『夏草の匂いのような 蒸し暑い午後に二人でいるような
 シアワセの沈黙に言葉を失くそう………』
               イロトリドリノセカイ





乾燥した空気が支配する書庫で、少女二人は文献を読み漁っていた。
仙界に来てどれくらいの時間が過ぎただろう。
仙籍にも入り、正式に道士としての修行許可も得た。
それでもこの二人は付かず離れず一緒に居るのだ。
「望ちゃん、それ読んだ?」
「うむ。他の方を調べるとするよ」
「じゃあ、借りるね」
剣と槍。扱うものがこの二人は違う。
動と静。感情と理性。太陽と月。まるで相反するようであり、その実は密接。
奔放な行動の太公望を書庫に引きずり込んだのは普賢。
たまにはこうして二人で書物に耽るのも悪くないと太公望も付いてきた。
「二人揃って熱心なことだな」
長衣に長く伸びた黒髪。
「えーと……」
二人は顔を見合わせて口篭る。相手の名前が出てこないのだ。
「確か十二仙の……」
「そこまで憶えておるのか、普賢は。わしなんぞ皆目見当も付かぬぞ」
男はそんな二人のやり取りに笑みを浮かべた。
「私は玉鼎。自分のほかに書庫に人がいるのが珍しくてね。崑崙(ここ)の書庫は悪くない揃えだ。
じっくりと味わえる。仙道ならばなおさらな」
時間に囚われない仙人、道士には悠久の時がある。
時間を潰すのには十分すぎるほどの蔵書だ。紐解けば一日が終わってしまう。
「玉鼎様も、よくこちらへ?」
「ああ。弟子にも何冊か持って行くこともあるしな。それに、教主直弟子ならば同格だ。
私のことは玉鼎で構わない。崑崙でもお前たち二人のことは噂になってるからな。だが……
こんなに幼い少女二人とは思わなかったが……」
幼いといわれればいくらこの二人でも心中は穏やかではない。
「ところで玉鼎よ、おぬしのその髪は邪魔にはならんのか?なんならわしと同じように編んでやろうか?」
頭頂部に束ねた三つ編みを団子に纏めた姿。
「いっそ切ってみるのもいいかもね。ボク、散髪には自信あるよ」
相手がどうであれ、この二人にとっては関係ない。
「なるほど、噂の通り悪童二人だな。将来が楽しみだ」
後姿を見送りながら二人は「変わった男だ」と呟いた。
教主の直弟子でありながらこの二人、いわゆる『悪戯』が大好きなのだ。
先日も教主に一服盛って黄巾力士を奪って勝手に下山しては人間界で遊んできたばかり。
そのほかにも上げていけばキリが無い。それゆえに『悪童』と評されるようになったのだ。
しおらしく書庫に篭る姿だけならば想像も出来ないような悪童振りは崑崙の道士の間でも持ちきりだった。
「悪童ねぇ……ちょっと悪戯しただけなのにね」
「今度はあやつに一服盛って寝てる間に坊主にでもしてやるか」
「それも面白いかもね」
うふふ、と二人は顔を見合わせて笑う。言われっぱなしを良しとはしない。
負けん気の強さならば誰にも負けない自信がある。
だからこそ、教主は誰にも渡さずに己の手元に置くことを選んだのだ。
師事することなく、崑崙に選ばれた子供。
それを「幸」とみるのか「不幸」と見るのかは誰にも分からない。
ただ、一つだけいえるのは彼女たちは傷を負って来た者ということ。
「しかし、全部読むつもりか?普賢」
「いずれはね。全部ここに詰め込むつもり」
そういって自分の頭を指す。与えられた名の通りに普遍なる賢者を目指すというのだ。
日が暮れるまで書庫に二人は篭り、文字に没頭していた。
仙界入りするまでは落ち着いて書物を読む時間などなかった。
そして自分たちがどのような惨禍に置かれていたのかを初めて知ったのだ。
時間は過ぎ去りすでに後世と呼ばれるにもふさわしい。
(なんてこと……父様……母様……)
ぎりりと唇をかみ締める。ふいに隣を見れば同じように太公望も眉を寄せ、書に目を通していた。
「のう……普賢……わしは強くなって皆の仇を取りたいのだ……」
ぽつりぽつりと呟く声。
「殷の皇后を討つ。そして、無駄に血の流れることのない世界を作りたいのだ」
凛として、目は遠い未来を見つめる。
「うん。ボクも望ちゃんの力になれるように強くなるよ」
二人、因縁を抱いて仙界にこの身を預けた。
曇りのない目で前を見つめる友のために、そして自分のために。
ほんの少しだけ強くなりたいと彼女は願った。


次の日も、その次の日も普賢は史書室に篭っていた。
失ったものを全て取り戻すように。自分の一族の結末を知るために。
予測していたよりもずっと凄惨な史実に目を伏せる。
(皆……ごめん……)
自分を庇い、盾になりその命を落とした兄。
最後まで守り続けてくれた両親。
思い出すのは焼け野が原と硝煙の匂い。
焼けた肉と大地に染み込んだ鉄の香りと、手に染み込んだ生暖かい血の感触。
(必ず……みんなの無念はボクが晴らすから……)
事実を全ていけれるにはまだ彼女は幼すぎて、きりきりとした痛みを感じながら頁を捲る。
読みきれなかった史書を抱えて、痛む胃を押さえながらふらふらと回廊を歩く。
夕日も大分傾き、溶けていきそうな緋色が空を染めている。
あの日に見た景色も同じように大きな太陽が沈み行くものだった。
成す術も無く、ただ、呆然と見つめるしかなかった無力な自分。
(嫌……どうして……みんな……)
その度に刺す様な感覚が身体を走り抜ける。
壁に手を着いて、はぁはぁと荒い息だけがあたりに響く。
浮き出た汗を拭う力さえ無く、重い身体は支えるだけで精一杯。
こつこつと近づく足音ですら耳に刺さるように痛い。
「普賢?」
「……道徳さま……?」
「おい、大丈夫か!?顔……真っ青だぞ!?」
片手で道徳真君を押しやって小さく大丈夫と呟く。
(どうしよう……吐きそう……)
口元を押さえながらよろよろと自室へと戻ろうとするが、足元が覚束ない。
(ダメ……)
誰かが何かを叫ぶ声が耳の裏でこだまする。
そのまま意識はことりと闇の中に消えていった。






「なんか、ショックなことでもあったんだろうね。それで身体の方が対応しきれなくて過度の重圧に
押されて倒れたってとこかな」
普賢の額に触れながら太乙はそんなことを話した。
人間は精神と肉体の疲労の均衡が取れていれば可もなく不可もなく生きて行くことが出来るように作られている。
どちらかの不具合はもう一方にも影響を与える仕組みだ。
例えるならば興奮して眠れないというものや、疲れすぎて眠れないというような感じである。
「でもねぇ、この子……今までよく無事だったよね。今回も通りかかったのが道徳だったから
良かったようなものの……下手したら今頃なんかされてたよ」
「なんかって、何だよ」
太乙はやれやれと頭を振った。
「これだけの器量の子がさ、誰にも狙われないわけ無いじゃない。色欲を捨てきれない道士だって
ここには沢山いるからね。この子ともう一人……太公望だったかな?この二人は高嶺の花ってみんな
噂してるけどね。その花を手折るために何やら画策してるみたいだけども」
「原始天尊様の直弟子にそんなこと……」
「皆が皆、開祖である原始様に対して敬意を持ってるわけじゃないし、君の様な性格でもない。
そんな輩にしてみれば小奇麗で大人しい道士なんて恰好の餌にしか見えないだろうし」
太公望と普賢。数少ない女道士として崑崙でも噂の二人。
仙籍に入る前ならば手をつけても罪にはとわれない。
あくまで相手が「人間」であるならば。
だが、一度仙籍に入ったものに手を掛けるのはそれ相応このこと覚悟して望まなければならない。
道士の後ろには必ず仙人がついているからだ。
「こういう子は自分で全部抱え込むタイプだよ。誰かに犯されたって誰にも言わない。だから……
狙われるし。それに……数少ない『女』だ」
道士の中には男色を好むものも居る。
それだけ仙界における仙女の数は少なかった。
そこに二人の少女が道士として身を置くとなればよからぬ考えの者も出てくるのは至極当然の事だった。
「太公望は分からないが、普賢は中々に強かったぞ。この俺に向かってくるくらいだ」
「でもまだ子供だ。かわいそうに……崑崙に魅入られた哀れな子」
そっと髪を撫でる。大分呼吸の乱れも治まって小さな寝息が聞こえてきた。
「ま、少し様子見て看病してあげて。病気に関しては僕よりも雲中子の範囲だ。あとで薬を届けるように
言っておくから。二、三日安静にしておけば大分良くなるともうよ。原始様も出かけて居ないみたいだし」
ひらひらと手を振って太乙真人は乾元山へと帰ってしまった。
寝台の横に座り、眠る普賢の顔を見つめてみる。
(子供だ……まだ……どうこうするとかそんな事……)
細い首。透き通るような肌の白さ。
(そんなこと……考える方が間違いだよな……)
彼女よりも気が遠くなるほど長く生きてきて、それなりに色々な経験は積んだつもりだった。
仙人に昇格してからは無欲になったもんだと自分でも達観していた。
それが、ほんの些細なきっかけで崩れてしまったのだ。
(でも……俺、こいつが気になるんだよ……)
汗で額に張り付いた前髪を払ってやる。すると、つ…と涙が伝った。
(うわわわ、何だ!?何で泣いてるんだよ!!??)
おろおろとしてみても答など見えてはこない。
「……さま……母……さま……死んじゃ……イヤ……」
それは彼女を何度も苛み、消えることなく繰り返される悪夢。
逃げても逃げても、振り払うことの出来ない過去という名の鎖だった。
小さく伸ばされた手を取ると、少し安心したような表情を浮かべる。
『守りたい』そんな気持ちが胸を締め付けた。
(強くなるのは……自分のためでもあるんだろ?普賢……)
強く、脆い少女。
まだ、運命に立ち向かうには力が足りなさ過ぎる。
(参ったな……こんな気持ち捨てたはずだったんだけど……俺も修行不足か……)
薄く開いた小さな唇に、触れたいと思う気持ち。
それは仙人としては捨て去らなければならないものの一つだった。
どうしてもあの目が忘れられない。
自分を見て欲しいと思うのだ。
(なぁ……どうやら俺はお前に惚れてるみたいだぞ……)
自嘲気味に頭を抱える。道士たちの師表たる十二仙に座してもこの有り様だ。
自信たっぷりに笑う姿と、崩れそうな脆さ。
二つの姿はどちらも彼女の真実に見えて、目が離せない。
(変な道士連中に手折られるくらいなら、俺が……)
ふとした考えにはっとする。
(何考えてんだよ!まだ普賢は子供じゃないか……あ、でも、そのうち育てば……って違うだろ!
しっかりしろ、俺!!落ち着け!!)
自分の気持ちに気付いてしまえばもう、止められない。
(どーすりゃいいんだよ……)
小さな手の甲にそっと唇を当ててみる。
道士時代はそれなりに遊びもした。時に仲間と数を競ったこともある。
それでも、こんな風に誰かを思うことは無かった。
今度は額に唇を落とす。
形の良い鼻筋に。
そして、薄い唇に触れるだけの接吻をした。
まるで初めて誰かに触れたときのように、高鳴る胸に自分の気持ちを自覚させられる。
(完敗……俺、お前に惚れてます……)
悠久に続くこの日々をただ在るがままに受け入れて過ごすものだとばかり思っていた。
失ったのは安定した日常。
そして手に入れた恋心。







「……ぅ……ん……」
額を押さえながら、ゆっくりと身体を起こす。
見知らぬ天井と、風景。
(えーと……ボク……)
思い出そうとしてもずきずきとこめかみのあたりが痛んではっきりとしない。
「お、気が付いたか?お前いきなり倒れてさ、ちょっと驚いたぞ。ちゃんと食ってるか?」
「ここは……」
「紫陽洞(うち)だけど……」
額に手を伸ばす。熱はどうやら引いたらしい。
「雲中子から薬貰ってきたから。とりあえずそれ飲んで……」
「ボク、帰ります。これ以上ご迷惑をおかけするわけには……」
「その身体でか?また途中で倒れるぞ。師表の一人として言うけれどな、まだ心身ともに未熟なんだから
無理はするな。まだ……やりたいことあるんだろ?勉強するのも大事だけれど、自分の体のことを知るのも
大事だし、仙道の仕事でもあるんだぞ。だから、治るまではここに居て構わないから」
子供にする様に頭を撫でる手。
「……はい……」
「それから、固っ苦しい言葉は嫌いだっていったろ?」
ぴん、と指で額を軽く小突く。
「痛っ」
「その顔の方が普賢らしいな」
笑う顔がやけに愛しく思える。傍に居るだけで胸が締め付けられるような気持ち。
(もうちょっと……待とう。焦ったってどうにもなんないしな……)
その手に、髪に、唇に。
触れたいと思う指先を伸ばせないまま、後ろ手に隠す。
「酷い言い方……」
疲れたような笑顔。
あたりには夜の帳。虫の音と夜風だけが世界を包み込んでいるようにすら思える。
「嫌な夢でも見たのか?」
「……少し。でも、もう平気……」
伏せた睫。閉じた口。
それが平気ではないことくらいは誰がみてもわかるほど。
それでも、聞き出せない自分がここに居る。







たった一言が声にならない。
ただ、キミが好きです……と。




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