は知ってるつもりだ。もしも
 モクタクに何かあればって考えるんなら……それはお前自身を否定する行為だと
 俺は思うよ。お前が育てたモクタクは立派な剣士だ」






岩をも指先で打ち砕く彼独自の修行は簡単そうに見えて過酷なものが多い。
物事の本質、核を見抜かなければ砕くという行為はなしえないからだ。
「道徳師伯」
少年の声に男は振り返らずに答える。
「俺に……俺に、剣を教えてください!!」
地に両手を着いて深く深く下げられた頭。
師表の一人の教えを請うにはそれ相応の覚悟と礼儀が必要なことを少年は良く知っている。
まして相手は道徳真君。
礼を欠いたならば厳罰は必至だ。
「何のためにだ?お前は宝貝だって習得してるし普賢の剣技に不足はないぞ?」
恋人がどれだけ少年に愛を注いだかは彼が一番に知っている。
隠されていた始祖への進言にもそれは刻まれていた。
普賢真人に向けられた静かなる監視の目。
それはほかならぬ道徳真君へと課せられていたものだった。
彼女の不安定な感情を最も理解して制御することのできるただ一人の人物がこの男。
禁忌とされる関係を認めさせるために彼が飲んだ条件。
「今の俺じゃ駄目なんです」
迷う心は少年から男に変わるためのもの。
己の弱さに気付きもどかしさに歯軋りをするように。
「このまま戦ったら……師匠の名前に泥塗ることになります。あの人に何かを返すためにも
 俺、もっともっと強くなりたいんです!!」
実らない初恋の美しさ。
この体を焼き尽くしても尚この気持ちは焦がれてしまう。
「俺が無駄死にすれば普賢真人の名が落ちます!!俺にとって一番苦痛なのはそれなんです!!
 今以上に強くならなければ俺は……俺は、あの人に何も返せないんです!!」
実らない恋だからこそ、彼は強さを純粋に欲した。
それは彼女に認められることを望むあまりの行動。
「師叔が下山しました。次は俺です」
望む望まぬにはかかわらず。
行く道は一つと悟ってしまったのだから。
「普賢が寝た後だ」
だからこそ、男も振り返らない。
情けを掛けることは少年の望むものではないからだ。
強さは時として人間を狂気に駆り立てるもの。
少女は少年にそれを望まない。
「悟られないようにして来い」
「はい!!」
その小さな体に不釣合いな両手剣。
「呉鉤剣を使っての実践、この道徳真君が相手だ。死ぬ気で来い。俺も本気で行く」
その言葉の通り、彼は少年を毎晩鍛え上げていく。
両手で二本の剣を華麗に操る細身の少年の姿。
大地を蹴って砂埃さえも味方につけては男を切りつけようと躍起になる。
日に日に増えていく傷を隠しながら。
丹薬を作ることにも慣れた。
上手に包帯も巻けるようにさえなった。
それでも腰に刻んだ傷が疼く。
もっと強さがほしい、と。
「腱に疲労が来てる。今夜はもう帰れ」
「まだやれます!!」
その瞳に宿る光は少年から男に静かに変わり行く。
月光の下、いよいよ少年は男へとひた走る。




この恋は残酷なほど美しく純粋でどうすることもできないのです。
それが恋だと気づく事もできないほどに淡く。
白日の下に晒されたこの思いに名前を付けることを拒むかのように。






窓枠に縛られた月を見つめ、少女はため息を一つ。
夜光虫のように不安定なこの心の光。
「ねぇ、道徳」
あの日の彼と同じように彼女は振り返らずに静かに佇む。
胸の前で組まれた細い指先。
祈りを刻むように閉じられた瞳。
「あの子はいつから隠し事が上手になったんだろうね」
わかっていた。
少年が自分に隠れて彼の元に足を運んでいたことを。
知っていても知らない振りをした。
「ボクは……あの子にとって師として何かを示せたのかな……」
浮ぶ星を巻き込む螺旋の炎。
胸の中で渦巻くこの思いをどうすればいいのだろうか。
「明日あの子は行ってしまう。今日までが幼い眠り」
傷らだけの腕にそっと祈りをかけてその治りが早くなるようにと。
疲れきった少年が寝過ごしても、それよりもほんの少しだけ遅くおきるように。
「あの子を誇りに思う」
だから流れる涙など見せないと一人で誓った。
きっと明日は忘れられない空の色だろう。
たった一人、生涯一人だけの愛弟子の旅立ちの日。
「ボクはあの子をちゃんと育てられたかな?もっと何かしてあげられなかったのかな?」
どれだけ考えても答えなど見つからない。
見つけてはいけないものなのかもしれないと、少女は自嘲気味に。
「答えが欲しいか?普賢」
この静寂が優しくて残酷。
あえて自分の後ろにいてくれる彼の優しささえも。
「会えないわけじゃないのにね。誇りに思わなきゃいけないのに……どうしてかな……」
ぽろり。零れ落ちる涙は一筋。
拭う事もせず。
握り締めた拳は痛いほど。爪が食い込み彼女の言葉を示す。
「あの子を離したくない。ボクが、ボクが行けばいいだけの話なのに……」






どれだけ悔いても君はきっと罪に囚われるだろう。
いっそその罪となればその心に永遠に存在し得るのだろうか?
狂い行くこの時代の流れ。
いよいよ彼女は美しい。






「お前の弟子は、本当に師匠思いだな。羨ましいほどだ」
どれだけぶつかり合って反目しあっただろう。
あの日々が今は愛しくて悲しい。
君の小さな手もいまや離れてしまった。
「まだ天化は幼いな。あそこまでの意思はない」
何一つ無駄なことなどなかったと、今更にしてわかるように。
「あのガキが立派になったもんだ。礼儀さえ知らなかった子供がな……」
懐かしむように細まる男の瞳。
傷だらけの腕はいつしか逞しく変わった。
「信じろ。お前の愛弟子は確かに強くなった」
「けど、けど……まだあの子は……っ……」
「お前が信じなくて誰が信じてやるんだ?」
もしも自分の生きた証を残せるのならばそれはきっと。
彼が生き抜いてくれることに他ならない。
その志の半ばで倒れることのないように、毎晩祈り続けるだろう。
「信じてやれ。それが一番うれしいことだろ?」
絶えざる光は地上に降り注ぐ。その道標のように。
「うん…………」
窓に触れる細い指先。
何かを求めるように動いては止まる。
月に絡まる螺旋の光。その光が少年を守るように、彼女は毎晩窓辺に立つだろう。
「明日、どんな顔であの子を送ったらいいのかな……」
後ろ向きで手を振るようなことはできない。
しっかりと見送って、彼の帰る場所であり続けられるように。





「行ってきます、師匠」
頬に触れる少女の指先。
瞳を閉じて、小さく呼吸を整えた。
「望ちゃんの力になってあげて。時期が来たらボクも参戦する」
「その前に、俺たちでぜーんぶ片付けますよ。師匠はゆっくりしててください」
手を振って、何度も振り返る姿。
吹き抜ける風に涙がこぼれた。
何も言わない代わりに手を振った。
この言葉を静かに歴史の風に乗せて。






0:01 2007/06/28

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