◆月下宝珠◆
いつまでもどこまでも続くこの道を、あなたと二人で歩けるのなら。
あなたと並んで歩けるのなら、きっとこれ以上の幸せなどありはしないでしょう。
「申公豹、おきなよー」
熟れた満月だというのに、主は不貞寝を決め込んでしまった。
西周の軍師と恋に落ちた彼は、数千年振りに人間らしい表情を浮かべ始める。
まるで春の夢のように甘い甘い魔法のようで。
こんなにも彼が激情型だということを初めて知らされた。
「風邪引いちゃうよー」
揺さぶってもこんなときは梃子でも動かないのこが彼という男。
何千年もの時間を共有してきたらからこそ分かり合えること。
「しかたないなあ、運ぶか」
襟首を銜えて器用に寝台へと向かう。
今でこそ無いが酔いつぶれた申公豹を運ぶのもまた黒点虎の役割だった。
二つの仙界どちらにも属さずに世捨て同然ふらり、と漂う。
それでいて仙界最強の道士の名を持つ彼を誇りに思った。
彼に相応しくあるために人知れず鍛錬を積んだ。
そして黒点虎もまた最強の霊獣の名を得たのだから。
「よーいしょっと」
どさり、おろせば苦しげな寝息。
寝顔に見え隠れするまだどこかあの日の表情。
それは遠い遠い昔のことだった。
「許由、それはなんなんのかな?」
欠伸をしながら師が指すのは腕の中の小さな生き物。
「先ほど森に行ったところ、虎鋏に見事にはまってました。折角なので育ててみようかと」
「君も暇人だねぇ……」
ふああ、と欠伸をかみ殺して太上老君は仔虎の前足を触る。
「折れてるね。治してあげないと脚が死ぬよ」
「………そうですか……」
「丹薬の作り方はそこの本にあるよ。君が作ればいい。私が何かしたら自然界の法則を壊して……」
みなまで言うまでも無く眠りに付いてしまう師を無視して、彼はいっせいに書物を広げた。
必要なのはまずは止血。それから痛み止め、化膿止め、消毒、数えればきりが無い。
それでも時間も命も有限だから、出会ったこの縁を大事にしてみようと思ったのだ。
それは帝位を捨てて仙となることを選んだ彼ゆえの気まぐれだったのかもしれない。
脚を挟まれて無く仔虎を見捨てて過ぎ去れるほど彼もまだ人間を捨てることはできなかったのだから。
「えーとまず……」
その間にも虎はぐったりとして息も絶え絶え。
「頑張りなさい!!私があなたを助けますから!!」
微かな声が応えるように耳に届く。
後に最強の霊獣としてその名を馳せる虎の誕生だった。
それから数ヶ月が過ぎてすっかりと脚の具合はよくなっていた。
「ずいぶんおっきくなったねぇ」
「ええ。黒点虎、と名前をつけました」
調度額の辺りに黒い点があるから、わかりやすくと加えて笑う。
身体も二周り以上も育ち、もう少ししたらその背に彼を乗せることもできそうな勢い。
「よくなついたね、虎って一匹で行動するから懐かないもんなんだけども」
群れを成さない虎は人間になれることが極端に少ないという。
しかし、黒点虎は許由が行くところならどこでも少しだけ後ろを付いて歩くのだ。
「そうだ、そろそろこれあげる」
ぽい、と手渡されたのは数珠を連ねたような宝貝。
「雷公鞭。君の宝貝だよ。使い方は往々自分でなんとかして」
「雷公鞭…………」
「あと、君の名前は申公豹。今日からそう名乗って良いよ」
唐突な言葉に彼は目を丸くした。
「いま……なんと……」
「卒業でいいよ、申公豹って言ったんだ」
三大仙人の一人として名を置く師匠は、修行らしい修行はつけてくれたことが無い。
しかし、それが彼のやり方だった。
適切でないものをあててもいたずらに能力を殺すだけ。
真に力があるものはおのずとしてその芽を伸ばすからだ。
「がんばりなさい、申公豹」
「は……はい!!」
必要なのは生活をするための場所。
竹林の奥に簡素な家を建てて古代遺跡の解析をする。
長時間の瞑想も鍛錬も彼にとっては苦ではなかった。
その傍らで黒点虎も見よう見まねで同じように瞳を閉じる。
緩やかに流れる時間は静かに二人の関係を変えていく。
太陽と月の香気は黒点虎を一頭の霊獣に変えた。
「しん、こう……ひょう……」
たどたどしい言葉に振り返る。
「しんこう……ひょ……」
「黒点虎……あなたなのですか?私の名前を呼んだのは……」
こくん、と頷く姿に男は霊獣の身体をぎゅっと抱きしめる。
「すごい!!お前しゃべれるんだね!!」
「しん、こうひょう……」
「最初に私の名前を覚えてくれたんだね!!嬉しいよ!!」
それは今まで見た彼の笑顔で一番のもの。
まるで大輪の向日葵のようなあどけなさに黒点虎も少し驚いた。
「これからもっともっと言葉を覚えたら……ああ、なんて素敵なんだろう」
「……うあ……?」
「あせらなくていいよ、黒点虎。私も一緒にがんばるから!!」
自分にとって生涯において掛け替えの無い親友。
それが黒点虎の立場となる。
気が遠くなるほどの時間を共有してゆっくりと彼のことを知った。
淡い光立つにわか雨の降る春を何度過ごしただろう。
月に掛かる雲と儚げな蛍灯の熱帯夜。
終焉の美しさを見せる紅葉の儚さ。
やがて来る芽吹きのためにすべてを無に返す真白の雪の季節。
自然の香気を取り込んでゆっくりと人間に近づいていく。
誰にも気付かれないままそっと、そっと。
(申公豹、寝てるね)
洞府を抜け出して目指すのは霊穴。
ここ数年の自分の変化に黒点虎はどうにか人間形態を保てるようにと仙気をつんでいたのだ。
(今日はできるかな……)
精神を集中させて自分の姿を思い浮かべる。
ゆっくりとその姿が歪んで一人の少女へと変化していく。
(……僕、本当は女の子なんだよね。申公豹は知らないけども)
主が男ならばその足となるものは女のほうがいい。
より互いのことを思いやることができるから。
金色の毛並はそのまま鮮やかにとどまり、猫目が彼女が人間ではないことを物語る。
(人間になれたって、何も変わらないけれども……)
折に憂う彼を暖めることが、この腕ならできるのかもしれない。
世間を捨て去って彼は流れる風のように生きるだけ。
いたずらに人間界に降りてもそこに長居することは無い。
流れに身を委ね、世界の悲しみと混乱を眺めるのだ。
(そろそろ戻らないと、申公豹も風邪引いちゃうよね)
この胸の痛みを一人で飲み込む。
人間の姿を保てれば仙道となることができる。
けれども、それでは彼と共にあることはできないのだ。
この思いはずっと奥に閉じ込めておけばいい。
一夜で散ってしまう月下の花のようなものなのだから。
月下宝珠の華は儚い。
移ろいやすいものほどに心を奪われるのはなぜだろうか?
「上等な枕にもなれるね、お前は」
傍らで眠る霊獣の鼻先を優しくなでる男の手。
何度も何度も愛しげに擦る。
「黒点虎、もうじきこの世界を巻き込んだ大きな戦争が起こりますよ」
その名を『封神計画』とし、仙道の魂魄を封じることに在る。
大義名分は殷王妃の魂の捕獲。その実は世界を変える大計画。
「私はその封神計画で封じられるものとして、一番最初に名前が載りました」
はぐれ仙人として走る男。しかしながらその力は仙界最強をほしいままにする。
実力者である彼を野放しにするわけにはいかない。
ましてこちらに仇成すならばなおさらに。
「もしも、私が誰かに封じられることがあるならば」
眠った振りをする霊獣に、男は素知らぬふりで語りかける。
「お前は自由に行きなさい。生きて、この世界を見届けてください」
名も無い一道士は、いまやその名を轟かせるまでになった。
彼の無いこの先の日々に何を見出せばいいのだろう。
「お前が居てくれて本当によかった。だから……」
柔らかな体毛を何度も何度も行き来する手。
「お前は幸せになって、私のことは忘れるんだ。私ではお前を幸せにすることはできないから……
自由に空を駆けて好きなところに行くんだ。黒点虎」
自分に名前をくれた彼。
自分を育ててくれた彼。
そして、恋を教えてくれた彼。
どうして忘れることなどできようか。
「お前の気持ちに答えてやれなくて、すまない」
ただその言葉だけでこの胸は温かくなって。
どこまでも、どこまでも走ることができる。
あなたを乗せてこの世界の果てまでも、ずっとずっと。
離れることなく二人で進みたいだけなのです。
「面白い道士がいるようです、黒点虎」
霊獣の頭に手を置いて、彼は笑う。
興味の対象が仙道に移ったのは千年ぶりだろうか。
そして彼は静かに恋に落ちる。
彼女の話をする度に嬉しげに唇が綻ぶのに胸が痛んだ。
胸の痛みなど、きっと虎のままなら知らずにすんだ。
この感情はおそらく自分が仙となることができる証なのだろう。
「呂望、って言ったっけ?」
「ええ、羌族の最後の一人。いや……そう思うのは彼女一人ですが」
意味深に笑うのは彼の癖。
嬉しくて仕方が無いときにだけでるその声。
そんなこともわかるほどの近さなのに、何もかもが遠くに思える。
「楽しそうだね」
「ええ。こんなにも心が踊るのは久しぶりです。私も人間だったんですね」
その少女は誰よりも傷つけられても、決して後ろ振り返らない。
その凛とした瞳に憶えた初めての失恋。
涙は潮風に流れて青空に消えた。
彼が恋した少女は、どこか彼の匂いがするから憎みきれない。
時折悲しげな憂いを含んだ笑みをこぼすその唇。
雨の中を一人で傘も差さずに歩く少女。
「屍になっても、私は彼女を離しませんよ」
朽ちるのならば共にと彼は呟く。
この思いと彼を乗せてどこまでも行こうと決めたのだから。
「じゃあ、僕も死ぬまで申公豹を乗せてどこまでも走るよ」
世界の美しさはあなたと一緒だから分かち合えた。
あなたが笑ってくれるのならばどんなこともでもできる。
「そうですか。私は幸せ者ですね」
「そうだね、僕も申公豹も幸せものだね」
初めての恋は実らないからこそ美しい。
泣き出しそうな空を笑い飛ばしながら、鼻歌交じりで進むから。
あなたがその腕でわたしを抱き上げてくれた瞬間に。
わたしは産声を上げました。
あなたがわたしに名前をくれて、恋を教えてくれました。
きっとこれからもあなた以上の人はわたしにはいないでしょう。
誰かを思うあなたでも、わたしにとっては掛け替えの無い人だから。
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23:28 2006/01/15