◆カラカラ◆





「ね……指、どうしたの?」
人差し指から滲んだ血に唇を当てて、舌を這わせる。
「いや、呪符にちょっと強めのを入れたかったから」
唇はそのまま掌に降り、ちゅ…と音を立てて離れた。
頬に手を当てて、引き寄せると不安げな目が伏せられる。
「誰も来ないから、そんなに恐がらなくても良いんだぞ」
「うん………」
微温湯に沈んでいくような怠惰な感覚は身体をじわじわと浸食していく。
事実、この数日邸宅から出た記憶はない。
時間の感覚もぼんやりとしてきたほどだ。
不安定な魂は、腕の中で小さく震えるだけ。安定と安息を求めるように彷徨うのを捕まえる。
「顔色悪いな。熱でもあるのか?」
額に手を当てて、心配する素振り。
心因は分かっている。今、彼女に必要なのは真実よりも甘く優しい嘘だということも。
耳朶を噛んでそのまま唇を下げていく。
もう、何度抱いたのかさえ分からないこの身体。
まだ少しだけ熱い肌を抱き寄せて、肩口に噛み付く。
「……あ!…やだ……」
ぴちゃ…舌先が入り込んで絡まる感触。
唇が離れて入り込んでくる指を吸い上げる。指先で口腔を撫でられてびくりと竦む肩。
「…ふ…っ…んっ……」
「たまには甘えてごらん……普賢……」
背中に回される手。
胸に顔を埋めて目を閉じる姿は弱々しく、暗い心を刺激する。
このまま閉じ込めて、誰にも触れさせたくないと。
まして、それを彼女も望んでいるのだから。
出来るだけ、甘く、深く、絡めて。
溺れて、沈めて、抜け出せないように。




主の居ない白鶴洞は静かで、モクタクはため息をついた。
普段ならば師匠である普賢が出迎えてくれるのだが、どうやらここには居ないらしい。
(道徳師伯のところかな……)
慣れた足取りで青峯山の方へと向かう。
白鶴洞に居なければ大概紫陽洞に居るとモクタクも認知していたからだ。
「モクタク、どこへ行くのだ?」
四不象に乗った太公望がふわりと姿を現す。
「いえ、師匠が居ないんで紫陽洞のほうへ行こうかと」
「………?わしがここに戻って七日……一度も洞府に戻っていないのか?」
「いえ、そこまではわかりやせんが……」
七日前、太公望は確かに道徳真君と面会している。
(まさか……いや……そんなはずは……)
愛情の深さは裏を返せば嫉妬の深さにも通じる。
ましてや相手は一直線なことで有名な男だ。
(……普賢……)
「モクタク、西岐に戻ってヨウゼンを呼んで来てもらえぬか?わしは……道徳のところに行ってくるよ」
「はい。ヨウゼンさんですね」
モクタクを見送って太公望は四不象を紫陽洞へと急がせた。
自分が滞在した七日の間に、何かが変わったのだけは分かる。
それが何なのかは分からないが、本能が急げと警告するのだ。
「!」
予感は、現実となって的中する。
張られた結界は術者以外が外すことは決して出来ない強固なものだ。
術は通常、その術者の精神力の強さに比例して強度が増す。
(中に居るのは恐らく二人……しかし、今の普賢が望んで外に出るとは思えぬ……)
嫉妬もまた、ある意味一つの力となる。
解くことは不可能に近い結界の前で彼女はただ立ち尽くすしかなかった。




触れる肌の暑さだけが真実で、ただ抱き合って唇をかみ合うことだけに没頭する。
焚きつめた香の匂いが思考を奪って本能だけにさせてくれるから。
「やだ……っ……」
とろとろと零れる体液を指に絡めて、赤く充血した肉芽を擦り上げる。
「……ひ…ぅ……っ…!……」
びくつく腰をするりと撫でれば、答えるように跳ねるから止まらない。
浮かぶ汗と絡まる体温。
つんと上を向いた乳房をやんわりと揉み抱いて、ちゅっ…と吸い上げる。
そのまま口腔で乳首を嬲るように転がし、時折軽く噛んだ。
「ああッ!!」
浮いた鎖骨、括れた腰、なだらかな曲線の腹部。
全て唇で一つ一つ調べるようになぞり上げた。
「……やんっ!……やめて……っ……」
足首を掴んで踝に唇を当てる。ほんの少しだけ尖ったそこをかり…と噛むと抗う様に手が伸びて触れて。
舌先で足の甲を辿ってそのまま指先に接吻する。
小さな爪を一枚ずつ舐めれば、その度に嬌声が上がり脳内麻薬を活性化させていく。
ぴちゃぴちゃと濡れた音と、荒い吐息。
「……道徳……っ…」
頬に触れる手。
濡れた目で見つめられれば、それだけで何もかもを捨ててしまいたくなるから。
この肌に触れていいのは自分だけ。
そのはずだった。
(例え誰であっても、俺以外がお前に触れるのは許せないんだ……)
その声も、きつくしがみ付いて来る腕も、乱れる灰白の髪も。
「やぁんっ……ダメ……」
甘えるような声。唇で塞いで、言葉を飲み込む。
額に、鼻筋に、頬に、濡れた唇に。一つ残らず接吻して。
「……普賢……」
敷布を掴む手を外させて、引き寄せる。
浮いた腰を抱き寄せて、脚を割って開かせると恥ずかしそうに目線を逸らすのが分かった。
指先をほんの少しだけ沈めればくちゅ…と湿った音。
折り重なったまま時間だけを過ごして、何度も抱き合う。
皮膚一枚隔てていることすら、もどかしくて。
(もう少し……もう少しで元に……)
彼の思案など知らずに、彼女はされるがままに抱かれるだけ。
ただ一度だけの後悔を打ち消すように。





「師叔」
こめかみを押さえ太公望は頭を振る。
「頭痛で明日が見えそうだよ、ヨウゼン」
「お客さんですよ」
「客?わしに?」
陰陽の書を読み込みながら太公望は顔を上げた。
「天化……あれほどここに戻るなと……」
「でも、俺っちがしたことさ」
「………………座るが良い」
その声の沈痛さにヨウゼンは席を外す。
道士ではあるものの、太公望は本来天化とは段違いの階級に座する少女だ。
仙人となり仙号を持つヨウゼンよりも。
『師叔』の名称は十二仙と同格にある。
当たり前のように触れていたことでさえ、本来は禁忌だったのだ。
「コーチの所に行ってこようと思うさ」
「無駄じゃ。結界が張ってあった。恐らくは普賢も中には居るだろうが……出てくるとは思えぬ」
軽く腕を伸ばし、彼女はため息をついた。
頭頂部で結い上げられた長い黒髪。
崑崙に戻っているときは軍師という立場から開放され安心できるのか、西周に居るときよりもずっと
穏やかな表情になる。
「道徳の恐ろしいところは、一途になりすぎるところ。わしや玉鼎のような軽さはない。無論、普賢もな」
組紐を解いて、風に髪を泳がせる。
凛としたその横顔。
「わしも、力になろう。おぬし一人では……道徳の相手にもならぬ」
一人よりも、二人。
できるならば何事も起こさずにことを終わらせたかった。





汗で濡れた身体を洗い流し、道衣に袖を通す。
(少し時間がかかったが……良いとするか)
腕、掌、脚、指。
何もかもがあのときに戻り、鏡を見て己の変貌振りに苦笑する。
「さて……行きますか」
手には愛用の莫邪。
着込んだ道衣は見慣れたものではなく、白を基調とした道士見習い時のそれだった。
留めた時間を逆に戻し、十八の身体となった彼は小さく笑う。
(普賢、すまない……少しだけお前を利用した……)
若返るためには自分とは正反対の仙気が必要だ。
男であれば女の。女であれば男のそれ。
道徳真君の場合は同等の仙人でなければそれをなすことが出来ない。
奇しくも恋人は自分と同級の仙人だ。
この数日は己の身体を変えることに専念して彼女を抱いていた。
今のままでも良かったがそれでは相手を悪戯に打ちのめすだけ。
それは己の信条に反する。
ならば、相手と同じ条件の肉体に戻すまで。そう、意味を付けた。
道士として歩み始めた十八の身体。
道徳は静かに外へと足を踏み出した。





目覚めの空気はいつもよりも冷たく、暖かさを求めて彼女は腕を伸ばす。
(……道徳……?……居ないの……?)
離れてしまえば、少しだけ冷静になれる自分がそこに居る。
酷くだるい身体を起こしながら、必死になって頭の中を整理していく。
ここに来て十日。寝室から出たのも数えるほどだ。
ずきずきと痛む頭は、否応無しに現実に自分を誘う。
(ああ……ずっと一緒に居たんだ……)
膝を抱いて、まだ微かに残る恋人の香りに目を閉じる。
(でも、どこに?)
ふらふらと夜着を羽織って扉に手を掛けていく。
ただそれだけの行為なのに、酷く……重い。
(まず……身体を何とかしなきゃ。それからだよね)
身体を温めて、とぷんと湯の中に浸かる。
自由を得た四肢。体中に残された情痕に苦笑した。
(こんなとこまで付けなくても……良いと思うんだけど……)
甘い香りの立ちこめる浴室でただ一人のんびりとした湯浴み。
彼女には考えも付かなかった。
彼がこれから何をするのかも。
そして、彼がどうなっているのかも。
ふわふわと舞い上がる泡を指で取っては浮かべる。
(でも、そろそろ白鶴洞(うち)に帰らないと流石に駄目だよね……随分と甘やかしてもらっちゃったし……)
伸ばした指先。
まだ、何も知ることもなく。





「太公望はいるか?」
聞きなれない声に太公望は顔だけで振り向く。
「道……徳……?」
見慣れた顔とは幾分か違う姿。
「ああ、驚くほど変わったか?」
「ああ……さぞ普賢も驚いたことじゃろうて」
「………普賢はこの姿は見てない。まだ……寝てるかもしないな。何せごっそりと仙気を借りたから」
ぽきぽきと指を鳴らしながら、道徳は太公望を見据えた。
「来てるんだろう?天化も」
「……見抜かれてるならば、隠せぬな。あれの罪はわしが被ろう。崑崙十二仙が一人、清虚道徳真君よ」
席を立ち、同じように太公望も道徳を見る。
年の頃は大して変わらない二人の外見。
ただ、年齢とその戦闘能力を数値に置き換えるならば道徳真君の方が彼女よりも遥かに上だ。
それでも、太公望は引くことはしない。
「さて、いざ参るか?道徳よ」
打神鞭の先から風が生まれ彼女の髪をふわりとかきあげる。
「俺が討ちたいのはお前じゃないんだが……天化を燻り出すには仕方ないか」
不適に笑う少年の唇。
莫邪を構えてその風を牽制する姿。
おそらく、本来の気性を抑えて生きてきたのであろう。
全てを取り払った素体。
(永く生き過ぎれば、人も転じて妖となる……まさにこの男のことか)
恋は人を縛り付ける重き鎖。
嫉妬と言う名の足枷は外れることなくこの身を絡め取る。
静かに、静かに、時間だけが流れた。






鏡に映る己の姿を見て彼女は愕然とする。
(……嘘……これがボク……?)
映し出されたのは慣れ親しんだ姿ではなく、ずっと大人びた姿。
年の頃は二十代後半だろうか。
まじまじと鏡を見つめて、そっと手を伸ばす。
(まさか……!?)
嫌な予感は、現実に変わり得る。
(大変だ……何とかしなきゃ)
道衣を着こんで扉に手が触れたときだった。
「!!!」
ばちばちと飛び散る雷華と身体を走るビリビリとした痺れ。
掌に仙気を込めて、普賢はもう一度扉に手を掛けた。
(もし、ボクの予想が当たってるならば……開くはず!)
力を込めて、蹴り上げるようにすると扉は予想の通りに開いた。
じんじんと痛む掌。
(お願いだから馬鹿なことしないで……ッ…)
太極府印を手に、彼女は男の気配を探る。
一秒でもずれてしまえば、大惨事を招きかねない状況だ。
(ボクにだって責任はある……他人を拒めないのはボクの欠点だ)
ぎりりと唇を噛む。
(居た!!!……望ちゃん……!?)
浮かび上がる二つの光。
(急がなきゃ)
重い身体を引きずりながら、普賢は府印の示すほうへと走り出した。







打神鞭の作り出す風は、莫邪の宝剣で簡単に打ち消されてしまう。
肉体は十代に戻ってはいるものの、仙気はそのまま。
(まがいなりにも十二仙か……)
切り込んでくる姿勢は天化と重なるものがある。
それでも決定的に違うのは天化のように隙がないということ。
宝貝にも相性がある。
それを考慮しても、本来は太公望に分があるはずだった。
しかし、それですら打ち砕くのは男の思い。
「師叔!!!」
「ようやく来たか。天化」
その声に天化は男の姿を捉える。
「……コー…チ……?」
「正確には、仙人になる前の道徳じゃ」
頬の傷から滲む血を拭って、太公望は道徳真君と向かい合う。
「天化。おぬしは引いておれ。阿保に阿保をぶつけても話にもならん」
「誰が阿保だ。失礼な女だな」
莫邪の宝剣を構えなおして道徳は小さく笑う。
勝ち目の無い勝負でも、引くわけには行かない。
間合いを詰めながら、太公望は道徳の表情を読む。
ここまで似通った師弟はそうそう居ない。
大地を蹴って飛び掛る道徳真君相手に、太公望は防戦一方だった。
じりじりと詰められる間合いと、増えていく傷。
「死にたくなかったらどけ。太公望」
「……………おぬしには、負けぬ」
乾いた唇を舐めて、男は少女を見据えた。
「師叔!!俺っちが……」
「おぬしがやろうとしていることは、犬死じゃ。天化」
「あなたがやろうとしていることもね。道徳」
府印を抱えて、普賢は息を切らせる。
少し大人びた顔と、膨らんだ胸。
「本当に責任があるのは、拒みきれなかったボクだよ、道徳……」
未熟であるが故の罪は、彼にあるのか彼女のあるのか。
繰り返される嫉妬と疑問だけが、心の中にことり、と落ちた。





向かい合わせで座っても、言葉が出ないまま。
さらさらと硝子の中の砂だけが時間を刻む。
「謝らなくちゃいけないのは、ボクの方」
「……………………」
「拒みきれなかった、未熟さであなたを裏切った」
涙さえ出ないほど、悩んだはずなのに。
彼女の声は痛いほど静かだった。
「一緒に居られなくても、それは仕方ないって思う。それだけのことはしちゃったんだもの」
「いや、お前を攻めるつもりは無いよ。それに……」
震える指先に、少しだけ幼くなったそれが触れる。
「離れるつもりも無い」
未熟なのは、彼女一人だけではなく自分のなのだから。
抱える罪が、痛みが、悲鳴を上げる。
「怒ってないの?」
震える声。
「……正直、自分でも分からない。けど、お前に対する気持ちは変わってない」
押さえようとしても、止まらないのは涙。
泣くことの上手ではない彼女は、いつも一人で涙をこぼす。
「なんつーか……お前がどうのこうのってよりも天化をとっちめるって方に回った。結果このザマだ。
 俺は、お前には勝てないよ。一生かかっても」
落ちてしまった恋は、先に『好きだ』と言ってしまったほうが負けで。
それがどんな結末になろうとも、恋人を泣かせたことだけが心に残ったのだ。
守りきれなかったこと。一瞬だけでも離れてしまったこと。
御伽噺のように、毎日が甘いなんてことはないのだから。
「ごめんなさい……」
掌で涙を拭っても、どうすれば止まるのかは彼女には分からない。
「離れてるのは……俺が耐えられないみたいだよ、普賢……」
姿だけではなく、心まであの頃に戻ってしまったかのようにきりきりと痛む。
「あれが玉鼎だったら多分、本気で殺ってた。天化だからまだ……どこかで少しだけ許そうって気になったのかもしれない」
頬に掛かる指先。
「仲直り、してくれる?」
「ああ。一回限りの浮気ってことにしとくよ」
少しだけ触れる唇。
「浮気って……気があることだよね?気もなかったら?」
純粋な疑問が言葉をなす。
「そうだな。不慮の事故ってことにする。でなきゃ俺がやりきれない」
目の前の恋人の姿は、この先の遠い未来の産物。
その隣に並んでいいのは、自分だけだと彼は呟いた。
間に入っていいのは、いつか舞い降りてくるであろう小さな命。
その手を繋ぐように、今は二人だけで手を繋いだ。





「腹筋一万回、サボるなよ」
宝剣を片手に道徳は天化に声をかける。
午前中から続けられた修行は、休む間もなく既に正午だ。
「コ、コーチ……っ、俺っち死にそうさ!」
「その程度じゃ死なん。あと九千五百六十一回!!」
何も見なかったことにするには、まだ彼も人間を捨てきれない。
だから、どうしても少しばかり意地の悪いことをしてしまう。
「太公望からもみっちり扱いてくれっていわれてるしな。戦力としてものになるように鍛えなおしてやるよ」
「鬼!悪魔さっ!!」
「何とでも言え」
いつものように彼の昼食を籠に入れ、彼女はなれた道を歩いてくる。
「道徳、お昼持ってきたんだけど」
「もうそんな時間か。んじゃ、戴くことにする」
細い背中を押して、消える二つの影。
逃げ出そうとしても監視宝貝がそれをさせない。
「あんまり虐めちゃ可哀相だよ」
「修行だから」
悪戯気に道徳は片目を閉じる。
「これくらいの、仕返しは良いだろ?」
「…………うん」
くしゃくしゃと頭を撫でてくる大きな手。
その手の優しさに、目を閉じる。
「ふらふらしないように、繋いで」
「本気にするぞ」
「うん……本気にして良いよ」
まだ、カラカラの心には潤すための雨が必要。
手始めに乾いた唇を濡らすことから始めた。








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17:31 2004/04/19

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