◆衛星カフェテラス◆





「お嬢さま、おかしな月ですね」
いつもよりも赤味のない月だとメイドは呟いた。
普段ならば二人の銀髪を薄紅の月光が照らしだすこの時刻。
窓の少ない館に暮らす主は幼い吸血鬼。
それでもツェペシュの末裔たる彼女は夜を統べる支配者でもあった。
「咲夜、あれは偽物の月よ。もう随分と満月を見てないわ」
紅茶よりも赤い瞳がじっと月を見つめる。
少しだけ波打つ銀髪に透き通るような赤い瞳の少女はその名をレミリア・スカーレットと言う。
「では、あの月は……」
「月によく似せた何かよ。困ったわね……満月は私たち吸血鬼にとっても大事なものなのに」
いつもならば麓の巫女が異変解決に乗り出すはず。
しかし、もはやそんな流暢なことは言ってられないほどに事態は緊迫していた。
「明日にでも乗り込むわよ」
ティーカップを置いて主はいつものように窓際で瞳を閉じた。
静かにカップを片付けるメイドの名は十六夜咲夜と彼女が名付けた。
運命を操ることのできる吸血鬼と時間を操ることのできる人間。
紅魔館を取り仕切るのは事実この二人だ。
「お嬢さま、御代りをお持ちしましょうか?」
「そうね。少しだけ蜂蜜を多めにして頂戴」






カップケーキに手を付けながら少女はその眼を瞬かせる。
「えー!!お姉さま、私も一緒に行くよ!!」
揺れる金色の髪は蜂蜜よりもずっと甘く煌めく。
同じ紅い瞳を持つ妹は無邪気にケーキを頬張る。
「だめよ。フランはここで待ってなさい。遊びに行くんじゃないんだから」
「だって面白そうっ!!」
はしゃぐ妹のカップに二杯目の紅茶をメイドが注ぐ。
「フラン。ここで私とお留守番してましょ」
長く伸びた髪を指に絡ませて、もう一人の少女が穏やかに笑う。
紫交じりの柔らかな髪とそれを留める月型の飾り。
魔女として生を受けた大図書館の主。
「パチェ、悪いけどもフランを見ててもらえる?」
「ええ。レミィは咲夜を連れていくんでしょ?」
「そうよ。パチェじゃ途中で息切れしちゃうでしょ。うちのメイドはそこいらの妖怪よりも
 ずっと強いからね」
フォークを苺に突き刺してレミリアはにやり、と笑う。
その歪な赤さも禍々しさも彼女が吸血鬼たるものだからこそ。
「フランドール様、お留守番の間に遊び相手をお呼びしますね」
その言葉にフランドールが顔を挙げた。
「魔理沙?魔理沙が来てくれるのかなぁ?」
「そうね。魔理沙だったらフランと遊んでも平気ね」
パチュリーの言葉にメイドは静かに頷く。
魔法の森に住む少女は箒に乗ってこの館にやってくるのだ。
時に門番と談笑し、時に大図書館で書物を読みふける。
朗らかで気さくな性格はまだ幼さから抜け出せないフランドールから見ても好ましい。
悪魔の妹の異名を持ち、あらゆる物を破壊する能力を持つ少女と戦える稀有な存在。
八卦炉を片手に放つ魔砲は派手で鮮やか。
恋を閉じ込めたその唯一無二の魔法力は主のレミリアも認めるほど。
「じゃあ、私が手紙を送っておくわ」
「すいません、パチュリー様の御手を煩わせてしまって……」
揺れる二房のお下げ髪。一人だけ与えられたヘッドドレス。
銀のナイフをガーターに仕込んだ月夜の殺人鬼は、虫も殺さないような顔で微笑む。
十四日目の偽物の月はいよいよ狂い始め、レミリアは静かにその月を横目で刺した。





「魔理沙〜〜〜〜〜っっ!!」
箒を手に歩く少女に駆け寄る影。
細い腰にぎゅっと抱きつけば伸びた手が小さな頭をそっと撫でた。
「遊びに来たぜ、フラン」
「待ってたよ!!あのね、私ね、色々と憶えたんだよ!!」
生まれてからほとんどの時間を地下牢で過ごしてきたフランドールにできた館外の友人。
自分のかぶってきた帽子を少女の被せて魔理沙はあたりをきょろきょろと見回した。
「ごめんなさいね、魔理沙。どうせだったらあなたもいたほうがいいかと思って」
「私は構わないぜ?どうせ借りた本も返そうと思ってたところだし」
片手でフランを抱き上げて少女はパチュリーの隣に立った。
頭上に狂う偽物の満月。
「で、何が目的だ?レミリア」
闇に羽ばたかんとするその禍々しき蝙蝠にも似た一対の黒き翼。
唇の端から覗く鋭い牙と余裕と気品にあふれた相貌。
「決まってるじゃない。満月を取り戻しにいくのよ」
月光は魔力を増幅させる。しかし、それは本物の月であればこそ。
この偽物のそれは何の力も生まずに苛立ちだけを増幅させる。
「ふん……まあ私は人間だからあんまり関係はないけどな」
姉とはまったく違ういびつな羽の妹は、ぼんやりと月を見上げた。
いつもならば七色に輝くはずの翼はただの硝子のよう。
「魔理沙ぁ、あのお月様変だよ?」
「みたいだな。今からフランのお姉さまが直しに行くってさ。フランは私とパチュリーと
 お留守番だ。一晩中遊んでやるぜ」
「本当!?お姉さま、咲夜、私ちゃーんとお留守番してるからね!!」
磨き上げた銀のナイフで討ち抜けないものは無い。
リングベルトに仕込んだ特性の一本は主に与えられたもの。
「お嬢様、リボンが曲がってますわ」
細い指先がドレスのリボンをそっと直す。
その色もまた、彼女と同じ赤よりも紅い赫。
「行くわよ」
「はい」
大地を蹴って目指すは月への道。
見上げる少女たちと僕たる蝙蝠たちの羽ばたきがパレードのように二人を送り出した。




真夜中を切り取ってその時間を少しだけ止めた。
朝が来ないならば太陽を引きずり出せばいいだけだと。
狂った月は弾丸によって導かれいよいよ本物の満月の登場だ。
月の姫と名乗る黒髪の少女は不適に二人の前に存在した。
「咲夜、本物の満月よ」
「ええ、お嬢様」
少女の左手に生まれる真っ赤な光。それは弾丸のように目の前の月姫に降り注ぐ。
彼女もまたそれを傘でも指すかのようにすべて弾き飛ばした。
「嫌ね。人間っていうのは短絡的で」
「あいにく私は吸血鬼だ」
「その羽見ればわかるわよ。下品で粗野な地上の妖怪」
その言葉にレミリアの瞳が鋭く光る。
圧倒的強さを誇り、最高位に君臨する種族は自尊心もまた同じ。
「あなたは確かに月の姫かもしれない」
主の一歩だけ後ろに立ち、メイドは続ける。
「しかし、私にとってはお嬢様こそがただ一人の姫」
指の間に煌く銀のナイフ。
「私からすればあなたは余程悪いことをした偽者の姫。討たない理由が無い。まして、
 お嬢様に対するその蛮行。死してもまだ軽い」
閃光一線、空間を切り裂く銀色。
「お嬢様は誇り高き吸血鬼。いまやこの月は本物」
レミリアの双眸がその紅さを強めていく。
鋭さを増した牙といっそう禍々しく伸びる漆黒の翼。
「最強のお嬢様と最強の人間。どれだけ強いか試してみる?」
光るナイフと紅い弾丸。
幻想的な夜は始まったばかりだった。





月の姫は結局地上で生きることを選んだ。
この幻想郷はすべてを受け入れて、飲み込んでいく。
「咲夜。準備はできたわね?」
草木も眠り妖怪さえも眠る丑三つ時。
吸血鬼の少女は従者を引き連れて再び迷いの竹林を目指すこととなった。
「肝試し、そんなに楽しみですかねぇ……」
「面白そうじゃない」
その月の姫が提案した肝試しに、レミリアは喜び勇んで参加することに。
興味のあるものには純粋に飛びつく性分は子供特有のもの。
「そうですね。お嬢様がそう仰るなら」
「でも、フランには言えないわね。ま、またあの黒いのと遊んでるからいいけども」
月姫は決して死ぬことの無い存在。
その不死人が仕掛けてきた話が普通であるわけが無い。
目指すは竹林の奥深く、月が美しく輝く丘。
兎の影も眠りこけて妖精、妖怪が跋扈する暗い暗い緑の奥の奥。
「お嬢様、竹葉でお怪我はなさってませんか?」
襲い来る妖精など物ともせずに切りつけ打ち落としていく銀のナイフ。
今日もリングベルトに留められた銀色の一本が輝く。
「大丈夫よ」
爛々と輝く紅い瞳と煌々と照らす月。
満月に浮かぶ二つの影は兎よりも巡り巡る。
「さて、こんな奥まで来たけれど……何か出るのかしら?」
腕組みをして立つ少女の傍らには瀟洒な従者。
かさ…響く葉摺れに僅かに視線が移る。
「おや、こんな丑三つ時に珍しいお客さんだ」
足首まで伸びた灰白の髪、色素の抜け切った肌に真紅の瞳。
それはどこと無く吸血鬼たる彼女に近いものがあった。
「肝試しに来たんだけども」
「人間と妖怪で?なんともおかしいお話」
口元を手で覆って、少女はけらけらと笑う。
聞けばずっとこの竹林でのんびりと警護しながら半獣の友人と暮らしているらしい。
「そういえばさっきそんなのを打ち倒して来たわね」
満月の晩の白澤は完全なる歴史食いの妖獣。
その強さは折り紙付である。
「なんと。慧音を倒してきたと」
「月の姫ってのも倒したわ」
レミリアの指がゆっくりと目の前の少女を指した。
「次は……お前かな?」
「あなおかし。名も知らないままに殺しあう。しかも、輝夜をも打ち倒した」
笑い転げる少女が静かに告げた。
「私は藤原妹紅。人間よ」
「ふん……人間は私を恐れる。私は夜の王だからね。なのに、お前は恐れない。
 それにお前は人間のにおいが薄い……」
にんまりと笑う少女の瞳が吸血鬼を静かに捕らえた。
「あはは。私は死ぬことが無いからね。どんなに切り刻まれても、焼かれても決して
 死ぬことのできない人間」
「それを化け物って言うんだろ。人間はいつか死ぬ。不老不死など妖怪以外にありはしない」
不死の身となれば見送る側に常に存在し、残される側として永劫を過ごす。
それは止まない孤独の雨に同じ。
「人間じゃないけども妖怪でもない。私は私」
銀髪を結ぶ髻に刻まれた古の呪文たち。
「人を食らわぬ妖怪など恐れるに足らぬ」
「馬鹿馬鹿しい争いよりも紅茶を飲む毎日のほうが楽しんだよ。それの何が悪い」
館に住まうたった一人の有限たる命の人間。
時に自分をたしなめ、そして盾ともナイフとなる瀟洒な従者。
「咲夜、肝試しって言うのは思い切りやっていいものなんでしょ?」
左手に絡まり始める稲妻と閃光。
同じようにナイフを構え、彼女は静かに頷いた。
「お嬢様がそう思うならば、その通りですわ」
「そうね。楽しい夜になるわね」




聞けば少女は不老不死の薬を飲んでしまったらしい。
蓬莱の禁薬は妹紅を人間から人の形をした蓬莱人に変えてしまった。
「咲夜、不老不死の生き胆を食べれば不老不死になれるよ」
座り込んでレミリアは指先でその場所を突いた。
伸びた真紅の爪が僅かに柔らかな皮膚を浅く切り裂く。
「お嬢様には必要ないのでは……」
その言葉にレミリアは傍らの従者を見上げた。
彼女と出会ってからの日々は、紅茶を飲みながら楽しく過ごすことを与えてくれように。
いつか朽ちてしまうことなどなくしてしまえればと時折願っていた。
「私じゃないよ。咲夜、あなた」
「私、ですか?」
きょとんとした従者はスカートの埃を払い、そして少しだけ困ったように笑った。
「死なないようになればずっと一緒に居られるよ。そしたら、パチェや美鈴、フランとも
 ずっとずっと一緒なのよ。なんて素敵」
人間は有限の命。その寿命など彼女の歴史に比べれば瞬きほどにも満たないだろう。
「お嬢様、私は人間ですよ。いつかは死にます」
少しだけうれしさの混じった声。けれども諭すように彼女は続けた。
「でも……生きてる間はずっと一緒にいますね。どんな風になっても私はお嬢様の
 隣にいますから」
一つ一つ選ばれた言葉たち。
「咲夜だって、ずっと一緒に居たいでしょ?」
くい、と少女の手がエプロンのフリルを握る。
「私やフランのことが嫌い?」
見上げてくる赤い瞳。
「大好きですよ。本当にお嬢様にお仕えできて幸せです」
リングベルトに留められたナイフに刻まれた自分の名前。
全てを失っていた彼女に名前を与え、居場所を与えたのは紛れも無くこの吸血鬼たる少女なのだ。
「私のわがままを一つだけお許しください、お嬢様」
「?」
「私は死ぬまで人間で居たいんです」
風に揺れるお下げ髪。
「でも……私はお嬢様と紅魔館のみんなが大好きなんです。それも忘れないでください」
紅茶を飲む日々が楽しいと思えるのも。
「どうしても駄目なの?」
日傘を差して表に出ることも。
「生きてる間はずっと一緒に居ますね」
彼女がいるからきっと、素敵だと思えるのだろう。
「…………そう。でも、生きてる間はずっと私の咲夜よね?」
「はい。十六夜咲夜はずっとお嬢様の御側にいます」
長い夜はいつか明けてしまう。それはさながら人の一生にも似ていて悲しい。
この夜を止めてしまいたいと願うことは不埒だろうか?
「妹紅とか言ったわね」
くるり、と振り返る。
「そこそこ強いみたいだから、気が向いたら紅魔館にいらっしゃい。私、妹が
 いるんだけども友達がほとんどいないのよね。あんたくらいの強さだったら妹も
 楽しめると思うし。それに……紅魔館(うち)の紅茶は美味しいわよ」
「…………………」
「悪さしようなんて考えないことね。私のメイドはこの通り、私の次に強いから」
永い永い夜を越えて迎える朝が来るその日まで。
彼女のために計算され尽くした紅茶は存在し続ける。
「湖の所よ。お互いに不老不死なんだから少しは仲良くしてやっても良いわよ」
「……気が向いたら、慧音と行ってやるよ」
「そのときは紅魔館の主としてちゃーんともてなしてやるよ」
羽虫を僅かに追いかける少女を見守りながら従者は妹紅に歩み寄る。
ぐったりとした彼女に視線を合わせるようにしゃがみこんで。
「変わってるわね。不老不死になりたくないの?」
リングベルトからナイフをはずして咲夜はそれを妹紅の前に差し出した。
柄に刻まれた名前はレミリアが与えたもの。
記憶も何もかもを失った彼女にレミリアは再びの運命を与えたのだ。
「私はお嬢様が与えてくださった十六夜咲夜のまま、死にたいんです」
永遠など自分には荷が重すぎる。
その瞳は何かを慈しむようにただ笑うばかり。
「私もいずれ老いて死ぬのでしょう。それまではお嬢様と共にありたい……」
「……慧音も、私よりは先に死ぬ。私はいつも一人になる……」
「紅魔館は素敵なところです。妹様のお話し相手に、遊び相手にぜひお二人でおいでください」
どんなときでも、たとえ死したとしても。
この心はずっとずっと隣に置いたままにして。
「咲夜!!帰るわよーー!!日が昇りそう!!」
「では失礼しますね、妹紅さま」
軽く頭を下げて従者は主の後を静かに付いていく。
完全で瀟洒なメイドは生涯を一人の主に仕えると誓っていたのだ。
「お嬢様、帰ったら美味しい紅茶を準備しますね」
「そうね。喉が渇いたわ」
朝焼けの少し手前、館についた二人を出迎える影。
「おかえりなさい!!お姉さま!!咲夜!!」
駆け寄ってくる妹と眠たげに欠伸を噛み殺す魔女と魔法使いの姿。
「どこ行ってたの?私も今度連れて行って!!」
「そのうちね。もう寝なさい、フラン」
少し乱れた三つ編みを直しながら、魔理沙は呟いた。
「風呂には三人で入ったぜ。お姉さまたちが帰ってくるまで寝ないってさぁ……」
「そう。ついでに力ずくで寝かせてくれれば良かったのに。咲夜、フランを寝かしつけてくれる?」
フランドールの背をそっと抱いて、メイドは寝室へと向かう。
ふいにこの少女もまた人間なのだと気付かされた。
「ねえ、不老不死にはなってみたいと思わない?」
唐突な問いに魔理沙は首を傾げた。
魔法使いたるもの、魔術の最高峰に位置する不老不死に興味が無いわけではない。
数多の魔道書に記されたそれらはどれも魅惑的なものばかり。
「うーん、確かに魅力的だな」
「そうでしょ?」
「でも……うん、私は人間のまま魔砲を極めたいぜ」
人間とは自分たちが思わないような思考を持つらしい。
メイドも彼女も出した結論は同じで、きっと麓の巫女も同じだろう。
「んじゃ、私もそろそろ帰って寝るぜ……またな、パチュリー、レミリア」
箒に乗って飛び立つ姿。
その軌跡から降り注ぐ七色の星屑たち。
「魔理沙が不老不死になったら、きっと毎日賑やかね」
図書館から出ることの無かった少女も幾分か表に出るようになった。
埃だらけの場所よりも緑の匂いは体にも良いらしい。
そのきっかけもまた魔法使いの少女。
「咲夜にも言ったのよ。不老不死になったらずっと一緒に居られるって」
「そうね。いつか咲夜も魔理沙も霊夢も……私たちより先に居なくなっちゃうものね……」
「生きてる間はずっと一緒に居るって言ってたわ」
レミリアの肩に乗せられる優しい手。
揺れる長い髪と少しだけ細まる深紫の瞳。
「魔理沙もね、生きてる間は遊びに来るって言ってたわ」
「……せめて最後まで笑ってなきゃね……」
「そうね……人間って悲しいけど、優しいわね、レミィ」




眠れないほどの永い夜。
切り取った真夜中を永遠にしたいと願った。






0:13 2009/03/06

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