普賢がモクタクを預かったのは彼が十歳になったばかりの頃だった。
先に入山している兄は文殊天尊が引き取り、もう一人の弟もいずれは仙界入りする予定だと聞かされた。
開発班に在籍する彼女にとっては剣士を育てるのは初の試み。
「え、と……はじめまして。モクタク。ボクは普賢真人と言います」
泣きじゃくる子供を前に普賢はうろたえるばかり。子育てなど考えても見ないことだった。
今までの弟子はある程度の大人として扱って育て上げてきたが今回ばかりはそうも行かない。
母が恋しい年代の子供を育てろと教主の命令なのだから。
(ど、どうしよう……泣き止んでくれない……)
ぎゃあぎゃあと泣いて、モクタクは動こうともしない。
「ね、モクタク。お願いだから泣かないで」
「母上に会いたい〜〜〜〜っ!!!」
「がんばって修行したら、お母様にもきっと会えるから。ね?」
まだ年端も行かない子供を育てるのは同じように幼い顔の少女。
仕方ないとばかりに抱き上げて自分の洞府へと連れて行くことにした。
泣きじゃくる背中を抱いてあやして、まるで自分が母親にでもなった気分だった。
基本的に普賢は剣を取ることは無い。仙気で生み出した自分の幻影を相手にモクタクに指南をする。
幻さえきりつけることが出来ないならばどうやっても自分に一太刀入れるなど不可能。
今までの弟子たちにもそうしてきた。
(でも、体力作りからだよねぇ……分野外だよぉ……)
珍しくため息をつく。
引き取ってから一月。未だにモクタクの警戒心は解けないままだ。
「あんたさ、本当に仙人なのかよ?」
「うん……見えないかもしれないけれども」
「剣なんか握れんのかよ」
「それなりには。モクタク、それよりも渡した要項(メニュー)をこなしてくれると嬉しいんだけども……」
自分のことを師匠とは決して呼ばない。常に「あんた」か「おい」である。
普賢も抵抗することなく其のままを受け入れる性質だ。
「やだね。俺はあんちゃんと一緒に母上のところに帰るんだ」
「君の兄上は文殊のところできちんと修行をしてるよ?」
「だって、文殊師伯は前時代からの十二仙なんだろ?あんたみたいに弱そうじゃねぇしさ。俺だって
師匠は選びたかった。なんであんたみたいな仙女の所なんだよ!!」
自分が一番若年で、頼りないのは自覚している。それでも面と向かってそれを言われれば胸が痛む。
モクタクが言う言葉はおそらく崑崙の道士の大半が思っている真理だろう。
何故、あの女が?それは耳を押さえても飛び込んでくる呪文のような言葉。
「強くなったら、お母様の所にいけるから。ね、モクタク」
母は彼女にモクタクを引き渡す時にこう言った。これからはこの師匠を母と思うようにと。
「あんたが相手じゃ強くなんてなれねーよ!!」
「モクタク!」
三十年足らずで仙人の称号を得て、且つ師表に名を連ねてもまだ彼女も人間を捨てきれない。
言われれば胸に溜まる物もある。
「そんなにイヤなら帰ってもいいよ。ただし、自力で何とかしなさい。他の師伯にでも上手く言えば
なんとかなるかもしれないしね」
「分かったよ。そーさせてもらうから!!」
ばたん、と扉を閉めてモクタクは飛び出していく。
(やっちゃった……どうしよう……)
椅子に凭れて天上を仰ぐ。どうもモクタクは自分に心を開いてくれようとはしないのだ。
食事を出せば「母と違う」と言われ、訓練カリキュラムを出せば「あんたの指南じゃやれない」と返される。
(探しに行かなくちゃ……)
うっかり大怪我でもされたら責任問題になる。なによりも一度引き取った以上は道士に仕上げるのが師匠の役目だ。
モクタクはまだ崑崙には不慣れだ。断崖絶壁や危険な場所があちこちにある事を知らない。
追いかけるように席を立ち、普賢はモクタクを探しに出かけていった。
「モクタク?ここには来てないけれど?」
モクタクの兄のキンタクを預かるのは文殊天尊。道行天尊同様に前時代からの十二仙の一人だ。
「そう……家出されちゃって……」
「弟子と喧嘩する位で丁度良いんだ。なに、そのうちに帰ってくるさ」
文殊は普賢の頭をくしゃくしゃと撫でる。
「でも、モクタクはボクのことを嫌いみたいなの……どうしよう」
モクタクと反比例してか兄のキンタクはまったく手がかからない。
ここまで従順な道士も久々だと文殊が笑うほど。
「まぁ、探してみるしかないだろうな。ここにきたら帰る様に言っておくから」
「ごめんね。ボクも探してくる」
ぱたぱたと飛び出し、対極府印を手に普賢はモクタクを探し回る。
心当たりのあるところはすべて回った。
もうじき日も暮れようとしてる。それでもモクタクの行方は欠片も見つからなかった。
(モクタク、どこ行っちゃったの?)
走り回って脚はすでに限界に近かった。元々体力的はそんなにあるほうではない。
「普賢、見つかったか?」
「太乙、道徳……」
普賢は首を振るばかり。手分けして探してもモクタクの姿はどこにも無いのだ。
「まさか、崖から転げ落ちたとか……」
「それならまだいいが熊猫に襲われたとかな……」
男二人はそんなことをぶつぶつといいながらあれこれと推測する。
「変なこと言わないで!!!」
「すまん」
「ごめん」
半分涙目で、普賢はその場に座り込んでしまった。
「僕はもう一回あっちのほうを探してみるから」
「モクタク〜〜〜、どこ行っちゃったの?」
「あー、見つかると思うから。泣くなよ……」
子供が子供を指導しているようだと、彼は笑った。
「まぁ、何人かに一人はそういう子が居るんだ。俺のとこにもいたし」
同じように座って彼女の頭を優しく撫でる。
顔では笑って見せても心の中は穏やかではない。
(ガキめ……俺の普賢にこれだけ心労かけやがって……)
あやすように抱きしめて背中をぽふぽふと叩く。
「何?」
「いや、その、何となく……」
「探しに行かなきゃ、怪我してるかもしれないし……」
(ついついやってしまった……俺の悪い癖だ……)
暴走しそうな思いは閉じ込めて、まずは彼女の心配の種を探すことに全力を注いだ。
九功山周辺は蟻一匹見逃さない勢いで探しつくした。
宝貝も何も持たないモクタクの行動範囲は狭いはずだ。
それでもモクタクの行方はまったく掴めないのだ。
「どうしよう……ボクがきつい事言っちゃったから……」
「きっかけは何だったんだ?きついことって……」
「別の人のところに行きたかったって……言われちゃった……だから、だったら帰ってもいいよって
言っちゃった……」
「まぁ、俺はモクタクとやらをまだ見てないから何とも言えんが……いずれ嫌でも顔を合わす事にはなるしな……」
新弟子を取ってからは門下不在の紫陽洞に呼ぶことはあってもさすがに気が引けて白鶴洞に向かうことは控えていた。
幼い子供だとは聞いてはいたがそれほどの悪童だとは思っても見なかったのだ。
彼女は愚痴と言うものをこぼさない。
困った顔で、それでいで嬉しそうに話していたことしか記憶には無かった。
「嫌でも?モクタクはいい子だよ。そんなこと言わないで」
「あー、はいはいはい」
(しっかし、とんでもないガキだな。俺だったらとっくに破門宣告してるぞ)
「文殊のところにも行ってないみたいだし……どこ行っちゃったんだろ……」
ぱらぱらと雨が降り出し、次第に強さを増していく。
「あの子、傘持ってない!!」
雨は彼女の細い肩を濡らし、体温を奪っていく。
それでも草を掻き分けて、岩場を登り、彼女は愛弟子を探す事をやめようとはしない。
「普賢、一度戻ろう。このままじゃお前が先に倒れるぞ」
「ダメ。ボクよりもあの子の方が弱いんだから」
傷だらけの手。濡れた身体。
「手、出して」
割れた爪を少し撫でて、自分の防護手袋を彼女の手に。
「ちょっとでかいか……」
「ありがとう」
手分けしても見つからないまま、時間だけが過ぎていく。
既に前を見るのも困難ほど雨は土砂降りになっていた。
「一度戻るぞ。嫌だって言っても抱えていくからな」
「………………」
引きずられるように連れられていく。項垂れたまま普賢は顔を上げようともしない。
雨は二人を濡らして、足音さえも消してしまう。
重い気持ちで扉を開く。
「おお、普賢。モクタクを見つけてきたぞ」
「望ちゃん……」
太公望の後ろでモクタクは頬を膨らませてこちらを睨む。
「白鶴にしがみ付いておったよ。考えたものだ。太乙から聞いておったからのう。まぁ、わしは道士じゃから弟子は取らんが
仙人になればそれなりの苦労はあるようだのう、普賢」
モクタクを押しやって太公望は小さく笑った。
「良かった……無事で……」
モクタクに触れようとした手を道徳が止める。
そのまま彼は拳を振り下ろし、モクタクの頭を力一杯小突いたはずだった。
「!!」
手加減なしの一撃を受けたのは普賢真人その人。
「普賢!!」
「うちの子に何するの!!」
キッと睨んで彼の頬を平手で叩く。派手な殴打音と鈍い痛み。
「本気でやったでしょ!!あなたとモクタクじゃ各位も力も違うでしょ!!」
「だからって甘やかしていいってワケじゃないだろ!だから付け上がるんだ!!大体言ってもわかんねーようなガキにはこーいうので分からせるしかないんだよ!」
「そうやってすぐに叩くのが正しいことだなんて思えない!」
モクタクを背に隠して彼女は必死に愛弟子を庇い続ける。
「大体いつも……」
詰め寄ろうとして踏み出した足がふらつく。支えきれ無い身体はそのまま倒れこむ。
どさりと投げ出された身体は冷えきって、浮かんだ汗は体力を奪っていく。
「普賢!!」
太公望の手が額に触れる。
「熱……道徳、普賢を寝室に運んでくれ!モクタク、おぬしは室内を暖めろ!!」
彼女の指示で二人は動く。濡れて張り付いた道衣を脱がせて身体を拭き寝巻きに着替えさせる。
「わしは雲中子の所に行って来る。それまではおぬしら二人で普賢を見ておれ。くれぐれも喧嘩はせぬようにな」
ここで喧嘩をしても埒があかないことは分かっている。
雑言で普賢が起きるのも出来れば避けたい状態だ。
「あんた、誰なんだよ」
「……初対面の相手に対しては礼儀が無いな」
「仙人なのかよ」
「清虚道徳真君。十二仙の一人とでも言っとくか?モクタク」
眠る彼女の手をそっと取る。
「この女の男かよ」
「ああ、そうだ。おかげさまで大喧嘩しちまった。機嫌直させるには時間がかかりそうだ」
雨音は止む気配すらない。窓を打つ雨垂れはまるで小さな石の様だ。
「普賢は、この雨の中お前を探して歩き回ったんだぞ。どれだけ止めたって聞かなかった。それにな、
お前のことを話すときは嬉しそうに話すんだ。それだけお前が大事なんだよ」
「だからってこんなやつのところに居たら何時までたっても強くなんかなれねぇ!」
「強さ……か。お前の言う強さの基準なんかに興味は無いが、普賢は十分強いぞ」
「嘘だ。剣なんか握ってるところ見たことも無い」
「そりゃ、相手するほどお前が強くないからだろ。無駄に傷を作ることは好まないやつだからな」
冷たくなった指と、割れた爪。
「運が良かったな。俺のところで同じことしたら半殺しにして親元に強制送還だ」
「他の師伯のとこだったら俺だってちゃんと修行する……強くなれるって分かるから」
「確かに普賢は十二仙じゃ一番暦は浅い。仙号を得たのだってそんなに昔の話じゃない。でもな、ちゃんと考えてみろ。
俺が何百年もかけて積んだ功夫をこいつは数十年で完成させたんだ。道士見習いの頃から見てきたけども、
毎日もういいって位に特訓してた。見た目は弱そうだよな、お前の言う通り。話し方だって穏やかだ・
俺なんかと違ってすぐに手を出すことも無い」
「…………」
「こんなになるまでお前の事捜して、さっきだってお前のこと庇って。俺の一発は結構重いって自負はあるんだ。それでもお前を守った。お前のことを『うちの子』って言ってたの分かるか?」
「俺がガキだからだろ。どうせ……」
「俺たちにとっては弟子は自分の子供みたいなもんだ。仙道は子供を持つことは不可能に近いからな。お前を引き取る時も色々と相談は受けてた。まさかこんな悪ガキだとは思ってもみなかったがな」
普賢と対照的にこの男はずばずばとした物言いだ。
「何のために崑崙(ここ)に来たのかよく考えてみることだな。剣術の指南が受けたいなら俺が指導してやる。自分が何のために強くなりたいのか、じっくりと考えろ」
仙骨があるといわれ、兄は先に仙界入りをしていた。
父も同じように一度は道士として修行をした過去があるらしい。
弟もいずれは同じように道士とて生きる道を選ぶだろう。
兄弟で自分の生まれたあの場所を守れる力が欲しかった。
「俺は自分の洞府に戻るよ。普賢が起きたらちゃんと謝っておけよ」
少し腫れた頬を摩りながら彼は笑う。
「手加減なしの一発だった。それだけ大事だって事だ」
こつことと扉を叩く音。
薬を片手に太公望が静かに入ってくる。
「道徳は帰ったのか?忙しない男じゃのう」
「太公望師叔……」
「わしに対する略礼が出来るのならば普賢のことも師と呼んでやれ。普賢も昔はわし同様に師叔と呼ばれておったぞ」
「え……」
「わしと普賢は同期じゃ。同じように原始様の所に居た。普賢はわしからみても努力家じゃったぞ」
太公望はほんの少しだけ昔の話をモクタクにこぼした。
仙界入りした時のこと。仙人になると普賢が決めたときのこと。そして、新しい弟子を取ると話したこと。
「わしは普賢が十二仙に入るとは思わんかったよ。各位や地位には無頓着な女じゃからのう」
「でも、こいつは頭はいいかもしれないけど、力は強くない」
「力……のう。おぬしが何ゆえ普賢のところに来たのかが分かるような気がするぞ」
「?」
「まぁ、それはこやつがじっくりとおぬしに教えてくれるじゃろうて」
太公望はくしゃくしゃとモクタクの頭を撫でる。
「師叔は仙人はどうしてならないんです?」
「わしか?わしは……まだするべきことがあるからのう。焦らずに時期を見てはと思うてはおるよ」
欲しいのは誇示するための力ではない。武力だけの強さでもない。
強すぎる力はまわりを傷つけ、やがて己をも破滅に導く。
歴代の独裁者と呼ばれた人間と賢君と呼ばれたものは紙一重。
その力の方向性を違えてしまっただけのこと。
「わしは隣の部屋におるよ。普賢が起きたら教えてくれ」
目覚めて飛び込んできたのは見慣れた天井ではなく、自分を覗き込むモクタクの顔だった。
「お、起きたのかよっ」
「心配してくれたの?」
「俺のせいで死んだとか言われたら夢見が悪いから……それに……」
「それに?」
「道徳師伯に殺される」
モクタクの言葉に普賢は思わず噴出して笑う。
「やだな、そんなに弱くないよ」
「そんなんで死なれちゃ俺の師匠なんでつとまんねーだろ」
不貞腐れたようで少し照れたような顔。
それは子供ながらに精一杯意地を張った表情だった。
「よろしくね、モクタク」
出された手はまだ少し熱っぽい。
その感触は忘れることが出来ないものとなった。
「あー、やっぱこっち来てましたか、師匠」
「お帰り、モクタク」
「俺、文殊師伯の所に行きやしょうか?師匠はここに泊まるんでしょう」
白鶴洞に姿が無い時は紫陽洞に居ることが多いとこの弟子は熟知している。
「元気そうだな、モクタク」
「道徳師伯も。天化も帰ったんだ」
「そ。師叔に乗っけてきた貰ったさ」
「なんで武王がここに」
「まぁ、色々と訳有りで……」
普賢の傍に駆け寄ってモクタクは嬉しそうに笑う。
紆余曲折は何度も乗り越え、この師弟は今日の関係に至る。
普賢相手にモクタクは未だに一太刀入れることが出来ずに、歯軋りをしながら帰ってくるのだ。
「どうして?折角帰ってきたのに」
ぺたんと座り込んで、モクタクは普賢にあれこれと近況を話し出す。
瞳が大きく童顔は師弟共通らしい。
「帰ろう、モクタク」
「いいんですか?道徳師伯は……」
「モクタクも大事だからね。キミは滅多に帰ってこないから。道徳はここに居る人だから」
手を繋いで、月明りの帰り道。露草の小道はいつか来た道。
足を捕られないように、泣きじゃくる君を抱いて帰ったいつかの夜。
「モクタクも大きくなったね」
いずれ自分の背を越し、彼は良き道士となるだろう。
徳を積み、功夫を重ねていけば大仙となるかもしれない。そのときに自分が動けない状況ならば九功山は彼に継がせたいとも。
「でも、ボクの中ではまだ泣いてた子供のまま……」
「その辺は忘れてもらえると嬉しいんすけどね」
雷が恐いと無く彼を抱いて眠ったあの夜。
他の道士と喧嘩をしては傷だらけで帰ってきたあの日。
「俺だって何時までも子供じゃありやせんぜ、師匠」
伸びた髪は一つに結い上げて、モクタクは頭上の月を見上げた。
どこに居てもかかる月は同じ。
「今日も一緒に寝る?前にみたいに」
「師匠、ちょっとだけ屈んでもらえやすか?」
「こう?」
少しだけ足りない自分の背丈に歯痒い気持ち。
「!」
重なった唇は、ほんの少しだけ熱くて、乾いた感触。
「子供じゃないって言ったでしょう?師匠」
初恋は実らないから、美しい。
そんな言葉を知ったのも仙界入りしてからだった。
その目が見つめ、呼ぶ名は自分ではない。始めから知っていた恋だった。
だから、帰省する事を躊躇う自分がいた。
彼女にとっての自分は愛弟子という立場から動くことは無いのだから。
それでも送り出すときに見せる表情を思うと、帰ってこずには居られない。
「どこで憶えたのかな?モクタク」
夏草、月光、鈴虫の声。
あの日と同じ帰り道。
「いえいえ、俺だって男ですから」
「まだまだ子供だよ」
帰ろう、いつもの場所へ。
手を繋いで。
『おかえりなさい』