◆ヒューマンシステム◆
出逢ってしまったことと、出逢えなかったこと。
出逢えたことの幸せと、出逢えなかったことの幸せ。
出逢ってしまったがゆえの不幸せと、出逢えなかったことの不幸せ。
箱の中に全部詰め込んで、素敵なラッピングを。
きらきらと沈む綺麗な思い出も一緒に閉じ込めて。
静かに蓋をしよう。
(そーいや、あの女……元気かなぁ……)
テンガロンハットを目深に被って、エースは彼女のことを思い出していた。
僅かに焼けた肌と、濡れたような黒髪。
(まぁ……また会えるといいんだけどさ……)
海軍に追われるのは同じで、自分も何時囚われの身になるかは分からない。
ブーツと、テンガロンハット。腕に入った刺青。
そして、小さな恋心。
(俺って、黒髪の女に弱いのかなぁ……ロビン、綺麗なんだよ……でも……)
駆け出して、自分の船に飛び乗る。
街は、余計なことまで思い出させてしまうから。
留まる事を、海の女神は許さない。
ただ、何処か寂しげな影と憂う瞳が忘れられなかった。
(多分、もう会うことはないんだろうけどさ。それも寂しすぎるよなぁ)
手配書の中の彼女は、子供のままで時間を止めている。
思い出の中にだけ閉じ込めてしまえれば、綺麗なままで全てが終わるから。
―――もしも、君に出会えなかったらこの空の青さを知ることも無かった―――
同じように、ようやく宿に身を置いてロビンはため息をつく。
ここのところの海軍の執拗さで、身体を休める余裕など無かったからだ。
(不思議な男だったわ……エース…………)
胸の中で生まれる優しい気持ちは、何処か恋に似ていて。
けれども、今の自分には恋に浸る余裕も時間も足りな過ぎて。
出逢うことが無かったら、生まれ得ない感情。
引き合わせられた偶然は、思い込めば必然になり、運命になる。
(色々……やらなきゃいけないことばかりで……どうしたらいいのかしら……)
目を閉じて、思い描く未来図は。
触れれば壊れてしまう泡沫の夢。
(おやすみのキスは……ないのね……エース……)
まだこの先にある大きな運命の渦には誰も気が付かない。
ただ、今を受け入れて前に進むしか彼女には出来なかった。
―――別々の朝を迎えて、それがこんなに悲しいことだって、君が教えてくれた―――
砂の王国は彼女と彼を少しだけ近付けた。
乗り込んだ船は彼と同じ血を持つ少年が船長だ。
麦藁帽子を被って、空を笑いながら睨んで叫ぶ。
『俺は海賊王になる男』だと。
バロックワークスから抜け出ても、海軍に狙われることに変わりは無くて。
海賊船に乗り込んでしまったことでそれは拍車が掛かってしまう。
「ねぇ、ロビン。この船に乗って後悔してない?」
緋色の髪の航海士は、悪戯気に片目を閉じる。
「どうして?」
「この船にはね、本当は海図も航海士もログも要らないのよ」
船の行く先を決めるのは船長である少年。
海図もコンパスも彼の本能には勝てないと彼女は笑った。
片腕に刻まれた刺青に背負った傷も、思いも。
全部受け入れて彼女は彼の隣に立つ。
「じゃあ、あなたはどう?航海士さん」
「そうね……」
少しだけ冷たくなったオレンジティーに口を付けて、彼女は言う。
「海賊なんか大嫌いよ」
母と同じように、母以上に愛してくれた人は自分を守ってその命を落とした。
戒めの刺青は、この先も痛み続ける。
「でも、この船は……未来に行く船なの。三下の海賊じゃないわ。海賊王になる男の船よ」
痛みは癒すものでも、忘れるものでもなく、生きている証明だと。
「この船にはね、世界一の剣豪、オールブルーを制覇する料理人、万能の医者、天才発明家
…………そして、海図を完成させる偉大なる航海士が乗ってるのよ。そんじょそらの海賊船
とは違うのよ。素敵でしょう?」
それぞれが覚悟を抱いて乗り込んだこの船は、未来へと向かって進み行く。
振り返らずにひたすら前に。
「ね?世界一の考古学者さん」
「……そうね……」
「それに、良い女と良い男しか居ないでしょ?海の女神が入り込む隙間もないわ」
笑い声の耐えないこの船に乗り込んだのは、もしかしたら何かの引き合わせだったのかもしれない。
それが、もしも『運命』というものならば。
この運命を憎むことなどもう、できやしなかった。
―――出会ってしまった不幸せは、君と離れてしまったこと。出会えなかった幸せは、
君を知らなかったこと。けれどもこれが不幸せなら、望んで堕ちよう―――
足音を忍ばせて、座り込んだのは船長の特等席のフィギュアヘッド。
昔はこうして、此処に座ってまだ見ぬ空の色を思った。
悪魔の実の能力者は、水底の風景を知ることが無い。
(綺麗な月…………)
波間に揺れる丸い月は、ゆらゆらとその姿を変えてしまう。
まるで自分の心を写し取ったように。
(逢えれば……いいのにね…………)
彼と同じ血を持つ少年の笑顔は、どことなく彼に似ていて。
時折胸が苦しくなってしまう。
すい、と無意識に伸ばした手。
「捕まえた。ロビン」
「!!」
「しっ……あんまりおっきな声、出さない」
人差し指を唇に当てて、男が笑う。
「ってかさ、なんで弟の船に乗ってるんだ?びっくりしただろ?」
そっと頬に手がかかって、目線が重なる。
「……貴方こそ……どうして……」
「船影が見えたから。そしたらお姫様に出会えたってわけさ」
触れるだけのキスだけでも、それだけなのに。
涙が出てしまうのはどうしてだろう?
「もっと、一緒に居たいけれども時間が足りな過ぎる」
増えた傷と、すこしだけざらつく手。
潮風が焼いた傷さえも、彼の男振りを上げてしまう。
「でも、キスできた。これでしばらくは俺も言い夢見れそうだよ、ロビン」
雀斑をなぞる、細い指。
その手を受け止めてもう一度、唇を当てた。
「これ……お土産。あとで開けて」
「今見ちゃダメなの?」
「これを開ける時間も、もったいないんだ。もう、行かなきゃいけないから」
何度も、何度も。それでも足りなくて。
泣いている時間すら、惜しいと思えるほどに。
「でも、この船に乗っててくれるんなら逢えるから。必ず」
唇が離れてしまうその前に。
その腕が遠くなってしまう前に。
「いつか、攫ってくれるんでしょう?」
「うん。俺は、海賊だからね」
抱きしめてくる腕の温かさも、囁く声も。
「たとえ弟の船のクルーでも、欲しけりゃ奪うのが海賊さ」
「…………待ってるわ。この船で。貴方が来るのを」
最後のキスは甘く切なく、軽いほうが良い。
次のキスのために。
「すぐに来るよ。少しだけ待ってて!」
小さくなる背中を見つめて、両手で顔を覆う。
良い女を演じきるには、まだ少しだけ何かが足りないから。
この朝焼けに続く道を船は進む。
それぞれの運命を乗せて、ゆらゆらと揺れながら。
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23:07 2004/08/27