◆もくまおう◆
「江流!!どこいったぁ!?」
僧服の青年がばたばたと回廊を走る。
「師匠、どうかなさいましたか?」
「出かけるぞ!!」
「って、師匠〜〜〜〜っっ!!」
子供手を引く青年はけらけらと笑い石段を降りていく。
これがあの光明三蔵とは名乗らなければ誰にも分からないだろう。
栗金の髪に褐色の肌。左腕一本に刻まれた見事な刺青。
前を見据える碧眼はその光に意思を携える。
見たところ二十代後半にも見えるが、加減によってはもっと上にも。
ただ、笑い顔だけは妙に子供染みていた。
「どこに行くんですか?」
「遊びに。いやねぇ、毎日寺に篭るのもどうかと俺は思うわけよ。お前だって庭掃除と座禅の
繰り返しは飽きるだろ?たまには祭りで飴でも食ってだな……」
「師匠が、食べたいんですよね?」
「まぁ、そういうこった」
じゃらり、と鳴るのは水晶の数珠。
男の腰よりも少し高いとこまでしか背丈のない少女は、くすくすと笑う。
「師匠は、甘いもの好きですからね」
「甘いものとお姉ちゃんと菩薩さんとな。あと、お前」
「?」
まだ言葉の意味を解するには知識も経験も、そして悪行も足りなくて。
江流と呼ばれた少女は、元は川縁で拾った赤子。
栗金の髪に、血色の眼。
酔狂だといわれても、光明は彼女を育ててきた。
いわゆる僧侶とはかけ離れた男だが、それなりの信念はある。
心だけは誰にも汚されないということ。
幼いころから彼が江流に教えてきたことはただ一つだけ。
「己に恥じる行為だけはするな」と。
手を繋いで歩く道は、暗くてもそれさえ感じなかった。
守られている安心感。江流にとってこの破天荒な師は自慢の男だった。
小さな瓶に入れた金魚は、ひらひらと泳いで泡を立てる。
硝子の鉢は寺院にあるものをと、光明は江流の手を引いた。
飴細工の入った袋と、小さな翡翠の櫛。
「江流、こぼさないで食え。その飴だって職人さんが魂込めて作ってんだ」
「は……はひ……」
口をもごもごと動かしながら、江流は師匠の顔を見上げる。
この寺院には多くの若い僧侶見習いが居る。
頂点に立つのは光明三蔵法師。
若年にして三蔵言うの階位をもつ男だ。
その次に居るのがこの江流童子。法師の秘蔵の子供。
幼年にして経文を全て憶えるという頭脳は持つものの、面白く思わない輩が多いのも事実だ。
何かと意地の悪いことを江流に仕掛けるのだが、彼女はさらりとかわすだけ。
現場を押さえられれば光明法師の飛び蹴りと拳突が待っている。
何人か強制的に下山させられた連中も居るほどだ。
「同じ髪の色ってのもあるけど、なんかお前に跡目やって欲しいんだよな。俺」
ぽふぽふと小さな頭に触れる大きな手。
「強くなれ、江流。誰にも汚されることの無い誇りを持てるように」
川流れの子供故に「江流童子」と言われ、彼女は生きてきた。
それでも師匠がつけたこの名前は、決して嫌いではない。
水は全ての生命の源であり、柔軟に形を変える。
その水の名を汲んだこの名を嫌うことなど出来なかった。
「江流、ちょっと来い」
箒を持ったまま手を引かれて、ぐるりとその周りを囲むのは僧侶見習いの先達たち。
「何か御用で?」
「光明さまがお前を飼ってる理由が分かるか?」
「私は飼育されてるわけでありません」
ぱん!と頬をはたく手。
「その顔なら育てばいいものになるからな」
「詰まらんことを……」
その手を払いのけて江流は男の顔を見上げた。
夕日に血を混ぜたような赤い赤い眼。
「!!」
小さな拳が鳩尾に入る。
「光明様は先に手出しされたらその場に居るもの全員をやってもいいとおっしゃった。
次はどの馬鹿だ」
江流を光明法師が気に入っているのは、何よりもその気性。
多少のことには負けずに、相手がどれだけ大きくとも引かない。
枝一本で熊とでも戦う少女。
負けることなど決して考えない。
「光明様以外、私に命令できるものはいない。覚えておけ」
「生意気な……」
「ならばこの寺にある経典を全て暗唱するのだな。それが出来ないような輩に文句を言われる筋はない」
昼に夜に。
彼女は心の迷いを払うために経典を読みふけった。
一字一句間違えることなく、心に刻み込まれる言葉たち。
(母様は……私を何故お流しになられたのか……)
欠けた小指だけが父母との繋がり。
夜毎、痛むそこに触れる指。
強がりを取り払えば、年相応の少女が独りいるだけ。
妖怪たちのざわめきは、いつものことだと彼は笑う。
此処での生活にも慣れ、江流は名実共に光明三蔵の後継者として一目置かれるようになった。
破邪の札と封魔の法力は群を抜く女僧。
「お前も十七か、早いよな」
「そうですか?師匠は何一つ変わりませんね」
二人揃えば妖魔も逃げ出す。二人の声は封魔の音色。
四十の少し手前だというのに、光明法師の身体はいまだ若者とそう変わらない。
筋骨が隆起しているとは言いがたいが、筋肉質の身体は日ごろの鍛錬の賜物だろう。
鎖につながれた鉄球を振り回しながら、庭先で行う独経。
まるで鉄球などないかのようにその小脇をすり抜ける江流。
この師匠にしてこの弟子あり。
そんな二人だった。
日が沈めば杯を突き合わせて酒を飲み、書物の共には煙管が二本。
年の離れた兄妹のように、光明と江流は日々を過ごしてきた。
同じように左腕に刻まれた破邪の呪文は、江流の度胸の表し。
その痛みにも堪えうる精神力は、「女だから」という回りの声をねじ伏せた。
「なぁ。江流」
「はい」
掛かる月の色は、彼女の瞳と同じ色。
「俺四十だ。ガキの一人ぐらい居てもおかしくはねぇ」
縁談は全て断り続け、勝手気ままな生活を続けてきた。
無論、江流に降りかかる男共を引き剥がしてきたのも光明だった。
「……………………」
女犯を禁ずは守られないが、彼は江流にだけは手をつけなかった。
「所帯も悪かねぇ……良くもねぇだろうがな」
自覚した恋は、あまりにも唐突で。
胸が苦しいという感覚をはじめて知った。
隣で聞こえる寝息が、こんなにもせつないもので。
触れてもらえないことが、自分が女だということを改めて自覚させた。
「なんつーか、自分の血が流れてる人間を見たいんだ」
「ええ…………」
「俺と同じ髪の色で……まぁ、口の悪いガキになるんだろうな」
日に焼けた肌は、月明かりで不思議な色合い。
眼を合わせるのが怖くて伏せられたままの紅玉。
「なぁ、江流…………」
「はい…………」
「三蔵法師に、なりたいか?」
「……………………」
「三蔵は、俺が死なんと継げねぇ。しばらくは先のことだ」
「はい……………」
流れるのは葉が風に擦れる音。
「お前、俺と一緒にならねぇか?まぁ、そんなに不幸せにはしねぇとおもうぞ」
唐突な言葉にぼろぼろとこぼれる涙。
「うわ、泣くな!俺はお前みたいなのに泣かれるとどうしたらいいかわかんねぇんだよっ!」
「……は……っい!……」
たまった涙を払う指先。
「酒癖……悪いけども」
「はい……」
「甘いもん好きで、偏食激しいけど」
「はい」
「女癖が悪いのは……極力直す」
「…………はい」
「でも、お前のことは大事する」
「はい!」
証人はあの熟れた月。
触れるだけの接吻でも、甘くて何もかもが溶けそうだった。
抱きしめられて得る安堵感。
きり良く二十歳まではこのままの関係と光明は自戒した。
まだ細すぎる身体は、男を受け入れるには不準備で。
それでも、互いの体温と匂いは幸福を運んでくれた。
「今度よ、天竺って西の果てに経文取りに行かなきゃなんねーのよ」
「天竺?」
「砂漠を二人で歩くのも悪かねぇ……なぁ、江流……」
「師匠…………」
「…………黙ってろ、何か、来てんな……」
江流の唇に指を当てて、光明は窓辺をちらりとみる。
障子に映る魑魅魍魎の影。
「寝かせてももらえねぇってか。面倒なこった」
身体を起こして刀を取る。数百の妖しの血を吸った長剣は、男の手の中でまるで笑うように
きらりと光った。
何が起こったのか、理解するのは容易ではなかった。
ただ、現実として最愛の男は自分の腕の中で虫の息ということだ。
仲間たちの骸も、妖怪たちの屍も。
何もかも、一つになって血溜まりの中にあるだけ。
「………し……しょ…ぉ……っ……」
男の頭を抱いて、だらりと力なく崩れた身体を抱きしめる。
「イヤ!!!嫌ァァァァ!!!!」
どれだけ叫んでも、この夢は覚めてはくれない。
現実という名の、過酷な夢。
「……こ……りゅ……」
「師匠!!」
「……え、が……っ……ぞ……に…」
三蔵法師の階位は、死を持って次の者に受け継がれる。
「要らない!!三蔵になんてなりたくない!!!」
ただ、その肩越しに未来を見つめたかっただけ。
血のこびり付いた唇が、小さく動く。
「嫌!!!師匠!!!」
「……………………………」
喉に絡んだ血は、彼から声を奪った。
それでもはっきりと聞こえた声。
「…………は…い……っ……」
閉じた眼は、二度と開かず。
冷たくなった男の唇に、自分のそれを押し当てた。
『三蔵の名を継げば、お前の中で生きられる。この先もお前と進める。悪くない未来だ』
彼の遺言は。
彼女を玄奘三蔵と名付ける事となる。
彼の意思を継ぎ、江流は玄奘三蔵と名乗り西の果てへと進み行く。
右手に彼の数珠を。
左手に、彼の想いを絡ませて。
あれから三度の季節が流れ、銘柄を変えた煙草にも慣れた。
一年で一日だけ『玄奘三蔵』から『江流』に戻る日。
(……師匠、私の進む道は……)
「江流」
「……は……い……ッ……」
それは、熟れた苺月が見せた幻だったのかもしれない。
「いい女に……なったな……」
伸ばされた手。
「連れては、行けねぇ……けど……」
「……はい……」
「西の果てで、逢える。もう少し…………」
さらさらと、砂が崩れるように消えていく姿。
「その道を進め。俺は先に行ってる」
「…………はい」
それは一年に一度だけの奇跡。
彼女を彼女に戻す魔法。
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23:15 2004/07/27