◆オリオンスター◆
サーベルを磨きながらのんびりと飛び交う鼻歌。
夏の日差しは湿度さえなければ最高だと女が笑う。
「ベック、手空いてる?」
「空けてやっても構わんぞ」
「銃見て欲しいんだけど。自分でやろうとも思ったんだけどほら、ここ」
シャンクスがさすのは僅かに欠けた刀身。
見た目にはわかりにくくとも殺傷能力は激減する。
「欠けてるな」
「うん。銃まで手が回らなくなる予定なんだ」
「プロに任せたほうがいいかなーって」
夏の日差しを従えて女は甲板を自由に走り回る。
少しだけ大きくなったガレオン船と増えた乗組員。
「あんたはどうすんだ?」
くるくると回りながら歌えば、潮風になびくシャツにはマグノリワ。
揺れる赤髪に絡まる音色は海賊には思えないだろう。
「邪魔にならないようにしてるぜ」
「賢明かつ正しい判断だ」
どこに居ても目立つその真っ赤な髪。海を切り取った瞳に映るのは何色の世界だろう。
両手を広げて踊る小柄な船長を批判する者はいない。
潜り抜けてきた死線は数え切れない。
身体中に走る傷跡がそれを静かに物語るだけ。
「お頭は本当に副長を信頼してるんですね」
クルーの言葉にシャンクスが笑う。
「やだ。信頼じゃなくて愛してるのよん」
「はははは!!違いねぇ!!」
甲板で踊れば何よりも美しい真っ赤な花が開く。
太陽を頭上にして彼女は何物にも負けることはない。
「で、信頼してんのはこの船の連中みんなさ」
伸びた腕に絡まる傷口。
潮風がちくり、とそこを刺激した。
撃ち返しの反動が少ないように改良された特殊な銃。
外すことのない弾丸は空をも撃ち抜けるように。
彼女の赤に映えるように誂えた金。
赤皮のブーツを鳴らして、漆黒のキャプテンコートを翻す。
くびれた腰に絡みつくサーベルと死神の腕。
「お頭!!前方に敵船確認!!」
漂わせたハニーブレッドの香。齧りかけのブラッドオレンジ。
「どうすんだ?シャンクス」
混ざり合い溶け合う煙草の煙。
「丁重なオモテナシってやつだな」
果汁が唇を濡らしてまるで真っ赤な口紅でも塗ったかのように。
舌先が指先を舐めあげて視線を定めた。
「うちのベッピンさん見たらどんな男だってイチコロさ!!なあ、ベック!!」
女の傍らに立つ男は静かに頷いた。
「ああ。感じる前に死んでるからな」
そのサーベルに絡まった赤は一体何人分の血液だろう。
ツェペシュよりもはるかに血を好み、化け物に愛される存在。
フィギュアヘッドに左足を載せて、視線を前に向ける。
「銃も直ったし、試し撃ちにも良さそうだし、食材も確保できそうな予感」
荒くれ者たちをまとめ上げるのは赤い死神。
その柔らかな視線に込められた処刑台への道標。
スコープで確認して天に向かって突き上げられる拳。
「行くぞお前ら!!」
「オオオオオオオッッ!!」
湧き上がる完成と一斉に撃ちこまれる砲弾。
先陣を切って突っ込んでいく稀有な女海賊の賞金額は上がりっぱなしだ。
サーベルの先を濡らしていく赤。
どんな赤でも彼女の持つ色には見劣りしてしまう。
血だまりの上で華麗なステップ。
それはまさしく赤い死神。
「死ね!!赤髪!!」
頬を掠める弾丸に唇が横に歪んで笑った。
「嫌だね」
心臓を一突きにするサーベル。
そのままえぐるように肩に向かって走らせていく。
噴き出す血液がシャツを染めて甲板を汚した。
「あー、やっぱまだ磨ぎが甘いなぁ」
肉が絡まってくる、とぼやく口唇。
引き裂かれる筋組織と繊維質の匂いに眉を寄せた。
目指すのはたった一人だけ。その首を落とせば幕も下りる。
先端にまだ絡まったままの血管と肉の欠片。
「洗濯すっときにまた文句言われちゃう♪」
死体を踏みつければ上がる呻き声。
「あら?まだ生きてた?んじゃさよなら」
突き立てられるサーベルと何事もなかったように歩きだす女の姿。
鬼神でも悪鬼でもなく、シャンクスと言う名の海賊。
奪うことに躊躇いもなく、善人では無いあくまで賊だと彼女は笑った。
その瞳に宿る金色の光はまさしく暗夜を照らし出す。
「ハァイ♪ご機嫌はいかが?」
ドアを蹴りあげて喉元に突きつける銃口。
「海軍の傘下に入った船ねぇ……薄っぺらい正義感なんか持ってると長生きできないんだぜ?」
生き残れるのは運命を見据えたものだけ。
海軍の絶対正義を貫かんとする男を知る女は猫のような眼で笑った。
「……まがい物の赤髪がぁああっっ!!」
鮮やかに躊躇うことなく切りつけるサーベル。
利き腕の腱を確実に仕留めうずくまった男を思い切り踏みつける。
「足蹴にされんのってどんな気分?されんのはごめんだけどするのは最高だねェ♪」
ぎりぎりと踏みつけて屈託なく笑う。
「紛いもんだから今から本物になるんだぜ?」
従えた海賊たちは彼女以外の命令は必要としない。
「じゃあね、気が向いたら地獄で会おうぜ」
引き金を引く瞬間に躊躇など無い。
後悔などしないからこそ海賊は行きぬけるのだ。
綺麗事を並べても自分たちは所詮は賊。
しかし、賊なりのルールとプライドは守り通す。
赤髪のシャンクスが恐れられるのはそのルールを決して捨て去らないことだった。
「派手にやったなあ、シャンクス」
「ルゥ」
振りかえった女の頬をぐしぐしと拭う太めの指先。
「良い肉を詰んだ船だ。宴会が楽しみだぜ、ひゃひゃひゃ」
「みんなは?」
「んな弱ぇのがこの船に乗ってると思うか?」
「思わない」
「だろ。じゃあ、帰るぞ」
強奪した食材が豪華なディナーに変わるまで、船長はこってりと副船長の説教タイム。
直したばかりの銃は発砲するよりも打撃武器として使ってしまったせいか再調整になってしまった。
「まったく!!少しは物を大事にしろ!!」
冷たい甲板に正座させられ、姿勢も脚も限界状態。
「大事にしてんじゃんか〜〜〜っっ!!」
「してないから壊れるんだろ!!」
「替えがきかないものは大事にしてるもん」
涙目の船長が見上げてくる。
「何をだ」
「お前とみんなだよ。ほかに大事なものなんてないもん」
その言葉に乗組員たちが一斉にシャンクスを見つめた。
大事なものは他に要らない。
それは彼らもまた同じなのだから。
「お……お頭ーーーっっ!!」
「一生ついていきますっ!!」
「俺、赤髪海賊団以外に要らねぇっす!!」
「副長!!もういいじゃないっすか!!お頭の脚、真っ赤ですよ!!」
大事なものは一つだけ。
こぼれるほど持ってはいけない。
「しょうがねぇなあ……ほら、シャン。立てるか?」
差し出された手。
「立てるわけがない」
「そうだな」
いつものように肩に担いで。
「だからお前も俺を大事にしろってもんだぜ」
「それとはまた話は別だな、船長」
一番大事なもの。
黒髪に触れる真っ赤な髪。
血を浴びて真紅(スカーレット)に変わった彼女は何よりも美しい。
その女の加護の下で闘えば、ほかの船など霞んでしまう。
「ま、いっか」
「そういうことだ。サーベルは次の港で修理に出す」
「うん。これ、大事なもんだからさ」
「ああ」
「お前の次だけどな」
「ああ」
地獄極楽乗り越えて。
幽霊船を蹴散らして、花の都はいまだ見えず。
「幾らあんたが馬鹿でも風邪ひくぞ」
「海ってなんで夜だと黒いんだろうって考えてた」
「……ずいぶんと哲学的だな、あんたにしちゃ」
無意識に傷に触れる指先。
「痛むか?」
「……多分、気のせいだ……」
迷いは命取りになる。こんな真夜中にしか惑えない彼女の背中。
船長は絶えず船員の命を預かるのだ。
彼女が堕ちればこの船はセイレーンに飲まれる。
「なあ、ベック」
ヘッドにちょこんと座ったまま、彼女は男の方を振り返る。
「何だ?」
「もしさ、俺がもうすぐ死ぬってなったらさ……俺、お前の子供産もうかと思って」
「……なんだそりゃ?」
「腕が消えて、脚が動かなくなって、それでも俺の首は狙われる。どこに行ったって
安息なんてないんだからさ」
それは強い者の宿命。
「俺が残せるのはそれくらいだ」
柄にもなくそんなことを言った後、彼女は視線を逸らした。
滅多に見せない心の奥底の言葉。
「父子家庭ってのは大変なんだぞ。まあ、あんたの場合は……どっちにしても大変なんだが」
傷は増えることはあっても減ることなど無い。
残せるのはきっとそれだけ。
「どの道大変なら、俺はあんた付きを選ぶぞ。この船は簡単にゃ沈みやしねぇさ。あんたが
でかい腹したってその間くらい護りぬくだけの馬力もある」
だから、妙なことも余計なことも考えるなと唇が動く。
「あんたよりは弱いかもしれねぇが、俺だってそこそこ強いだろ?」
伸びた手が頬に触れる。
両手で男のそれを取って瞳を閉じた。
「俺の次くらいに」
「だったら十分だ。この船は沈ませねぇ。あんたが沈む時がこの船が沈む時だ」
背後に隠していたキャプテンコートがばさり、と投げつけられる。
袖を通すことが許されるのはたった一人だけ。
この船は他のキャプテンを受け入れることはない。
文字通り主はたった一人、赤髪のシャンクス。
「俺がおっきなお腹してたら笑うだろ」
「笑いやしないが……まあ、滑稽だな。真っ先に狙われる」
ぽふ、と赤い髪に乗せられる大きな手。
「大事なもんは宝箱に入れとかなきゃなんないな。あんたもそんときは船長室で留守番だ」
「そんな風になっても俺のこと守れるモン?」
「あんたのお守は俺の役目だ。安心しろ、誰にも譲らねぇ」
「……ん……」
走る三本の傷。
「馬鹿は風邪ひかねぇって言うが、洒落にならねぇ冷たさだ」
「んじゃあっためてくれよ」
「そのつもりで拾いにきてやった。ほら」
手を引いて歩けば頭上に降る星たち。
冬の手前の星座は流星になって海に降り注ぐ。
「海が黒い理由は見つかったのか?」
「なんとなく」
「どんな?」
「んー……少し屈めよ……」
屈んだ男の頬を包む女の両手。
視線がゆっくりと煙でも飲み込むかのように絡まる。
「酒場の女が歌ってた。赤は溶けて黒になる、って」
「?」
「血(あか)は流れて黒になる。だから海も黒いんだ」
輝く銀瑠璃の星の光はすでに死に絶えたものなのかもしれない。
最後の一瞬を誰かに見せるために。
「考えるな。あんたが不安になればこの船もそうなる」
抱き締めれば驚くほどに細くて頼りない背中。
積み上げられた髑髏の上で笑う女の素顔。
「……ベック……」
戸惑うだけの言葉を与えられても、此処にその思いは無い。
「安心しろ。俺はあんたが堕ちるなら一緒に堕ちてやる」
鬼神と恐れられても。
こんな夜は鬼も人の子に戻るように、肌寒い。
自分のことさえもまだわからないまま、どこまで生きていけばいいのだろうか。
「……堕ちねぇよ……」
「ああ。あんたは海賊王になるんだからな」
海が黒に染まるのは恐らく。
彼女の赤と彼の黒が絡まりあって戻るべき場所に触れるからだろう。
「よ……っと……あんたは軽いから運びやすいのは良いな」
子供を抱くようにすれば同じように首に絡む腕。
「傷モンだけど」
「上等だろ。俺にゃ丁度だ」
「ん」
かすかな彼の香と潮風が交われば、それだけで満たされていく何か。
「寒いな」
「あんたが薄着だからだろ。わかったら部屋に戻れ」
「運んでくれよ」
「そのつもりだ、船長」
願わくばこの星の光が破滅のものではなく、栄光のものであり続けるように。
凍てつくこの季節が美しい意味を知らないままに進めるように。
欠けてしまったサーベルと同じように、彼女にもまた休息が必要なのだ。
「冬ってさ、なんでこんなに綺麗なんだろ。全部キラキラしてんだもん」
見せかけだけでも優しい光は寒さを少しだけ遠ざけてくれる。
神が地上に堕ちたその日を祝うとは何とも滑稽なものだ。
波間に見える死神たちの細い指先。
海月は常に誘うようにおぼろげな光を湛えている。
「めでたいからだろ。あんたの嫌いな神様が生まれてるからな」
「あらやだ。アタシ、信心深いわよ」
「胸糞悪い言葉だな……赤い死神が……」
触れる柔らかな頬。
「じゃあ、俺だって神様じゃん。もっともっと大事にしろよ」
本当の心など触れることもできないほど。
まだもう少しだけ重なる時間が足りない。
「綺麗な星」
「ああ」
気障な台詞の一つでも決められるようになるにはまだ彼にも渋さが足りなくて。
それに受け答えするだけのたおやかさもやはり彼女にも欠けている。
「あの星みたいにお前、真っ白になりそう。こんなに真っ黒の髪だから」
「あんたが気苦労掛けるだろうから、そうなるだろうな」
「下らない正義や偽善かざして生きるより悪党のほうがいい」
さみしいと思うのも生きているから、苦しいと思うのも生きているから。
美学を持つものは孤高となり、それゆえに語り継がれる。
伝説のジョリーロジャーのように。
そしてまた彼女も語り継がれることとなるのだ。
「海賊なんて……やるもんじゃないねぇ……」
「…………………」
「でも海賊やらなきゃ、ベック……お前にも逢えなかっただろ?」
あの日差し出された小さな手。
今も腕の中の彼女はあの日のままに思えるほどか細い。
「だから後悔なんていらないんだ」
言い聞かせるような微かな震え。
「ベック?」
だから寝る前のキスのように彼女の額に唇を押しあてた。
長い睫毛まで濡れたような赤。
顔の傷さえなければどこに出しても売れっ子になるだろう。
「寒いと脳細胞やられるみたいだな、シャン」
「……うー……」
こんな夜に彼女が縋るような存在になれればいい。
頭上に輝き始めた冬の星座だけが知る彼と彼女の小さな感情。
こんな夜くらい少しだけ昔を思い出して。
こんな夜だから少しだけ泣いてみたりして。
こんな夜には誰かと一緒に居たくて。
こんな夜に、君が隣に居てくれた。
18:18 2009/11/06