◆二人分の天球儀◆
「火渡戦士長!!」
呼ばれれば振り返らないわけにもいかない。
「何だ?」
真っ赤な髪と見上げる不遜な瞳。
立ち位置が違っても彼女から感じる確かな威圧感。
「あの、これ……受け取ってください!!」
勢い交じりで押しつけられた小さな箱。少年は真っ赤な顔でそのまま走り去ってしまった。
前々から火渡は何かと贈答品を貰う機会は多い。
それでもここ数年のこの日の獲得率はケタはずれなものだった。
(……あー……バレンタイン……)
甘いものは嫌いではなくむしろ好物の彼女にとってこの日は精々デザートがただで手に入る日にすぎない。
世間一般的な恋人のためにチョコレートをつくろうなどは余り考えないものだ。
「火渡戦士長〜〜〜〜♪円ちゃんの手作りチョコですよっ!!」
「……おう……」
本来ならば火渡が円山に渡すのが通例だろう。
しかし、そこらの男よりもライフスタイルが男らしい彼女はやはり別格なのだ。
袋の中に溜まって行く菓子類の数々。
しばらくは茶菓子に困らないだろ言うほどの量。
(ま、いっか……全部食えるし……)
一方がそうでも双方がそうとは限らない。
銀色と赤のリボンでラッピングされた箱を目の前にして彼女はにこり、と笑った。
件の女と同じように脚元の袋には夥しい箱の数々。
(チョコは火渡にあげよう。私は火渡を食べる。うん、良い計画)
とっておきのチョコを眺めればあれこれと思惑が交差して。
この箱よりも彼女を飾りつけたいものが本音なのに。
(全裸でも良いけど、あのジャケットだけ着てても良いな……それか、シルバースキンで……)
幸せな妄想に浸ってても仕事は否応なしになってくる。
部下たちの報告書に目を通し、その間にも手渡されるチョコレートたち。
防人衛はきちんと全員にプレゼントを贈る方だ。
目立ったものには気持ちを考慮して本人に似合いそうなものを選ぶこともある。
経済的にも自立しているのは便利だと付け加えて。
一つ取りだして包みを剥く。
丸いそれを口の中に放り込んでコーヒーを口にした。
(んー……これだと美味しいって思えるんだけどな……)
ふいに開くドア。
「衛」
「あ、千歳。丁度よかった、はい」
「ああ。チョコレート。僕も今から持っていこうと思ってたんだ」
その言葉に首を傾げる。
たおやかな笑みの青年は極上のそれ。
今ならどんな女でも惚れないものはいないだろう。
「照星さんに」
「そう。普通のチョコ?」
「特製のチョコレートだよ」
「あえて何を混入してるかは聞かないけどね。あ、千歳のはゴディバだから」
箱を受けとって小さなキス。
「火渡は私にチョコくれるかなぁ」
黒髪にぽふ、とおかれる彼の手。
「衛があげればいいだろ?」
「もう準備してる。でも、あの可愛い人はいつも楽しいことに走っちゃうから、私の
気持は置いてけぼり。何であんなに可愛い地獄の使者なんだか……」
恋に恋する気持ちを忘れたくないと呟く。
欠けた望月のようなこの思いはどうすればいいのだろう。
「で、照星さんにはあげるの?」
「一応ね。チロルの大袋買ってきた」
「火渡はあげるのかな?」
紫煙を燻らせて女は首を振った。
「私にもくれない予感がもりもりとする」
女性から見ても魅惑的な女は、いわば女子高の男役に近い感覚だろう。
実際に肉体関係に及んでいるのは数人程度だ。
「あまりつまみ食いすると、また火を吹かれるんだろ?」
苦い思い出に引き攣った笑い。
「女の子でエッチするのは火渡戦士長だけにしております」
「それ、本人の前で言ってやれよ」
「火渡はねー、感度も良いしおっぱいの形も綺麗なんだよね。何ていうか全身が可愛いから
思いっきり虐めてからうーんと優しくしたいって言うか……」
指を組んで思いっきり自己陶酔と妄想の世界に飛び込む意識。
「うん、僕も照星さんとそんな風な良いセックスライフを送りたいよ」
「3Pも悪くはないんだけども、バレンタインとかイベントはやっぱり二人でじっくりとエッチしたいよねぇ」
「僕は照星さんだったらいつでもじっくりとしたいな」
「千歳の恋は応援してるから」
「ありがとう、衛」
もう一度だけ触れ合う唇。
戦線協定はここにしっかりと結ばれた。
がさがさと包みからチョコを取り出してがりがりと噛み砕く。
火渡にチョコレートを渡したのは半分が男性だ。
対する防人は八割が女性だった。
(あいつにもやんねーと……ストレイトくるよな……)
しかしまだ防人相手ならば情状酌量は認められる。
何だかんだと理由があっても、彼女は火渡には優しい。
(問題はエロロートル……やべぇな……チョコなんて買ってねぇよ……)
イベントや記念日を重んじる大戦士長は、この日を楽しみにしていることは想像するに容易い。
(チロルチョコでいいな。売店にあるし)
頭の後ろで腕を組んで鼻歌交じり。
揺れる真っ赤な髪は白の季節に花を咲かせた。
その足で売店へ向かい目的の物を購入する。
面倒だとそのまま司令室へと足を向けた。
(……ん……?)
ドア越しに聞こえてくる声。
「防人ーー」
「あ、火渡」
いつものようにシルバースキンに身を包む女の腕に抱きつく。
「今ね、照星さんにチョコ渡してて」
「奇遇じゃん。俺も持ってきた」
そのまま男にチロルチョコの入った箱を手渡す。
「……君もチロルですか?」
「あ?おめーも?」
こくん、と頷く女の姿に転げるようにして大笑いする。
呼吸困難に陥りかけたところを抱きあげられて、まだ苦しいと肩で息をする有様。
「防人は大袋……火渡はアソートパック……育て方を間違えましたかね……」
片手で顔を覆って深すぎるためいきを一つ。
場面が場面でなければ憂いを浮かべた青年の美しい光景だ。
「いくら?」
「二百五十円。防人のは?」
「六百八十円。スーパーの特売だったの。私らの分も二袋買ってきたから」
肩を抱き寄せてにこにこと笑い合う。
「失礼します」
「千歳君」
小さな箱を手に、青年はそのまま大戦士長の前に歩み出た。
「これ……僕から照星さんに……」
ほんのりとそまる頬。
「本命チョコです!!」
一瞬にして固まる男に青年は零れるような笑みを浮かべた。
「……千歳クン、何度も言いますが私は女性オンリーなので……」
勝手に包みを開けて、チロルを齧っていた火渡が千歳に並ぶ。
「お似合いだぜ」
「本当!?」
一見すればよほどどちらかの女と並んだ方が絵になるだろう。
それでも彼が大本命と言って狙うのは目の前の男の方だ。
「ゴムいる?俺、千歳にチョコ準備してねぇからそんなんしかやれねぇんだけど……」
心底申し訳なさそうに眉を下げるのを見れば、彼女の真意はあらかた読みとれる。
「ありがとう火渡。気持だけ貰っておくよ」
「でも、何かあった時とか……」
頬に手を当てて同じように心配げな顔をする長身の女に千歳は極上の笑みで答えた。
「それに、自分で持ってるし。箱で」
「そっか。千歳は昔から準備いいもんな」
「だから、今日は火渡も衛のおごりで美味しいディナーでもいってきなよ」
その言葉ではっとする。
チョコレートの準備はできなくとも、デザートでチョコレートを選ぶことはできるのだ。
「うん!!防人、飯食いに行こう!!飯!!」
「えー、ご飯?」
「衛」
滅多に呼ばれることのない名前。
下から見つめられれば胸が高鳴る。
「行こう!!今すぐ行こう!!フランスでもイタリアでも!!ベルギーでもオルレアンでも!!」
「照星さん、僕は食事よりもあなたを食べたいです」
それぞれが違う相手のてをしっかりと取った。
「千歳、グッドラック!!」
「そっちもね!!」
街に飛び出せば肌寒い二月の風。
ジャケットにマフラーの恋人は寒さは気にはならないらしい。
「何か飲む?」
「んじゃ、そこのコンビニでココア買ってくれよ」
同じコーヒーでも無糖とカフェオレ。
好むものは違っても根底は同じ。
支払いを終えて手渡せば同じように差し出された袋。
「……ちゃんと準備してなくて悪かったな……」
ビターテイストの板チョコが一枚、無造作に入っていて。
それでも少し顔を赤くしながら渡してきた彼女が余程甘い。
「ううん、私……大好きなんだ……」
チョコレートではなく、君のことを。
「甘いもん好きじゃないもんな、お前」
「好きだよ」
どうしても譲れない。
「火渡がくれるチョコなら、何だって嬉しい」
半分涙目で笑う姿が愛しいと思えるように。
「これ、私から」
「くれんの?」
「本命チョコは、火渡にだけ」
望むならばただの数字でしかない日を、彼女のために意味を持たせても良いと思えた。
「サンキュ」
「チョコフォンデュの美味しいお店行こう」
「んじゃ、俺が払う。そしたら、それが俺からのチョコになるだろ?」
手を繋いでゆっくりと歩く。
少しだけちらつく雪がありきたりでロマンティックで笑いが止まらない。
「そうだね。そうしちゃおうかな」
「ホワイトデーの時は、お前が驕れよ」
「うん」
どこまで歩こうか?
君と手を繋いでこの冬の道を。
「火渡」
「何だよ」
彼女よりも頭一つ高いこの背が嫌だと思っていた。
それでもこうしてキスをするには丁度いいのかもしれないと知った日から悪くないと思えるようになった。
世界はこんなにも綺麗で優しくて嫉妬深い。
「お前、チョコどれくらいもらった?」
「火渡がしばらくおやつにする程度くらい」
指先の暖かさと冬の冷たさ。
コートのファーに赤毛が触れて不思議な柔らかさを醸し出す。
掌に触れた雪は静かに溶けて。
「降ってきたね」
雪に映える緋色の髪と雪に対を成す黒髪の艶やかさ。
少しだけ外れたビルの隙間。
人目のないところで抱きしめてキスをした。
「……甘ぇ……」
何度も何度も重なる唇。
互いの頭を抱きしめるようにして舌を絡ませて貪りあう。
濡れた音と絡まっては這いまわる舌先は別の生き物にさえ思えた。
「ここじゃねぇとこの方がいいだろ?」
「ここじゃない方がいいんでしょ」
胸に抱けば乱れた呼吸。
女同士の甘い濃密なキスは、じりじりと焼けつくから性質が悪い。
「そうだよ。俺はこんな場所じゃな方が良い」
もう一度表通りに手を繋いで飛び出せば世界は淡い色の美しさ。
「……ま、衛……」
名前で呼ぶことなど滅多にないせいか、それだけで顔が赤くなってしまう。
触れた左手がやけに熱くて。
「何?」
この思いをそのまま伝えられたら。
「……その……」
ふいに吹いた木枯らしが彼女の声をかき消す。
唇の動きだけで読み取った愛の言葉。
人目など気にする余裕も無いようなそれに涙がこぼれる。
「……うん……」
その細い腕で抱きしめあえばどこだって楽園に変わるように。
「冷えてきたね、急ごうっか」
「おう」
銀色が誰よりも似合うこの女が自分のもだと叫びたい。
少しだけ誇らしげに思う反面に小さな嫉妬。
「火渡?」
苛々と煙草に火を点ける。
「あ、私にも」
「うるせーよ。自分の吸ってろ」
「火渡ので良いよ。あれだったら、煙口移しでも」
その言葉に咳き込んで防人を睨みつければにこやかに笑む表情。
「死ね。大馬鹿野郎」
もし、一人残されたら。
「……冗談だよ。てめぇは殺しても死なねぇ……」
きっと押しつぶされてしまうだろう。
「センチメンタルな気分?」
この白い季節の小さな一日に、何を願おう?
並んで歩けば愛しい恋人と。
「あれでも、いいな。チョコのペン」
「あ?」
「火渡にそれで落書きして食べる。うん、それが良い」
「変態かてめぇは……」
「フォンデュよりそっちが良い」
「却下!!」
結局二人で選んだは甘い甘いチョコレートフォンデュ。
こっそりと彼女がチョコペンシルを買っていたのはまた別のお話。
15:51 2009/02/13