『君だけが間違いじゃない、君だけが不安だらけじゃない
何もかも頼っておくれ……』
電気仕掛けの預言者
「随分と派手に傷残ったな、天化」
少年が二人欄干に腰掛けて、手には蒸かしたての餡饅。
白い息が空気に溶けていけば、これで隣が美女だったらと互いに呟いた。
「あー……これ、まぁ宝貝習得の記念だって思ってるさ」
早々に食べ終えて煙草に火を点ける。
いつの間にか銜え煙草もさまになるようになった。
ただ、それが見つかれば氏である道徳真君からの鉄拳が待っているのだが。
「モクタクもさ、普賢さんのところにいて傷とかできねぇさ?」
天化の問いに少年は目を瞬かせた。
「あー……おれ、言わなかったっけ。俺の宝貝習得試験って師匠が相手だったんだ。
そん時にはたいしたことは無かったけども、そのあとだったなぁ……」
指先に残った餡を舐め取って少年は下穿きに手を掛けた。
僅かばかりにずらせばそこに刻まれた鮮やかな鳳凰。
その幼い顔立ちには不似合いなほどその赤は鮮やかで美しい。
「呉鉤剣が暴発してえぐっちまったんだよなー。雲さんに縫合してもらったんだけども
どうやっても目立つから、赤精師伯に彫ってもらった」
師表の一人の赤精子は、彫師の元で生まれ育った。
隆起した筋肉の上に踊る見事な昇竜は、息を飲むほど。
「すげー……」
手早に下穿きを上げて、紐を結びなおす。少年にとってそんな誇れるものでもない傷。
ただ、悲しがる少女を想えばこの傷が消えてしまえば良いと思っただけのこと。
「でもさ、そんな派手に入れてさ……普賢さん怒んなかったさ?」
「怒るとかそういう次元じゃなかったな……むしろ、道徳師伯に殺されるかと思ったぜ……」
「ど、どんなだったさ?」
興味津々とばかりに天化が詰め寄る。
「思い出すと傷に来んだよなぁ……そろそろ戻らねぇと師匠に殺される」
あまり言いたくない過去は誰にでもあるように。
この少年とその師である少女にも脛に傷はあるらしい。
その傷を隠してしまえと入れたこの鳥は、飛ぶことさえもできない。
まるで閉じ込めた自分の思いのように。
紫陽洞と白鶴洞は決して近い場所にあるわけではない。
それでも距離などものともせずに男は少女の元へと走るのだ。
「コーチ」
湯煙を纏ながら、男はのんびりと冷酒に手を伸ばす。
「ぁんだ?俺はこれから自分のための娯楽の時間に突入なんだがな」
ここ数日は宝貝を使っての修行に入り、青年も紫陽洞に篭っている。
普賢真人が青峰山を訪ねることは殆どなく、所用は弟子のモクタクが間者としてくる
というのが通例になっていた。
「モクタクってさ、あんなでっけー墨入れてんのな」
白磁の杯に唇が触れて、視線だけが少年に向けられる。
恋人が来なければ荒れ放題と揶揄された室内も、どうにかまだ形にはなっていて。
それがかえって一人であることを認識させるようで嫌だと彼は呟く。
「見たのか?」
「話の成り行きで見せてもらったさ」
人差し指を軽く折って、近寄れと天化を呼ぶ。
「何さ」
その視線が先刻よりもきつめに変わって。
「普賢の前で言うなよ。あれは未だに止め切れなかった自分を悔いてる」
これは冗談ではなく本気だということを少年に知らしめる。
「え…………」
「モクタクはあれを思ってやったんだろうが……一生後悔し続けそうだ。あんな消えねぇ
もん彫り込みやがって……」
少年からしてみれば、友の行為は痛みを乗り越えた者の証に思えた。
それが違う、と男は言うのだ。
「馬鹿なこと考えんなよ?お前がやっても意味がねぇ」
寝巻きの上からでも分かる体躯は、まだ自分には持てないもの。
「ガキはガキらしくしてろ」
男の背中にも数え切れないほどの傷がある。その一つ一つを彼は覚えていると呟いた。
傷一つ無い体は無垢で綺麗かもしれない。
あちこちに残る傷を恥ずかしがる恋人に、「人形を抱く趣味は無い」と彼は囁く。
傷を厭わないからからこそ、彼は彼女に魅せられて離れられない。
「んじゃ、そろそろ寝るか……お前も夜更かしはするなよ。今のうちに基礎積んでおかねぇと
自分がきつくなっからな」
恋人が自責の念に駆られる夜に、自分はその手を握ってやることさえできないこの歯痒さ。
己の不甲斐なさに溺れるには丁度良い十八番目の月が、窓枠で笑っていた。
「モクタク、風邪引いちゃうから湯冷めしないうちに休んでね」
布地を広げて少女は裁断のための線を入れていく。
「そっくり返しますぜ、師匠」
「ありがとう。でも、そんなに弱くも無いよ」
ここ十数年でそれは嫌というほどに見せ付けられた。
父親である李靖も道士であることもあって、千人になるにはどれだけ過酷な修行を積まなければ
ならないのかも熟知はしているつもりだった。
自分と年端も変わらないようなこの少女は仙号を得て、師表十二仙に座する。
「明日はちょっと宮のほうに用向きがあるんだ。一緒に来てもらえる?」
「いいですけど……俺なんかが行っても良いんですか?」
「君に勅命が下りた一度、顔くらい見せておかないとうるさいからね」
言葉も出ない愛弟子に視線を向けることなく、少女は続ける。
「けれども、今すぐじゃない。時期がきたらボクも出撃する」
「……わかりやした。早めに寝ます」
消えていく足音と混ざり合うため息。
少年のために何か作ろうとして線を入れたは良いものの、そこからが進まない。
窓の外、真白の雪とは裏腹に澱んだこの気持ちをどうしたら良いのだろう?
誰かの優しさがほしいと思うこんな夜。
綺麗な筈の雪達が自分たちを遠ざけてしまう。
悴む指先が求めるのはただ一人だけなのに。
それすらここでは本来は禁忌とされていること。
(道徳何してるかな……もう寝ちゃったかな……)
指を組んで、その接合面に唇が触れる。
会いたいと思うことがなによりも大切なのは、繰り返される恋人たちの掟。
さらら、と流れ降るこの白い結晶は誰のための悲しみを埋めるの?
惹かれあうのは心でも体でもなく、魂がそうさせるから。
降ってきたのは雨でも霰でもなく紛れも無い恋人だった。
「……とりあえず、あれだ。普賢さん……風邪を引きますよ?」
塗れたままの髪に男の指が触れて、その雫を払う。
「逢いたかったんだ……わからないけれども……」
子供は寝静まった真夜中の少し手前、音を消してくれるこの冬の産物は少女の味方と成り得た。
冷たくなった指先をぎゅっと握って少しでも彼女の心が温まるように。
抱きしめるのはその寂しさを二等分にするため。
取り去ることは奪うこと。
分け合えばその分負担が軽くなると、彼は選んだ。
「あんがとな、逢いに来てくれて。俺が本当は行くべきなんだろうけど」
違う、と小さく横に振れる首。
その細さにどうして今まで気づかなかったのだろう。
少し離れているだけで、彼女がどれだけ不安に駆られるかを。
「愛情に胡坐を掻くべきじゃない。逢いたいと思うなら……回りを気にしちゃいけないんだ……」
見上げてくる瞳の色は水葉が触れて揺らめく水面のように。
儚げでありながらも清々しさを感じさせる。
「面倒になったの。逢いたいだけ」
「そか。忙しさに感けて愛情の投入を怠った俺にも反省要因はあるな」
子供にするように抱き上げれば、伸びた腕が男の頭を抱きしめて。
安心したかのようにその額に静かに接吻した。
「風邪ひいちまうってーの。こーんなに冷てぇんだから」
「あっためて」
「……そのあからさまな誘いに俺は乗っていいのか?でも……お前明日、玉虚宮に行く日だろ。
さすがに寝不足のまま出してやるのは俺の気持ちがなぁ」
寝台にそっと下ろして、視線を重ねる。
「なんか……久々だと照れるっちゅーか……」
「道徳のそういうとこ、好き」
くすくすと笑う唇と、少しだけ染まる頬。
「部屋も綺麗にしてるし、何だか調子狂っちゃうかなー……」
「お前の小言が聞けないのは、確かに寂しいもんだな」
重なる唇と分け合う呼吸。ただそれだけの行為が無性に愛しくて。
自分を抱いてくれるこの腕をどれだけ必要としていたのか。
離れている間に憶えた強がりと嘘は、彼の前で一瞬で溶けてしまった。
「したいわけじゃないんだ。あっためて欲しいの」
君を知ったその日から僕の地獄は始まって。
君を知ったその日から僕の地獄は終わった。
恋は鎖となって自分たちを縛り上げていく。
厄介なのは悲鳴をあげるほどなのにそれを嫌がることをしらない自分たち。
恋獄は宵闇に忍んで密やかにやってくる。
「よーしよし、こんな泣きそうな顔して来てくれたんだから、あっためてやっからなー」
大げさなほどに滑稽に。それで彼女が安心するならば喜んで道化にでもなんにでもなろう。
君の真実を知ったその日から、君を守ると誓ったのだから。
「でも……どうなんだろ……こうしてるとすごく落ち着く……」
頬に触れる手。
それだけで、ぽろりぽろり…こぼれる涙。
「正式な遣いでも来たか?」
「……………………」
「俺んとこにも来た。受けはしたがまだ天化には言ってない」
まだ使い慣れない宝貝での修行。
傷だらけでも必死に食らいついてくる愛弟子の成長振り。
「ほら」
紐解かれる書簡に記された残酷な文字たち。封神計画に参戦することは封じられたはずの
殺業他ならないはずなのに。
「あれの天命がどこで尽きるかはわからん。願わくば仙となって俺を超えては欲しいが」
「死なせるために育てたんじゃない。ボクは……モクタクを守る」
何を望めばいいのだろう?何を願えばいいのだろう?
「問題なのはこれがまだ太公望には伝わってないって事だな。わかってるのも十二仙以外には
通達がでてないってこともだ。まったくあのじーさんには……」
覆い被さって抱きしめてくる腕。
無精髭さえ、彼を飾っているように思えるほど恋は自分を狂わせる。
「封神台は完成してる。管理体制も万全だ。だったらあとは実行するだけだろうよ……だのに、
なんでそれをしない?狐狸精はますます力を付けていくばかりだ」
殷王妃は日増しにその力を拡大していく。
いまやその名を知らぬものは仙界にはいないだろう。
「女狐一匹倒すだけなら、崑崙の総力なんざ使わなくてもいいんだ。あんな面倒な封神台だって
必要はないだろう?じゃあ、なんでだ?俺もお前もここに残って、弟子だけを出陣させるのは。
能力値で考えれば俺たちを出すのが理に適うってもんだろ」
「望ちゃんにもすぐにでるよ……白鶴に聞いた」
「吐かせた、の間違いじゃないのか?」
耳に触れる唇。
「そうかもね。だた……真実には少し近づけた気がする」
触れ合うことで確かめられる愛情がまだまだ自分たちには必要不可欠。
「あったかーい……どうしてこんなに暖かいんだろう……」
まだ、涙が流れるから。
自分は壊れてはいないのだと、確かめられる。
「そりゃ、俺の愛は大きいですから」
「……そう……だねぇ……」
聞こえてくる寝息に、男は安堵の笑みを浮かべた。
少女自ら紫陽洞(ここ)にくることなど間が手も見なかったからだ。
(どんだけ不安だったんだろうな……ほったらかしにしちまった……)
聞こえてくる心音は柔らかくて。
この細い首は僅かに力を入れればすぐにでも折れてしまう。
今、ここで自分が少女を殺すこともできるのだ。
永遠に自分だけのものにすることもできる。
閉じ込めて、誰の眼にも触れさせないようにすることも。
(俺は負けねぇぞ。運命でも天命でもなんでもきやがれ)
そして、君の目が覚めるころに不安にならないように。
君が最初に見る景色が自分であるように。
その夢の中でも寄り添っていられるように。
明日、君が悲しがらないように。
いつまでも君と手をつないでいられますように――――――――。
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11:51 2007/02/21