◆密告◆



薄明かりの中、少女は静かに上着に袖を通す。
冷たい空気を黒髪からませて、そっと寝台から抜け出して。
「張奎。どこへ行く気だい?」
まばゆい栗色の髪を持つ青年が少女の手を取った。
「狐の声がする……いや、けたたましい雉と耳鳴りの琵琶か……」
聞仲が懐剣として唯一認めた女、それがこの張奎。
朝歌より程近いメンチ県で静かに仙道を待ちながら策を練ってきた。
共にいるのはその夫の高蘭英。金鰲より離れることなくずっと歩んできた。
「まだ朝までは時間がある。もう少し身体を休めたほうがいいと思うよ」
伸びた素足の美しさはこれから戦地に赴く者には到底見えない。
不安に揺れる気持ちはこの夜と朝の間に似ていた。
「おいで、張奎……もう少し一緒に居よう……」
支えあう希望は二人で分かち合おう。出会ったあの日のままに。
けれど……帰れないこの思いは誰に捧げれば良いのだろう?
失ってしまったあの人への思いは。
「蘭英……私、ちゃんと戦えるかな……聞仲様の仇を取れるかな……」
切り揃えられた髪に青年の手が触れる。
「できるさ……君ならきっと。僕たちはずっとあの人に従ってきたじゃないか。
 四聖亡き今、聞仲様の思いを果たせるのは張奎、君だけだよ」
青年の身体に覆いかぶさるようにして、少女はその唇を頬に当てた。
纏った上着を落とせば、傷だらけの柔肌がぼんやりと浮かぶ。
「蘭英が居てくれるから……金鰲(あそこ)でも生きてこられた。でも……
 今度はもっと苦しいのかもしれない……私にもよくはわからないけれども……」
乾いた唇が重なり合って、ちゅ…と離れる。
男のそれが喉元に小さな花を咲かせた。
「……ん…ぅ……」
張りのある乳房に手をかけて、そっと抱き寄せて。
「邪魔者の太陽はまだ来ない。朝が来るまで……っ……」
男の唇を塞いだのは少女の方。
絡ませた舌先が隠微に動いて、指先がつ…と下がる。
「そうね……もう少しだけこうしていましょう……」







互いを知ったのはまだ修行時代のこと。
異形の容姿犇く妖怪達の中、少女は槍を手に静かに佇んでいた。
きりりと結ばれた黒髪のあでやかさは彼女の純潔を表すかのような美しさ。
鷲色の瞳は光を称えながらその視線を優美に移す。
袖から除く肌は陶器のようで、思わず息を呑んだ。
柔らかそうな耳朶が幼さをほんのりと助長していた。
(うわ……女だ、めっずらしぃ……)
岩の上、銜え煙草で少女を見つめる一人の青年。
まるで花でも摘むかのように、槍は妖怪を切り崩して行く。
(強いな……面白い女だ。面も綺麗だし……中身なんだろな……)
金鰲列島に居るということは、どんなに美しくとも妖怪であることは否めない。
ごくまれに人間が紛れ込むことはあっても大半は人間に疎まれてきたものばかりだ。
「あなた、何をしているの?」
不意に耳に飛び込む声に、青年は我に返った。
「いや、君を見てた。綺麗だなぁって」
「?」
たん、と地に下りて男は目線を少女に合わせる。
自分の胸ほどまでの背丈と、思ったよりも幼い顔立ち。
年のころはまだ十五、六だろうか。
「僕は高蘭英。君は?」
「張奎」
「そっか、よろしく。張奎」
左手を取って、蘭英はそっと手の甲に唇を押し当てた。
「どうして口を付けるの?不思議な人ね」
慣れた女ならば冗談のひとつだといって笑うであろう行為も、彼女にとっては不可解なもの。
「私、別に手なんか怪我してないのに」
「……っは……ほんっと面白いね、張奎は……」
堪らず笑い出して、目尻に涙まで浮かぶ始末。
自分が何故に笑われるのか分からない少女は訝しげに青年を見上げた。
「じゃあ、こんなことは?」
不意に重なった唇にも、少女は瞬き一つしないまま。
「口も切ってない」
「言うと思った。そのうちに意味を一緒に考えようぜ、張奎」
その瞳の色はまだ何も知らない無垢なるもの。
この二人の出会いが後の運命を変えるなどとは誰が思っただろうか?
ただ風の如く、少女は佇む。
穏やかな笑みを浮かべ青年はその手を取る。
まだ出会うことのない男の陰など知る由も無く。




「……っ……」
手首に巻かれた包帯と滲み出る血液。
走る痛みに張奎は顔を顰め、蘭英は僅かに眉を寄せた。
「酷いね……君らしくも無い。どうしたんだい?」
張奎が言うにはいつものように霊穴で瞑想をしていたところを襲われたらしい。
「一人は簡単に弾けたんだけども、二人いるなんて思わなくて……」
痛みなのか悔しさなのか、恐らくはその二つが入り交ざった涙が目尻に溜まる。
しかしながら張奎を手負いにするにはそれ相応の強さであることもまた事実。
この金鰲果たしてどれだけの仙道が彼女に触れることができるだろうか。
「ほら、泣かないで。可愛い顔がぐちゃぐちゃになるよ」
出逢ってから程なくして、一緒に暮らすようになった。
他意もなく純粋な好奇心から、蘭英は張奎に惹かれていった。
妖怪といっても金鰲では二つに別れる。
教主が下界から救い上げたものと、この金鰲で生れ落ちたもの。
彼女は後者に当たり、教主を守る十天君の一人に使える家柄の出だ。
「あんな雉、今度見たらその首をへし折ってやる」
「雉?」
少女の手を取って、その指先に唇を当てる。
「ん……雉と石琵琶。琵琶はたいしたことないんだけれども、雉が……」
まだ血のこびりついた爪と舐め取る舌先。
丹精な顔立ちに似合わぬ暗い笑みを青年は浮かべた。
紫水晶の瞳が一瞬だけ妖しく輝き、少女を見つめるころには穏やかに。
「張奎、心配は要らないからね。すぐに見つけ出して僕が始末するよ」
ぎゅっと抱きしめれば安心したかのように、少女は青年の肩口に顔を埋める。
こうして互いの体温を確かめられるようになるまでどれだけの月日が流れただろう。
思いやれるだけの感情を彼女が持つのを、彼は辛抱強く待ち続けた。
「蘭英」
「ん?どうかしたのかい?」
「……もう少し、こうしていて……」
誰かを知るために生まれてきた。誰かを知って強くなった。
けれども、それは同時に自分の弱さを認めることであり、無邪気さを失うことへとつながる。
幼年期の終わりから、ゆっくりと変化するように。
そのもっとも危うく美しい時期を手に掛けられることに、蘭英は小さな悦びを感じた。
「そうだ、面白いものを育ててるんだ。もう少し大きくなったら、二人で遠くまで出かけられるよ」
「面白いもの?」
「霊獣の卵を拾ったんだ。孵ったら二人で育てよう」
後に霊獣烏煙は、二人を護りその世界を飛び回ることとなる。
「だから、今日はまず休んだほうが良いよ。傷が癒えたらゆっくりとその二人を探せば良い」
子供をあやすようにして、張奎を寝かしつけて青年は溜息をついた。
まだ肌を重ねるほど彼女の心は自分に向けられてはいない。
ことを悪戯に急ぐのは彼の美学にも反していた。
(雉と石琵琶……妙な組み合わせだな……)
妖怪はよほどのことが無い限り同種以外と行動を共にすることはない。
例外の最たるものが幹部集団の十天君。
そっと邸宅を抜け出して、青年は月を背に宙を舞う。
(僕はこの命が尽きるまで張奎と一緒に居るって決めたんだ……邪魔するものは許さない)
切り立った岩場を蹴り上げて神経を張り詰める。
「お探しなのはこの二人かしらぁん」
女の甘い声に青年は静かに振り返った。
魅惑的な笑みを浮かべた美女の両脇に佇む二つの影。
片方は右半身を鋭利な傷を受けたのだろう。立っているのもやっとという風貌だ。
もう一人も包帯では止めきれない血液が、道衣を汚している。
「雉と石琵琶……そして、お前は狐か……」
「あら、ずいぶんな言い草ね。あなただってそう変わらないでしょう?」
優美に扇が唇を隠し、甘い芳香が漂う。
鼻を突くその甘さに青年は顔を顰めた。
「吐きそうな甘さだ……僕の好きな香りじゃない」
「まぁ、珍しい。わらわの香りに傅かない男なんて……」
長針を構え、呼吸を整える。蘭英は香木から発生した妖怪仙人。
香りで騙すには分が悪い相手だ。
「姉さま、喜媚がここはやるよっ。姉さまは貴人ちゃんを早く治してあげて」
紫紺の衣と対になるような艶やかな金髪。
それは男性的なものよりも、中性的な美しさに近いものがあった。
「雉……僕の恋人を傷つけた罪は重いよ……」
針先がきらり、と輝く。
その瞬間に少女の身体を無数のそれが貫いた。
「!!」
「言っただろう罪は重い……って」
呼吸する暇もなく女が抱いていた影の身体にも、無数の針が突き刺さる。
速さと間合いの読みでは高蘭英にかなうものはそうそう居ない。
彼もまた、十天君の一人『姚天君』が生み出した仙道なのだから。
「残るは狐……お前一人だ」
「わらわは強いわよぉん……無駄に命を捨てるのはもったいないわぁん」
五火七禽扇がひらり、蝶を生み出す。
はらり…はためきながらそれは蘭英の髪を焼き切った。
「妹二人をここまで苛められたら……姉としては黙ってられないわ」
一振りするたびに生まれ来る炎蝶は針で撃ち落しても立ち上がっては襲い来る。
まるで女が縋る様に蝶が青年に纏わり付く。
「うわああああぁぁああっっ!!!!」
肌の焼ける匂いと肉の裂ける感触。痛みはすでに熱さに変わり苦痛を感じる間もなく
生命を維持することの難しさが前面に押し出されて。
「…っは……ァ……ッ!!」
それでもその瞳だけは光を失わずに女を睨む。
「惜しいわねぇ……その瞳……飾っておきたいくらいに綺麗なのに」
唇の端から零れ落ちる血を拭って眼前の獲物を狙う。
この一撃をはずせば自分の命は無い。
「今回だけは見逃してあげるわぁん。面白い子をみんな殺しちゃったら楽しみが無くなっちゃう」
傾世元禳をぷわん、とはためかせて女はその姿を霧に融けるように消し去った。
ただ、この身体の痛みが夢ではないと耳の奥で囁いて。




「蘭英!!」
崩れ落ちる青年の背を抱いて、少女は声を奮わせた。
上着から滴り落ちるほどの夥しい血液と肉の焼けた匂い。
「すまない……君の仇を討とうと……っ……」
掌に感じるこの暖かさは風前の灯火のそれ。
いや、と何度も首を振って少女は男の身体を寝室へと引きずる。
その度に床を染め上げていく鮮やかな赤。
「じっとしてて……今……助けるから」
傷口を縫い合わせて、丹薬を塗り込んでいく。それでも止まることを知らない赤い体液に
少女は唇をきつく噛んだ。
ぼろぼろとこぼれる涙が、ぽた…と男の頬に落ちる。
薄っすらと開く瞳と乾いた唇が綴った言葉。
「泣かないで……綺麗な顔が……ぐちゃぐちゃになるだろ……」
「……馬鹿……っ……」
頬に触れる指先をきゅっと握る。
「傷が癒えたら……婚姻を結びましょう……ずっと、ずっと……一緒に居られるように……」
「……じゃ……死ねない……っ……」
この身を業火に焼かれても、彼女だけは手放すことができない。
生涯で最後の恋をしてしまったから。
こじつけでも、この思いが自分への暗示だとしても。
貫き通すと決めたのだから。





書状を手に、男は少女の傍らをゆっくりと歩く。
「これで聞仲となんとか繋がるな」
「うん。先に天化のお父様も説得に行ってくれてるしね」
自分たちが辿って来た道は決して神などと謡われる為ではなかった。
「まだまだ休めない。望ちゃんも頑張ってるんだし、ボクも頑張る」
細い肩を抱いて、小さな身体が寒さに凍えないように。
いや本当は……その心が不安がらないように抱きしめて。
「無理はしなさんな。倒れちゃ元も子もない」
「はぁい、お父様」
この言葉を素直に喜ぶにはまだ余裕が無さ過ぎる。今は山積になった問題を片付ける
ことが優先されるのだから。
「お前に似た娘がいいな、俺は」
「ボクはあなたに似た男の子が欲しいけどね。きっと……賑やかなんだろうな……」
束の間の休息と彼女の微笑み。
(俺は……どんなことがあってもこの先もお前を守るからな……)
こつこつと靴音が時を刻む。
「そうだ、ボク……一つ思い出したんだ」
「何をだ?」
灰白の瞳が男を捕らえる。
「ボク、多分……ここの解除できるよ。そのための言葉を知ってる」
「!」





小さな密告からすべては始まった。
この始まりに繋がるための『終わり』を産み落とすために。





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23:51 2006/11/29

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