◆錆びた爪◆
「随分と……こんなところで寝ているとは……」
羊の上で眠る少女に男は半分呆れ顔でため息をついた。
「兄様」
「邑姜。久しぶりですね。元気そうで何より」
少女の頬に触れる指先。
「こんなところで眠ってたら身体に障ります。あなたが付いていながらこんなことに
なるのも……ああ、呂望ならば仕方の無いことかもしれませんね」
眠る少女と似通った姿。疑問を抱かないわけではない。
誰にもでも分かる様な失態は演じないのがこの男。
「老子と対話中ですか……ならば、しばらくは起こせませんし、起きませんね」
太上老君の最初で最後の弟子が申公豹。
ふらりと現れては取り留めの無い会話を好む。
「四不象もいるのでしょう?邑姜」
「ええ。スープーちゃんは小屋のほうへ非難させてます。ここは滅多に雨も降りませんし
太公望さんならこのままでも大丈夫かと……」
「……傘も無く、ですか?」
その言葉に、彼女が彼にとって無関心でないことを知る。
申公豹が他人に興味を示すことなど今までありはしなかった。
「黒点虎、傘を取りに行きますよ」
「どこまで?」
「朝歌です。ちょうど妲己にも話がありますからね」
誰にも味方することの無いはずの男が、この少女だけは守りぬくと言う。
「兄様にとって、太公望さんは恋人なのですか?」
霊獣の背に乗り込んで、男は声の主に視線を向けた。
「愛しい人ですよ。いずれあなたにもわかります」
ぼろぼろの身体を引きずって、青年はどうにか足を進める。
流れ落ちる血液がぼとりぼとりと命を削るのが自分でもよくわかった。
(何なんだ……あの紂王は……っ……)
「高友乾!!」
その声に顔を上げる。
「……貴人……」
「馬鹿!!あれほど逃げろと言ったのに!!」
仲間を捨てて自分だけ逃げればこのようなことにはならなかっただろう。
しかし、それは主君である聞仲の意思にも反すること。
聞仲無き今、その意思を継げるのは自分たちだけ。
「……俺……もう、駄目っぽい……」
「医者が何言ってるのよ!!今から姉さまに言って……」
「……もう、いいよ……貴人……」
何も言わなくてもいい、何も知らなくてもいい。
彼女にとって絶対なる存在である妲己に、何を言っても無駄なことくらいはわかるのだから。
「君が……無事ならそれで……」
妲己に余計なことさえ言わなければ義姉妹である彼女に危害は無い。
最後を彼女の腕の中で迎えられること、それだけで十分なのだ。
「!!」
腕の中で砕け散る光と、飛び行く魂魄。
これが自分たちの最後なのだと。
「そうね……姉さまに逆らわなかったらきっとずっと幸せで居られたのかもしれない……」
けれども、君を知ってしまったその日から。
この心に生まれた小さな暖かさを手放せなくなった。
だからこそ、彼一人だけでも逃がしたかった。
「馬鹿ね……あんたもあたしも……」
涙はきっとこれが最後。
もう戻れない道を歩き出してしまったのだから。
痛む頭を抱えながらも、なんとか政務を執ろうと男は筆を取る。
「あら?紂王様」
ぱたた…駆け寄る女は心配げな表情を瞬時に作り上げる。
羽衣をひらり、はためかせてその芳香を漂わせながら。
「お顔の色が優れませんわ。お休みになられたほうが……」
「いや……余が動かねば国がつぶれてしまう。それに……お前やお前の妹たちを
守らねばな……心配はいらぬよ、妲己」
荒い息を整えて、王は書簡を開く。
王妃の手で改造された身体は否応無しに拒絶反応を繰り返して。
生まれ来る激痛を封じて彼は王としての責務を果たそうとするのだ。
「誰か宰相を遣わしますわ。わらわもお手伝いを……」
「妲己、お前は民の信頼が厚い……民に不安を与えぬように笑っていてくれ……」
疲れた顔をどうにかとりつくろって、彼は笑おうとする。
時間を重ねて少しずつ彼という人間を知ってきた。
王としての器に偽りは無く、おそらく自分が何もしなかったらば賢君とし名を残しただろう。
「紂王様……」
「妲己、余はお前がいてくれれば大丈夫だ……なに、すぐにこんな風邪など治る」
天子は血の気の失せた顔で、彼女に余計な気負いはいらないと笑うだけ。
「紂王のパパーーーっっ!!具合は大丈夫っ!?」
「ははは……喜媚は相変わらず元気がいいな。うらやましい限りだ」
「妲己姉さまっ、お客さん来てるよっ!!」
喜媚の声にはっと顔を上げる。
ここで立ち止まるわけには行かないのだ。
「紂王様、無理はならさなぬように。わらわは向こうへ行ってますわ」
男の傍で少女は面白そうに書簡を覗き込む。
誰かが居ればそれだけでも寂しさは消えると、彼は少女を追い払うことはしない。
(誰かしら……申公豹?)
欄干に凭れる姿を見て、小さく唇を噛む。
「あらぁん……ここに来るなんて珍しいわねぇん」
じゃらじゃらと煩い鎖と、銀細工。伸びた爪と青白い肌。
「まぁな。ちょっくら封神台に行って来ようと思ってよ」
「気をつけていくのよぉん……あそこには太公望ちゃんの大親友がいるから」
「知ってるぜ。可愛い顔の癖に切れもんの子だろ?」
あの大戦でもっとも消えてほしいと願った少女。
聞仲との一戦で生き残ったならば真っ先に始末しようと考えていた。
もう一人の太公望。位置付けとしてはそんなところだろう。
「あらぁん。女の子がそんな乱暴な言葉使っちゃ駄目駄目ぇん」
虫唾が走るのを飲み込んで、けらけらと王天君は笑う。
覗く歯の白さは骨のそれを思い起こさせた。
「んじゃ、ちょっと行って来るぜ。ま、あんたも他の仙道に気をつけるこったな」
「?」
「さっき、でけぇ猫に乗った道士を見たからよ。こっちに向かってるみたいだったぜ」
王天君と申公豹。どちらも完全なる味方とは言えない存在。
(味方はいらないわ。喜媚と貴人が居ればそれでいいのよ……)
ひらり、ひらり。口元を扇で隠す。
「いってらっしゃい。飲み込まれないようにねぇん」
世界はその腕を広げていつもそこにいる。
抱かれてしまえば抜け出すことは不可能なのだから。
今が盛りと咲き乱れる薔薇園。
噎せ返るような花の香りに男は眉を寄せた。
「すごーい……こんな立派な薔薇、見たこと無いよ」
「あら、お客様。何か御用で?」
ほっそりとした少女が静かに頭を下げる。
しかし、ここに居るということは彼女もまた仙道なのだ。
「あの、趙公明に逢いたいんだけれども……ボクは崑崙の普賢真人といいます」
「まぁ、崑崙のお方。お待ちくださいね、公明さまはあちらにいますわ」
二人を導きながら少女は静かに花の説明をする。
戦ばかりにかまけていた男は、封神台に来てようやく穏やか日々を手に入れた。
この薔薇たちは全て彼が手塩にかけて育てたもの。
そして共にここで過ごせることが嬉しいと、笑う唇。
「公明さま、お客様ですわ」
「余化、どこに行ってたんだい?心配したよ」
「人の気配がいたしましたので、お迎えに行ってました」
男の傍らに立って、今度は茶器を準備する姿。
「はじめまして。ボクは普賢真人といいます。こっちは道徳真君、共に崑崙の道士です」
手土産と渡したのは手製の胡麻団子。
「知ってるよ、太公望君の大親友とその恋人。で、僕に何の用かな?」
庭先に出された卓も椅子も西洋造りの美しさ。
戸惑いながら腰を下ろして、話を切り出す。
「聞仲はボクたちと戦ってる間、ずっと航路を西に取ってたの。でも、二つの仙界を落として
双方の消滅を図るのだったらそんなことをする必要は無い。そうでしょう?」
余化に出された紅茶を口にしながら男は意味深に笑う。
「そうだね。確かに一箇所に止まったほうが何かと都合はいい」
「でも、そうしなかったのはどうして?」
指を組んで、その上にちょこんと乗せられる顎先。
それは彼女が相手に何かを問うときの癖の一つ。
「それ以外の目的があったからだろうね」
「じゃあ、その目的って?あなたならしってるでしょう?」
金鰲列島で、もっとも危険視された仙道の一人。それがこの普賢真人。
司令官を太公望とするならば副官にあたるのは間違いなく彼女だった。
「君に隠し事は出来ないみたいだね」
「できれば、全部話してもらえれば嬉しいな」
二人の会話を他所に、道徳と余化はそれぞれ剣を構える。
「余化、そんなに物騒な話じゃないよ」
「道徳も、こんなところで宝貝振り回さないで」
男女の違いはあれどもこの二人は剣士。気配に対しては誰よりも敏感だ。
ほんの僅かの敵意でも見抜けるように。
「普賢、下がってろ。前にもあったことのある子供が来るぞ」
「公明様、あの忌まわしい十天君の一人ですわ」
莫邪の宝剣と化血神刀を手にして二人は大地を蹴り上げる。
「私が前に出ます。十天君の中でもあれは性質が悪うございます」
球体の仕込刀は不規則な動きでその影を切りつけた。
間髪居れずに右腕に突き刺さる鑚心釘。
「……っへ、ばれてんじゃねぇか」
流れる赤黒い血をそのままに、王天君は二人を見据えた。
「カップル同士で優雅にティータイムかぁ?たいそうな御身分だ」
その声に静かに少女が立ち上がる。
「ここは封神台。魂を封じるところ……生きてる人はきちゃいけないよ」
銀色の髪をかき上げて、呼吸を整える。
「ここに来たってことは、死んでもいいって受け取るよ。王天君」
趙公明の金蛟剪は雲霄の手に在る。
この場で遠近の攻撃に出るならば自分が適任だと普賢は符印を構えた。
「お前とは一度きちんとやってみたかったらな、王天君」
「前々からいけ好かないと思ってました。化血神刀の錆びにしてあげます!!」
剣士二人の攻撃に、背後には普賢真人が陣を敷く。
宝貝は無くとも金鰲三強の趙公明も控えている。
「ノンノン、無粋な理由は要らないよ。戦いたいから戦うでいいじゃないか」
指先が王天君を指して。
「余化」
男の声に少女は半妖体に変わり行く。
「金蛟剪は無くても、僕には余化がいる。さて、どうしようか王天君」
優美な笑みは戦うことを好んできた男の印。
手にした長剣を一振りすれば舞い散る光の粉たち。
「けけけ……死人たちには何も出来やしねぇのに」
「どうかな?」
瞬時に背後に回る少女と喉元に突きつけられる宝剣。
「ここにこのまま停留させてやってもいいんだぜ?」
「ボクと道徳から同時攻撃を受ければ、いくら君でも無事ではいられないよ」
十二仙の名は飾りなどではない。
「君はここが内側からは壊せないと思ってるようだね。背後に妲己がいるにしては
ずいぶんと何も知らないようだ」
優雅に剣を構え、趙公明も攻撃の意を示す。
「なんだと?」
「すくなくとも僕は君よりも真実を知ってるってことさ、それに、ここは内側からも
破ろうとすれば破れる。僕や聞仲君、それに彼女たちもいるんだからね。破れないと
思うほうが愚かしいと思わないかい?」
魂魄だけでは何も出来ない。しかるべき形になるまでの間と仮定して、彼はかれなりに
この封神台の内部を探っていた。
趙公明としても封神台の管理者の一人である普賢真人とは連絡を取りたいと思っていたのだから。
「……っち……食えねぇ連中だぜ……ッ……」
数枚の鏡のような画面が王天君を囲む。
「じゃあな。また来てやるよ」
消え去る光と残り香の甘さ。
「さ、お茶の続きにしようか。余化、準備をしておくれ」
「はい」
新しく入れ直された紅茶と、穏やかな空気。
先ほどまでの殺戒は欠片もなくなっている。
(……たしかに、この人の強さは本物……そして、ボクの知りたいことを持ってる……)
かすかに震える指先に、重なる恋人のそれ。
「封神台のもっとも核になる部分はわかるのか?」
自分の代わりに言葉を紡ぐ彼。
「もちろん。黙って大人しくしてるのは退屈だからね」
「なら話は早いな、普賢」
覗き込んでくる瞳に頷く。
「妲己とあなたがいう何かの関係を教えて。それから聞仲のところへ行こう」
眠り続ける少女と流れ行く時間。
穏やかで残酷なこの土地は彼女の血を受け止める聖域。
夢の終わりは戦いの始まり。
おやすみなさい、良い夢を―――――――――。
BACK
10:37 2006/01/25