◆アゲハ蝶◆
「は〜〜〜い、三蔵ちゃん。質問がありまぁ〜す!」
むくれ顔の悟浄は奇妙な音階の声色。
「手短に言え、河童」
「俺、この仕事は請けたくありませぇ〜〜ん」
「俺も、嫌だ」
珍しく意見が一致しても、三蔵にとってはありがたくもなんともない状況。
「…………もしかしなくても、前金で貰った?」
「……………」
「煙草の匂い、いつもと違う」
男二人の視線から目を逸らす。
「ああ〜〜!!!俺、三蔵ちゃんに不満無しだけど!そこだけ嫌なんだって!!」
「しかも最初に使うしな!!!」
ぎゃあぎゃあと文句を言う男二人の鼻先に三蔵は一枚の紙を突きつけた。
「ほぇ?」
「どんな武具でも、直す匠が居るそうだ。先払いしてある、行け」
夜々、年頃の娘がふらふらと姿を消す。
戻っては来るのだが皆一様に視点が定まらない。
まるで熱病にでも犯されたかのようにただじっと天を見上げるだけ。
「地の血脈を操る妖怪らしい。こちらは炎と水か。幾分か分が良いが……」
金輪を触りながら、悟空が笑う。
「風と月。三蔵の相だ。合わせれば俺らが勝てない相手なんてないだろ?」
彼は物の形には囚われない目を持つ。
そして、人ならざる者の声を聞く女。
「なんにしろ、やるときゃやんねーとな。男としてのプライドってもんがね」
深緑の髪を下目に結い上げて、悟浄は空を仰ぐ。
水の気を読むことの出来る男は、この先の運命に多少の不安を感じていた。
(胸騒ぎ……三蔵に何も起きなきゃいいんだけどさ……)
時折、妙に彼女の命が揺らめいて見えてしまう。
手を伸ばしても、さららと崩れる砂のように。
人間(ひと)の命は短く儚い。
だからこそ、人間を愛してはいけないのだ。
悠久の時を生きるものは何時だって残される側。
慣れたはずでも、傷口は化膿してしまう。
(何も……起こらせねぇよ…………この悟浄様が付いてんだからよ)
秘密も黙秘も黙殺も。
この女にとっては意味を成さないことくらいは分かっている。
だからこそ、その頼りない手首を離さないように。
出来るだけ側に居たいと願った。
ひらり、ひらり、と飛ぶ蝶を指で摘んでため息を付く。
その小さき命の光は男の意思で簡単に消えてしまう。
「生臭い肉は好きじゃないけれど、食わなきゃ死ぬ」
男の名は猪悟能。この古びた村に数百年前に幽閉された地妖。
村の娘をさらう張本人でもあった。
人間の女の肉でも彼の口には合わないらしく、魂を少しだけ齧って村に帰らせる。
彼にしてみれば親切心なのだろうが、魂の欠けた娘は生きる屍だ。
いや、それよりももっと性質が悪い。
家畜や獣を素手で掴んでは、食い千切る姿。
血の気の無い顔の中でただ一つ色のある唇は、赤錆の血色。
「ちゃんと家にも帰してるし、何が不満なんだろうね」
水晶の中に閉じ込めた金魚は、彼の唯一の話し相手。
この地から動くことの出来ない悟能にとって、たった一つの誰かとのつながりだった。
月が頭上よりも少しずれるころ、三人はそれぞれの武器を手に石碑の前に立つ。
「ここ?」
「ああ。悟空」
如意棒で石碑を叩き割れば、異空間への穴がぽっかりと開いているのが見えた。
「美人だとやる気も出るんだけど、多分男でしょ?」
「十中八九な。行くぞ」
三蔵の右に付くのは悟空。後ろに悟浄。
三人揃ったときに先陣を切るのは何時だってこの女だった。
躊躇無く、闇に溶ける姿。
「うわぁっ!!」
最後に見えたのはその白く細い指先。
「三蔵!?」
「三蔵ちゃん!?」
それきり、空間はぴしりと閉じてしまった。
一人ではないと錯覚するには何かの残像に頼ってしまう。
それすら限界に近いからと罠を張った。
気の強さは風で読むことが出来る。
無作為に娘たちを攫えば、その主が此処に来ると踏んだからだ。
「して、私に何の用だ」
「話し相手が欲しかったんです」
悟能はため息をつく。どれだけあがいてもこの空間から出ることは出来ないのだから。
かつては天逢元帥として天界で高位の道士として生きていた。
しかし、元来の酒好き女好きが祟って今はこの有様。
見た目がまじめなだけに余計に性質が悪い。
「でも、お前……他に色々やらかしてんだろう?」
猪悟能の悪行はそれだけに留まらない。
上げれば大きなものは八つ。細かなものなどはきりが無い。
札付きの悪童振りには、悪僧と言われる三蔵も苦笑するしかない。
「なんとか此処から出れませんかね」
「出したら私が標的(マーク)にされる。お断りだ」
天竺までの道のりに何かと邪魔が入るのは避けて通りたい。
「そういうわけで帰らせてもらうぞ。悟能」
「……僕だって、本当は平穏に暮らしたいんです。のんびりと碁を打ったり、花を育てたり」
元々温厚な猪悟能は、女好きと酒乱を除けば人としては悪くは無い。
ただ、運悪く月神の褥に潜り込んでしまったのだ。
本来は同じ気を持つ地の女神の寝所に行くはずだったのだが、その夜に限って一つ隣の
扉を開けてしまった。
そして、こんな辺境の地に投獄されてしまったのだ。
「分かった、分かった。私は帰らせてもらう」
「待ってください!もう少しここに居て話を……」
「がたがたうるさい男だな!こっぴどく仕置きされたいのか!」
水晶の数珠で額をぺしん、と打つ。
「是非!!お仕置きしていってくださいっ!」
「は!?」
「気の済むまで、じっくりとお仕置きを。さぁ、別室でゆっくりと」
がし、と手を取られて引きずられるように連れ込まれたのは寝室。
「時間をかけて、ゆっくりとお仕置きしてください」
「殺すぞ!馬鹿!!」
慣れた手つきで衣類を剥ぎ取り、細い背中を抱きしめる。
「ふざけるな!大馬鹿者がっ!!」
重なった唇。
「!」
その瞬間に、空気の色が変わる。
張り詰めて閉鎖されていたものが剥がれ落ちて、始まる外界との融合。
「まさか……接吻(キス)で解けたのか……ッ……」
恋多き、月の女神が仕掛けた封印は。
「そう……みたいですね」
一人の女の唇で解けてしまった。
「これで、ここから出れる」
三蔵の頬に手を掛けて、悟能はもう一度唇を重ねた。
暖かさも、柔らかさも、随分と縁遠いものと化していた。
それを感じることの出来る『幸福』という感情。
光は失ってはじめてその明るさを知ることが出来る。
明けない夜の恐怖。
「ありがとう……ええと……」
「玄奘三蔵。覚えておけ。猪悟能」
噂に聞く女僧は、想像していたよりもずっと違っていた。
破天荒で粗野な女だと伝わり聞いたが、実物はそうではなく。
(凶悪なのは噂通りだけども……)
自分の話を最後まで聞き、逃げ出さない肝の据わった女。
女との接吻なら、今まで何度も重ねてきた。
それでも、その封印を解くことが気出たのは彼女だけ。
(でも、僕の話をちゃんと聞いてくれた)
細い手首を掴んで。
「三蔵、僕に……名前を付けてくれませんか?」
「何のために?」
「貴女と共に生きるために。どの道天界の連中は貴女を狙いますよ。なら、警護に僕を
連れて行くのも悪くないとは思いませんか?」
呆れ顔で女は首を振った。
「面倒ごとばかり私に降りかかる。猿と河童の他に今度は豚か!?」
「豚とは失礼な女性(ひと)ですね」
「まぁいい。荷物持ち三人目だ。行くぞ、八戒」
ばしん、と小物の入った鞄を悟能に向かって投げつける。
「え…………」
「大罪八つ。それ以上するなという意味だ。わかったなら返事をしろ、八戒」
「……はい」
猪悟能から、猪八戒に。
この名が、後世まで残ることになろうとは彼女も彼も思っても見なかった。
「ハチ、どこだ?」
「ここですよ、三蔵」
いつもの様にその名を呼ぶ声。
八戒が一行に加わった当初、悟浄はいい顔をしなかった。
元々同じような階位の男二人。
加えて狙う獲物は共にあの『玄奘三蔵』ということ。
悲喜交々を抱きながら四人はまだまだ旅路の途中。
(貴女がつけたこの名は……僕の知る言葉の中で一番すきなんですよ)
荷物持ち、愚痴の相手。
どれだけ虐げられても妖怪三匹は彼女の側を離れようとはしない。
「甘酒と栗でも食わないか?」
「いいですよ、お付き合いしましょう」
まだ夢の半ば。
さめることは願わぬまま、この道を進む――――――。
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23:32 2004/08/01