◆客星の明るすぎる夜◆







その禍々しいまでに美しい光は胸に静かにしみ込んでいく。
黒髪が風に揺れてその肌を一層青白く魅せてくれるように。
擦れ合う銀輪が奏でる音色。
湖に触れた素足、裸体に絡まる流水。
「俺の裸なんざ覗いて面白いか?」
人形のようなつくりの細い身体。
乳房を隠すことなく少女が振り返った。
「それなりに面白いですよ。恋人に似てますからねぇ、あなたは」
霊獣を駆り、男は少しだけ目を細めた。
「客星の明るい夜です。妖怪が力をつけるには絶好の機会……」
「だからって出刃亀の理由にゃなんねぇな」
左肩に刻まれた夥しい刺青と歪んだ笑み。
「いえいえ、取引をしませんか?」
静かに王天君に近づき、男は顔を覗き込む。
黒目がちの瞳と柔らかな頬、普段の病的さが消えた少女の素顔。
くい、と指先で顎を持ち上げる。
「取引ぃ?」
「私はあなたが何者なのかわかりましたよ。さっきあの世で調べましたから」
求めるものは己の存在理由。
どくん、と脈拍が速くなっていく。
「あなたが一番に知りたいものを私は知ってます」
五千年以上を生きる稀有な仙道の一人は、最強の道士として封神傍にも名を連ねている。
おそらくは力で戦えば狐狸精の女を抑えることのできる数少ない存在だ。
それはこの場で戦えば己の命も消し飛ぶということ。
「おめぇは太公望にちょっかいだしてりゃ満足だろう?」
「私の呂望は今大変に忙しいのですよ。ちょっかいはいろんなところに出すのが楽しいのです」
すい、と構えられる宝貝。
空気中に飛び始める美しい雷華と緊張していく風圧。
「断れば?」
「力ずくで行きます」







その名は生涯忘れることのないものだった。
己の血をひくものがいるというだけでどれだけ胸の内が救われただろうか。
「太公望さん」
卓上に飾られた白百合。
受けるのは明るすぎる客星の光。
「邑姜か。入るが良い」
先刻まで誰かがいた気配はない。来慣れない軍師殿に思わず見回してしまう。
寝台と卓台、いくつかの椅子。寝そべるための長椅子に小さな香炉。
少女が住む部屋としては簡素であり無駄なものも余計なものもなかった。
「わしの荷物はほとんどなくてな。ほぼ宮に置いておったからのう……」
卓上に鎮座する小さな皿。
その中には罅割れた青玉の耳飾りが肩耳分だけ。
「わしの親友の形見だ。おぬしにも逢わせたかったのう……博識にして麗しい女だった」
香は百合、死者の匂い。
「のう……おぬしはその名の意味を知っておるか?」
胸の前で組まれた細い指先。
閉じたままの瞳、優しい声。
「いいえ……」
「その名はな……妹の名前だ」
奇跡的に生き延びた少女は、やがて母となった。
羊雲の中に飛ぶ仙道の姿。
それは幼いころに死別した姉の姿だった。
仙道は不老不死となり、そのままの姿を保つ。
いつの日か自分が生き延びていたことを伝えたいと、少女は己の息子に意思を残した。
もしも統領の血を継ぐ者が娘として出たならばその時は我が名を与えよ、と。
やがて姉は仙人になり自分の一族を見つけるだろうと一握の願いを込めて。
「本当に……生きていてくれたのだな……」
すい、と伸びた細い腕。
客星を背にして笑う顔がこの上なく悲しく見えた。
「太公望さん?」
少女の体を抱きしめて道士は静かに続けた。
「つらい思いをさせた……でも……邑姜……よくぞ無事で……っ……」
彼女が触れているのは自分の中の別の存在。
同じ血を分けた妹なのだ。
「一度たりとも忘れたことはない……八十余年離れたことを許してくれ……」
なつかしむように重なる視線。
確かめるように頬を包む両手。
軍師はこんなにも小さな手で戦ってきたのだ。
たった一人で巻き起こした仙界対戦は最後の地へと向かおうとしている。
「明日……ここを発つよ。みな最後の別れを告げに飛んだ」
「え……」
「最後の最後の大きな敵だ。負けるわけにはいかぬが……負ける気はせぬのだよ」
彼女を強くしたのは時間の流れだけではなかった。
出会いと別れのそのすべてが太公望の血肉となり、存在する。
「これが最後の戦い。なぁに、姉様が喧嘩で負けたことなどなかっただろう?邑姜」
統領の血を持つ本当の最後の一人。
「今度も負けはせぬよ。わしには仲間がたくさんおる。この世だけではなく彼の世にもな」
悪戯気に片目を閉じて、かわいらしい悪鬼は舌を出した。
客星の明るすぎる夜は過去を刻む時計。
「でもわしは……この戦いが終わってもここに戻ることはもうできぬ」
「仙道の介さない世界のためですか?」
「わしらは不死者。それは生きても死んでもいないこと……人の世に存在してはならぬ。
 人の世はおぬしに任せたぞ……わしは……」
それは届かないほどの小さな声。
唇の動きが伝えた思い。
『妹と一緒に地の底に還る』
それが彼女の出した答えだった。
本来はあの場所で死に、髑髏となる筈だったこの体。
皮肉にも死とも生とも遠い存在になってしまった。
「ほどほどに良い人生だ。この先も悠久を生きる」
「…………さびしくはありませんか?」
その丸い瞳がこの上なく暗く妖艶に優しく歪んだ。
「人ならばな。わしは人ではない」
幾人もの命を呑みこんだ鬼の姿。
「さびしいとは何だ?悲しいとは何だ?それで誰かが救われるのか?それでわしは救われるのか?」
眩しい客星は歴史の変わり目に存在する。
そのあまりの明るさに凶兆とされてしまう不遇の優しい光。
「だれも救われないならば必要はない」
八十余年の時間は彼女をいよいよ人間ではないものに変えてしまった。
十凶星を抱いてどこまで進むように。
「人の世は人に。人ならざる世はそれ以外に」
「……太公望さん……」
「呂望は確かにあの日死んだのだろうな。いまの我が名は太公望」
自分と年端も変わらないように見えるその姿。
自分が憎んだ運命以上に彼女の運命は重すぎた。
それは誰かが変われるものでも分け合えるものでもない。
「おしゃべりが過ぎたな。戻って休むがいい。おぬしにはまだまだやるべきことがありすぎる」
花弁が一枚音もなく落下する。
客星の光を吸い過ぎたと言わんばかりに。







「あまり長居すると……魂魄が溶けちゃったりしないものなのかな?」
冥府の書簡はよほど興味が深いのか少女は次々に読み干していく。
止まったままの月は今度は七色の光を生み出す。
それはまるで星が弾丸に変わったかのように降り注ぐ美しさ。
「あれは蓬莱の光です」
「蓬莱……望ちゃんが向かう最後の楽園……朽ちた幻の都……」
幽女が少女の前に白磁の茶器を置く。
そそがれたのは甘い香りの林檎茶にも似ていた。
「ボクたちも行くよ。偽物の都に」
すっかり酔いつぶれた男三人は屍累々。
「ボクも望ちゃんと一緒に戦う。ボクたちは何があっても友達なんだ」
曇らぬ瞳は破邪の銀。
軍師は時折自慢げに親友のことを彼に話していた。
「あなたのことはよく聞かされました。自慢の親友だと」
寝ころんだ男の腕が少女の崩した脚に触れた。
久々の酒はすっかりと体に回ってしまったらしい。
「ボクもよく聞かされたよ。生涯ただ一度の恋だって」
「私にとっては老いらくの恋でした」
「嘘。本当は攫おうと思ってくせに」
「ばれましたか。幽冥朗伯たるもの、虚偽はいけませんね。ははは」
彼女がなぜ、彼を愛したのか。
ぼんやりと見えてきたその人間性。
「もう少し私が若ければ、間違いなく娶ったのですが」
「言ってたなぁ……もう少し若かったらって……両想いだったもんね」
目の前の少女は百の僅か手前。
そもそも人間ではない存在だったのだから、今こうして会えるのもまた不思議なこと。
「一献いかがですか?」
「お茶もあるのに?」
「美女を口説かないのは私の流儀ではないので」
杯を手渡せば静かに受け取る。
「口説かれるのは嫌いじゃないよ。この人はこれだけ一緒にいるのに、まだ口説いてくれる」
「私ももっとあの子を口説くべきでしたね」
注がれるのは月桃酒。
幻の青い桃は乾坤未生とも言われる逸品。
「口説いたでしょ?あの日、あの岩場で。あの一言で望ちゃんは落ちたんだから」
「私の知らないことをずいぶんと知ってそうですね」
「知ってるよ。ボクたちは親友だからね」
薄い唇が朱の杯に触れた。
「聞かせてもらえますか?」
「夜明けまでならね」
「ええ……あの月が沈むまでに」
闇夜に浮かんだこの異空間には人間は誰も存在しない。
「この大戦争……終わりますか?」
飲み干して少女は男をじっと見つめた。
まるで胸中まで見透かすようなその光の透明さ。
「終わらせるんだ。でんなきゃ望ちゃんが救われない」
冥府の底で得たことは彼女が本当は何者であるかということ。
見えない敵はいまや見える敵になりその対抗手段も考えることができるように。
「老子はどっか行っちゃったし」
「教主様のところでしょうね。さ、もう一献」
「酔わせ潰すには足りないよ?」
「口説くにはほろ酔いが良いのですよ。その方が愛らしい」
かつての姿に戻った賢君の男振りは親友が語るものと同じだった。
理と知、そして武を持つ男。
「ああ、本当に素敵な人だね。だったら望ちゃんの気持ちがわかるよ……でも、ボクには
 この人がやっぱり一番なんだ。だらしない顔で寝てるけども」
「男がだらしない顔で寝るときはそれだけ貴女を愛しているかでしょうに。普段の彼はきっと
 凛としているはず。貴女のために戦うように」
その言葉に耳がほんのりと赤く染まる。
「そうだね。そういうことを認められる男がきっといい男なんだろうに」
冥府の底で酌み交わされる盃が二つ。
浮かぶ月は偽物の光。
客星の明るすぎるこの夜に何を思おう。






15:35 2009/06/04





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