◆始まりの少女◆





月は海に浮かび、ゆっくりと沈む。
初めて見た風景は海面を目指し砕けていく泡だった。
その美しさ、その温かさ。
最初の記憶とはなんとも味気ないものだった。






育つにつれてその美しさは噂を呼んだ。
長い睫毛に亜麻色の巻き毛。
森の奥に存在する幽鬼かといわれるほどの儚い存在。
「そなた、どこから来たのだ?」
少女幻想と見まがうばかりの姿と声。
「あの月から生まれ出て月に帰るものさ」
始まりにして終わりを併せ持つ存在はその名前さえもまだない。
「名前などなく必要も無い。我は自然の権化たるもの」
閉じたままの天国の記憶は目覚めた地獄で気が付いた。
この厄介な能力は目を閉じても消えやしない。
先々までも見尽くして同じ未来視を繰り返す。
「ああ、むなしいな。すべての物が」
がすがすと頭を掻いて苛々を噛み殺すようなきつい視線。
自然そのものを写し取ったような深緑の瞳はむしろ獣にも似ていた。





時間はゆっくりと移ろい、いつしか人は彼を老君と呼び始める。
相手の心を先に読み求める解を与える存在。
人との交わりをやんわりと拒んで静かにそこにあるだけの知識。
畏怖されることも畏怖することも無い、全てに等しきたおやかな流れ。
「して、老君はいつからそこに居るのだ?」
「それがね、私にもわからなくて。元々は宵闇小町と呼ばれていたのだけれども」
羊の上に寝そべって、まるで子供のように笑う。
少しばたつかせた足に絡む金輪と紅輪。
しゃらんしゃらんと触れては囁き風にもうひとつ色を加えた。
「時に聞くけれども君は誰からその名を賜った?」
形の良い指先がくるくると円を描けば生まれ胡蝶。
「何かが俺に言ったんだ。今日から元始天尊を名乗り仙界を作れって」
「ふんふん。それでその名前か」
にこにこと笑い羊の頭をきゅっと抱きしめる。
「私は人間じゃないからよくわからないけれども、私たち以外の何かが私たちを作ってるんだ。
 何もかも急にぽーん、と生まれることなんかないし」
本当に強いものは力など誇示せずにいつも笑っているという。
まさしく老君はその言葉の通りだった。
風に思いを乗せて月を仰ぐ。
夢を紡いで現に絡ませ過去を刻み未来を謳う。
その思想に惹かれて彼は足しげく老君の下に通い始めた。
「おや、今日は二人」
「ええ。僕も……先日何かが通天教主として仙界を作れと……僕は妖怪なのできっと
 そういうのを受けれる仙界なんでしょうね。神様って言うのかな……」
凛々しい青年と穏やかな青年。
この二人はのちに互いの作った世界を巻き込んだ大戦争をすることとなる。
竹林の賢者はただ未来を憂うばかり。






「なんともあの世とは賑やかで鬱陶しいほど美しいですね」
霊獣の背に乗って駆け抜けるのは冥府の門。
守る牛頭馬頭なぞ指先で粉砕して返り血さえも浴びないはやさ。
「何しにこんなとこにきたのさ。お花見だったら地上で呂望とすればいーのに」
「老君が来てます。それと……もう一人のあの子です」
地の底の桜花結界を雷公鞭で打ち破り苦も無く楼閣へと入り込んでいく。
次元迷路の襖などなかったもののように通過して彼は逆さまの月の待つ広間へと。
「ごきげんよう、普賢真人。それと……幽冥教主」
霊獣もす座らせてのんびりと掌に落ちる華に視線を落として。
「いえいえ。私はまだまだ先です。それと、あなたもまだまだこちらに来る予定はないようですし」
「死ぬつもりはありませんからね、ふふ」
のんびりと霊獣の鼻先を撫でる少女の指先。
「こんにちは、黒点虎」
「久しぶりだね。お腹の方は順調なの?」
「うん。望ちゃんにあったらちゃんと育ってるって伝えてね」
柔らかな起毛に頬擦りすれば霊獣も嬉しそうに彼女の傍らに座りこむ。
「やーん、やっぱり霊獣欲しいなぁ……」
「熊なら居るじゃないですか」
「みんな道徳のことを熊って言うんだよね」
「ええ、今頃老子も熊って言ってるでしょうね。老君!!来てあげましたよ!!いつまでも
 熊と遊んでないででてらっしゃい!!」
水晶の杯に注がれた神酒。
五人がそれを手にすれば出来るのは星の器。
「!!」
「五行すべてが違う者をこれで揃えたってことですよね、老子」
その中央に生まれだすぼんやりとした光。
それは消えそうな魂にも似た不思議な色合いで胸騒ぎを誘う。
浮かび上がるのは異形の姿。
骨ばった四肢と飢餓児童のような身体。
「なんだ……こいつは……」
「この世界を作った孤独な神様さ。ちなみにあれでも女性」
欠伸を噛み殺して老君は続けた。
「この世界の創造主にして最大最悪の戦犯、その名を……」
「ジョカ、ですね」
若き教主は呟いて静かに瞳を閉じた。
「冥府に君が来たのは太公望から君を離すだけではなくてジョカの監視から……
 まあ、妲己から離すことが第一目的だったんだけどね」
策士はこの冥府には手を出すことが出来ない。
文字通り死者の国に来るには生と死の境界を操る力が必要なのだ。
「でも……申公豹(あなた)はどうやってきたの?」
その言葉に申公豹が口中に指を二本銜え込む。
咳き込むようにして身体を丸めて、肩で息をしながらそれを引きずりだした。
「……ふう……まあ、ここは異空間だし帰りは老子がいるからいいのですが……魂を飲み込んで
 消化せずにいるのは聊か抵抗がありましたよ……」
口元を拳で拭って。
「さて、最後の敵はこれで理解してもらえたかな?孤独な神様の我儘に何度も付き合わせられるのなんか
 ごめんだね。その度に溜まった記憶が何人目の私にも受け継がれるんだから」
繰り返す歴史を終わらせるために人は神に手をかけることとした。
しかし神に人が敵う訳も無く人は神の懐をじっと見つめる。
神はゆっくりと弱体化し始め人は静かに力を手にした。
それは二十三夜の月のような脆い強さ。
決して知れてはならない。
「そう、君がここに封じられればあの子はどこまでも強くなって……あの子のことをすべて
 思い出す……私たちがあの子に何をしたのかも……」
散るは桜、美しき花。
墨染の夜空に浮かぶ偽物の月。
「君の持つ命糸刊にも無いはずだ、あの子の名前が」
それははじめから仕組まれた出来事。
選ばれてしまった二人の少女。
それを決めてしまった世界を背負う者たち。
「太公望は死なないよ。初めから生きてもいないから」






「おぬしもすぐ喧嘩をするでない」
男の長い髪を食い、とひっぱる手。
「大体、申公豹が喧嘩を吹っ掛けて来てやりあえばおぬしが無事であるわけがなかろうが」
しゅんとする青年を諫める口調は柔らかい。
それよりも彼が気に掛かるのは彼女の不可解な能力だった。
一瞬だけはっきりと感じた殺意と憎悪。
それは今まで体験したことのないような寒気を与えるほどだった。
「……師叔……その……」
細い背中、手を伸ばせば届く距離。
「……もう遅い。早めに休むことだな」
振り返らないことが彼女の意思表示。
「……………………」
今まで手を伸ばすことができずに失ってばかりだった。
何度も繰り返す夕べの夢を終わらせるために。
震える手を伸ばして、そっと、そっと。
「……あなたは……何者なのですか……?」
「わしはわしじゃよ。わしとして生きておる」
後れ毛がうなじにふれて甘い香り。
後ろから抱き締めれば止まる足取り。
「もう少し詳しく聞かせてください」
「もう遅いぞ」
「朝までは十分すぎるほどに時間はあります」
自分を抱く男の手に感じる安堵。
自分が誰なのかなどわかりきっているはずなのに解らないことばかり。
何よりも王天君と対峙した時に感じた血の高揚が忘れられない。
「少し、話をせぬか?」
僅かに伸びた黒髪。
欄干に座ってみれば彼と並んで丁度の背丈に思わず笑ってしまう。
「反魂など、師叔がなさるとは思いませんでした」
反魂の儀は高等仙術、彼女にできないこともないがまだまだ未確定な能力では危険過ぎた。
本来は二人一組で行うそれをたった一人でやってのける。
それだけでもこの少女がずばぬけた仙気を持っているのは明白だ。
「昌がな、ここにというからやってみた。まあ、わしがやったとて腐って終わりなのだが」
月明かりがこんなにも綺麗だから彼女も少し優しい。
「死ねば死に損、生きれば生き損……何のための不老不死だか……」
黒いはずの瞳に宿る赤。
「こんな月の夜はおぬしも血が騒ぐのだろうな」
「騒がないと言ったらウソになりますね。僕は妖怪ですから」
月明かりが眩しくて無性に殺し合いたくなる夜。
「でも、師叔とこうやってるほうが殺し合うよりも今はずっと幸せです」
「偽善者が」
「ええ。偽善者でいいんです。本当にいい人なんて居ませんよ」
額に触れる唇。
長い睫毛が綺麗で少しだけみ取れれば困ったような顔で彼は笑った。
「綺麗な顔だのう」
「造りものですよ。知ってるくせに」
「それでも綺麗だ」
そっと抱き上げて回廊を蹴りあげる。
「夜間飛行はお嫌いですか?」
「王子様の誘導(エスコート)ならば間違いは起こらんだろうて」
「哮天犬、おいで」
月を背にして二人乗り。こんな夜には肩を寄せ合って。
「近いうちにここを離れる。準備をしててくれ」
それはさよならの代わり。
「妲己がわしを呼ぶ」
「はい」
胸に抱けばこんなにも小さな体だと改めて思う。
今度はこの手を離してはいけないのだ。
「僕はずっとあなたの傍にいます」
上着をぎゅっと握る指先。
抱いた彼女が余計に愛しい。
過去を刻む時計はもう必要なく、悲しい記憶も。
「師叔」
「?」
彼の手のひらから生まれる虹色の弾丸。
まるで幻想の星屑のように飛び散って行く。
「道徳様の真似をしてみました。きっと普賢様にもやってるんじゃないかと」
「……うん……」
「みんな一緒です。僕たちはみんな師叔と……」
「そうだのう……こんなにたくさんの仲間がいる……」
それは地の底に向かった少女も。
終わらない夜を止めた賢君も。
朝焼けを背にした少年も。
寂しがり屋の神様も。
「でも……」
「?」
「できれば今夜一晩だけ、僕だけを見てください」
「……ああ……そうだのう……」






14:02 2009/05/13



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