◆終わりなき始まり、或いは始まりの終わり◆
二つの仙界を失い、仙道は西周を生活の起点とすることになった。
太公望を始めとして道士は深手を負ったものが殆ど。
治療班として太乙真人と雲中子が忙しく走る。
「太公望、具合はどうだ?」
男の声に少女は静かに顔を上げた。
身体の傷よりも深いのは、心に負ったそれ。
笑う唇が以前よりもずっと大人の色身を増した。
「大分良いよ。それにそんなに休んでもおれぬ」
額に触れる手のひらに、少女は静かに目を閉じる。
「無理だけはすんな。俺とか旦とかで動けるところは動くから」
一人にしておけば下手をすれば自傷しかねない空気。
「……発……」
「?」
「わしは誰のために何を守ればよかったのだろうな……」
なくしたのは何よりも大きかった半身。
来るはずだった明日を重ねて親友は小さな家族を迎えるはずだった。
多くの仲間の未来を奪ったのは紛れも無く自分。
「あのな……望」
項垂れる少女を諭すように、男は口を開いた。
「普賢ちゃんは、後悔なんてひとっ欠片もしてないと思うぞ」
ただ悲しんでくれれば良いと、親友は最後に呟いた。
何を思い何を夢見て、誰のために答えを出したのか。
「普賢ちゃんな、お前がいねぇときに一回来たんだ」
「普賢が……?」
一つ一つ、足跡を残して。
「望を守ってくれって。そんだけだけどな」
自分の未来を知っていたからこその言葉。覚悟を抱いて彼女はその命を武器に変えた。
誰も自分を責めることが無い。
誰も自分をののしることも無い。
だからこそ、この痛みをどこに投げ出せばいいのかわからない。
「俺はお前がいつでも帰って来れれるようにお前の家を作るって決めたんだ」
帰るべき場所があるから、戦うことが出来る。
汚れた手をつないで「おかえりなさい」と言ってもらえる家があるから。
「任せろ。お前が泣ける胸にはなってるだろ?」
「そうだのう……おぬしが帰って来いと言ってくれる……一人ではないのだな……」
もう少しだけ心を休めて。
それから、旅立とう。
「モクタク」
自分の名を呼ぶ声に少年は振り返る。
「何だ、天化か」
欄干に座って見上げた空。そこにあるべき仙界はもうない。
「ちょっと、いいさ?」
「あー」
細身の身体に似合わない筋力と洞察力。
普賢真人が育てた最初で最後の愛弟子。
「コーチたちは……どんな風に逝ったさ……?」
彼の師匠は逃げることなく先陣を切って男に向かった。
まっすぐにただひたすら前だけを見つめたままで。
「……道徳師伯も、師匠も……十二仙の看板全うしてたぜ」
悲鳴も嗚咽も上げずに、少女は仲間が肉塊になっていくさまをじっと見詰めていた。
禍々しいほどの空の青さと、砕け散った命。
ただ残った宝貝の残骸だけが彼女がそこで消えたことを記していた。
「泣けねぇよなー……師匠から師叔守れって言われてっから……」
光である少女を守れ、それが彼女の最後の言葉。
この先もその腕を支えて自分の代わりにこの世界の行く末を見届けろと。
「師伯もさ、今まで一番格好よかったかもな。あんなんだったらあの女も惚れるよなー……」
並んで見つめる西周の風景。
自分たちの選ぶべき道は彼らが敷いてくれた。
「宝貝なんかさ、いらねぇっつのな。俺っちになんかやりたくなくて仕方なかったろうに」
「ははは。かもしれねぇ」
手を叩きあって、こぼれそうになる感情を噛み砕く。
「やってやろうぜ、天化。この革命を」
「そうさね。まだ俺っちたちにはやるべきことが山積みさ」
泣き出しそうなこの空の色。涙は溶けて雲になった。
最後に見た風景は目を開けていることも出来ないほどの眩しい光。
「……死に場所を違えたか……」
体中を這い回る夥しい管と流れる培養液。
「僕が残って君も生きた。それには意味があるんだと思う」
青年の手が頬に触れて、女はそっと瞳を閉じた。
体を流れる血の暖かさ。仲間がつないでくれたこの命。
「道行、今度は苦しくないように生きてみようよ。二人で……」
「そうじゃな……この世界の果てを見よということなのだろうな……」
耳の裏で響いた声。
並んで歩いた同期の男。
「今度は俺がお前ぇを助けてやっからな。ちゃんと生きろよ」
伊達眼鏡を指で押し上げて、唇だけ彼は笑った。
「太乙真人!!俺はいいから早くその女を修理してやれ!!」
少年の声に女は顔だけをそちらに向けた。
同じように繋がれた身体と、生気に満ち溢れた瞳の色。
「あのねぇ……道行のは修理じゃないんだ。君とは違うんだよ」
「同じじゃ。ナタク、互いに身体が治ったら稽古でもするか」
震える指先を伸ばして。
「儂を守ってくれたな……ありがとう……」
「……お前が死んだら、面白くないからなっ……」
互いがここにいることを確かめ合う。
少年の身体とてそう簡単に治るものではない。
設備の常態も満足とは言いがたいものなのだから。
それでも昼夜を問わずに青年は傷を負ったものを不休で治癒する。
「娘は……」
「彼女は浄室から出て無いよ。いずれはもっと楽になれるようにするから」
見上げてくる瞳に、笑う唇。
今度はこの手を守れということなのだ。
「君は治療に専念して。それからまた……二人で行こう」
頷く姿に、そっと手を握った。
周りを見渡して、少女は男の手を取った。
「行けそう。あっちまで連れて行って」
勝手が違う空間にもようやく慣れ、大まかながら構造も分かってきた。
「誰に会うつもりだ?普賢」
「聞仲」
静かに呟く言葉に、男は首を振った。
念じれば叶うならばと小さな邸宅と、一本の樹。
身重の彼女に必要なものと時折たずねてくる仲間を迎えるための茶器。
「ね、でも……ちゃんと育ってるんだよ。どうしてんだろう」
自分たちの肉体はすでに砕け散った。
魂魄体としてこの封神台で次の時期を待つというのが建前になる。
内部の移動はそれなりに寛容らしく、温厚な妖怪仙人が時折たずねてくることもあるほどだ。
「あと、通天教主とその奥さん」
「一度には無理だろ。最初に誰に会うつもりだ?」
封神台の解析を担っていた彼女にすれば、内部は予想外のつくりだった。
魂の幽閉には変わりは無いが極端な不自由も無い。
その気になれば内部から打ち破ることも可能なのかもしれない。
ただ実行しても肉体が無いので意味は成さないが。
「ね、触ってみて」
まだ、なだらかな腹部。そこに大きな手を導く。
魂魄体でもこの体はまだ命を育む事が可能だという証明。
少しずつ乳房にも変化が現れ始めている。
「早く動くの分かるようにならないかな……望ちゃんにも……」
言いかけて唇が止まる。
親友にはもう簡単に会うことは出来ない。
「今日はゆっくり休んで、明日行こう。お前が変な心配をすれば子供にも伝わるだろ?」
「うん…………」
幸いなのは二人でいられること。
一人だったならば不安に押しつぶされていたかもしれない。
「いっぱい笑って、元気な子を産もうな」
「うん。ありがとう」
頬に触れる柔らかな唇。あの日から何一つ変わってはいない。
抱きしめあって眠る夜も、二人で迎える朝日も。
「あのね……あの時、一緒にいてくれてありがとう……嬉しかった」
薄い唇にそっと自分のそれを重ねる。
「もう少しだけ、ボクの我侭を叶えてくれる?」
「ああ。それは俺の役目だからな」
自分たちに課せられた役目は、まだ解かれてはいない。
手をつないでもう一度、空へと飛び立とう。
傷口がふさがる前に、新しい傷が生まれる。
膿んだそこはを切り取って彼女はまっすぐに前を見つめた。
「発」
白を基調とした部屋着と、肩の下で揺れる黒髪。
「太上老君という人物が居るのだが、そやつにあってみようかと思う」
唐突な言葉に男は少女の瞳を覗き込んだ。
起き上がれるようになったとはいえ、まだまだ休養が必要な状況に変わりは無い。
「妲己と戦うには戦力不足。味方も大分減った……ここらで妲己に引けを取らぬ人間の
力をこちらにつけたいのだ」
三大仙人の一人として太上老君はその名を馳せる。
しかし、実際のところのその素性を知るものは少なく情報も細切れだ。
砂の中から小さな宝石を見つけるよりも困難な捜索。
それでも彼女はその小さな望みに掛けるという。
「わしはまたしばらく西周(ここ)を空けるが、殷への進軍はおぬしがいるから大丈夫じゃな?」
爪先で立って、男の額に指先を当てる。
そのまま少女の背中を抱いて、男はその唇に自分のそれを重ねた。
入り込んでくる舌先と、抱いてくれる腕の優しさ。
角度を変えるときにだけ許される呼吸と息遣い。
「……っは……」
舌先を糸が繋いで、少女は男の胸に頬を寄せた。
「うちの軍師はお前だけだ。忘れんなよ」
「………………」
「俺一人じゃどうにもなんねぇ。必ず帰って来い。国王命令だ」
その声に、小さく頷く。
「立派になったのう……発……」
小さな唇と幼い容姿。けれども、彼女は自分の倍以上を生きてきた。
数多の命を、仲間を見送ってなお休むことを許されない立場。
「!!」
ひょい、と抱き上げられて寝台の上に降ろされる。
窓枠の外ではようやく夕日が蕩けて来た。
「まだ夜には早いぞ?」
「仕方ねーだろ、こっちが治まりそうにねぇんだから」
手を取ってそのまま下穿きの上からそこに触れさせる。
「……若いと言うのか、節操が無いと言うのか……」
こぼれるため息と、小さな笑み。
頬を両手で包んで、鼻先に軽い接吻を。
「わしがおらん間、浮気などするでないぞ?」
長い睫が挑発的に瞬く。
「太上老君ってやつが男だったら、やべーな。寝取られそうだ」
耳朶に触れる唇に、太公望は瞳を閉じた。
「そう思うならばわしがそんな気を起こさぬように、しっかりと抱いてくれ。
これからしばらくは逢えぬのだからな……」
まだ定まらぬこの思い。
旅立ちは遠くて近い。
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0:48 2005/10/12