◆風邪を引かないおまじない◆






ごほごほと咳き込む男の後ろをふわふわと漂う女。
肩に触れた手を静かに払う。
「うつるから近寄らないで」
口元を押さえてよろよろと歩く姿。
「全然大丈夫だから」
その状態で大丈夫だというならば世に言う病人などなくなるだろう。
薬師が病に伏すとは醜態だと彼が呟く。
「太乙、その状態で何もないというのは説得力がないぞ」
「君にうつるより……ましだよ……」
血の気の失せた顔と今にも倒れそうな四肢の震え。
腕組みをして首を傾げる。
「儂に病原菌が感染するわけなかろうが。臓物の半分がパオペイじゃ」
指先から生まれた光が男を締めあげた。
そのまま引きよせて寝室へと運びこむ。
「大人しく寝ておれ。その間の管理くらい儂にもできる」





太乙真人は薬師としても名前を連ねている。
道士であるものはそれなりに病魔にも侵されることがあるために崑崙に薬師は多く存在していた。
代表となるのが雲中子と太乙真人、そして文殊広法天尊。
三者三様ではあるが太乙真人は人当たりも良く薬も悪くないと評判だった。
「太乙師伯はいらっしゃいませんか?」
「今日は儂が代わりじゃ。何用だ?」
「はい、喉が……」
その名を聞いて問診票を確かめる。
几帳面な性格は過去の記録をすべて網羅し、薬師であれば簡単に調合できるほどだ。
丸薬を数種類丁寧に包み込んで手渡す。
「道行師伯が何故?」
「これでも薬師だからな。早く帰って養生せい。師匠には小うるさい道行に言われたといえば良い」
巻き毛を簪で留めて、防護服代わりの羽衣を巻きつけた姿。
錆色の器具の部分ですらどこか美しいと思える不可解な魅惑。
宮直轄の薬師としてかつては彼女も席を置いていた。
この身体になってからは一切の役職を捨ててのんびりと生きることにしただけで。
「具合はどうだ?」
まだ荒い息とぼんやりとした視界。
こつん、と触れる額になぜか唇が笑った。
「熱は下がらぬな……働き過ぎじゃ、少し休め」
彼よりもずっと長く生きる彼女は、時折彼よりも幼く見える。
その強さを隠して今日も穏やかに笑うようになるには、どれだけの年月がかかるだろうか。
眠りにつく最中に思うのはそんなことで、結論などでないとわかっているのに。
彼女の隣に並んでも気後れしなくてよいようになりたいとただ願うばかり。
時間はゆっくりと流れていく。
ほんのりと甘い香りと湿度が傷を癒すように。
「……って……のは……」
かすかに聞こえてくる声に耳を欹てる。
それは彼女がおそらく最も信頼する同胞の男の声。
「医者の不養生たぁ、言ったもんだな」
「何の用じゃ。薬ならお前も作れるだろうが」
「ああ。味もへったくれもねぇよな苦いものはな。うちのガキがそれじゃ飲まねぇ」
「知らん。お前がなんとかすればいいだけじゃ」
それでも声は穏やかなのは信頼関係ができているからだろう。
時間だけは埋めようのないものなのから切なくて苦しい。
この胸の内をまっすぐに伝えられるほど素直に離れなくて。
親友のように甘い恋にはまだまだ遠い。
「しっしょー、こんなところで薬売ってんですか?」
何かしら彼女の周りにも不思議と誰かが集まってくる。
それは仙道であったり精霊であったりと多種多様だ。
無機質に囲まれた自分とはまったく別の生活。
「太乙が倒れた。だから薬を売っておる」
「油じゃないだけいいっすっけどね。俺もさぼれるし」
「馬鹿者が」
聞こえてくる声に痛む胸。
苦しいのは本当はどこなのだろう?
「太乙さんでも病気になるんですね。俺なんか入山してから一回もないですよ」
「馬鹿は風邪ひかねぇって言うからな」
こつん、と煙管で頭を打たれて青年は苦笑するばかり。
何人もの弟子を育ててきた二人にとってはまだまだ子供だと。
「あれだ。師匠も普通の感覚があったんだ」
桃を齧りながら道行は訝しげに眉を寄せた。
「太乙さんが大事だからちゃーんとここで代わりの番をしてる」
その言葉に耳まで瞬時に赤く染まる。
「な、な……」
「安心しましたよ。今までうちの師匠は絶対に人間捨てて女捨ててると思ってたんで」
湯気でも出そうなほどに赤面して、腹いせに小瓶を投げつけて。
睨みつけてくる瞳さえ普段よりも潤みがち。
「あはははは!!可愛い人だから太乙さんの気持ちがわかる、わかる!!」
「小童が!!明日から倍の修行じゃ!!」
「おめぇはしばらく俺んちだな。どのみち太乙がまともに生活できるようになるまで道行(こいつ)
 はここに居なきゃなんねぇしな」
ぽふ、と女の頭に乗せられる手。
「こういうときは頼れや。たまにや自分の男の看病くらいしてやれ」
誰かのために時間を使うなど、今まではなかった。
閉じ込めた感情をもう一度確かめさせてくれた彼の傍に居てやりたいと思うこの気持ち。
「老いらくの恋だ。謳歌しろ」
「……余計な世話じゃ、この耄碌爺が」





額に触れる冷たい何かで目が覚める。
それが体温調節機能を使った彼女の掌だと認識するまでに少しだけ時間がかかった。
「……ずっと居てくれたの?」
霞む視界の中の彼女は少し困ったように笑う。
「……君の昔話が聞きたいな……」
「大して面白くも無いぞ」
「宮に入ってから……うん……」
その手を取ってそっと握る。
望むようにぽつりぽつりと紡がれる言葉達。
彼女も元々は薬師として崑崙に入山した身だった。
開祖に愛され隠された運命を過ごし、そのうちに自分で感情を表に出さなくなった。
強き者は笑みを絶やさないというように彼女も例外ではない。
滅多に崩さぬ笑顔と言う無表情に隠された感情の行方。
「おぬしが繋いでくれたこの命だ。儂とておぬしに何かをしてやりたい」
できるのは彼が不安がらないように傍に居ることだけ。
人としての欲が削げ落ちてしまった本物の仙人はいたずらな恋さえも気付かない。
「もう一回……僕と恋をして……」
「儂で良いのか?」
蓬莱の枝を手にして彼女はのんびりと雲を捕まえるように。
形式だけの食事や儀式を経由しても、その実は霞を食せばいいだけの体。
彼が望むような甘い生活はできないのかもしれない。
「他の女子の方が、望むような思いはできようぞ」
震える手が彼女の頬に触れた。
ひんやりとした金属の感触に彼は眉を顰めた。
その可憐な容姿に命の代わりに醜い傷を残したのは他ならない自分だ。
「贖罪などいらぬよ。元々、御主には咎も罪もない。この命の恩人じゃ」
届かない思いを胸に抱いていたのかどちらなのだろう。
苦しくて息もできない夜を重ねたのも。
これ以上思わなくていいようになれればきっと苦しくないのに。
隣に君がいてほしいと願ってしまい手を伸ばしてしまう。
「……僕は、どうしても君が好きなんだ……」
「罪悪感故に、そう思いだけかも知れぬ」
「君のことを考えると眠れなくて、苦しくて……でも幸せなんだ……」
その心に少しでいいから触れさせてほしい。
いつも少しだけ離れている彼女との空間を僅かで良いから縮めたい。
「人間なんて勝手で嫌いだった……仙人にならないかって言われて二つ返事でここに来た……
 色んな仲間が人間を捨ててからできたんだ……」
それは小さな独白。
「君が昔……どっかの国のお姫様だったのも聞いた。国を守ることと引き換えに仙人になったのも」
多民族の侵入を阻止する代わりに彼女は入山した。
開祖はすべて仕組んで女を手中に収めたのだ。
「宮に入って……いろんなことがあって……色んな噂は聞いた……」
それでも先の十二仙であり天尊位を持つ女の姿は下位の仙道達は知りもしない。
それほどに離れた位置に居たのだから。
「あの日、初めて君を知って……それからいろんなことがあって……」
ぎこちなく笑う彼女が悲しいと思うようになったのはいつからだろうか。
「僕は……君を守れるだけの強さがない……」
涙を隠すように片手で顔を覆う。
「太乙」
不意に重なる乾いた唇。
離れてほんやりと彼女を見上げる。
「望むような恋は出来ぬかもしれぬ」
覗きこんでくる錆色の瞳。
「それでも……良いか?」
少しだけ近づいた二人の距離。
「君が良いんだ」
「そうか」
薄れる意識の中で見たのは今までにないような穏やかな笑み。
もう一度恋に落ちる音がした。





椅子に座ったまま、眼球を取り出す器具に感じる小さな痛み。
「まったく……眼潰しは頻繁にはしないでも欲しいよ……」
「事故じゃ。管理するのにはこの目が一番だった故に」
培養液に浸した代えの眼球を埋め込む。
眼帯をして彼女の手を取った。
「すっかり良くなったようだな」
「おかげさまでね。そうも寝込んでられないし」
ふわふわと宙に浮かびながら寝そべる姿。
「そうか。看病はもういらんな」
「……ちょっと喉は痛いかな……」
「…………………」
「熱はあまりないけど……」
「二、三日……泊まるか?」
「そうしてもらえると嬉しいな」
もう少しだけ時間は必要でも。
「粥くらいしか作れんが」
「美味しかったから十分だよ。少しだけこれ片付けるの手伝ってもらえると嬉しいな」
山積みの診断表を見て、彼女は小さくうなずく。
たん、と降り立てば繋がれる手。
「少し熱いな。熱がるのではないのか?」
「……そうだね、当分治れないかもしれない」
彼女の歩幅に合わせてゆっくりと歩く。
恋は焦らずに実らせたいから。





13:36 2009/02/08

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