◆十三回目の弓張り月◆
フルーツやハート模様のプリントされた小瓶を手に取る。
テスターと書かれたものの蓋をぱちん、と開ければ甘い香り。
(んー……良い匂いだけども火渡にはちょっと違うよなぁ……)
ホワイトデーのお返しにのポップに目をやれば生まれる気恥ずかしさ。
バレンタインデーは手作りのトリュフと生チョコ。
(あれはブラボーな美味さだった……火渡もほんのりチョコの匂いがしておいしかったしな)
寒さに弱い彼女のためにシルバーのストール。
でもそれだけでは物足りないと身体を包む匂いを探したかった。
(みんなホワイトデー何だろうな……って、あれは戦部……あいつもか……)
明らかにその場にはそぐわない体躯の男が腕組みしたまま棚を睨む。
その眼光だけでも陳列されたボディシャンプーたちは落下しそうな勢いだ。
(おいおいおい……お前の周りだけ殺気が漂ってんぞ……)
つかつかと進んで肩に手を置く。
「よ。やっぱお前も照星さんにお返しか?」
「……防人戦士長……」
「俺も火渡に何いいかな〜とか見ててだな。んで、クランベリーとパッションフルーツってのに
することにしたんだ。匂いが火渡!!って感じでな……どうした戦部?」
がっくりとうんだれる様のは狂乱の戦士の姿も無い。
戦士長の名を持つ防人もニットパーカーにジーンズというラフな格好だ。
「あいつはいないのか?」
「火渡なら今日は料理教室だ」
「通う必要があるのか?」
「お前の大好きで愛するお前の奥さんのために、教室を開いていると言えば理解できるか?」
防人の唇がさわやかにそれでいて若干意地悪く笑った。
「で、俺はそんな可愛い火渡が俺のためにバレンタインの時、がんばってくれたからその気持ちに
感謝と愛情を持って応えるためにここで買い物してるんだ。お前だってそうだろ?お前の大事な
照星さんが張り切ってバレンタインの時チョコくれただろ」
慣れない作業で傷だらけになりながらも彼女は手作りのチョコレートを彼に手渡した。
(まあ、ちょっと血とか混ざってるかもしれないけど)
大戦士長の立場を持つ妻と一戦士の夫。
組み合わせとしては何とも不揃いなのだろうが本人たちは特に不満は無いらしい。
「あんたはいいよな……火渡は言えばきくだろうし……」
「照星さんだって良い女じゃないか」
「だったら……」
「俺の好みじゃないけどな!!」
目当ての物をラッピングしてもらって受け取る。
甘酸っぱいにおいに包まれた彼女はさぞ艶めかしいだろうと思いながら。
それよりも受け取って中を見たときにどんな顔をしてくれるだろう。
「お前も諦めて何か買って行けよ。ほら、カシスローズなんかどうだ?あの人薔薇好きだし、
薔薇しょって出てきてもおかしくないし」
「……あいつに何を渡しても大して喜ばんだろ……」
格差はコンプレックスになってしまう。
立場も能力もはるか上の美女。
「お前が贈るんだったら照星さん、何だって喜ぶさ。そんなのもわからないもんか?」
彼も彼女もセックスは出来ても恋は苦手な体質だった。
いざ生活してみれば見えてくるお互いの姿。
「普段は戦部が作ったり外食が多いから、せめてお菓子くらいは作れるようになりたいのです」
「?」
「照星さんがそう言ってたんだよ。まったく……俺らもようやく二人で過ごせると思ったら
まだあの人のお守しなきゃならないらしい」
同い年の二人はゆっくりと男と女になっていった。
戦士として傷も過去も共有しながら。
真っ赤なリボンが結ばれた包み。
「んじゃ、俺は帰るから。お前もプレゼント買って行けよ」
風薫る季節はまだ遠く、出会いと別れの混同した弥生の空。
見上げて呟くのは誰への言葉か。
さよならだけが人生だなんて、言わせたくはない。
「おかえり」
当たり前がこんなにうれしいと思えるのは。命の危険がこんなに少ないと思えるのは。
「うわ、手ぇ冷てぇ……」
「ん、歩いてきたからだな」
漂う甘い香りに眼を閉じる。
その姿に火渡が笑った。
「今日はお前の好きなパウンドケーキとガナッシュだぜ」
「…………………」
「……嫌だったか?ごめ……」
「いや。そうじゃないんだ」
パッケージングされた包みを渡されてリボンを解く。
中にちょこんと座るのはボディシャンプーとボディーバターだった。
「あ……」
その中の一つを取り出して苦笑する。
「バニラだ」
「お菓子とかにも入れるだろ?だから何かお前のイメージ強くてさ……で、帰ってきたら
良い匂いなんだけど、俺ってタイミング悪い男だなって思ったところだ」
包みをぎゅっと抱きしめる姿。
「サンキュ、衛」
嬉しそうな顔を見れば少しくらいの恥ずかしさは消し飛んでしまう。
「戦部にもあったぞ。青い顔して照星さんへのお返し選んでた」
「照星さんも苦労してるけどな」
「?」
「だからさ……」
何もできないままでも良いと言われても、せめて紅茶に合う菓子くらいは作れるようになりたい。
特殊任務を主として戦士長として動いていた彼女にとって日常というものは非日常だった。
ロザリオに込めたのは己の命を長らえることではなく、小さな命を守りたいという気持ち。
男に抱かれることはあっても恋を覚えるのは数えるほどだった。
「今が戦部と恋愛中なわけか」
「そう。犬飼大戦士長じゃ恋愛じゃないもんな。愛人生活だし」
莫大な遺産と地位を得ても、彼女の心は成長することはなかった。
止まった時間と逆さ周りの時計だけが虚しく刻んでいく。
「今日はジンジャークッキーとココナッツサブレ。簡単なとこから始めたんだけどよ」
「火傷とか……ああ、多少の怪我は怪我じゃないもんな……」
だからこそ、彼女は二人には日常を与えた。
戦士としてだけではなく普通の生活を、思い出を与えたかったのだ。
「俺らみたいに学校行ったりとかも少なかったっぽいしな」
「ほとんど家庭教師と通信だって言ってたし……戦部も馬鹿だから照星さんのこと、ちゃんと
見てねぇんだよ。ヤるだけヤって、背中に爪痕一つねぇってどんだけ遠慮してんだか
わかれってんだ……ったく……」
愛人としての生活が長かったせいか彼女はどんな男を相手にしてもその背に縋ることはなかった。
他人の鼓動を肌で感じて眠ることの安堵感も必要はないと呟くように。
「どっちもまだ恋愛始めって感じなんだろうな」
わしゃわしゃと赤い髪を撫でる大きな手。
「なんだよ」
「いや。俺はお前のことが本当に好きなんだなって思っただけだ」
君を守れるように強くなりたいと願った。
ともに生き抜くために立ち止まってなんていられなかった。
「普通さ、あんだけ美人でエロいねーちゃんが居たらさ、男は簡単に落ちるもんなんだ」
「?」
小首を傾げる姿に彼は続ける。
「その証拠に俺はお前に簡単に惚れた」
彼が言わんとするところはぼんやりとしかわからない。
「きっと、この先も俺はお前に惚れてるんだと思う」
宵闇に溶かした蒼い月。
それは彼の瞳の色で胸の奥底にため込んだものにも似た色なのだろう。
夜に浮かぶ白銀の光に希望を見出して。
戦場の赤を染め上げるふりをして白は全てを包み込んでしまった。
「戦部も大分人間になってきたんじゃないか?」
「んー……照星さんが普通の人かって言われたら絶対そうじゃねぇけど……凄くうれしそう
ってのは間違ってねぇし……」
ぺたん、と座り込んだ彼女を抱きしめる。
「こうやって抱きしめて」
重なる心音と耳に掛かる彼の息。
「好きだ、って言えばいいんだ」
その声が体温がゆっくりと細胞を侵食して離れられないように融合を謀り出す。
「……防人……」
「言わなきゃ伝わらない。伝わらなかったら……誰かにさらわれちまう」
同じようにその背中を抱く細い腕。
随分と彼の背も広くなってしまった。
少年と少女は男と女に変わり、互いの場所を見つけて手を繋ぐ。
「バニラとパッションフルーツってやつと……リンゴだ」
「全部食いものじゃんか」
けらけらと笑う唇。
不意打ちのキスをすれば彼女の動きが止まる。
「ああ、全部食いものだ。その匂いを付ける女も俺に食われるんだから」
真顔で言われれば呼吸が止まる。
「同じ匂いになるくせに」
「そしたら俺を食うのは誰なんだ?」
「俺だよ。なんで他の女に食わせなきゃなんねーんだよっ。馬鹿」
ぎゅっと強く抱きしめて肩口に顔を埋めれば彼の匂いに感じる至福。
「てめーが余計なことしねーように、一生監視してやる」
赤い髪に差し込む光が描くのはありきたりで平凡なものなのだろう。
それがどれだけ愛しくて大切なものなのかを理解できるという感情。
戦場から離れて初めて自分たちも人間なのだと理解するように。
「そうしてくれ。俺もお前を監視する。なんたって、再殺部隊の火渡戦士長を止められる
男なんて俺くらいだからな」
抱きしめてそのまま持ちあげる。
「んで、ケーキは?」
「あ?キッチンにあるぜ」
「んじゃ移動移動♪」
「……………………」
「どうかしたのか?」
形の良い唇を勢いよく塞ぐ彼女のそれ。
ふっくらとした口唇が挟み込むようにして重なった。
「さっきやられたからな」
「……そりゃどうも……」
丸ごとケーキ皿に乗せて彼の前に突き出す。
一つで満足できるはずがないと三つ焼き上げてそれぞれの味を変えた。
「やっぱ美味いなー、火渡のケーキは」
「こぼすな」
子供のように頬張る姿に悪態は吐いても唇は綻んでいる。
「今頃照星さんの手作りのお菓子食って、戦部も泣いて喜んでるんだろうな」
「…………………」
「おい……なんでそこで黙るんだよ……火渡先生……」
「……ぉぅ……」
視線を逸らして煙草に手を伸ばす。
お気に入りのライターなのに着火しないとそれを床に投げ捨てた。
「試作品は美味かった。問題は帰ってから照星サンが変なアレンジしてなきゃ良いんだがな」
作戦の変更は昔からよくあった。
多少無茶な変更でも対応できたのはそれだけ照星部隊の三人が優秀だったからだろう。
「帰りに戦団の医局寄っていくとか言ってたな。バロンで帰ったし」
「…………そうか」
「ああ。もっとあるぞ。食え」
「戦部、死んでないといいんだがな……まあ、俺はお前とストべりってられるならどうでもいいっちゃ
いいんだが……顔に死相出てたしな……」
それでも世界は回っている。
喜怒哀楽悲喜交々、全て抱きしめて知らないふりで朝はやってくるように。
銜え煙草で椅子に座り、向い合せで視線を絡ませられることが。
どれほど有難くそして渇望しただろうか。
「いいなあ……バニラ好きなんだよな……」
「泡風呂でもするか?」
「お前が作ってくれるなら」
「OK。その後は自宅でソープだ」
飛んでくる拳を受け止めて。
「死ね」
「死なない。絶対に」
指先を絡ませてそっと引き寄せる。
息が掛かるほどの距離で重なる視線。
「愛してる」
「……ぇ……ぁ……」
呼吸が止まるような眼差しと彼の声が鼓膜を侵食する。
「病める時も健やかなる時も、夢の中でも地獄の底でも」
細胞に刻まれた彼の名前と遺伝子配列。
「……なんだよ、お前は違うのか?」
「だ、だって急にんなこと……」
困ったような視線が斜めに逸れて、恥ずかしそうに耳が赤く染まる。
「んじゃ罰ゲームでソープな」
「死ね。今すぐ死ね」
それでも幾分が笑顔が大きくなったのは自分との共有空間があるからだと互いに自惚れたい。
「よし、死ぬなら泡風呂だ」
「言ってろ馬鹿」
こつん、と触れあう額。
祈るような優しさを永遠と夜の隙間に閉じ込めて。
もう一度だけ二人で瞳を閉じた。
19:06 2010/03/18