◆雲間に揺れて風立ち去りぬ◆




浮かぶ雲を飛び越えながら目指すのは彼方にあるという理想郷。
霊獣の頭を一撫でして少女は辺りを見回した。
「太上老君さんはどこにいるっすかねー」
「まぁ……手当たり次第に探してみるしかないな。なんとも掴めぬ人物らしいしのう」
この空を越えていけばいつかは逢えるだろうと少女は笑うばかり。
雲間を抜けて風を受け、前髪がふわりと流れる。
「呂望、お待ちなさい」
「……申公豹……久しいな。すまぬがおぬしに構っている時間は……」
「太上老君を探すつもりでしょう?私はその人をよく知っていますよ」
男の手が伸びて、少女のそれに重なった。
「ただ、逢うことは勧めません。あの人は世間との関係を完全に断ち切った……
 全てを超越している存在なのです」
彼の言葉が真実ならば、太上老君は誰の味方にもなりうることはない。
しかしその力を是が非でもこちらに引きたいからこそ、彼女は旅立ったのだ。
「わしはどうしても太上老君を手に入れたいのだ」
「妬けますね……貴女の口からそんな言葉が出るなんて……」
彼もまた同じように、どこにも属さない男。
この男をこちらに付けることが出来ればと二人の女は画策する。
「わしを助けてはくれぬのか?」
「…………助けてほしいのですか?」
その言葉に小さく頷く。濡れた瞳で見上げられれば心が動かぬわけがない。
縋るような視線を絡ませて、祈るように組まれる指先。
少女はその瞳で国を動かす。
その唇で男を支配する。
触れたときから解けない魔法はまだ続いているから。
「わかりました。なら……一緒に来てください」
「スープーは?」
「一緒で構いませんよ。黒点虎にも話し相手が必要ですからね」
男の後ろ追いかけながら、ぼんやりと振り返る。
この流れる雲と同じように一日たちとも同じ日などありはしない。
一秒後に自分が生きている保障すらないこの世界。
「ご主人?」
「スープー……おぬしにも苦労を掛けたのう……不甲斐ない主ですまぬ……」
彼女が心をこぼせるのは、寄り添うこの霊獣。
小さな小さな呟きを数え切れないほど聞いてきた。
「何言ってるっす……僕はご主人と一緒に居られるのが凄く嬉しいっすよ」
小さな肩と細い腕に絡む運命と、歴史の重み。
「これからも、ずっと、ずーっと一緒っすよ。ご主人」
「スープー……」
この世界を貴女と二人で飛びまわれることがこんなにも楽しいから。
苦痛に思えることなど何一つない。
貴女がこぼす小さな思いも、涙も、全てを。
「全部終わったら僕の家にも遊びに来て欲しいっす。パパとママを紹介するっすよ」
これからもずっと一緒だと信じているから。
貴女を乗せてどこまでも行こう。
それが例え地の底だって、あなたとならばそれさえ幸せ。
二人ならばどこだって素敵だから。




霊獣二人は中庭でのんびりと月の香気を浴びながら瞳を閉じる。
出された月桃茶に口を付けて太公望はため息をついた。
「茶など飲んでる余裕もないのだが……」
「何も知らない中で太上老君……老子を探そうとした人の言葉とは思えませんね。
 一日やそこら遅れても世界は変わりませんよ」
それもそうだと二杯目を要求して、首をこきりと回す。
無駄なもののない室内に点在する少女の所有物。
「太上老君とおぬしはどんな関係じゃ?」
「知りたいですか?」
普段ならば首を横に振るが、ここでそれは得策ではない。
彼が自分に良いように動くための答えはもっと違うものなのだから。
「知りたいのう。わしはおぬしのことは何も知らぬからな……太上老君が男なのか女なのか
 さえもわからぬ……」
唇に指先を当てて、意味深に瞼を伏せる。
罠には進んではまるのが好きなこの男ならば掛からないわけがない。
「私の師ですよ。顔を見れば貴女も老子が何者なのかが分かるでしょう」
「誰かに似ておるのか?」
「そこまでは教えられません。面白みが薄れてしまいますからね」
軽く頬を膨らませれば、唇が綻ぶ。
「伸びましたね、髪」
「……切ってくれる親友(とも)は逝ってしまったからな……」
その一部始終を彼は見つめてきた。歴史の流れを、人の心を。
彼女が流した涙も、声を殺した慟哭も。
「私が切りましょうか?」
肩の下で揺れる黒髪に、男の指が触れた。
「切れるのか?」
「ええ。真似事ですけどね……貴女の周辺をうろつく男たちよりは上手ですよ」
日当たりの良い窓辺に椅子を出して、そこに太公望を座らせる。
布を首の後ろで結んで、黒髪に櫛を通した。
ぱちん…刃が閉じる音と共に落ちてゆく髪の端。
ただ静かに少女はそれを見つめていた。
「こうして、よく普賢に切ってもらった……わしの髪は伸びるのが早いらしくて……」
ぽつり、ぽつり。語られる昔話。
降り積もる雪のように音もなくそれは心に沈む。
「なぜ、おぬしはわしに構うのだ?おぬしだけじゃ、わしを抱かずに褥を共にするのは」
「貴女が気になるからです。貴女は初めて私に傷を負わせた……五千年以上生きてきましたが
 初めて自分の血を他人によって見せられました」
散らばっていく黒髪が描く歴史の足跡。
終わらぬ旅路、振り返る余裕も立ち止まる暇もない。
「言ったでしょう?私は貴女を好敵(ライバル)に決定する、と……貴女は私を殺せる唯一の女性(ひと)
 ですから」
知らなくても良い筈の未来を見つめて、茨の道を裸足で歩くなら。
その手を取って共に歩きたい。
手を取ることが許されないならば、せめて君と同じようにその痛みを感じただけ。
「初めて貴女と出会ったときも、こんな感じでしたね」
鏡に写る自分の顔に、少女の唇が小さく微笑む。
あの時と同じ気持ちではないけれども、旅立ちの日の空は悲しいほどに澄んでいた。
手を振ってくれる人は皆、空の彼方に行ってしまった。
清々しさと寂しさと、小さな思い出を抱いて行こう。
「優しいだけの腕は、たくさんあるでしょう?」
ただ暖かいだけの男では彼女には必要がない。
忘れられない傷跡でも平気で残せるだけの残酷さが、時に優しさよりも大事になるように。
「私が貴女を選んだように、私も貴女に選ばれる自信はありますよ。呂望」
神様など、この世界には居ない。
生きていくために必要なのは自分自身と小さな武器だけ。
「ほら、綺麗になった。あの日と同じ」
頭布で髪を纏めて襟元を直す。
「ここから南南西にまっすぐに進めば、老子の住む隠里にたどり着きますよ」
少女の頬を包んで、申公豹はその瞳をじっと見つめた。
「ふむ……あの人に逢わせたくなくなってきましたね。貴女が無事でいる保証がない」
「馬鹿なことを……」
もう一口だけ甘い月桃茶を飲んだら、ここを出て行こう。
朝の空気は追い風となって背中を押してくれるはずだから。





雲の峰、いくつも重ねては崩し行き。
昇る太陽を引き連れて目指す西の果て。
「これで太上老君さんを探せるっすね」
「早く見つかるのに越したことはないがのう。ヨウゼンが殷のメンチ城まで侵攻するのに
 およそ半年だから……時間はあるようでないのう。それに、守将の張奎は聞仲の腹心中の
 腹心……やつとの対決までには戻ってこねばならぬ」
幾つもの村を飛び越えて、数え切れない雲を追い抜いて。
「ご主人!!おっきな雲っすよ!!」
「露骨にあやしいが……申公豹のやつはこれを言っていたのか?」
目を瞬かせて前を見据える。
「まぁよい。行くぞ、スープー!!」
「了解(ラジャー)っす!!」
勢い良く頭から突っ込んで積乱雲を駆け抜ける。
「!!」
目の前に広がる悠然たる大地。
清流たる滝と豊穣なる緑。独自の生態系に太公望はあたりをみまわした。
「ここのどこかに太上老君がおるのか……」
隠里の名のとおり、今までこの地に足を踏み入れたもの数は知れているだろう。
「あれ?珍しい……お客様だ」
少女の声に二人が振り返る。
「!?」
「ようこそ桃源郷へ。私はお客様案内係の呂望と申します」
風に流れる優美な黒髪。街着に身を包んだ少女。
「ご……ご主人がもう一人いるっす!!」
「んなわけあるか。わしはここじゃ」
しかし、目の前の少女は自分と瓜二つ。しかも『呂望』と名乗ったのだ。
(これは……わしだ……しかし、なぜに?)
幸せだったあの頃を思い出させる佇まい。
桃源郷の入り口はそんなところなのだ。
「おぬしが……太上老君本人か?」
眉一つ動かさず、少女は唇だけで笑った。
「何のこと?私はただの水先案内人よ。付いてきて、ここでも唯一の村まで案内してあげる」
青草を踏みながら、霞の中を三人は進んでいく。
「村までは一本道なんだけれども、いつもこんな風に雲が掛かってて迷いやすいの。
 逸れないように気をつけてね。私を見失ったら村にはたどり着けないから」
細い背中を追いながら、一歩一歩前に進む。
「凄い雲……」
「天国みたいなところっすねぇ」
頬に感じる空気の冷たさ。それがここが天空だということを伝えてくる。
「!!」
霞の中に浮かぶ懐かしい影。
目を凝らせば、それは在りし日の親友の姿へと変わっていく。
「普賢!!」
こちらを見つめて、小さく笑う唇。
ぼんやりとその傍らには恋人の姿。
「ご主人、何やってるっすか?望ちゃんがいってしまうっすよ」
もう一度振り返る。そこにその姿はもうなかった。
「おらぬ…………」
見失わないようにと、急いで二人を追いかける。
「……そんな……」
岩場の上には初恋を覚えた男の姿。
あの日のままの笑みで自分を呼ぶ。
「スープー!!あそこまで飛んでくれ!!姫昌が……っ」
「ご主人、姫昌さんは亡くなったっす……働きすぎて疲れてるっすね」
そう、確かにあの日に彼を看取ったはずなのに。
ゆっくり、ゆっくり。少女の背中を追っていく。
(そうか……そういうことか……スープーには見えておらんのだな……)
過ぎ去ったたくさんの優しい日々。
「武成王……聞仲……」
「おう、太公望殿じゃねぇか!!」
「太公望!!」
戦いあった相手が、共に進んだ仲間がそこにいる。
「楽しそうだのう……」
これは彼らの暖かな過去。盟友だったころの何物にも代えられないもの。
「そうか?オメーも混じるか?」
「いや……あやつらに置いていかれるからのう……」
幸せだった過去は強くひきつける力がある。思い出はいつの日も綺麗過ぎるから。
此処に留まって何もかもを忘れて余生を過ごしてしまいたい。
けれども……夢はいつか覚めるもの。
『人』が『夢』を見ればそれは『儚く』消えてしまう。
優しい日々は時折振り返るからこそ、綺麗なままで居られるのだ。
「……父上……母上……」
何も知らずに守られるだけだったあの頃。
あの時はこんな未来が待ち受けているなど夢にも思わなかった。
家族と一族と羊を追いかけながら大地にいずれは還ると信じていたあの頃。
「娘よ……」
「辛かったら帰ってきてもいいのよ?」
この手を伸ばして、触れたいと思う。
けれどもそうしてしまえば過去から永遠に抜けでることは出来ない。
「父上……母上……共に歩くスープーが先に待っておるのです。望はまだ……
 立ち止まるわけには行きませぬ……」
あなたたちの娘として、生まれてきたことを誇りに思う。
この身体には確かに羌族の血が流れているのだから。
「そうか……立派になったな……望……」
霞み行く二人の影。
追いかけてしまいたい心を飲み込む。
「望……無理はしなくていいのよ。悲しかったら泣きなさい……」
「……母上……」
ありのままで愛されたあの日々。
「お前は俺に似て譲らぬからな……望、お前が正しいと思った道を進め。誰でも無く
 お前自身で決めるんだ。今のお前ならそれができる」
「……父上……」
まだ見えるこの目と、歩ける足があるから。
あなたたち二人の思いを抱いて前に進もう。
「何時の日か……望がお傍に行くことが出来ましたら……っ……そのときは……」
毀れそうな涙は上を向いて誤魔化した。
出来るだけの笑顔を作って前を向きなおす。
「抱きしめてくださいますか?望を……」
小さく頷いて、消えていく影。
過去との決別と共存。仮面と心。
雲間に揺れるこの思いを風に乗せてどこへ運ぼうか。
一歩一歩確かめながら少女は前へと進んでいく。
「さて、私の役目はここまで。あとは一本道だから迷うことは無いよ。まずはそこを訪ねて
 みて。さよなら」
「待て!!おぬしは一体……!?」
手を伸ばしかけて、愕然とする。
自分たちが来たのは細い一本道。もしも影のほうに近づいていれば地上へ向けて真逆さま。
「ご主人……寄り道してたら落っこちてたっす……」
「……先に行こう、スープー」




優しい日々はこの胸の中。
雲間に揺れて風立ち去りぬ。





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23:17 2005/10/24



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