◆砕月◆







「太公望が風邪をひいたと。なんと珍しいですね」
山積みの要望書を紐解きながら賢君はそんなことを呟いた。
軍師たる少女は仙道であり、人ではない。
しかし、完全たる仙人でも体調崩すもの。
この季節の変わり目は彼女にとっても鬼門に近いものがあった。
「では後でお見舞いに行かなければいけませんね」
「姫昌さんがお見舞いに来てくれたら、きっとご主人も早く良くなるっす!!」
花はもうじき咲かんとすべく、蕾もふっくらとしてきた。
その色合いは恋に恋する少女の頬のように。
知るは思いと知らぬ振りをしてみても、やはり気になることが多すぎて。
もしもを繰り返して随分と月日が過ぎてしまった。
筋張った手と刻まれた皺。
この手に抱きたいと思ってもそれすらも叶わない。
できることと言えば望むように隣にあるだけ。
不毛な両想いだと彼は小さく呟いた。






呑気で忠実な霊獣の背に乗るのは陽気な愛弟子。
太陽の香気を集めながら宮殿内を飛び回る。
「苦いのは飲めないんです。なので、甘いのをお願いしたいんですけども」
薬師たちへの指導として珍しく宮中に身を置いていた雲中子にそんなことを頼みこむ。
西の国は今日も平和で少しだけ穏やか過ぎる春の気配。
「しかたの無い子供だな。道徳ですら糖衣はなくても飲めるというのに」
「天化さんは甘くないとだめですよね」
「あれもっと子供だ。若いしね」
眠れない眠らない夜をいくつも重ねて人間は成長していく。
木の葉が落ちるように人は眠りにつき新しい命は生まれくる。
戦争は平和を繋ぐ鎖。
消えていく背中を見送れば新しい影。
「おや。今日は珍しい客人が多いね」
賢君の姿に薬師は素直に驚いたらしい。
滅多なことでは動くことのないこの国の頂点たる男が薬師殿まで来たという事実。
咲き始めの桜も美しい季節は人も仙道も何らかの幻に当てられるのかもしれない。
「太公望が風邪を引いたらしく」
「らしいね。さっき可愛い弟子と可愛い霊獣が薬をもらいにきたよ」
「ああ……私はいつも出遅れてしまいますねぇ……」
困ったように笑う西の国の王は、青年期の面影がまだ残る。
老いても覗く精悍さは仙界に選ばれた男と言うにふさわしい。
「仙道でも風邪をひくんですね」
薬師は暢気に煙管に火を落とす。
燻る紫煙を穏やかな日差し。
「そりゃ、私らも元は同じ人間さ。病気もすれば怪我もする。違うのは死ににくいって
 程度だ。ゆっくりと年老いて、いずれは死ぬ。転生輪から外れて本物の神になるものもでる
 けれども精々そんなもんさ」
その仙道の中でも軍師はまだ幼い方だった。
千や万が普通の仙人たちの中に於いて彼女は歴史を動かす大戦争をするのだから。
「太公望の老いた姿など想像もつきませんね」
その言葉に薬師は僅かに眉を寄せた。
この賢君はどこかしら演じて日和見になることがある。
恋は盲目とはよく言うもので軍師として彼女がこの地にとどまるのも彼の思いがあればこそ。
「あの子もあんたが老いた姿なんて考えなかっただろうね」
「……………………」
「私らは外見にそんなに拘りがないんだ。これでも四千と少しは生きてるんだがね。いや……
 枯れてこその美しさもある。だが、枯れることも無く目の前で花が枯れていくのをただ
 見るしかできないっての言うのは辛いねぇ。困ったもんだ、私らはどうも感覚が麻痺しちまってる」
本来ならば塵もとび越えて再びの生を何度終えたかと思える時間。
それでも目の前の女は良いところ二十も半ばだ。
真っ赤な口紅、目じりの朱色。
張りのある乳房は羽織った白衣越しにも手を伸ばしたくなるほど。
「見舞いに行くなら夕飯前が良いと思うけれど?今行ったところで寝てるだろうし」
「あまり休み無いようですね、太公望は」
「どんな風に思われてどんな風にあの子が過ごしてるか、あんたは知らないだろ?」
舞いこんだ花弁を拾い上げて、薬師が息を吹きける。
その瞬間に薄紅の蝶に変わりやがて光に溶けた。
「良い物をあげるよ。姿形が見えなくなる薬だ。効力はきっちりと二時間。そのころには
 あの子も目が覚めてるだろうよ」
麻袋を受取って中の丸薬を噛み砕く。
限られた時間でどこまで彼女のことを理解できるのか。
それは人の一生にもどこか似ていた。
「まったく……あんたが仙道だったら道徳たちみたいになってただろうに」
「武成王の子息の師匠でしたかね?銀髪の可愛らしい人を連れて」
「ああ、それは普賢だね。良く憶えて……」
「美人を記憶するのは得意ですよ。そこは私に息子はそっくりでしょう?」
数多の妃を従えた男は悪戯気に片眼を閉じた。
「今からでも仙道になれば良い」
「不老不死……魅惑的ですが問題がありますね様々と」
この短い残りの人生を以て、封印とするために。
彼女の心を自分だけのものにして彼は死を選ぶ。
「良くない考えだ」
「ええ。あの人の心変わりなど永遠にないようにして私は死にますよ」
「……ふん、流石はと言おうか……」
「この命を以てしてこの恋を永遠の物にしたいのですよ」
人は転じて神となり、神は転じて悪鬼となる。
花開かせぬ思いは彼女よりも彼の方が深かったのだろう。
知らないままに知らせぬままに春は忍び足。
それは恋にもよく似ていた。






彼の思うところの軍師は物静かだが凛とした少女。
周りからも好かれているものだとばかりのはずだった。
しかしながら蓋を開けてみれば官女たちは悪口の言いたい放題。
果ては軍師への給仕は残り物を碗に乗せる始末だった。
同じ女が宮中では破格の地位についたこと。
たとえ相手が仙道であってもその劣等感は拭えないものだった。
まして、軍師が率いてきたのは仙界の者たち。
不老不死を望まない人間などないように、不老の仙女たちを目にすればため息もこぼれる。
軍師は仙人ではなくまだ道士。
それは彼女の年齢や入山からの経年では仕方のないことの一つ。
官女たちはこぞって出来そこないの道楽道士と言い合うのだ。
時折顔を見せる彼女の親友は齢百に満たずに仙となった。
稀有なことと望んだことでもなかったが比べるには丁度よかったのだろう。
軍師はいつも一人で文句も言わずに史書を認める。
傍らには少し悲しそうな顔をする霊獣と愛弟子の姿。
「ねえ四不象。おっしょーさまにお粥を作ろうよ」
「そうっすね。ボクたちが作れば変なものははいらないっす」
「うん……いつも、不思議なものが入ってるよね……でも、おっしょーさまは衣食住が
 保障されるだけ有難いって……」
崑崙の始祖の直弟子の彼女は、道士であっても仙人たちと同列に籍を置く。
仙界に居たころは口にすることも無かったような粗末な食事でも彼女は静かに口を付ける。
「あんなもの食べたら、おっしょーさまが外でおやつだべても仕方ないよね」
「そうっすね。それも取り上げたらご主人、倒れちゃうっすよ」
旋毛風に乗って城下に飛び出すのはそれもあったらしい。
彼女は宮中では徹底して影になることを選んだ。
「みんなどうしておっしょーさまのことを悪く言うのかな……」
彼女はいつも穏やかに笑うだけ。
真に強いものは常に笑顔を絶やさないという言葉と同じに。
「僕はずっとおっしょーさまと一緒に居るんだ」
「ボクもっすよ。武吉君とボクはずっと一緒にご主人といるっす」





締め付けられるのはどうしてなのかと。
ぼんやりと目を開けば自分の左手に違和感を覚えた。
「……姫昌!?」
「少し、熱は下がりましたか?」
「さ、下がったといえばたぶん下がって……こんな所で何をしとるのだ?」
予期せぬ訪問に少女は慌てふためく。
乱れた寝着に櫛も通していない髪。
汗が浮き出た肌をどうにか隠そうと上掛けを手繰り寄せた。
「お見舞いに」
「…………………」
「林檎でも剥きましょうか?」
「ばれたら旦に殺されるな」
「なら、ばれないように剥きましょう」
兎に変わって行く林檎達。
一国の王に林檎を剥かせる軍師など前代未聞だろう。
「わしのことは良いから、戻れ」
「そうもいきませんよ。あなたは私の管轄下ですから」
「……それはそうだが……」
「ひどい思いをさせてしまってましたね。何もかもを容認するのと放任は違う。私は
 どこかで思い違いをしてしまった。あなたはいつも知らないふりをしていた」
くしゃ、と黒髪を撫でる骨ばった老人の左手。
骨の浮き出た手首に少女の瑞々しい手が触れた。
「わしは、おぬしが苦しくなければそれでいいのだ」
「……………………」
「おぬしと同じ未来を一瞬でいいからみたいだけなのだ。雑音など気にはならぬよ。
 そんな詰まらないことにかまけているよりも、おぬしの書いた本を読むほうがずっと建設的だ」
額が触れあう。
老いていても彼は彼で、彼女にとって外面などどうでもいいことだった。
その存在だけが心の安定であったのだから。
「私はどうしたら良いんでしょうね……」
悩みすぎる彼はこの先の時間はそう長くはないだろう。
時計の針が止まってしまうその瞬間まで離れないで済むように。
どう願いを変えればいいのだろうか。
「林檎を剥いてくれ、一つではひもじい」
「……そうですね、もうひとつ剥きましょう」
初めから終わりを見つめる恋だとわかっていた。
それでもこうして彼の隣に居られるのならば。
これ以上の何を幸せとして望めばいいのだろう。
「おぬしの林檎の剥き方は面白いな」
「詰まらない人間だとよくからかわれましたね、昔は」
「安心しろ。おぬしの息子達も面白いのばかりだ」
「そうですか。ああ……でも一番面白いのはあなたですね、望」
不意に呼ばれた名前に耳まで瞬時に赤くなる。
林檎の皮よりもずっとずっと赤く。
「ほら、真っ赤になった」
「姫昌!!」
「あまり興奮すると熱がまた出ますよ」
「……性悪が……」
もしゃもしゃと林檎を齧る。
「これでも随分と丸くなったと言われます」
「まったく……」
詰まらないことを考えて悲しむのは疲れてしまうから。
自分のことさえまだ分からないままなのに。
「もう一個剥きますか?」
「そう林檎ばかりでは飽きる」
「では葡萄にしますか」






「息子がもう少ししっかりしてくれれば安心できるのですがね」
少女の書き記す決議書に目を通し、老君はため息を吐いた。
この先に彼の息子が彼のようになるとは限らない。
何よりも彼女が忠誠を誓うのはこの男たったひとりにすぎないのだから。
「ならしっかりせぬほうがいいな。その方がいつまでもおぬしを前に引っ張り出せる」
「おや、こんな老人に表舞台は向きませんよ」
老君と称されても彼女にとっては初恋のその姿のまま。
今こうして一緒に居られるだけでも幸福だった。
「おぬしを王として国を興す。誰が何と言おうとも」
「ならばそう簡単には下がれませんね」
策士の九尾を討つべく少女は静かに死神の鎌を研ぐ。
冥府そこにすら触れることの叶わない不死の身体。
穢れることをしらずに、全ての穢れを飲み込む不老不死。
「私はいつまで生きれるかはわかりませんが……生きてる間はずっと傍に居てくれますか?」
人はいずれ送り為される。
その日までは何も知らないふりをして隣にいようと。
「おぬしが死んだら、一日だけわしに休みをくれぬか?」
「休み?」
「一人で喪に服したいときくらいあるのだよ、わしにも」
死を持ってこの契約は遂行され永遠を刻み始める。
人の最大の武器は剣でも薬でもなく、その思いにほかならない。
藍染めの空は今日も澄んで悲しいと思わせるほどに美しい。
世界の終焉は黄昏時に訪れてやがて降りてくる夜はすべて飲み込んだ黒だろう。
「そうですね……」
「人は悲しいな。死などなければよいのだろうに……いや、不死はそれで不便なものだ」
眼の前の少女はまさしく不死の御身。
煮ても焼いても食えぬ仙道はまったく曖昧な存在だ。
「何事も盛りがあるからこその美しさ。穢れなどとは言うもの、死なぬことが最大の穢れだと
 わしは思うよ。生と死のあいまいな境目の存在など気持ち悪くてかなわない」
「ふむ……幽霊や亡霊がそうなるいのでしょうかね。私に解ることと言えば精々、残り少ない
 人生であなたを大事にすることくらいで……」
「な……わしなど大事にせんでもいい!!もっとほかに……」
「他に大事にすべきものはそうないでしょう?大事なものと言うのは本当に少ないのですよ」
羽根のように軽い人生だとしても。
その羽根はもしかしたら夜摩天のものかもしれない。
今一度拾い直し束ねれば十王の持つ藍瑠璃扇になるように。
「……本当に、そう思ってくれるのか?」
少し困ったように首を傾げる姿に重なるものは。
統領服に冠を付けた少女の姿。
緋の衣を纏うその艶やかさと目尻を染める星屑たち。
「ええ。人生の最後でいちばん良い女性に出会ってしまいました」
均整のとれた美しい身体に精悍な瞳。
老いてもなおその気品は失われることなく増していく。
西岐の旗を掲げ人を導き続けた青年の面差し。
触れ合った指先。
時間などまやかしであっと言う間にあの日の二人に還ってしまう。
出会うことのなかった運命を少しだけ優しいものに変えて。
「俺は西岐を収める姫昌。姜の娘を貰いにきた」
「我が名は呂望。姜を治めるもの……ただではうぬの思いには沿わぬ」
笑い合えば時間はいつのまにか戻ってしまう。
もしも、が重なるだけの人生など必要ない。
「変わらぬ。いつもどれだけたっても」
訪れる春に胸を躍らせて、あと何回この人と過ごせるだろうと胸を痛める。
悲しむだけの人生は疲れるだけ。
自分のことも分からないのに誰かの事を理解しようなどとおこがましいにもほどがある。
「あ、おっしょーさまー!!」
「騒がしいのがきたのう。続きは酒でも飲みだから聞かせてくれ」
「ええ。たまには二人で夜桜でも愛でましょう」








春のある一日。
切り取られた古い時間のお話。
懐かしいと思うのは記憶が僅かに昇華されたからだろう。
出会ったあの場所でたったひとり、同じ景色を眺めるばかり。
彼も彼女も仲間も、随分とたくさんの大切なものを失ってしまった。
それでも過ごした時間は決して消えることなくこの胸に息衝く。
螺旋の糸は死を纏い紡がれて命となる。
全ては巡り巡るこの世界の因果として。
堕ちる黒羽は夜摩天のもの。
拾い上げれば灯りとなり、螺旋の糸となる。
紡がれて命なれども彼はすでにその死から解き放たれてしまった。
桜は咲き乱れて咽返る夢のような空間。
この閉じられた空間は誰にも侵されることなく泣くことができる。
光は闇にのまれて、闇は月を浮き立たせて。
月は海に飲み込まれ、海を光はやがて照らす。
「ここに居ましたか」
始まりの力を閉じ込めるための空間。
忘れ得ぬ思いを胸に抱き、この場所に座る。
「今日は約束の日でしたね。最近は罪人が多くて……」
「忙しそうだな。暇より良いではないか」
同じ黒衣、墨染めの桜によく映えて。
同じ黒髪、黒い瞳も準えたように。
「冥府の神も疲れるだろうに」
「いいえ、始まりの神に比べれば私など」
人として生まれ人を捨て神となりてもこの思いは朽ちることも無く。
この花のようにいつまでもあなたを思い咲きたいと願うのです。
「さぼりもまた大切です」
「それはわしの教えだ」
「ええ、障らぬ神に祟りなし……触りますけどね」
並んで肩を寄せ合う。
久しぶりに会うならばこんな空間が一番に良い。
春は揚々神も跋扈。
盃に映るは夜半の月。





春は虚ろに人も儚く。
神様の休息。





13:34 2009/04/11











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