◆綴る者達◆



心は人のもっとも弱く柔らかきもの。
しかし、人はこころがあるがゆえに優しくなれると言う。



憂いの月は昼下がりでも鮮やかで、その柔らかさは儚げに思える。
それは人の世の移り変わりにもよく似ていてどことなく心に影を差す。
「はじめましてというにはおこがましいかな?」
少年を目の前にして少女は静かに笑みを浮かべた。
「……普賢真人様……」
殷郊は崑崙にとっては反逆者という立場におかれている。
命があれば封印牢に幽閉されて当然の身柄だった。
「聞仲と話をしたいんだ。その前に君のお母様にお会いできればと思って」
「母に?」
弟をかばう様にして兄は少女と向き合う。
「あ、警戒しないで。ボクは君の行動が間違っていたとは思ってないから。
 ボクが同じ立場だったら……そうだね、きっと君のように考えたと思うから……」
指標の中でもこの少女の考えは特殊だった。
最も若年ということもあったのだろうが、柔軟な思考と織り上げられた知識を併せ持つ。
「なぜ母に?」
大師として最後まで自尊心を持っていた男。
その意味を考えれば行き着くただ一人の女性。
「姜妃は今でも紂王の正妃……聞仲に命令を出せる人だからね。この封神台で彼に
 まともに話を持ち込めるのは多分姜妃だけ。殷王家に絶対の忠誠を誓ってるのが
 聞仲という男……」
その忠義ゆえに彼は命を失った。
けれども、忠誠心ゆえに彼は彼として確立した存在だったのだ。
「君は望ちゃん……太公望を恨んでいる?」
少年の人生に終止符を打ったのは彼女の親友。
そして同じように普賢真人の時間をとめたのは彼の忠実な配下になる男だった。
「いいえ……太公望にとって……酷な選択を強いたと思ってます……」
自分は王家の血脈を守って死ぬことができた。
しかし、生き続ける少女にとって彼の血の温かさを忘れる日など一日たりともなかったのだ。
少女もたった一人、姜族の血を護る存在。
彼と彼女の何が違えたのだろうか。
「普賢様は……聞仲を恨んでいますか?」
少年の問いに少女は静かに目を伏せた。
「悲しい人だとは思うよ。でもそれが恨みとは思えないけれどもね」
彼は彼なりの愛を具現化した。
だからこそ、あの仙界大戦が起こったのだから。
「ボクにはこの人がいるから怖くなかった。だから……望ちゃんにとってもこの人のように
 成り得る誰かがいればって思うんだ……たったひとりで振り返ることもしないで進むから……」
名も無き花は楚々として、それでいて凛とした色合い。
渓谷に咲く百合のように。
「母に……会っていただけますか?普賢様が求めている答えになるかはわかりませんが……
 多分、これも僕の仕事なのでしょう。王子としてできる……」
この体に流れる血を、誇りに思うことはあっても。
恨む事など一度もなかった。
己の弱さを悔いることはあっても、嘆くことはなかった。
ただただ、誰かの優しさにおぼれていたあの日の暖かさ。
それは母の胸のそれにどこか似ていて悲しかった。




離れ離れになってはじめて気づいたこと。それは言葉にうまくできないこの気持ち。
西に向かう旅団の中、彼女は静かに俯いた。
「望さま、着きましたぞ」
初老の男の声にはた、と顔を上げる。
(ああ……今のわしは太公望ではなく呂望なのだな……)
あれほど望んだはずの未来なのに、感じてしまうこの違和感。
あのころの自分とはもう……同じではいられないから。
無邪気だった幼年期は終わって、少女は取り残されたままに大人になる。
朽ちることを忘れてしまった花のように。
「そなたが呂望か」
焦がれた男の声にそっと顔を上げた。
目の前にいるのは生涯唯一人と決めた主君であるはずの男。
「西伯候……姫昌さま……」
胸の鼓動と痛みが混ざり合い、苦しくなる。
「遠いところ御苦労であった。今宵はゆっくりと休むがよい」
「……はい……」
薄紅の唇が小さく震えた。
この心も何もかもを捧げると決めたたった一人の男性(ひと)なのに。
本物の彼はもう土に還った。
静かに微笑む彼は昔の香りを纏った優しい残像なのだから。
この心を支配することのできるたった一つだけのもの。
太公望の唯一の弱点。
それがこのやさしく残酷な幻影なのだ。




褥の中で考えるのはこの優しい毎日に溺れる事。
当たり前だったはずの日常は、自分にとっては非日常になっていた。
変わってしまったのは自分自身。変わらないままだと感じていたはずなのに。
(本当のわしは仙道…………)
穏やかな風がそっと頬を撫でては消え行く。
この緑の風ははるか天空の崑崙まで届くのだろうか?
「どうかなされたか?」
「いえ……遥か地の友を思っておりました……」
あの忌まわしき戦で散っていった仲間たち。
自分だけがこうして甘い夢に溺れているという偽物の現実。
「昌さまは、この世界の終わりをどう思われますか?」
この先の未来を知ってしまっている自分と、まだ何も知らないままの彼。
「世界の終わり……随分と難しい事を考えておられるのですね」
大きな手が伸びて、少女の頭を優しく撫で摩る。
「我が西岐は安泰なるものだろうが……果たしてそれだけでよいのだろうかと思います」
それはあの日の彼の言葉。
「妻を娶り、静かにこの地で朽ち果てる……それとも挙兵して大地を駆ける……どちらも
 私には同じに思える……」
見上げてくる瞳に、男は静かに微笑むだけ。
「……て、上げよ……」
「望?」
「挙兵して、殷を討て。あの国は近いうちに荒廃する」
その瞳の色に、男は眉を寄せた。
「なぜ、そのようなことを……そなたはただ、私の傍で暮らせばよい……」
その言葉に少女は小さく首を振った。
「できぬ……我が名は太公望。崑崙山の道士」
風が少女を包み込む。
黒髪を巻き上げて、まるで攫うかのように。
「お姫様は何時までも夢を見れるわけでもありませんからね」
少女の耳に届くもう一人の声。
「……申公豹……」
それは自分にとって始まりのきっかけになった男。
「帰りますよ。あなたがいるべき場所へ」
差し伸べられる手を、取ろうとする小さな手。
「望。このままここで私と過ごしましょう。あなたの思うままに」
優しい闇と、過酷なる現実。
「行きますよ。太公望」
彼が自分を仙号で呼ぶ時は、その行動に意味のあるとき。
「すまぬ……姫昌……っ……」
この人を選ばぬことは、あの日の自分への完全なる決別。
夢からの目覚めを意味しているから。






かつての王妃の威厳は損なわれることなく、今も健在とばかりに女は笑みを浮かべた。
「ここに」
静かに動く唇からこぼれる音色は、上等な硝子細工のような細さ。
「息子が随分とお世話になったようですね」
その言葉に少女は首を横に振る。
「いいえ。ボクたちは当たり前のことをしたまでです。弟子の面倒を見るのは当然のことでしょう?」
幼さは残るものの、少女の齢は百の手前。
王妃と仙道。今はどちらも魂魄となりひとつに光に変わった。
「聞仲を説得してほしいんです」
未だ彼は殷に忠誠を誓ったまま。
かつての主君の妻の言葉ならば、届くはずと少女はここに来たのだ。
「何のためにです?私たちはもう……傍観者に過ぎないのです」
その声に少女は青年の手に自分のそれをそっと重ねた。
震える小さな手を、彼は静かに優しく握った。
彼女が不安にならないように。何も怖がらなくても良いように。
「……彼とボクはまだ動かなければいけません。この先に待つ戦いのために。親友のためにも
 聞仲の力が必要です。どうか……どうか、あなたの力で彼との話し合いの場を設けてほしいのです」
それは彼と彼女にしかできないこと。
もしかしたらそれさえもすべて仕組まれたことだったのかもしれない。
それでも運命を憎むことなどもうなかった。
「歴史はまだ止まらない。変わり続けます。ボクたちはまだ……神にはなれない」
封じられて、神と祭り上げられても。
自分たちは悲しいほどに『人間(ヒト)』を引きずっている。
ただ、誰かに必要とされて愛されたかった。
「俺たちは引くことは許されない。だから、ここで留まることは選ばずに貴女に逢いに来た」
かつて愛した男は、彼と同じようにまっすぐな瞳をしていた。
あの時に自分にもっと強さがあったならば、歴史は変わっていたのかもしれない。
何度も悔いて涙をこぼした幾多の夜。
「私も、あなたのように生きたかった。これは……私が未熟だったゆえに招いてしまったこと……
 今、ここで罪を償いましょう。私にしか、きっとこれは……できないから」
後悔の夜はもう必要ない。
いずれ彼に会えるときに、今度は彼をもっとしっかりと受け入れたいだけ。
お互いにまだ子供だった。
そう思えるだけの時間をここで得たのだから。





自分の涙の感触で目覚めたのは、どれほど久しいことだろうか。
「……あれは……長き夢……」
指先に絡まる涙を振り切って、ゆっくりと体を起こす。
胸に刺さる痛みも、すべては幻の中での出来事のはずなのに。
「ご主人〜〜〜っっ!!やっと起きてくれたっす!!」
抱きついてくる相棒の暖かさに、目覚めたことの意味を知る。
「スープー……」
「このまま死んじゃうかと思ったっす!!ご主人〜〜〜っっ!!」
この風が、大地が教えてくれること。
それは個体であることの小ささと人間のやさしさと悲しさ。
繰り返す歴史への終止符は、始まり終わりであること。
夢は己を写すもう一枚の鏡なのだから。
「さて、行くかスープー。そろそろヨウゼンに愚痴られる」
佇まいを直して、少女は霊獣に向かって片目を閉じた。
「そうっす!!早く行かないとだめっす!!」
緑の風を従えて、少女は遥かな大地を目指す。
掛け替えのない祈りを抱きしめて。




追い風を身につけてどこまでも高く飛ぼう。
始まりの終わりを追いかけて。



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0:52 2006/09/20

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