◆水銀の海◆




「こういうのも一種の奇跡なのだろうな」
のんびりと煮える粥の様子を見ながら彼女はそんなことを呟いた。
静かに降りしきる霧雨は柔らかな灰色を作り肺腑に浸みる暖かさ。
「……私が寝込むのがそんなにおかしいですか?」
「ああ。可笑しいな。この先も御目にかかれそうにもない」
くすくすと笑う唇の艶やかさ。
いつもの道衣ではなくゆるりとした部屋着の彼女はどこにでもいるような少女だ。
同じように寝台に横たわり眼を閉じる青年も。
二人とも仙道だとは誰が想像できるだろうか。
「太公望。薬草摘んできたよー」
霊獣がばさり、と落とす薬草を拾い上げてそのまま厨房へ向かう。
「ちょっと待ちなさい……あなた、薬学は……」
「うろ覚えの何とかで何とかなるじゃろうて。最悪間違えてもおぬしはその程度じゃ
 死なんじゃろ。精々寝込むのが長引く程度じゃ」
立ち上がろうにも余力はなく、大人しく寝込むしかない。
数日伸びたところで道ということもないと結論付けてもう一度瞳を閉じた。






「申公豹が寝込んだ?」
青天の霹靂を通り越した一言に少女は手にした筆を落下させる。
床に着くすれすれで愛弟子が受け止め、自慢の麻布は守られた。
「あの化け物が寝込むとは……そろそろ大地震か太陽が西から昇るな。はは」
「笑えればいいんだけども、笑えないんだよねぇ。僕じゃなにもできないし」
霊獣はその鉤爪で肉は裂けても調理は出来ない。
薬草を摘むことは出来ても加工は出来ないのだ。
「長い付き合いだけど、二千年くらい前にも一回寝込んだかなあ」
「その時はどうしたのだ?」
右手で肩を軽く打ち、こりきと首を鳴らして。
解かれた黒髪が肩に触れて静に揺れる。
数日前から降りだした霧雨は今が昼なのか夜なのかその境界さえも曖昧にしてしまう。
「その時の彼女を拉致してたよ」
「ほう。それで今回はわしにか?」
「うん」
麻布に織り込まれた八卦炉は少女の霊力を引き上げてくれる。
来るべき戦の為に静かに刃を心の中で研ぎ澄ます。
「まあ、死にそうになったら言うてくれ。どうにもわしはここから抜けられぬ」
道士としてだけではなく軍師として身を置く彼女に自由は少ない。
しかし不自由の中で自由を渇望するのは己が人間だったからだろうと笑うのだ。
その小さな背中に重すぎる運命を背負って。
「そしてこの雨だからのう」
出るにも出れないと手を広げて小首を傾げた。
傾国の美女と謳われる大国の皇后を討つために旅立った少女は今や脅威と化す。
化かし上手な女狐を騙すために。
「うーん、まだ死なないとは思うけどね」




しかし、一向に主の具合は良くはならない。
日に日に顔色は悪くなり咳き込む回数も増えてきた。
(流石にそろそろ死んじゃいそうだなあ……太公望のところに行こう)
霧雨の門を潜って虹を飛び越えて。
柔らかな毛足に雫を絡ませて彼女を迎えに行こう。
雲を抜ければまばゆい月が美しいのに。
そう思えないのはきっと、彼が自分の背に居ないからなのだろう。
(前もそうだったし、看病ってやつをしてもらえば治りは早いよね)
西を目指して走る影。
「おや?珍しい。一人なのか?」
「あら本当。あの憎々しい申公豹の霊獣ね」
満月の夜に空中散歩としゃれこんだのは高友乾と王貴人。
絡ませた指先と眩しすぎると女が手にした美しい日傘。
「こんな夜にそんなに急いでどこにいくつもり?」
月も赤く眩しく優しいから、妖怪にとっては最も望ましい夜。
その月を畏れ忌々しく思い、そして美しいと思う人にとっては禍々しい夜。
「もしかして……太公望のところに行くつもりね?」
瞬時に空間に浮きだす夥しい呪符。
黄金に血で刻まれたそれらは並の妖怪ならば触れるだけで消滅するだけの力を持つ。
しかしながらこの霊獣は悠久の時を生きてきた神虎。
そこいらの道士よりははるかな強さを持つのだ。
「あの女道士!!殺しても足りないッ!!」
王貴人は格下と思っていた太公望に本体まで暴かれた過去を持つ。
妖怪仙人にとって素体を見られることは屈辱以外の何物でもなかった。
「邪魔するなら、食べちゃうぞ」
「申公豹の居ないお前など、私の足元にも及ばないわ!!」
ひらり、呪符が霊獣の髭に触れる。
瞬時に焦げ臭い空気が広がった。
「あーあ、自慢の髭なのに」
きらり。琥珀の瞳が一瞬だけ鋭く輝いた。
「食ーべちゃうぞ」
ぶるん、と首を振る。
「女の子を食べるのは久々だし、お腹もすいてきちゃった」
爛々と輝く獣の瞳は見つめられれば膝が震えてしまう。
逆立つ毛並みは月光を浴びて妖気を放ち、この霊獣が自分たちも上位だと告げた。
「!!」
蜘蛛の巣のように張り巡らされた艶やかな羽衣。
一歩踏み出すだけで肉を刻み抉り取ろうとする。
「このままその足くらいは簡単に落とせるわね。駆(と)べない霊獣に価値は無いわよ?」
黒髪は風に揺れてそれだけならば主の思い人と同じなのに。
「この布切れで僕の足が?」
奥にとどめた禍々しさは主の思い人のほうが深いから。
「!?」
にぃ、と猫が笑うように歪む唇。
瞬時に羽衣は稲妻によって焼き尽くされた。
「食ーべちゃうぞ。お腹も空いたし」
「……そこまでにしておきなよ、貴人。むやみに喧嘩を売るのは良くない癖だ」
「あ、空気みたいだったのに喋った」
「……酷い言い草だ。どちらが怪我をしても僕が治そうと沈黙に徹したまで」
薬師が中立を守ったのはこの霊獣の主が主君にとっても客人であるからだった。
「じゃあ僕、忙しいから」
「髭、すまないことをしてしまったね。詫びには足りないだろうけれども……」
首輪にくくられる皮の小袋。
「痛み止めが入ってる、持ってて無駄にはならないんじゃないかな」
「そうだね。じゃあ」
闇夜に吸い込まれるように駆けていく後ろ姿。
日傘で星を描いて女はその上に腰を下ろした。
「もう!!邪魔しなくたって!!」
「僕が止めなかったらもっとすごい人が止めてたよ」
くい、と顎先で月を指す。
紅い月に浮かぶ影。
揺れる長い髪と静かに此方を見つめる紫水晶の瞳。
「……張奎……」
「高蘭英様も御一緒だ」
こんな月の夜だからと散歩に出たのは彼らだけではなく。
盃に光を落として飲み干そうと欄干に凭れる軍師もいるように。
「聞仲様には報告しないでおきましょうね。今宵くらい、楽しく飲めればと思います故に」
「そうだね。僕たちも散歩の続きに行こう。こんな月の夜なんだ。楽しまなければ損をする」
青年は胸に愛しい彼女を抱いて手綱を取る。
鳴き声一つ残して霊獣は再びに空を舞った。
「貴人、ゆっくり行こうよ。こんなに月も紅いんだから」
そっと繋ぎなおした指先。
「……そうね。こんなにも綺麗なんだもの」



雲の下は霧雨の魔法に当てられた世界。
雨音も清しく耳に良いと瞳を閉じて少女はのんびりと椅子に背を預けていた。
焚かれた香木と少しだけ冷めてきた華茶。
「太公望」
ぎぃ、と開く扉。
「黒点虎。どうした、こんなに濡れて……」
軟布で雫をふいてやればふるふると首を動かす。
「申公豹、ちっとも良くならないよ」
「うーむ、何かおかしなものでも拾い食いしたか……」
こんなときに必要なのは薬でも毛布でもなく、誰かの優しさ。
この爪では彼の髪を撫でることもできない。
「一緒に行こうよ」
「そうだのう。珍しい物も見れそうだしな」
番傘を一つ手にして霊獣の背に乗り込む。
本来、太公望の霊獣は四不象であり移動の際には彼に乗り込むのが通例だ。
「御主人、僕も行くっすよ!!」
「たまにはおぬしも休むがいい。いつもわしの足になってばかりでは疲れるだろうて」
黒点虎に乗り込めばしばらくは管理の目からも外れると言うことになる。
四不象は霊獣にして最大の拘束具であることも事実だった。
それを知らないのは二人だけ。だからこそともに歩み全てを分かち合える。
「はいっす!!」
「少し留守にするよ。面倒なことに巻き込まれぬようにおぬしも崑崙に戻るがいい」
銀瑠璃に紫陽花の描かれた美しい番傘は静かに雨粒を丸く変える。
濡れないようにとひざかけで黒点虎の頭を覆い、そっと抜け出した。
「上まで行けば雨降ってないよ」
「そうなのか?では上まで頼むかのう」
昏闇の空は月だけが煌々と美しく物悲しいと唇が呟く。
その言葉を飲み込みながら今この場に居るのは自分と彼女だけなのだと。
すれ違ったのはどれも二人で歩くものばかり。
この少女は恐らく生涯を一人で過ごすのだ。
それは自分の主もまた同じだと思っていた。
「その傘、綺麗だね」
「あそこに居る二人が作ってくれたものだ」
視線を移せばのんびりと宙を飛ぶ二つの影。
星精を追い回す姿から何らかの材料をも調達しようという算段だろう。
「銀蝶は普賢の押印の一つ。紫陽花は考えずとも道徳じゃ」
ふふ、とため息交じりの笑みが一つ。
「わしはまだ押印など決めてはおらんし、持つこともずーっと先じゃろうな」
仙人として座すれば押印を持つことになる。
彼女にとっても主にとってもそれはまだ先の話だった。
「じゃあさ、申公豹と一緒に仙人になればいいんだよ」
「そういえばあれも一応道士じゃのう……底抜けに強いが」
一人と一人で出逢ってしまって。最初は何の意味も持たない関係だった。
同じような一人ぼっちの二人は、さみしいという感情を持たない。
「ひとり者同士、少し優しくしてやらんといかんな」
「………………」
主は彼女のことを話すとき、少しだけ嬉しそうな表情になる。
歴史を読み解きその分岐点を何度も乗り越え、悠久を飲み込んだ大仙にも劣らない道士。
「僕、四不象なら居てもいいよ。申公豹だっきっとそう言うよ」
そのてれたような笑みは長い年月を乗り越えてもそう見れたものでもない。
閉ざされたこの世界の掌に存在する二人。
張り巡らされた永夜結界の奥に彼は屋敷を構えていた。
「最近、申公豹がおひさまなんていらないとか言うんだ」
あと何度太陽が昇れば彼女は消えてしまうのだろう。
ならば永遠の夜の中、この竹林の奥で座したまま彼女を知らなかった日々のままでいたい。
消えゆくものを愛でるのは仙人の悪い癖だ。
自嘲気味に笑う唇と盃は赤。
「日の光が無ければいくらわしらでも生きてはいけぬぞ」
賢者は静かに未来を憂い恋を患う。
「具合が悪い時は往々にして良くないことを考えるものだ」





死体とはかくも美しいものかと思わせる。
その冷たく無機質な肌は直前までは確かに生気がちりばめられていたのだ。
「死んではおらんな」
指先が額に触れて、彼が静に瞳を開いた。
「……笑い者に……来たのですか……?」
「くたばりそうだと聞いたからな。そう滅多に見れる者ものでもあるまい」
その掌が頬に触れて額同士がこつん、と触れる。
「ずぐに良くなるとは言わぬ。おぬしにも休養は必要じゃ」
微かに触れる唇。
耳元で小さく笑う声。
眠れない夜に無理やり見た夢の中で彼女に向って何を叫んだのだろうか?
思いだそうとしてもそれは霞の彼方で。
手を伸ばしてその身体を抱きしめてどんな愛の言葉をささやけば。
この胸の中の思いは届くのだろうか。
過去を刻んで動いていた時計の針が三つ重なり、今度は逆回転を始めるように。
細胞に刻まれた彼女の声が神経を侵していく。
「申公豹?」
「この雨がやむまではここに居てほしいのです」
霧雨は傷を癒す代償に心の弱さを露呈してしまう。
脆弱な姿など今まで誰にも見せたことのないだろう彼でさえも。
「当分に止みそうはない雨だ。足もなければ帰れまい」
「黒点虎でここまで来たのですか?」
「……口実くらいなければわしに自由などないよ」
その口実は自分と一緒に居るためのもので。
たとえ二人の関係が鵲の橋を渡れないほど脆いものだとしても。
「病は気から……というべきか?」
触れ合う頬。
「太陽なんて要りませんよ……雨がやまなければ貴女がここに居る」
泣き出しそうな曇空は優しい闇色を纏う恋人を運んできてくれた。
青天にして雲の無いあの場所で初めて出逢った。
思えば恋なんてそのころに降ってきてのかもしれない。
片腕を無くして彼女が痛みを知ったように、彼もまたその後ろ姿に己の感情を知ったのだ。
「愛してるなんて私には似合わない言葉ですね」
夢の中で何度も繰り返して。
君の名を呼んで手を伸ばして。
目覚めれば一人きり宙を掴んでいたこの手が今。
君を抱いている。
「病は……」
「永遠に治りませんよ。私の病は貴女が感染させ続けるのですから」



もっと淡白で冷淡な男だと思っていた。
自分を抱いて丸くなって眠るその姿はどこにでもいる少年のようだ。
最強の名をほしいままにして歴史の証人として生きてるなどとは誰が思うだろうか。
「…………………」
汗で張り付いた前髪を指先で払えば湿った額。
そのままさわさわと髪を撫でれば乱れていた呼吸が安定してくる。
(こんな同衾も悪くはない物だな)
彼の記憶はきっと灰色の入れ物に閉じ込めてしまったのだろう。
今のこの一瞬が愛しくそれがすべてだと呟く唇。
道士にならずにあの場で朽ちていたならばこの運命は無かった。
愛しいと思える誰にも逢えないままに終わっていたのだ。
「……眠れませんか?」
朽ちて果てて焦がれて憎しみに。
抱き寄せられて安心してしまうまだ人を捨てきれないこの心と身体。
「呂望?」
泣き出しそうなこの顔を見られたくなくて薄い胸に顔を埋めた。
こんな苦しい夜には無性に誰かを殺したくなる衝動を飲み込んで生きてきた。
あの日、仙界に拾われるまで躯を齧って憎しみをため込んできた。
「………………」
重なる唇。
「……こんな体たらくじゃなかったら貴女をしっかりと抱けるのに……」
「……十分だ……これで……」
「……………………」
彼女を包み込む夜着をはぎとって己も同じような裸体に。
「何をするかっ!!おぬし病人じゃ!!」
噛みつきそうな彼女を抱き寄せて視線を重ねる。
「死にませんよ。長引くのは臨むことろ。裸の貴女を抱きたいだけです」
自分とそう年端も変わらないように見える彼は五千年以上を生きる大仙なのに。
はるか昔に忘れた感情を思いだして。
「私のことだけを見つめてください」
硝子の瞳。
「夢の中で愛してるなんて叫んでも貴女には届かないんです」
薄い胸板に重なる小さな胸。
世界がまるで震えるようかに回る景色。
これが恋というものだと教えられて頬を伝う涙。
「ほら」
そのまま倒れこめば彼を下に組み敷くような形。
「綺麗な夜の目。私の一番好きな色です」
傷の無い彼の身体と傷だらけの彼女の身体。
欠けたままの腕ごと抱きとめられて。
「接吻っていうのはそっとすると切ないですね……」
笑うのはきっと彼女の前だけで。
「夢で見ていたのよりもずっとずっと」
裸の身体をただ絡ませてこの夜にゆっくりと沈んで行こう。
他に必要なものも望むものもないから。
「おぬしのほうが余程、女のようだ」
「そうですね。じゃあ、もっとそっと抱いてくれますか?」
頬に触れる唇が優しいこんな夜。
雨は降り止まない程度に空気は読んでくれるらしい。
笑い声、今宵は二つ。
時折混ざる咳も、もういいと告げた真夜中。




雨上がりの朝は水たまりに虹が零れる。
「そろそろ帰してあげないとまずいですかね」
ぱちん。と鋏を入れられた紫陽花も濡れて。
この雫が頬を伝う涙にもよく似ていると呟いた。
久方ぶりの太陽は彼の白い肌を静かに照らす。
「抜け毛の季節だのう」
「長毛種だからね」
わしわしと毛並みを撫でる手と座り込んだ姿。
この平穏を永久と願っても彼女は戦の中でこそ美しく咲き誇る。
傾国の美女ではなくさながら戦乙女というものか。
男の血を吸い、どこまでも艶やかに。
(つまらない嫉妬か……)
身支度をして自分の前に少女を乗せる。
「行きますよ」
「おお、いい風だのう」
黒髪を掻き上げる清々しい風は、きっと彼女への追い風だろう。
風の加護を受けた道士はどこまでもその翼で飛んでしまう。
「どうした?」
「もっと抱き寄せたかっただけです」
グイ、と自分の胸に抱いて霊獣を駆る。
下から見る彼の横顔は同じ年のようでそれでいでずっと大人だった。
「申公豹」
「はい?」
不意打ちの接吻は耳の下に甘く優しくすこしだけ余韻を持たせて。
「……昨夜してくれればよかったものですね、ふふ」
抱きしめて今度は彼から彼女に。
重ねる度に深くなって鼓動が速くなる。
二つの心音が絡まりあって一つになりたいともどかしく脈打つ。
「……っは……」
舌先が漸く離れて呼吸を整える。
「ああ、愛しい人だ。まったく」
少年二人のような抱擁と接吻でも幸せに溢れすぎて。
「愛しくて苦しくて夜も眠れないのに」
「勝手な不眠だな」
「一人寝は寂しいんですよ」
隠さずに全部伝えればきっとこの空のようになるのだろう。
見えてくる見慣れた景色。
欄干に降り立って振り返る。
「また、逢いましょうね」
「ああ、またな」
一歩踏み出した瞬間に彼の手が伸びる。
掻き抱くようにして重なる唇。
「……去り際にか?」
「牽制です」
少女の背後に居並ぶ男たち。
雷公鞭を取り出して軽く振り上げた。
「私の呂望に妙なことはしないように」
「……あほはとっとと帰るがいい」




世界がくるり回ってる。その中心で彼女と二人。
夢よりもずっと切ないこの恋が光に変わった。



17:21 2010/06/11








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