◆光に思いて◆




「まだお腹が重いってことはないんだけども、違和感はあるね」
なだらかなままの腹部に男の手を導いて、少女は静かに瞳を閉じた。
指先を重ねて、窓枠の外の偽者の空を見つめた。
「変なの。偽物の空間なのに雨も降る……」
「その雨の冷たさを感じることもできる。おかしな空間だな」
身体が実在しないだけで、今までと何も変わることのない感覚。
「聞仲に会いに行くのか?この雨でも」
「んー……お腹の子に響きそうだから今日はやめておく」
足元に転がる糸玉を拾って、手のひらでなでる。
こんな日には彼を暖めるやさしい上着を一枚作りたい。
「男の子かな、女の子かな……」
長椅子に座ってそっと身体を寄せて。
見えない明日に震える指先で彼の上着をつかんだ。
「どっちでもいいさ。母子ともに健康だったらそれで問題なし」
少女の瞳が静かに微笑む。
きっと、今の自分にはこの人の以上の相手はいない。
彼は最後まで自分のために生きてくれた。
いつもどんなときもそばにいてくれて笑っていてくれる。
これ以上、何を望めばいいのかわからない。
「……誰かな?待ち人来る?」
立ち上がろうとする普賢を制して、男が扉の前に立つ。
「誰だ?」
「お初にお目にかかる。金鰲十天君が一人、姚天君」
羽衣を手にゆるり、と浮かぶ仙女の姿。
傍らの男の影に道徳真君は目を見張った。
「妻がどうしてもそちらの細君に逢いたいと」
「…………中へ」
雨にぬれないようにと、女をかばうように男は防護壁を張ってきたらしい。
消え去る重力場に彼の仙気の強さを知った。
「道徳?どうしたの?」
「お客さんだ。お前が待ってた人物かもな」





草原で風を受けながら、ごろりと寝転ぶ。
「長老とやらからは何も得ることはできんかったのう……かといってこのままでは
 埒があかぬ」
走り回って休むことはなかった。
ここは仮初の桃源郷。現と幻が交差する場所。
(おかしい……何もかもが懐かしい気がする……)
それは生まれる前のずっと奥深くの記憶が疼くように。
傷口をこじ開けながら入り込んでくる女神の爪。
問いただす相手はいない。理解しあえたはずの友も遠くへ行ってしまった。
始まりと同じ自分が『独り』であることを知る。
(ああ……わしはまた一人に戻ったのだな……)
こぼれる涙を片手で隠して、少女は自分の気持ちを静かに殺した。
ここで思い出に沈んでしまうことは甘くて優しい。
けれども、そうしてしまえば今までの自分を失ってしまう。
幸せは誰かの涙の上になりたつもの。
(もう少し……もう少しなのに……)
手を伸ばしても、その手を取ってくれる誰かがいない。
一人になった孤独と押しつぶされそうな運命の重みをいまさらながらに知ってしまう。
閉じた瞳ともてあます心と身体。
消え行く意識にすら気付かぬほど、彼女は何かを失っていた。





飛び込んできたのは心配気に自分を覗き込む霊獣と仮面をつけた少女。
「ここは……」
「ご主人が気付いたっす!!邑姜ちゃん!!」
額に感じる優しい冷たさ。
「発熱してうなされていると、この子が私のところにきました」
その声に、少女は目を見張った。
「もう一度、おぬしの名を……」
「邑姜、と申します。ここの裁判長です」
静かに開かれる記憶の扉。在りし日の懐かしい思い出たち。
きらら…輝く幻。
「そうか……よい名じゃのう……」
「?」
「おぬし、もしや羌族の出ではないのか?」
静かに交差し重なり合う運命。二人の少女の道が重なる瞬間。
「……詳しいことは黙秘します。ここは桃源郷、あらする仮想が交差する場所です」
「そうか……」
痩せた背中と細い首筋。
傷だらけの身体は話に聞いていた道士太公望とはかけ離れたものだった。
「でも、どうして?」
「わしは羌族の出でのう……死んだわしの妹の名が邑姜というのじゃよ。わしが守れなかった
 わしの宝物じゃ……生きていたらきっとおぬしのように聡明な女になったであろうな」
目の前にいる少女は、自分と年端も変わらないように見えるのに。
自分よりもずっと生産な現実を見つめ続け、なおも休むことは許されない。
懐かしむように、それでも思い出におぼれることはない。
これが太公望という名の女。
「そう……悪いことを聞いてしまいましたね」
「かまわぬよ。大事なものは手に持てる分しか守れぬからな」
それでも守りきれなかったが、と唇が小さくつぶやく。
「ここで少しすごしませんか?機を織る人が不足していて……あなたなら大丈夫だと
 思うのですが……」
「娘時分にしかしてないが……上手にできるかのう……」
織り上げるのは心の彩。あの日の優しい陽だまりと風景。
親友が教えてくれた糸の掛け方と目の読み方。
「わしは太公望、しばらくやっかいになるかのう」
「ようこそ桃源郷へ、太公望さん」
静かに重なる指先のあたたかさ。
「あなたにとってもっとも知りたい人を私はしってます」
「?」
「太上老君、私の義父(ちち)です」
静かに仮面がはずされる。
同じ瞳の色の少女。そして――――自分の血を分けたものの色を残す顔立ち。
柔らかな黒髪と、あどけなさを残した唇。
この身体に流れる血が少女と自分を近づける。
早まる鼓動とこれから始まる終わりの始まり。
小休止を与える場所、それがこの桃源郷なのだから。




向かい合わせで重なる視線、その姿に普賢は眉を顰めた。
「私は姚天君、ぬしらと対峙したもの」
金鰲の幹部の一人、姚天君。王天君をはずせば彼女が実質十天君を纏め上げていたのだろう。
推測はどこまでも簡単。その姿と傍らの男に目を凝らす。
「僕たちの息子がずいぶんと世話になったみたいだね」
「そうだね」
話が飲み込めないと道徳真君が少女に目を向ける。
「どういうことだ?」
「この人が誰に似てるか、考えたらわかるでしょう?」
灰白の巻き毛と、柘榴石の瞳。
それは自分たちの同胞と同じ姿。
「……道行……」
その傍らにたたずむのは端正な顔立ちの青年。思念として一番強い姿に戻ったのか
自分とそうも変わらないようにさえ思えてしまう。
その瞳の色は、ある男を思い出させるには十分だった。
「ヨウゼン……ってとこか?」
「うん。ヨウゼンのお父様とお母様だと思う」
真実を知るための準備された空間。それがこの封神台。
「ボクに何を?」
姚天君は扇で口元を隠して、瞳だけで笑った。
「手を組まぬか?この忌まわしい世界を作ったものを壊すために」
「元始様を殺すってこと?」
恋人の口から出る言葉に、青年はたじろぐ。
彼女がそんな物騒な言葉を口にすることは滅多にないからだ。
「いや、違う」
静かに姚天君は首を振る。
「楊延、あとは僕が話すよ。たくさん喋ると疲れるだろう?」
「平気。あなたが動けない間に、私も言葉をたくさん覚えたから」
幽閉されたもう一人の始祖は、そっと女の手をとった。
「この世界を作った女、それを殺したい」
石榴は鬼が食らうもの。
胎の中の子供のために肉を食わずに、血の味がするそれを齧る。
滴る果汁で喉を潤し、その白い肌を真っ赤に染め上げて。
「私たちが戦っている間、聞仲はずっと操舵室から出てこなかった」
お互いの幹部同士、いたずらに時間を過ごしていたわけではない。
聞仲が自分たちの争いを利用して航路を西にとっていたことを姚天君は知っていた。
かつて夫がつぶやいた始まりの神々の話。
その残骸が西の果てに眠ると聞いていたのだ。
「けれども、出れなかったわけじゃない。出ないことを選択肢として選んだだけ」
「どうして?」
疑問は何かを組み合わせるように符合していく。
「聞仲に聞けばいい。私もあいつと話をしたいからね」
「もうひとつ聞いてもいい?」
それは自分だけでなく、おそらく傍らの恋人も同じように感じているだろう疑問。
「あなたと同じ顔の女性(ひと)が崑崙にもいるんだ。そして彼女も始祖を愛して
 その子供を授かった……」
すべてを知る青年は僅かに眉を顰めた。
「あなたなら知っているはず、通天教主」





霊獣が紡いだ糸を織り機に掛けて、静かに布地を作り上げる。
一目一目丁寧に、何かを思い出すように太公望は指先を動かす。
「ご主人、ここでの生活も三ヶ月っすね」
伸びた髪を簪で留めて、少女はたおやかに微笑む。
「そうじゃのう。もうじきこの布も仕上がるよ」
「何にするっすか?」
霊獣の鼻先を撫でて、くすくすと笑う。
「おぬしの肩掛けじゃよ。大分古くなっておるからのう」
思わぬ言葉に四不象は少女を見上げた。
「ぼ、僕のっすか?ヨウゼンさんや天化くんじゃなくって、僕っすか!?」
離れることなく自分のそばにいてくれる唯一の存在。
「なぜヨウゼンや天化にやらねばならん?わしの一番大事な存在にやりたいのじゃよ、
 スープー。それでは駄目か?」
優しい霊獣に何かを返せたら……それは彼女が常日頃から考えていたこと。
軍師でもなく道士でもなく、おそらく太公望という存在でもない。
ただ一人で『呂望』に戻って織り上げた思い出。
「緋色は羌族の色。ともに歩んでくれるおぬしに贈らせてくれ」
「う、うれしいっす!!ご主人っ!!」
最後の一列を織り上げて、そっと布地を外す。
手早く縫い上げてそれを霊獣の肩に。
「数十年ぶりに織ったから、目が粗いのう……」
照れながら困ったように笑う顔。
この人はこんな顔で笑うのだと、霊獣はぼんやりとその唇を見つめた。
(ご主人って……こんなに幼い顔してるんすね……)
きっと、今の自分にできることはこの人のそばを離れないことだけ。
けれども、それが彼女が望むたった一つの願い。
「ご主人、僕はずっと、ずーーーーっとご主人と一緒っすよ!!何がっても、どんなことが
 おきたって僕のご主人は太公望という人だけっす!!」
薄い唇が、霊獣のそれに重なる。
ただ触れるだけなのに、甘い甘い口付け。
「ご主人……」
「一度、おぬしにこうしてみたかったのじゃよ」
その笑顔を彼は生涯忘れることはなかった。
最初で最後の優しい接吻。
「太公望さん、スープーちゃん」
入りたての花茶と、取れたての桃。小さく切られて皿の上で笑う兎の林檎。
「太上老君に、逢いたいですか?」
その答えは道を二つに割る。
ここで安穏と幸せに暮らすか。
それとも、もう一度戦乱の中に身を投じるか。
「そのために、ここにきた」
「そうですか……ならば行きましょう。彼の元へ」



二人の少女と二人の女。
賽は投げられた。




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23:38 2005/11/20

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