◆夜に溶けて◆




乾元山ではモニターを見上げながら、道行天尊がため息をつく。
(さて、厄介事はこれからじゃのう……)
太乙真人は未だ下山中。
じりじりと焦る気持ち。胸騒ぎは予感に変わって体中を支配する。
(娘は……無事だろうか?)
理由も根拠も無い。それでも、公主のことを思う何かが働くのだ。
鳳凰山までは移動術を使えば僅かな時間で飛ぶことが出来る。
術の使い手として、今の身体ならば出来ないことは無いのだから。
(赤い月…………美しいけれども、禍々しい…………)
窓に掛かる月。
騒ぐ胸を押さえて、祈りを込めた。






人の気配に目を覚ます。
小さな明かりを灯して、部屋を照らしてみてもそれらしき人影は無い。
傍らで眠る恋人の顔。
(道徳はボクよりも、気配には敏感なのに……おかしい……)
戦闘能力に長ける者は、他人の気配には異常な感性を持つ。
(気のせいなのかな……)
腕の中に身体を寄せて、再び目を閉じようとしたときだった。
「仙人でも、男連れ込むことがあるんだな」
「王天君…………?」
「まぁ、とりあえずその乳、しまってくれよな。いい身体なのは分かったからよ」
言われてばさりと夜着を羽織る。
まるでそこに誰も居ないかのように、彼女は帯を締め上げた。
「どうやってここに?」
九巧山は普賢真人の仙気で管轄されている。
他人が入り込むのは容易ではない。
ましてや、邸宅の寝室ならば尚更だ。
それを簡単にこの男は入り込み、不適に笑うのだ。
「別に。俺は空間を自在に使えるからな。あんたの波動に合わせりゃ、簡単に入れるだろ?」
「なるほど……それで何の用?房事の覗きだけが目的でもないでしょう?」
くす…と笑う薄い唇。
「まぁな。ただの寄り道だ。用事があってな……」
くくく…と笑う血の気無い、青紫の唇。
幾つもの小さな口輪。長く伸びた耳には同じように数え切れないほどの耳輪がうるさいほどに。
青白い肌、まるで死人のような色合い。
「いずれ、ちゃんと逢える。そのときにはお相手してもらうとするか」
すっと手が伸びて、普賢の頬に触れる。
そのまま重なった唇は冷たく、乾いた感触だった。
「逃げねぇのな……大した女だ」
「多分、君よりはボクのほうが強いから」
王天君の眉が顰められる。
ぎりり、と噛まれた唇。
「腐っても十二仙か。まぁ、俺も十天君の一人だけどな」
指先で袷を外せば、上向きの乳房が二つこぼれた。
形の良いそれに爪を立てれば、赤い雫がじんわりと滲み出す。
「恋人の隣で抱いてやろうか?十二仙、普賢真人」
「出来るものやら、やってみろ」
喉元に突きつけられる宝剣の刃。
「……起きられねぇように、してやったんだけどな」
「じゃあ俺もお前よりは上ってことだな。普賢から手を離せ」
「敵わねぇなぁ……崑崙の幹部二人相手じゃ、さすがの俺でも勝てねぇ」
鏡のような光の板が数枚現れ、王天君の姿が歪む。
「近いうちにまた会おうぜ、御二人さん」
低い声が耳に沈む。
そっと唇を拭って、暗闇を凝視する。
どんなに目を凝らしても、もう王天君の姿も気配も無い。
安心したかのように、ぐらりと普賢の身体が崩れた。
「普賢!?」
「よかった……あの子、なんだか得意じゃないの……」
合わせを直して、呼吸を整える。
「凄く冷たい唇だった。まるで、死人みたいな」
窓枠に囚われた月は赤よりも赤い。
(嫌なことが起こりそう……不安、緊迫……でも、何が?)
微かに震える肩を、そっと抱き寄せる手。
暖かさが、自分が今生きていることを確認させてくれる。
一人でしか生きられないもの。
一人で生きることが好きなもの。
一人で生きることを選んだもの。
どれも違うようだが、根幹は同じ。自らの意志でそれを決めたということ。
けれども、王天君はそのどれにも当たらないような気がしたのだ。
まるで、始めから誰も傍にはいなかったかのように。
「道徳、なんだか……恐いよ……」
縋るように、夜着を握る指。
「どうかしたのか?」
「分からないけれど……恐いの……」
一匙の不安は、あっという間に心を染めてしまう。
それでも、その不安を溶かしてくれる手がここにはあるのだ。
「ねぇ、この手は誰かを守るために、誰かを愛するためにあるんだと思う」
「ああ………」
静かに重なる手。そっと指を絡めて、強く握った。
「宝貝だってそうでしょう?誰かを傷つけるためのものじゃない」
「………………………」
さらさらと、砂時計の黄砂は落ちていく。
まるで自分たちの未来を暗示するかのように。
「そう信じて、ボクはモクタクに接してきた。けれども……結果としてはあの子たちにばかり手を汚させてる」
あの日、モクタクを下山させて殷討伐の一員として太公望の下に付けろという命令に彼女は強く抗議した。
滅多なことでは公式な場では感情的にならない普賢のその行為に、始祖は驚きさえも見せたほどだ。
明日をも知れない命になれとなど、誰が言えるのであろう。
我が子同然に慈しんできた愛弟子に。
僅かな年月の修行で、重要計画に抜擢されたのだから本来は喜ばしいことなのかもしれない。
それでも、彼女は弟子を戦火に放り込みたいとは思わなかったのだ。
「俺は、天化の下山命令が出たとき……お前とは逆に思った。才能に目をかけてもらって、それなりの場所を
 与えられる。荒削りだけれども、武人の血を引く天化にとってもいいだろうと……」
「でも…………」
「ああ、好き好んで他人に喧嘩を売ることなんて教えてはいない。それに、俺たちだって何時までこうしていられるかなんて
 保障は無いんだ。近いうちに、正式に勅令が降りる……金螯との」
その言葉に、普賢は耳を塞ぐ。
「人間と、妖怪と、どう違うんだろう。同じ仙道に変わりはないのに。妖怪だって悲しいことがあれば泣くし、
 うれしいことがあれば笑う。恋をすれば、胸が痛くなるのに……」
月は、人も妖怪も同じように照らしてくれる。
生と死は、分け隔てなく双方に与えられたもの。
「人の奢りだよね。もっと歩み寄れるのかも知れないのに」
「頭が良すぎるのも、大変だな。けど、喧嘩なんかしないで過ごせればそれに越したことはないんだ。
 あいつらにばっかり痛い思いさせちまったな……今度は、俺らが行く番だ。どうやっても避けられないなら
 やるしかない。どのみち、聞仲がこっちの言い分を聞くとは思えないしな」
「どうして、彼は殷に固着するんだろう……」
ぽふぽふと普賢の頭を撫でる大きな手。
「簡単だ。それが一番に大事だから。殷をお前に置き換えて、聞仲を俺に置き換えればわかるだろ?」
「ん………」
ちゅ…と唇が額に触れる。
頬を包む手に、自分のそれを重ねてそっと目を閉じて。
「まだ、朝は遠いから。もう少し眠ったほうがいい」
「ん……ありがと……」
子供を寝かしつけるように、背中を摩る。
さわさわと頭を撫でられて、口元が小さく笑う。
「恐い夢を見ないように、おまじない」
安心したかのように、目を閉じる姿。
小さな寝息が聞こえてくるのを確認して、彼は煙草に火を点けた。
(金螯の幹部連中は……空間使いか。厄介だな……)
肺腑にしみこむ煙の感触は、懐かしくまだ若かりし日のことを思い出させる味だった。
十二仙に昇格してからはそんなに口にすることもなくなっていたが、ここ数日は苛々を鎮める為に手にすることも多くなっていた。
本質を隠したまま進められる封神計画。
彼とて、喜んで弟子を手放したわけではない。
それでも、戦士の血はどうしても戦地を選んでしまう。
まして愛弟子は戦場の華と成るべくして生まれたかのような才覚の持ち主。
実力を試せる場所を与えてやりたかったのもまた、真実だった。
(なぁ、あの日……お前はモクタクを送り出してから泣いてたよな)
嫌だと開祖に噛み付き、必死で勅令を取り下げてくれと懇願する姿。
あの姿が瞼に焼き付いてはなれなかった。
(殺されるために、出撃させるのなら自分が行く……そう言ったんだ……)
二本目に火をつけて、眠る姿を覗き込む。
(同じだよ。死なせるために送ったわけじゃない。未来を掴むために、送り出したんだ)
闇の中に溶ける煙。
ゆらり。揺らめいて静かに崩れていく。
(俺たちも行くんだ。未来のために。死にに行くんじゃない、生きるために。そうだろ?)
三本目に火をつけることは止めて、寝顔に目を細める。
(おやすみ。俺は、最後までお前と一緒に居るから)







腕に絡めた羽衣は、赤き月光を浴びて血のように濡れる。
「待ってたぜぇ?道行さんよ」
「…………やはりお前か」
緋色の瞳が、漆黒の瞳と重なり合う。
「全然変わんねぇのな、あんた」
「おぬしもな……不安めいた眼の色、未だに同じだ」
その言葉に王天君は唇を噛む。
「……あんたのほかにも、仙女が居たんだな。十二仙に」
「普賢のところにも行ったのか?忙しない子供よ」
道行は眉一つ動かさない。そこにある悠久の風のように、佇むだけ。
すい、と指先が伸びて円を描く。
生まれるのは小さな炎。
ゆっくりとそれは広がって行き、子供の頭一つ分ほどの大きさに。
「何が目的だ?公主か?」
「まさか。黒髪の女は得意じゃない」
「去れ。殺生は好まぬ」
王天君の手が伸びて、道行の手首を締め上げる。
「あんたも強いけど、俺も強くなったんだぜ?試してみるか?」
空気が歪んで一枚の鏡になる。その中に映るのは焚香の煙の中で目を閉じる公主の姿。
まるで水に手を沈めるかの様に、鏡の中に王天君は右手を沈めた。
そのままぐっと力を入れて、爪が食い込むくらいに握り締める。
ぽたり。ぽたり。流れる数的の血液。
「!!」
塩酸でもこぼしたかの様に、公主の僅か手前の衣をそれは溶かした。
「あんたの一番大事なものは、人質に取れたな。道行サンよ」
その言葉に、眉を顰める。
「俺が欲しいのはあんただよ。あんたにそっくりな女を見たんだ。あの道士の……ああ、ようやく来たかじーさんも」
その声に思わず振り向く。
「道行」
「………元始……何をしに……」
老いたはずのその姿ではなく、かつて愛した時と同じ雄々しき姿。
王天君の手を外して、自分の背後に回らせる。
「趙公明との一戦で、お前は俺を守ってくれただろう?今度は、俺がお前と娘を守る番だ」
空間にはそれに付随するものを。
始祖であるとことの宝貝は、重力を自在に操ることのできるもの。
元始天尊と、道行天尊の血を引く龍吉公主が水を自在に操れるのは血の成せる業だったのかもしれない。
まして、道行天尊は宝貝よりも術を使う稀有な仙女なのだから。
「やっぱ、女の前じゃカッコつけたくなるようなもんなのか?じーさんでも」
「ガキにはまだわからんだろうがな」
空間と重力のぶつかる音に、道行は耳を押さえる。
二つの歪が生み出す重力場。
触れればそれだけで亜空間に飛ばれてしまう。
互いの力を緩めること無く、それは次第に広がっていく。
(……!!このままで鳳凰山が……)
空間の歪がこのまま広がれば、鳳凰山を丸ごと飲み込むことも考えらる。
そうなれば公主はもちろん、住まう仙道全てがその命を失うことにも繋がるのだ。
崑崙有数の仙女としてではなく、自分の子供として公主を失いたくは無い。
開祖である男の宝貝は、鳳凰山一つ消すことなど造作ないのだから。
「止めて!あの子が!!」
「道行!!」
元始天尊の手を押さえて、道行は頭を振る。
「お願い…………」
細い身体をぐっと引き寄せたのは冷たい手。
「!!」
「俺が欲しいのはあんただよ。一緒に来てもらうぜ」
仙気封じの鎖で手を縛り上げて、王天君は満足気に笑う。
金の鎖は細い手首に絡みつく。
「道行を、ここから連れ出せると思ってるのか?」
「どういうことだ」
「ここは、崑崙山。俺の管轄する場所だ。忘れたか?俺はここの開祖だぞ」
びしびしと音を立てて、鎖が崩れていく。
まるで糸でもついているかのように、道行の身体が宙に舞う。
男が手を伸ばせば、その腕の中に。
肩を抱いて、守りながらかつての時間を取り戻すように男は女を腕で護する。
「けっ……いずれあんたらには会えるんだ。道行、それまで待ってろよ。ちゃんと迎えにきてやるから」
闇夜の鏡に溶けるように、王天君の姿が消えていく。
耳に残ったのは、低く沈む声だった。
「王天君……いや、あれは……」
「分かっている。それよりも……」
赤く擦れた手首を撫で摩る指。
「すまなかった。痛むか?」
「……もう、痛まぬ。腕も、心も」
同じように触れた指も、今はもう違う。
止まった時計の針を進めたのは、違う男の指だったのだから。
静かに背を向けて、その身を宙に浮かべる。
「儂らはもう……元には戻れぬよ。娘は……いや、公主はもう儂らの子供ではなく、鳳凰山の主。儂も……
 諦めるよ。一仙人として、公主を見守る。母親であったことは……忘れる。儂らを繋ぐものはもう……無い」
振り返らずに、そっと道行は前に進む。
過去と決別するかのように、静かに。
「忘れられるのか?あれは……お前の胎で育った」
「忘れるよ。残りの時間は……あれを守るために使う。金螯のものには指一本触れさせぬ。この命に代えても」
こぼれた涙は、気付かれること無く土に還った。
たった一つの願い事は、永遠に叶うことはない。
「儂も、行くよ。おぬしは崑崙(ここ)に残る。恐らく……儂らは生きては帰れぬ。それが師表としての最後の役目であろう?」
長く伸びた髪は、あの頃よりもずっと彼女を大人に変えた。
小さな身体で自分を守り、子供を守り続けてきた。
誹謗にも、中傷にも、負けることなく。
「死なせはしない。お前を見殺しになどできるわけが……」
「開祖ならば、道士たちを守れ。儂も……師表として弟子たちを守る」
母として、女として、師表の一人として。
運命から目を背けることなく、その腕に抱く。
女は強く、儚く、そして美しい。
昔、まだ二人の間に心が通っていた頃、男は悪戯に女に問うたことがあった。
明けない朝はないが、朝が来なかったらどうする?と。
女は目を瞬かせて、その後に笑って答えた。
「太陽を引きずり出すだけだ」と。
すれ違いと、互いの意地で沢山の時間を無駄にしてしまった。
もっと、お互いに歩み寄ることが出来たのならば何もかもが違っていたのだろう。
過去は「たら」と「れば」の繰り返し。
その金連鎖に絡められて進めなかった手を引いたのは、若き仙人だった。
「道行、俺は今でもお前のことを……」
「儂はおぬしに渡す心はもう……無い」
全てを断ち切る凛とした声。
一度も振り返らず、彼女は静かに立ち去っていく。
運命の朝はもう間近にやって来ているのだから。





「ご主人、どうして夜明けともに崑崙を目指すんすか?」
風を受けながら、太公望は前髪を押さえる。
「太陽を、味方につけるためじゃよ」
追い風と、太陽がこの手にあるのならば何だって出来る。
「さぁ……行くぞ。この先の運命に!」


裸足で石の上を歩くようなことでも。
一人ではないと分かっているから、痛みも耐えられる。
戻るべき場所も、帰るべき腕も。
そこに在ることに気付いたのだから。





               BACK






23:35 2004/02/09






楽天モバイル[UNLIMITが今なら1円] ECナビでポインと Yahoo 楽天 LINEがデータ消費ゼロで月額500円〜!


無料ホームページ 無料のクレジットカード 海外格安航空券 解約手数料0円【あしたでんき】 海外旅行保険が無料! 海外ホテル