◆洛陽落日◆
北の伯である崇候虎は朝歌で軟禁状態。
代理に政権をまわしているのは弟にして崑崙の道士の崇黒虎。
朝歌陥落のためには北が味方にある必要があった。
姫昌は病の体を押し、北に入る。
そして崇黒虎に協力を仰いだのだ。
格上のものに頭を下げられ崇黒虎は狼狽する。
姫昌は言う、「次の歴史を作る若者のために道を開きたい」と。
その言葉が真実だった。
姫昌の容態は俄かに悪化した。
北から戻ってからは起きることすら困難なほどに。
「少し…姫昌と二人で話をさせてはもらえぬか?」
同じように太公望も少し痩せた。
「いいですが、今の父上は話すだけでも…」
「わかっておる…それでも…」
太公望は朝方に摘んだ花を手に姫昌の部屋に向かう。
時間は残酷なほどに確実に進み行くのだ。
それは誰にも止める事など出来ないのだから。
寝台の横の机の上の瓶に花を挿す。
西洋渡りの摺り硝子がきらきらと光を浴びて輝いている。
「…太公望…」
「少し、おぬしと話がしたくてな…」
傍らに腰掛けて、姫昌の手を取る。
幾たびの戦を超え、この地を守り抜いて生きた大きな手。
深い皺と古傷が混在する美しさ。
「…少しばかり年をとりすぎました…」
「いや、変わらぬ。わしが見たときの姫昌と何一つ…」
風も無く、虫の音すら無い。
「もっと早くにおぬしに出会っていたならば…なにか変わっていたかのう…」
姫昌も昔を懐かしむように目を細める。
「…あの時、あなたが道士ではなかったらと思いました」
「…姫昌?」
弱弱しくはあるがしっかりと太公望の指に自分の指を絡める。
「空を舞う仙道に恋をしました…あのときからあなたは何も変わらない…
あなただからこそ、私はこの運命を呪わずに受け入れることが出来ました。
でなければ…とっくに歴史の重みに潰されていたでしょう………」
「…姫…昌……」
「もっと早くに出会えたならば、きっとあなたを妃にしたことでしょう…
もったいないことをしましたよ……」
はらはらと零れる涙。
報われない思いでよかった。
ただ、傍に居られるだけで、同じ未来をほんの少しだけでも重ねて見られるだけでよかったのだ。
「私は卑怯者です…この命であなたを西岐に留まらせようとする…」
違う、と太公望は頭を振る。
ここに居るのは自分の意思なのだと。
「いつまでも私に縛られず、囚われずに……」
声を出すことも出来ない。
胸が詰まる。
「時々思い出してくるだけで十分です」
今まで見たことも無いような笑顔。
「…姫…昌…」
「あなたの本当の名を教えてくれませんか?」
「呂望と申します…西伯候姫昌……」
「…呂望……」
「…はい……」
ほんの少しだけ、時間が止まったような気がした。
それは錯覚だったのかもしれないが、ただ、陽だまりの幸福の中に居られた。
「…姫昌?…姫昌!!??」
太公望の叫びが宮中に響く。
その声で駆けつけた重臣や発、旦が姫昌の周りを囲んだ。
「…発……」
「お…おう」
「新しい国はお前に任せた…これからは太公望を私と思うがいい…」
閉じられた瞳。
姫昌は在りし日のことを思い出していた。
「太公望は信じるに足る…必ずや西岐をよい方向に導いてくれるだろう」
数々の戦乱。
流れた血と涙。
ようやく掴み取った平穏。
「…困ったな…本当にもうすることがない…」
それは幸福に満ちた声だった。
「私は幸せものだ…」
唇がかすかに動く。
「…姫…昌…」
自分だけが理解し得た最後の言葉。
「親父!!??」
「姫昌様!!!」
「父上!!」
風も無く音も無く。
仲王二十年仲秋。
西伯候姫昌はその生涯を多くの人が見守る中、幕を下ろした。
欄干の上、ぼんやりと発は空を見上げる。
逝ってしまった人のことを思いながら。
強く、優しい父親は自分のなかの理想の男でもあった。
「発」
「…悪ぃ…今は誰とも話したくねぇ…」
「そうもいかぬ。おぬしはこれから忙しくなるのだ」
太公望の声は何一つ変わらない。
「…それで平気なのかよ!悲しむ時間も無いってのか!!お前だって…」
「発!」
遮る声は金切り声にも近かった。
「だれが…平気だと言った…だれが…」
「…………」
太公望は前を見る。
「人それぞれ、悲しみ方は違う。自分だけが悲しいとおもってはいかんのだ…」
それはまるで自分に言い聞かせるような声だった。
二人を包むように一陣の風。
太公望は発に手を差し出す。
「さぁ、行くぞ。殷を倒しに」
後に姫昌は文王と称されることになる。
そしてこの瞬間が事実上の殷王朝崩壊への第一歩だった。
月も星も無い。
闇の中にただ一人自分だけが取り残されたような気にさえなるような夜だ。
「太公望師叔…まだ起きてらっしゃいますか?」
「おお、ヨウゼン…」
空になった杯を手に太公望は半分夢の中だった。
「これを一人で空けたのですか?」
足元には数本の酒瓶が転がっている。
太公望は元来酒好きではあった。
仙桃を使っては酒を造って窘められることもしばしばだ。
だが、それとは別物である。
「飲みすぎですよ…師叔」
「のう…ヨウゼン」
太公望は虚ろな目を闇に向けた。
「人は死んだら土に還る…わしらはどこに帰ればいい?」
「師叔…・・・」
「土に還ることも叶わぬ身か……」
頭を抱えて自嘲気味に笑う。
ここまで脆さを出した太公望を見るのは初めてだった。
「今夜はもうお休みになったほうがいいですよ」
「ヨウゼン」
「どうかしましたか?」
「わしを…抱いてくれ…・・・今夜は一人で居ると気が狂いそうじゃ…・・・」
人恋しいのは誰も同じ。
「師叔……」
ヨウゼンの道衣に手をかけて脱がせていく。
かかる息が酒気を帯び、唇越しに残る酒が伝わった。
自ら衣類を落とし、ヨウゼンの身体に口付けを落としていく。
少し熱を帯びたそれに舌を絡める。
「師叔!」
「わしが誘った。気に病むな…」
ヨウゼンからすれは太公望は格上の者に当たる。
「それとも…迷惑か?」
「…いえ……そんなことは……」
丹念に舐め上げ指を這わせる。
先端から滲み出る体液をすくうように舐め採っていく。
「…っ…師叔……もういいですよ……」
太公望はヨウゼンの声を無視し、行為に没頭した。
一瞬だけもいいから忘れたかったのだ。
この現実を。
姫昌がいないという事実を。
手の中で硬度と熱さが増していく。
ここぞとばかりに口中で吸い上げると刺激に絶えられずに熱が吐き出された。
生暖かい感触と苦味を堪えて飲み下す。
それでもこぼれた白濁を太公望は手で拭った。
「……師叔……」
再び硬度を増してきたヨウゼン自身に手をかけて、ゆっくりと腰を下ろす。
「無理は……しないで下さい……」
「…ヨウゼン……」
入り口に熱が触れ、埋め込まれる。
「あああっ!!!!」
無骨な指が腰を抱く。
つながった部分がぐちゅぐちゅと淫猥な悲鳴を上げる。
「…あっ…いいっ……!…」
ヨウゼンの動きにあわせて腰を振る。
「んぅ…!!…ああああっ!!」
「…師叔…」
ヨウゼンの手が太公望の髪に触れる。
「泣いてもいいんですよ……」
「…ヨウ…ゼン……」
「ここには今、僕と師叔しかいません…だから…泣いたっていいんですよ」
姫昌を送り出す中、太公望は泣くことも目を背ける事も無かった。
「今だけでもかまいません。あなたの心を少しでも楽にしてあげたいんです」
か細い身体。
これから先、いつ終わるともわからない戦火に飛び込んでいく女性。
「師叔…」
「あ…んんっ!!!!!」
下から突き上げられ、身体が悲鳴を上げて軋む。
「あああああっ!!!!!!!」
波にさらわれる寸前、太公望は彼の人の声を聞いたような気がした。
それは幻聴だったのかもしれない。
ただ、このひと時、何もかもを忘れたいと思うあまりの。
折り重なったままの身体はまだ余熱で熱く、引き抜かれる感触は官能を刺激する。
「わしは……弱いのう……」
「誰だって耐えられないことはありますよ…師叔…」
太公望の手をとり、甲に接吻てくる。
「苦しんでるあなたに付け込んだ僕も……罪人です」
「…………」
「泣いてもいいです。悲しいときは。誰だって……弱さがあります」
抱き寄せて、軽く唇を合わせて。
「僕は秘密は守りますよ」
「…ヨウゼン…」
零れる涙がヨウゼンの胸に落ちる。
両手で顔を覆い、声を殺した嗚咽。
逝かないで欲しかった。
もう少しだけでも、ともに歩みたかった。
最後にあのひとが発した言葉。
それは自分の名前だった。
「呂望」と呼んでくれた。
土に還ることができるのならば、折かさなって朽ちて行きたい。
「…師叔……」
触れただけでも壊れそうだった。
それでも、抱きしめずには居られなかった。
自分の腕の中で声を殺して泣きじゃくる少女。
運命は容赦なく襲い来る。
「…僕は強くなります。もう、あなたが泣かなくていいように。苦しまなくていいように…」
たった一人すら守れないこの不甲斐なさ。
何もかも、あなたに差し出して守りつくしたいのに。
この恋はお互いを滅ぼすものなのかも知れない。
わかっていても、この少女を手放すことが出来ない自分がここに居るのだから。
「だから、今だけは……道士であることを忘れてしまいましょう……」
「……ヨウ……ゼン……っ……」
泣く方法を忘れてしまった子供が一人。
柔らかき魂がただ、そこにあった。
翌日、少しはれた目を擦りながら太公望は溜まっていた書類に目を通していた。
「師叔」
「おお、ヨウゼン」
哮天犬から降り、一礼をする。
「その…夕べはすまんかった…」
「いえ…かまいませんよ。それよりも今度お酒を飲むのなら僕も誘ってください」
ヨウゼンは何もいわない。
太公望も何もいわない。
「これでも師匠に鍛えられてますから」
「わしとて負けぬぞ、普賢とよく呑んでおったからのう」
「白鶴洞には良き仙桃があると噂には聞いてますが……」
笑いあう声。
吹き抜ける風はただただ優しい。
「哮天犬、こんどはおぬしも遊びに来るが良い。スープーの遊び相手になってくれぬか?」
頭を撫でれば、千切れそうに尾を振る姿。
「哮天犬も師叔のことが好きなんですよ、僕と一緒で」
「……臆面もなくそのようなことを……」
涙が出そうなほど、碧い蒼。
空は雲一つなかった。
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