◆モノクローム◆
欲張らないで手の届く距離を測ってみればそれはあまりにも小さすぎて。
この小さな小さな範囲だけが自分に守れるものだと知った。
後ろから抱き締めればそれだけで彼の体温に少し近くなれる気がして。
「何やってるんだ?」
「ここまでがわしの手の届く距離だ」
肩口に乗せられる小さな顔。
彼女の愛用の釣竿を直す男の手を見つめながらそんなことを呟く。
「この手が届く範囲を知っておくことは大事だとは思わんか?」
いつも言葉を意味深に使う少女。
「直ったぞ」
受け取って布地を巻きつける。折れてしまわないように丁寧に厳重に。
深藍の染めは季節を彩り少し夏の手前の空気。
「なあ、もう仕事は終わってんだろ?」
普段の彼女はあまりにも多忙すぎて話すことすら儘ならないこともある。
静かにうなずくのを確かめてから。
「だったら、こんなに天気もいいんだぜ。外、行かないか?」
手を伸ばせばそれを受け取って笑ってくれる。
そんな当たり前の行為が嬉しかった。
並んで街中を歩くことすら久しくて、景色がずいぶんと変わったと少女が項垂れる。
周囲を取り囲む城壁の中が彼女の世界だ。
移り行く季節にすら目を向けられない。
不甲斐ないと嘆く声が不思議に懐かしいと思うほどに離れていたことを知った。
「おまえもちゃんと休んだほうがいいんだ。王様の命令は絶対なんだぜ?」
そんなことを言えば彼女が笑うことを知っているから。
こうして手の届く距離に居るのにどうしてか離れているように思えて。
仲間たちに囲まれても彼女はどこか孤独を纏う。
「なんか顔色悪いのとか見るとさ……」
心配はいらない、と少し首を傾げて。
大きな瞳が僅かに笑ってこれで十分だと少しだけ指先をきつく絡ませてきた。
多くを望まずに、自分の幸福を忘れて。
それが当たり前だと思うほどに麻痺してしまうような立場に居ることに気が付いてしまう。
「そうだ。あっちに美味い甘味何処があるんだ。昔から好きでさ」
人混みの中でも離れてしまわないように。
この手の届く距離に彼女がいるということが新鮮に思えるほど触れていなかった。
ちらり、と視線を移せばいつもよりも嬉しそうな横顔。
それは自分といるからだと自惚れる権利が今日はあるはずだと拳を握る。
「ん?なんでもねぇよ」
いつも伏し目がち。横顔にさす翳。ひとりぼっち。
こんな時は肩を抱いてもっと距離を縮めてしまいたい。
「いーだろ。俺はくっつきてぇんだよ」
そういえば困ったように笑ってされるままになってくれる。
小柄な彼女は自分の胸辺りまでしかない。
細い腕に細い鎖骨。少年のような中性的な体。
「疲れないか?足とか……」
そんなにひ弱じゃないと膨らむ頬。
拗ねた顔もいとしいと萌えるのはきっと惚れた弱み。
「弱くはないよな。うちの軍師様だ」
権力をかざすこともなく、女をひけらかすこともない。
小さな胸の膨らみが恋を告げても、押しこんでしまうように。
心底嬉しそうに匙を銜える姿。
ゆるり、とほどかれた黒髪が肩の上で少しだけ跳ねた。
こうしていれば周りに溶け込んでしまえるはずなのに、どうしてか違和感が拭えない。
「美味いだろ?」
冷たい寒天にちりばめられた小豆。
濡れた唇が次々に呑み込んでいく。
「普通に食っても美味いけど、お前と一緒だともっと美味いな!!」
言われ慣れない言葉にぽろ、と匙が転げて。
耳の先まで真っ赤に染めて口をぱくぱくとさせて言葉を失う姿など、最後に見たのはいつだっただろう?
隣にいつも居るのに遠い存在。
その肌に心に触れたいのに、一番深い場所を隠してしまう。
手を伸ばして触れることもできるのに偽物のあたたかのようで。
同じ風景を見ていたはずなのに、いつの間にか少しずつ違ってしまって。
それは二人の背丈で見る景色のような小さなずれなのに。
気がつけばずっと離れてしまったのかもしれない。
「これとかどうだ?」
こんなことを言いたいわけでも、こんなことがしたいわけでもなく。
肝心なことがいつも伝わらなくてすれ違ってしまう。
僅かに重なったこの奇跡を手放したくないから。
「ん?」
すい、と伸びた指が唇をなぞって。
甘い欠片を摘まんだ指先を呑み込む薄い唇の動き。
それにさえもどきり、としてしまう。
「どーせなら俺の指銜えさせたいよな」
昼間から使う台詞ではないと諌められて。
「ああ、夜だったらもちろん違うもん銜えて欲しいけどな」
下らない冗談を重ねて本当の心をどうしたらいいのか分からないまま過ごしてきた。
この手が届く距離はこんなにも短い。
槍を手に走ればもっと変わるのだろうかと思っても、それは間違っていて。
自分の気持ちをどう伝えればいいのだろうといまさらながらに頭を抱えてしまうのだ。
随分と長い時間を過ごしたように思えても、それは本当は僅かなものだった。
今の自分と彼女と出会った時の自分。
悲しむだけなら誰にでもできると言い放った少女。
恋は戦禍の中劇的に飲み込んだ。
あのころとはだいぶ考え方も生き方も変わってしまった。
今の自分を昔の自分が見たらどう思ってくれるのだろうか?
二人並んで眺める街並みは少しだけ傾いて見えて。
それは彼女の目線に合わせたものだと気がついた。
「こんな風に変わったんだな……」
ぎゅ、と強く絡ませてくる指先。
今から彼女は本当に遠い場所に行ってしまう。
最後の大仕事をするために、自分の存在意義すべてを賭して。
「おまえの見る景色はこんなに綺麗なんだな」
恐る恐る彼女の顔を覗き込んでみれば。
いつの間にか見たことのない優しい表情(かお)に変わっていた。
沈む夕焼けが綺麗だと、掛る月が優しいと、四季を踊る少女の姿。
重なる時間はあと僅か。
「どうやったって行くんだろ?なんか、ほら……」
ごめんなさい、と動く唇。
聞きたいのはそんな言葉じゃないのに。
不甲斐ない自分は成長もせずに彼女の隣にいただけだったのかもしれない。
ぎり、と悔しくて唇を噛む。
「……じゃなくてさ……」
自分よりも幼い姿の彼女はずっとずっと年上の女性で。
手が届かないと背伸びしてもまだ足りないほどの背丈で。
それでも背負うものははるかに重くて多すぎて。
なのに、愚痴をこぼすこともなかった。
「……だから……」
春の桜、夏の向日葵、秋の紅葉、冬の椿。
「……なあ……」
やがて来る日は新しい季節を開くように、歴史の中に彼の名は刻まれる。
彼女も彼女の仲間も親友も、決してその名は残らないのに。
「………………………」
何を言えばいいのか、どう伝えればいいのか。
わからなくて見つからなくてただ彼女を抱きしめた。
痛い、と上がる声を抑えてつけてきつくきつく。
この手の届く距離はこれしかなかったのだ、最初から。
「行くなよ。なんで行くんだよ。戦いはおわっただろ?」
そっと背中を抱き返してくれる細い腕。
「もういいじゃねぇか。十分戦ったんだ!!」
触れる頬が少し冷たい。
耳元で囁く声。
「……だから……行くなよ……もうどこにも……」
もっと早くにこの距離に気が付いていたならば何かが変わっただろうか?
守れるものはこの手の届く距離にしか存在しない。
「なぁ、行かないでくれよ……」
泣きそうな声の自分を彼女は軽蔑するだろうか。
ゆっくりと変わってしまった二人の関係。
過去を刻む時計など存在しないように、巻き戻すこともできない。
残された時間はほんの僅か。
きっと彼女はもう帰ってこない。
「……?……」
いつの間にか流れていたば涙を払おうとする指先。
まるで子供をあやす様な表情でゆっくりと言葉を紡いでくる。
彼女はこの国の母となった存在。
彼女の心を今も支配するのは文字通り父王として送りなされた男なのだ。
どれだけあがいても越えることのできない大きすぎる壁。
「………………」
彼女の腕の中で感じる距離。
この細い腕が最後に守る物。
逃げ出したいと思う現実にだけ彼女は存在する。
この手の中に抱けるのにこんなにも離れてしまう。
もう人の世に残る理由はない、と唇が動く。
聞きたいのはそんな言葉じゃない。
「俺はお前が好きで、おまえも俺が好きだろ?」
こくん、と頷いてくれるのに。
「じゃあなんで一緒に居れないんだよ」
わかっていた、覚悟はしていたのに。
「なんで離れなきゃなんねーんだよ!!」
この手が届く距離なのに。
戦いの終わらせ方を忘れてしまったと、自分を傷つけないように言葉を選ぶから一層苦しい。
あの日、差しのべられた手はこんなにも小さかった。
できるだけ晴れた日がいいと思った。
あの手を取った日も、やたらめったらに晴れていたから。
風を纏う少女の姿。
「……さっきは……ごめん……」
街を見下ろせる場所に二人で座って明りを辿る。
地上に降りた星はこんなにも綺麗で。
小さな頭がもたれてくる場所に離れていると思いたい。
いつの日か彼女が戦い疲れた時は一番側にいたいだけ。
「太公望?」
にこり、と笑って横に振られる首。
「望」
この小さな手が届く距離に今自分は居る。
どうかどうか離れないでいてくださいと願うだけ。
流れ星の尻尾を捕まえてしまいたいほどに。
「望?」
何か言いかけて閉じる唇。
無理に聞きだすことはもう止めた。
確かめるような接吻は肉欲も何もかも飛び越えてしまう甘さ。
最後の接吻は甘く切なく軽いほうがいい。
でもそれはまた逢える日に深くするため。
ゆっくりと動く小さな唇。
『忘れないで』
たった一言、彼女の本当の心の声。
歴史に消えていく少女は一つだけを望んだ。
忘れないでほしい、ただそれだけ。
「発は私の手が届く距離に居る」
「ああ……おまえも俺の手が届く距離に居ろよ」
望むような答えはなくても。
「かならず帰ってこいよ」
「生きていたら」
「じゃあ死ぬなよ」
「それは命令か?」
「ああ。国王命令だ。違反は認めねぇ」
ほんの少しだけがこの手の届く距離。
本当に大切なものを見つけた。
0:47 2009/06/05