◆幽明境の篝火◆






冥府に降り立った件の人が目指したのは楼閣。
そこで采配を取る旧知の友人に会うためだった。
門番の鬼はその瞳を見ただけで素直に彼を通した。
「久しいな、幽明朗伯よ」
「その声、老君か。これは久しい」
黒衣に身を包んだ幽冥教主は朗らかな青年だ。
これで三大仙人である老子とほぼ同年齢なのだから人は簡単には見抜けない。
「どうした?何かあったのか?」
席を勧められてそのまま座り込む。
「何かも何も、教主を辞めるのかい?」
その言葉に眼を瞬かせたのは幽明の美丈夫。
浄玻璃の鏡を宙に浮かせて世界をそっと照らしだす。
「まさか。ただあまりにも手が足りなくなってね。だから行く行くは任せることを前提と
 した人物が欲しかったんだ。地獄やら天界やら駆けずり回ってもらったけど、まさか人界に
 居たとは思わなかったよ」
稀なる魂の持主と判断された姫昌はこうして幽冥へと召喚されたのだ。
その魂は勤めが終わるまで転生することはできない。
紫紺の髪を一房編み込み、教主はのんびりと飴色の茶を啜る。
「君が世界で遊んでるうちは私も働くつもりさ」
「ふーん。なんとなくはわかったよ」
「そして、君が女性になったら求婚するつもりさ」
「気が向いたらね。そもそも私は誰かに所有されるつもりはないんだ」
裾を翻して座り直す。
元来、老君は両性具有者。気まぐれにその身体を変えながら世界を生きてきた。
「鬼さえも逃げ出すその美貌か?それとも……」
出された盃に浮かぶのは牛頭馬頭の眼球。
まだ視神経の絡みついた酒塗れのそれを拾い上げて、ちゅるんと飲み込む。
「私が生きていて死んだ国に来れるからだろう?大した味じゃないね。こんなもので
 口説こうなんて馬鹿げてる。三千年早いかな」
「それはすまなかった。手土産に冥界桜を持たせるよ」
その言葉に足を崩せば少しだけ少女めいた素顔が綻ぶ。
「君がここに来た本当の目的はなんだい?私で出きることなら力にはなるけれども」
「うん。私の夢が消えたんだ。何かが起きるから、ここなら一番そんな情報も早いかと思って」
死はすべてに平等に与えられるもの。
十王を従える幽冥教主の前で偽りは存在しない。
「なるほど。少し準備させるよ。時間はあるだろ?」
「少しならね」
「君を口説けるくらいにあれば十分だ」
「どうかな?」
悪戯気に笑って片眼を閉じる老君の姿。
釣られて教主も小さく笑った。





欄干に腰かけて巡る季節を思い浮かべる。
伸びた黒髪を戯れに昨日の夜に切り落とした。
旅立ったあの時と同じ少年のような姿。
桜は静かに緑に変わろうとして、その中で変わることのできない少女が一人。
「太公望」
「太乙。どうした?」
「ちょっと見せたいものができたんだけど良いかい?」
霊獣に乗って向かった先は二つの仙界の落下地点。
浮かぶ巨大な球体に首を傾げた。
「空間圧縮技術を使ったんだ。中はそこそこ広いよ」
促されて表面に手を当てる。
ぺたり、と一瞬だけ貼りついてそのまま中へとす込まれていく。
「!!」
思わずきつく目を閉じるも、呼吸ができることで得らえる安心感。
眼を開けば見慣れた宮の一部が綺麗に再現されていた。
「個人個人の部屋と僕と雲中子の研究室。あと訓練場とかもあるよ」
人の世界にとどまることの許されない仙人たちを収容するために作られた小さな空間。
十二仙で生存している道行天尊の持つ空間圧縮術を施した彼の自作宝貝。
「これで、どこに向かえば良い?太公望」
「……知っておったか」
「ああ。道徳もそろそろ知ってることだと思うよ」
仙界大戦の最中、聞仲は表に出ることをせずにひたすらに航路を西に執った。
もう一つの目的を果たすために。
「西に向かいたい。そこに妲己がいる」
大きな犠牲を抱いたまま彼女は立ち止らない。
この復讐劇を終わらせるために彼女は血で染まることを拒まないように。
「雲霄たちが調べてくれたのだ。どうやら件の場所は蓬莱島というらしい」
胸元を探って少女はそれを太乙真人に差し出した。
もう一つの仙界の核に隠されていた重要機密。
それはまだ意識のあった教主が最後の希望を掛けて仕掛けた記録機だったのだ。
「解析して使ってくれ」
「分かったよ」
「しかし道行の空間術をこんな風にもできるとは……科学というものはすごいのだな」
霊獣に乗って漂えば偽物の空が美しい。
一周してとん、と降り立つ。
「これも使えるか?」
それは親友が使っていた宝貝を小さくしたものだった。
「どうしたのこれ?」
「ちょっとな。符印の簡易版だが、追尾機能と探知機能はそのまま使えるはずだ」
最も若い大仙に与えられた宝貝には少なからず興味はあった。
崑崙の技術のすべてを投資した対極符印。
「ありがとう。つかわせてもらうよ」






少しだけ時間を戻して。
まだ最後の桜が僅かに残り散る頃の季節。
「太公望」
「雲霄。どうかしたのか?」
いつものように欄干に腰かけて少女は夜空を見つめていた。
その隣に立つ精悍な青年。
陽に焼けた肌と金色の髪はどこか異国を思わせる。
趙公明の義兄弟の雲霄は、義兄よろしくやはり紳士ではあった。
「これ、お前の友達のだろう?」
彼の手の中には半分ほどの大きさの対極符印の姿。
あの時、確かに親友とともに爆発して砕けたはずだった。
「……これは……普賢の……」
受け取って表面をしげしげとさする。
同じようにぼんやりと光を放つ符印は確かに親友の宝貝だった。
「破片とか見つけて再現してみた。人を作るのは無理だけど、宝貝なら俺にもできるんだ」
技術者としても名高い三兄弟の長兄は少し照れながら続けた。
「せめて、これだけでも近くにあれば安心できるかなって」
「……………………」
符印をぎゅっと抱きしめて俯く姿。
「太公望は妖怪にも差別をしないだろ。だから、俺達も妖怪に人を食うなっていってる。
 本当に、なんであんな大戦争やっちまったんだろうなぁ……兄貴も祭り好きだから仕方ないっちゃ
 仕方ないけど……痛いのとか誰かがいなくなるのとかはもう嫌だよな。だから、きっと俺も
 太公望が居なくなったらすごく嫌な気持ちになるんだろうな」
腕の中で小さく光る符印。
昔、親友がうれしそうに見せてくれたあの笑顔が忘れられない。
最後に彼女はどんな表情をしていたのだろう?
振り返らずにただ前を見つめて運命と対峙していたあの後姿。
「俺は妖怪だから少しくらい痛いのは平気だから」
ぽふ、と頭に乗せられる褐色の手。
そっと撫でる指先は人と何も変わらない。
「痛いなってことになりそうなときは俺が変わるから」
「おぬしは、なぜわしに優しい?」
「恋に理屈は要らない。兄貴の口癖さ」
「そうか……」
目じりの涙を払う指先。
それを取ってそっと頬に当てた。
「まずは友達からでもいいのか?」
「物事には順序ってものがあるんだろ?何も問題なんてないさ」
この手は悲しいほどに非力だ。たった一人の親友さえ守れなかった。
次々に散った仲間たち。
「傷の深さは違うかもしれないけど……」
痛いのは傷跡ではなくこの胸の中。
吐きだしたいのは血ではなく飲み込んだ言葉と感情。
酸素に触れた鮮やか中は黒に変わり、異物となったことを証明する。
「狐狸精を討つんだろ?」
この黒い感情を槍に変えてその喉元を斬る日を何度願っただろう。
「この手で殺す」
明確な殺意はたった一人にのみ向けられる。
二人の女と二人の少女。
全ては世界を掌握せんとしたたった一人の女の仕業。
「どっかで変わったんだろうな、あの狐も」
「……………………」
そっと胸に抱いて同じように空を見上げる。
銀瑠璃の星々が美しく輝いて、復讐を再念するには持って来いの空模様。
「凶星が出てんだ。殺人予告だっていいんじゃないかな」
「同胞ではないのか?」
「俺らが恩義があるのはむしろ教主さ。あの方と奥方様に対しての仕打ち、許すわけには
 いかない。奥方様は純粋な妖怪だったからな」
静かに耳に響く低い声。
「妹の一人くらい、首を刈り取ったって良いだろ?」
「物騒な男だな」
「妖怪だからな。裏切りには死って決まってんだ」
だからこんな夜には誰かの声が聞きたくなる。
啄ばむような口付けを何度も重ねた。
肌を合わせたいのではなくただそうしたかった。
その血の味を確かめうように。






ぱらぱらと書簡を開きながら老君はため息をついた。
膨大なそれは一晩ではとても読み終わらない。
防護服を脱ぎ捨てれば伸びた脚が闇に美しい。
巡回の鬼も目を止めるようなその肌は冥界でも稀有な美しさだ。
「うーん……意外と面倒だなぁ……けど、これは私がやらなきゃいけないことか……」
紅盃に唇が触れて、清酒を飲み干す。
布地越しに解る乳房の形とその大きさ。
伸びた巻き毛を簪で止めてなおも読み進める。
「こちらに老君はおいでですか?」
その声に顔を上げる。
年のころは三十も半ばだろうか、知性に満ちた青年がこちらを見つめていた。
黒衣に紫の帯は教主側近の証拠。
「私だが?」
「お初にお目にかかります。十王と夜摩天を管轄している昌という者です」
引き連れた魂魄が彼が人ではなくなったことを静かに告げた。
「私の呂望が随分とお世話に」
「ああ。君が太公望の思い人か」
八卦炉を灯りにして老子は青年を招き寄せた。
四季のはっきりしない冥界に居ながらにして、老子は周りに福寿草を咲かせた。
心臓の病にでも花見にでも使うがいい、と。
「して、なぜにこのような場所に?」
八卦図を敷いた陣の中で老子は猫のような瞳で笑った。
「決まっている。私はこの世界をしっちゃかめっちゃかにされるのが嫌なのさ」
なぜ、人間である彼が冥界へと封じられたのか。
たった一人生き残った少女が仙人となり、戦うのか。
その一つ一つをゆっくりと静かに彼に解いていく。
そして、彼を指でさした。
「だから君に会いに来たのさ」
射抜くようなその視線は、誰かを見つめていて誰も見つめない。
世を捨てたのは世界を愛するから。
有意識を封じて無意識で行動する物ならば魂を持ちながら冥府に来ることもできる。
「なるほど。興味深いお話です、今宵一晩お付き合いしたく存じます」
「ああ。まだ山のようにあるんだその言葉、ありがたいね」
針の山に刺された彼岸桜。
冥界の夜は甘く黒いから性質が悪い。
「君の息子は……そこそこにいい男だ」
「ありがたいお言葉だ。いずれは愚息をこの手で裁かねばならないのが辛いところです」
「その時には少しばかり書き換えてやればいいさ」
「そうですね、ははは」




幽明境を静かに渡り、願い願うは彼岸のこと。
此岸は何処と笑うのは赤い唇。





16:43 2009/01/13

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