◆太陽に背を向けて◆







月が窓にかかるのを見上げて、少女は硝子に手をかけて。
その冷たさに自分の体が確かに存在していることを確かめた。
「封神台(ここ)からの景色にも少し慣れたね」
男の手が肩に触れて、細い体をそっと抱き寄せる。
「ボクたち死んじゃってるのにね……あ、魂魄体だから死んでるってわけでもないのかなぁ……」
呼吸が止まるわけでもなく、この体には暖かな血の流れるはっきりとした感覚。
「聞仲、ちゃんと話聞いてくれるかな……お菓子とか作っていったほうがいいのかな……」
あれこれと思案しながらここまで辿り着いた。
神界と人間界、そして――――――――かつてはそこに仙界も存在していた。
「聞仲なんざに食わせる菓子はねぇ。俺が全部食う」
襟足のところで跳ねる銀の髪。あの日、彼女は最後まで男と対峙していた。
退くことなく、まっすぐに。
「そうだね。じゃあ、まずは道徳にお夜食作ろうかな」
君の願いと僕の嘘を合わせて、こうして二人でいることができる。
離れてしまわないためには何だってできた。
そして、その結果こうして二人でいることができたのだから。
「茶なら俺が入れるぞ」
「ありがとう。点心とかで良い?」
窓辺にはいつも花を。穏やかにすごせるようにやさしい香りを。
何よりも、君がここに居てくれるこの事実を幸せと呼べる。
それでも、手を離せばもう逢えなくなってしまうようなこの気持ち。
「道徳、ありがとうね……ずっと守ってくれてて……」
「ん?急にどうした?」
後ろから抱きしめるようにして、男の背に顔を当てて。
「いっぱい、いっぱい、大好き」
「そりゃ、まとめればお前……それは愛してるって言葉でいいんじゃないか?」
悲しみと不安に敏感であればあるほど、小さな優しさを生み出せる。
「……んー……」
額に触れる唇に、瞳を閉じる。
「神様なのに、不思議なことするんだね」
「ああ、そっか……俺らはここに神として祀られてるんだったな……」
何もかもが浄化されて『神』となるのならば、触れたいと思うこの気持ちは何なのだろうか?
指先で彼女を感じて、暖かさを確かめて、何かを分け合いたいと思うこの感情。
果たして、人間(ひと)で逢ったときと何が違うのだろう。
「俺は神にはならない。お前もだろう?普賢」
自分たちが神ならば、固体を示すための名前など必要はない。
それでも、まだ彼に名を呼ばれればこの胸が高鳴る。
「うん。ボクたちは神様なんかじゃない。まだまだやらなきゃいけないことがたくさんある」
重なる唇と、分け合える呼吸。確かに自分たちはここに存在している。
「まだまだ気は抜けないから……いっぱい助けてね」
不安がる君が無理して笑わなくてもいい世界。
それがただ一つの望み。






吹き抜ける風に目覚の気配。
眩めく廃人の王はあちら、と男は眉を潜めた。
「こんにちは、清源妙道真君」
「その名で僕を呼ぶ人はあなたくらいですよ」
兵士たちの指揮を執りながら青年は男を見上げた。
霊獣に乗り、手には最強宝貝を携えながらもいまだ道士に甘んじる男。
「何の用でしょうか?申公豹」
「仙となってもまだあなたには迷いがありますね。その迷いで、私の呂望を傷つけることが
 無ければいいだけの話ですが……さて、どうでしょうか?」
薄い唇に浮かぶ笑み。
それはこの世界の深淵に触れたものだけが浮かべられるものだった。
「あなた方が倒すべきなのは、果たして妲己でしょうか?」
その答えを探すために、少女は遥かな旅に出た。
あれほど憎んだはずの女へ、復讐以外の何かを見出したかのように。
「…………傍観者に何が分かる!!僕と師叔がどれだけ傷付き苦しんだか……ッ!!」
封神傍にその名を置きながら、男は少女と密会を重ねる。
その肌に最初に触れたのは、この男の唇という事実。
「傍観者でいるには強さが必要ですよ。代わりましょうか?私が呂望の隣に立って、
 封神計画の遂行者になっても面白そうですしね」
あるがままに、男は生きてきた。その長い長い人生に降って沸いたこの恋。
彼にとって少女は何よりも愛しく、そして興味深いもの。
「勝負してみますか?」
「……遂行者としての立場をか……?」
「いいえ、一人の女を賭けて」
雷公鞭が静かに青年に向けられる。
「私も男ですからね。女を賭けての決闘があってもおかしくは無い」
頬を撫でるこの風さえ、彼が操っているかのように。
「あなたをここで消し去るのも面白そうだ。そして、私にはそれができる」
ざわつく空気と威圧感。微笑むその唇ですら、狂気を感じさせる。
仙人になることは簡単なこと。
しかし、それを選ばずに男は最強の名を欲しい侭にした。
それも、自ら望んだわけではなく皆がそう呼ぶのだ。
この男の最も秀でているもの、それはその強靭な思想と精神力。
力はそれに付随しただけだと少女が呟いたのを思い出す。
「あなたも確かに強いですよ、ヨウゼン。けれども……彼女には勝てない。この先も
 永遠に。どうしてでしょうね」
男と少女は、どこか似通っていた。
少女の思想の根源たるものと男が称する美学というもの。
「呂望も仙となることを由としません。あなたはそれにどんな答えを出すんでしょうね」
「……師叔の隣に立てるのは僕だけだ。それは誰にも譲らない!!」
突き立てられる三尖刀を指先だけで止める。
「美しくない戦い方だ。らしくない」
どれだけ変化を重ねても、この男の強さの上辺だけしか真似できない歯痒さ。
飄々と生きるその姿の裏に閉じ込められた男の過去。
「呂望が目覚めました。迎えに行かなければ」
霊獣の頭を一撫でして、東のほうへと視線を向ける。
「いずれまた。勝負はそのときにでも」





霊獣の背を抱くようにして、少女は周軍との合流を目指す。
「ご主人、大丈夫っすか?具合悪そうっす」
太極図は持っているだけで力を吸い取ってしまう。
「少し休んでても大丈夫っす!!僕がちゃんと運ぶっすよ!!」
「すまぬ……スープー……」
「ご主人も女の子っす。無理しちゃだめっすよ」
この少女と旅立って、どれほどの時間が流れただろう。
初めて会ったときの驚きが、今は信頼に変わった。
離別を繰り返し、少女は静かに静かに逞しさを増していく。
「ご主人、全部終わったらゆっくり休んでくださいっす。僕と武吉君で見つけた
 温泉があるっすよ。そこで……」
「そうよのう……何もかもが終わったら、休もうかのう……」
彼女が弱音を吐くのは、この霊獣だけ。どの男の腕の中にいてもそれは変わらない。
この細い背中は、後どれだけ悲しみを受け入れるのだろうか?
「ご主人、僕は……ご主人が僕のご主人で本当によかったっす」
仙道にとって、霊獣を持つことは一種の憧れに近い。
それだけ己の力が認められているということに繋がるのだから。
「?」
「はじめはどうして女の子がっておもったっす。でも、今はご主人以外は嫌っす」
崩れ行く船の中、少女が怒りを剥き出しにしたのはその霊獣が砕け散った瞬間。
離れることなく、二人一緒に歩んできた。
はかなげに笑う少女が、悲しみに潰れてしまわぬように。
君が広げたその羽は、軟らか過ぎてまだ飛びたつことはできなくても。
この祈りにも似た気持ちをささげることしかできない。
「僕はどこまでも行けるっす。ご主人が行きたいとこなら、どこだって。ずっと、
 ずーーーっと、一緒っすよ。ご主人」
「……スープー……」
青い空に羊雲が流れる。凛とした空気はまるで頬を刺すかのよう。
「行こう……古き歴史が終わり新しい世界になる……わしらの仕事ももう少しだ……」
革命の始まりと終わりは、自分たちに課せられた役目。
雲間に揺れる思いは、あの人の墓標に置いていこう。
手向けの花とこの心を。
永遠にとらわれたままのこの恋を。





黒髪を結い上げて、女は天を仰ぐ。
「下がれ、狐の配下が」
その姿を護るようにして、青年が立ちはだかった。
貴人は髪をかき上げ、まっすぐに蘭英を見つめる。
風に揺れる黒髪の美しさ。その四肢は太陽の香気を浴び艶を放っている。
前垂れを抑えながら、女は言葉を紡いだ。
「殷国皇后からの命令よ。太公望たちをここで食い止めよ、と」
その言葉に、張奎は振り返らずに唇を開いた。
「誰に命令をしているつもりだ。我が主は聞仲様ただ一人」
その鈴を転がしたような細い声とは裏腹に、煮えたぎる想い。
「士気に関わる。戻るがよい。我ら従うは聞仲様のみ。狐の命は聞かぬ!!」
「どっちにしてもここであなたたちが太公望たちを食い止めれば、命令は遂行されるわ。
 妲己姉さまも喜ばれる」
静かに唇が開き、小さく呟く。
「薬師は死に際、なんと呟いた?我ら主君を同じとするもの……心内は知っておる」
四聖と張奎は懇意な間柄だった。聞仲の忠実な配下である張奎は、四聖からしても
確かな実力者であり金鰲島でもその地位は確固たるものだったからだ。
それは夫である蘭英とて同じ。
霊獣烏煙を駆って、二人は離れることなく聞仲の傍に座していた。
「哀れな……己の道を進むことのできぬ女……」
「……何がわかるのよ!!あんたたちにっっ!!私の何がわかるって言うのよ!!」
「かつて、黄婦人の妹姫が呟かれた……我は程の良い人質と……それと何が違えるのだろうな、
 王貴人よ……そなたと彼女と……」
妲己の策より、賈氏と黄氏はその命を失った。
落胆する黄飛虎の姿に、胸が痛んだのは彼女もまた同じだった。
まだ、聞仲が存命だったころに賈氏は妹を思い出すと何度か張奎を邸宅へと招き入れていた。
それは女しか入ることの許されない後宮の事を聞きたいのもあっただろうが、何よりも
どこかゆるりとした空気を持つこの女を好ましく思っていたからだった。
「私が仇討つは聞仲様だけにあらず。散った仲間と友の分もだ」
一度も振り返らないのは彼女の気持ちの表れ。
もう、迷うことなどないのだから。
「去れ。お前に用は無い」
その瞳に惑う色など欠片も無く、静かに青年はその傍らに位置した。
繰り返される悲しみはこの先彼女をどんな風に彩るのだろう。
「張奎」
「大丈夫……私は負けない。あなたがいてくれるから……平気……」
以前よりもずっと笑う回数が少なくなった。
金鰲にいたころには、あんなに目まぐるしく表情を変えていたのに。
「聞仲様の無念は私が晴らす」
二人の女の戦いはもうそこまで迫っている。
片や崑崙を失い、仲間をなくした者。
そして、主君と故郷をなくした者。
どちらが悲しいと決められるだろうか?同じ運命にのろわれた二人を。




(寄り道をしてみますか……たまには……)
王都朝歌、座敷牢の奥深くで苦しげに呻く男の姿。
その声からはかつての賢君の姿など誰が想像できようか。
「これは……随分と面白いことになりそうですね。黒点虎」
「紂王?なんか、おかしくなってない?」
霊獣の頭を一撫でして、青年はにこり、と笑った。
「最終決戦の相手ですよ。少しくらい狂ってもらわなければ怪しまれますからね」
その言葉に黒点虎はわずかに首を捻った。
「歴史の道標?」
「そうです。面白いでしょう?私も動く甲斐があるというものです……まぁ、従う
 振りも大事なのですよ。物事を面白くするためには」
この歴史の始まりの終わりと、始点を結ぶために。
犠牲はあまりにも大きかったのかもしれない。
「武王が即位したように、今は新しい風が必要です。私もいつまで求められることやら……」
「だからヨウゼンに喧嘩売ったの?」
「あれは単なる暇つぶしです。でも……彼女を賭けてならば一人の男として戦いますよ」
眠り姫は夢から覚めて、今度は戦いの女神となる。
「申公豹はどうしてそんなに太公望に興味があるのさ」
それは彼と悠久の時を過ごした霊獣ですらわからない感情。
「興味ではなく……恋ですよ。いつの世も、何千年前からも男と女は恋に落ちてきたんです。
 ああ、もしかしたら……それは最初の人もそうだったのかもしれませんね……」
意味深に笑う唇。
「最初の人って、人は最初から人だよ?」
「この世界の始まりの人です。今度話しますよ、黒点虎」
立ち止まれば撫でていくこの風にさえ、女の息吹が混ざっているよう。
それを忘れさせてくれるのは少女の囁きだった。
「なんだか難しいんだね」
「この馬鹿げた戦争が終われば全て分かりますよ。何もかもがね」




指先を削って何を記そう。
誰の名前を刻み込もう。
欠けた爪、流れる体液。
ああ、まだ自分は生かされいる――――――――――。






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21:51 2007/02/17





               

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