◆軍師と宰相のある日の出来事◆





「……ん……朝……」
差し込む光に太公望は眠たげに目を擦る。
たまにはのんびりと身体を休めたいと三人の男は跳ね除けて、申公豹の奇襲に備えて扉には数枚の呪符を貼り付けた。
一人で寝むる寝台は広く、ゆったりと四肢を伸ばすことが出来る。
「ご主人、お目覚めっすか?」
「おぬしとこうして寝たのも久しぶりじゃのう、スープー」
西周に居を構えてからは誰かしらこの部屋に夜這いに来る。
四不象とただ二人旅立ったときはよく身を寄せ合って星を見ながら眠ったものだった。
「着替えっす、今日も良い天気っすよ」
手渡された道衣に着替えて太公望は髪を結い上げる。
きりりと頭布で縛れば周の軍師の姿に早変わり。
四不象の鼻先を優しく撫でる小さな手。
「スープー、今日も忙しくなるぞ。何せ仕事が山積じゃ」




午前中のうちに出来る限りの仕事を片付け、午後からは休暇をとりたいほどのいい天気。
「太公望」
「旦、おぬしから尋ねてくるとは珍しいこともあるよのう」
のほほんと笑い、太公望はすでに職務放棄の体勢だ。
「いえ、あなたの好きなものを持ってきたのですよ。先日の軍議での手腕は見事なものでしたからね」
籠に入った瑞々しい桃を渡されて目を瞬かせる。
咎められることはあっても、進呈されることなど今までは一度もなかったからだ。
「小兄さまに叱られましたよ。軍師でもあるが一人の女でもあると」
「発らしいと言うか……まぁ、あれはわしのことなど軍師としては見てはおらんだろうがのう」
ニコニコと笑い、太公望は籠を受け取る。
「茶でもどうだ?おぬしと雑談などそうそう出来るものでもない」
「女の方と話すのは苦手でしてね」
「わしでもか?おぬしの知識に惹かれぬ女子など居らんだろうに」
立ち込める茶葉の香り。
珍しく髪を解いた太公望を前に旦は戸惑いを覚えた。
軍師としての彼女を見ることには何の感情もなく同僚としての視線だけだったはず。
こんな風に笑う姿は外見どうりの少女。
その落差は新鮮であり、驚きでもあった。
「暇があるならば、街にでも出てみぬか?おぬしと視察するのも面白そうじゃ」
「え……」
「宰相も、軍師も休日は必要だとは思わぬか?旦」
長い髪を指に絡めて太公望は笑った。





半刻ほど過ぎた頃、素着になった旦を連れ立って街へとでる。
二人とも滅多なことでは城から出ることはない。
特に旦は政務室と自室の往復で一日が終わることも多かった。
「あの格好でないと、おぬしだと分からぬかも知れんな」
悪戯に腕を絡めて彼女は旦を見上げる。
「な、何を……」
「発とはこうして歩く。だから、おぬしにもしたまで」
「私は……どうしたら良いか分かりません……」
旦の手を取って、太公望は自分の腰に回させる。
その細さと女の体に戸惑いながら、促されるままに旦は彼女の腰を抱き寄せた。
「恐がらずとも良い。わしは八十を越した婆なのだから」
そうは言うものの、現実に自分の隣に居るのは十六、七の美少女。
それを老婆と思えといわれても無理な話しである。
意識することはなかったはずの女。
揺れる耳飾が目に眩しい。
「旦、もう少しだけ気楽に生きてみるのも悪くはないと思わぬか?発のように遊べとは言わぬ。
 たまには仕事以外のことを考えるもの必要じゃ」
「そうできれば楽なのでしょうけれども」
「この街がこれだけ穏やかに育ったのはおぬしが不眠不休で政をしているからじゃ」
「どうなのでしょうね。人の世は何もしなくても動くのかもしれません。私は……兄たちのように
 誰かを惹きつける物がないのですよ……」
それは旦にしては珍しく気弱な発言。
太公望は指先で軽く旦の頬を突くと、小さく笑った。
「疲れたときには甘いものを取るのが良いぞ。わしの桃のようにな」
手を引いて甘味処に引っ張り込む。
そんなところに入るのも初めてであれば、そこに女と入るのもまた初めて。
手際よく二人文の注文をすると太公望は旦の手を取った。
「おぬしは十二分に魅力のある男じゃ。誰の代わりでもない。この国がこうして栄えているのもおぬしの尽力。
 何を迷う?昌も始めから賢君だったわけではなかろう?わしとて本来はなまくらの道士じゃ。
 おぬしによく叱られるしのう」
軍師としての才。
姫昌の意思を最も色濃く継承しているのは血の通った息子たちよりもこの道士だった。
風の加護を受け西周は朝歌と向かい合う。
「旦、たまには周公ではなく、姫旦に戻るのも悪くはないと思わぬか?」
姫昌の息子は母の違うものが多い。
長兄の伯邑侯と次兄の発は同じ母だが、第四子の旦は先の二人とは腹違いの兄弟に当たる。
「わしも、太公望の名を捨てたくなるのじゃよ。わしの名は、呂望。姜族の娘じゃ」
北方の遊牧の民は迫害され家畜同然の扱いを余儀なくされてきた。
それを受け入れたのが文王である姫昌。
応えるかのように太公望はこの地に降り立った。
運命を蹴り上げて、彼女は道を切り開いていく。
進むべき道は唯一つ。
「まぁ、たまにはこうしてサボるのもよいと思わぬか?」
白玉を口にして、その甘さに顰められる眉。
「慣れぬ物は口には合わぬか?」
「いえ、美味しいですよ。久しぶりに食べました」
「そうやってもっと笑ったほうが良い。旦」
一匙掬って、同じように口にする。
甘いものが好きな軍師は街中の甘味処を制覇したと豪気に笑う。
宮中においてはこうは行かない。
その中での唯一の楽しみが桃を齧ることだったとすればそれを奪っていたことを今更ながらに反省した。
発と違い女の扱いなどは上手いといったものではない。
自分に厳しいこの男は無意識に他人に対しても規律を求めてしまうのだ。
「小難しい話も良いが、たまには馬鹿話も悪くはなかろう?」
「ええ……貴女に小兄さまが惹かれる訳が分かったような気がしますよ」
武王として日々を過ごしても、彼女だけは彼を一人の男として扱う。
義に反すれば諌め、遠慮なくぶつかってくる。
『気の強い女だが、俺には丁度いい』と兄は口癖のように呟く。
まるで合わせ鏡のように不思議な二人。
「発が良く言うのだよ。旦は昔は泣き虫だったのに何時の間に俺を叱り付ける様になったんだ。とな」
「小兄さまこそ伯兄さまによく叱られていたのを棚に上げて……」
「笑った。旦、ここだけではなく、城でもそうやって笑ってみぬか?」
「笑うことは……まだ少し苦手です」
「わしもそうだった。だが、友や仲間が……支えてくれたよ。おぬしにはこんなに沢山の仲間が居るではないか」
「え…………?」
「この街じゃよ。民は全ておぬしの仲間じゃ。無論わしも。崑崙の道士もな」
風の道士の言葉は優しく耳に染み込む。
この人はこんな風に笑うこともあるのだと、旦は彼女を見つめていた。
発以外の男との話も当然の旦の耳にも入ってはいた。
それを理由に兄に詰め寄っても兄は頑として首を振らない。
誰とでも寝るのは、誰も愛さないからだと。
その手を取って、できるだけ傍に居たいと言ったのだ。
「そろそろ戻るか?おぬしの兄が駄々を捏ねてそうな気がする」
「駄々?」
「あれも甘味に眼がない男じゃ。なぜ自分を誘わぬ!と苛々してる様な気がする」
連れ立って席を立つ。
それは軍師以外の表情(かお)を見た貴重な昼下がりだった。






「太公望〜〜〜〜っ!!」
回廊をうろうろと発は太公望の姿を探す。
「小兄さま、太公望ならば休暇を取らせてますよ」
「休暇ぁ?」
「たまには軍師という鎧を脱ぐことも必要ですからね。二、三日ほど仙界に戻ると言ってました」
書状片手に旦は発を見る。
「アイツ、俺には何も言わないで行ったぞ。未来の夫を蔑ろにしやがって」
「うちの軍師に不埒な行いは慎んでいただきましょうか、小兄さま」
「不埒ってお前……好きな女に手ぇ出さない男なんて居るわけないだろうが」
子供のように拗ねた口調。
「そうでしょうか?私も彼女は十二分に素敵な方だと思いますよ」
旦の言葉に発は目を見開く。
今まで太公望を非難することはあっても褒めることなど皆無に等しかったからだ。
しかも、女として魅力的だと言う。
「待て!!弟ならば兄に譲るのが筋だろっ!」
「恋愛に兄弟は関係ありませんよ、小兄さま」




珍しい兄弟喧嘩などいざしらず、太公望は雲の上でのんびりと目を閉じていた。
午後の陽だまり。
軍師はただの少女に還る。




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