◆桜花乱舞の真夜中の茶会◆
その昔、西の国の礎となった人がいたという。
彼に生涯の誓いを立てた少女は不死の御身。
今も彼との思いを守るために進むことをやめない。
黒髪をなびかせながら傷だらけの足で走り続ける。
「はじめまして、姫昌。いや……幽冥朗伯とでも呼べば良いのかな?」
紅の月は深淵の美しさ。偽物の光はいまや真実となりこの世界を艶やかに照らす。
現世を統べる終焉たる力をもつ女が口元を扇で覆う。
その金色の輝きは彼女の髪を静かに夜の真中に浮き立たせた。
「そして、太上老君。随分な面子があの世に揃ってるなんて」
「おや。そのあの世に臨んで飛び込んできたのは君だろう?あの子がここに来ることが
できないからね。君はあの子に肩入れをするのが好きなようだ。ああ、私の弟子もそうだ」
布地越しにふるん、と揺れる豊満な乳房。
老君は元来男性体で過ごしてきたはず。
しかしながら目の前に居るのは艶やかな美女の姿。
伸びた素足は月光の下に晒されていよいよと美しい。
そこに掛かる桜地の衣もまた同じ。
「でも、老子は男性かと思ってた」
「あの子が私に臨んだのは男だったからね。君は……どっちを望むかな?」
悪戯に笑う唇に指を当てて、老子は片眼を閉じた。
長い睫毛と白磁の肌。掛かる巻き毛も亜麻色の優しさ。
「どっちでもいいよ。話ができれば」
「だろうね。君はそういう子だ。だから……君は封神される必要があった」
「……………………」
全てが必然であるならば、この死と不死の間の存在にも意味はある。
冥界に生きたまま行き気ができるのはおそらくこの老君ただ一人だろう。
「君が生きたままならば確実に歴史が曲がってしまうからね」
銀髪に泊まる冥界の蝶。
ひらら、と羽を静かに閉じて髪飾りのようにその場に留まる。
「君が確実に死を選ぶように、彼は存在した」
「……………………」
「君たち二人が死に向かい、あの子は君の死によって乗り越えた」
「ボクたちは……」
「予想外だったのは君がここに来たことだ。動けないようにしたつもりが」
老子は未来視の力を持つ。
だからこそ世界を見過ぎてしまい、世界を愛することを止めてしまった。
夢の中にだけ真実を生み、現の中には幻想だけを送り込む。
それは漂う雲と同じ。
不確定に見つける真実と確定に潜ませた虚偽の意味。
「さて、最後の犠牲者の君」
「お、俺っち?」
「おしい事をした。でも、君が生きていてはあの子が強くなれない。あの子に大切なものを
持たせてはいけないからね」
この手に抱けるもの以外は砂のように零れてしまう。
何かを成し遂げるためには守るべきものは一つだけで良い。
「さて、これが何かはわかるかな?」
山積みの巻物の中から老子が一つ取りだす。
麻紐に封されたそれに少女は目を見開いた。
「封神傍…………」
「ああ、そんな名前にしてるのか。これは命数巻。いわば寿命の理書さ」
ばらら、と開けばそこに刻まれた数多の名前。
その中には自分たちの名前もしっかりと書き込まれていた。
「まあ、これは私が作ったものだけど……騒がしいのが来るね」
亜空間に浮かぶ星の一つが小さくきらめく。
その瞬間に生まれる亀裂から飛び込んでくる二つの影。
「普賢!!」
「静粛に。この場は幽冥境でも奥まった場所」
青年の声に空気が凛と変わる。
「煩くしないで良い子にしておいで。さて、続きを話そうか」
無何有の先にあるものでも見るかのように彼女の瞳は虚ろで輝く。
勝ちも無ければ負けも無いという持論はその存在そのものが生み出したものに他ならない。
「人数が多いねぇ。私はうるさいのは好きじゃなくてね……ふん、私はそこの彼と話をしよう。
君たち二人は茶会の準備をしておくれ」
老君の細い指先が天化と玉鼎真人を指す。
しかしながら冥界での茶会など不穏極まりないことに変わりはない。
鬼や蛇が出るならばまだ可愛い方だろう。何せこの冥界には閻魔を纏めるものまで居るのだ。
黒髪をひとまとめにした青年が首を傾げた。
「では、私は?」
「君はそこの可愛い子だ。彼女はわざわざ君に会いにここまで来たんだ」
亜麻色の瞳がゆっくりと歪んで唇はいびつな笑みを浮かべる。
ぱちん、と指を鳴らせば一瞬で隔絶される空間。
幾重もの襖扉がその世界を作り出し小さな室内を作り出してしまう。
「では、改めましてだな?清虚道徳真君」
杯に唇を付けて、老子は目を細めた。
それはどことなく狐にもにて妖染みたようにも思えた。
「あんたが太上老君……」
すべての理を知りすべてを瞬時に無に返す存在。
「君の知りたいことを、私が知ってるといいのだけれどもね」
その言葉に男は首を振った。
「よく言う。まったく食えない女だ」
「おや?私を食うつもりだったのかい?」
「冗談だろ?俺は万単位での年上に興味はねぇよ」
隔離されたその空間は桜花満開の盛り、人魂が花火のように砕けていく。
その美しさに隠された残酷はまさしく死の国の本質だろう。
「私の軍師がずいぶんとお世話に」
かつて人間だった彼もいまや人ではない。
虚実など瞬時に浄波璃鏡で見抜かれてしまう。
だましあいは彼には通用しない。だからこその死の国の裁判長。
黒衣の青年は少女の差し向かいに座り穏やかに笑む。
しかしその笑みの裏に隠された思惑は互いの胸の内。
「して、あなたはどうしてこんな場所まで」
「これを」
手渡したのは纏め上げた歴史表。
人間が知ることのない仙道たちの戦いの記録。
彼女もまたその戦いで命を落としたものの一人。
「徳の高い人間は封神台に行くはずなんだ。なのに……あなたはそうじゃない。
あのときからずっと不穏に思ってたけれども……冥府ならば理由がわかるな」
紅く染まった小指の爪。ほほに刻まれた八卦陣。
「あなたと望ちゃんを永遠に一つにしないために」
死のない彼女は冥府にくることはない。
「望ちゃんの大事なものをゆっくり消して悲しさを麻痺させて行ったんだ……
随分とひどい事をするね……」
憎しみに囚われていた少女がつかんだ小さな光。
それは自分の血を引く種族を受け入れた男の存在だった。
遠目に見るだけの彼の姿にどれだけ救われただろう?
それは理想を絡ませて胸の中で膨らみ、恋と言う名前を得てしまった。
老いていく人間はいずれ先に死ぬ。
知りながら彼女は西の地へと降り立った。
緑の美しい風薫るその季節。岩場で仕掛けた釣り針に導かれた恋。
「あの針はボクが作ったんだ。魚を傷つけるのもあれだったからただの針にして」
「見せてもらいましたよ。親友のお手製だと」
「うん。だから……本当は釣れるはずがないんだ」
普賢の左手が伸びて男の頬に触れた。
「あなたも本当は釣れるはずはなかった。あの針も……全部筋書き通りだったってこと?」
無意味なことなど一つもないという。
そして真の策士は一を仕掛けて十の結果を生むのだ。
「歴史の道標……本当に忌々しい存在だ……ッ……」
ぎり、と噛んだ薄い唇。
滲む血の赤さに男が手を伸ばそうとしたのを、そっと拒む。
「あなたもここに来てからいろんなことを知ったでしょう?」
「ええ……私は体よく隔離された。その場所が単にこの冥府であっただけ」
「封神台じゃボクたちに会ってしまうからね」
「でしょうね。しかし……私は幸せな人生でしたよ」
目を細めて彼は昔の思いを馳せる。
まだ西の国が殷の従属国だったころ、空に浮かぶ仙道を時折見つけることができた。
その幼さの残る横顔と無邪気な黒い瞳。
己の生も晩年かと思うそのころ、彼女と再び出会ったのだ。
「最後まで……供に居ることができた」
「そう。でも……それはあなたがかけた呪いだ」
「………………………」
そっと左手を彼の前に掲げる。
その第四指を飾る銀色の指輪。
「同じさ。ボクも彼に呪いをかけた。ほかの誰にも触れることができないように。
あの場所もボクたちの墓標となった。あの人の気持ちを知ってるから……ボクはあの策を
講じて実行した。あの人がどういう行動をとるかを知ってるから」
同じ目を持つ二つの影は今、こうして出会ってしまった。
「嫌だね。自分に似てる人って言うのは本当に」
なおも少女は続けていく。
「あなたも望ちゃんの気持ちを知っていた。だからこそ……その命を以ってして西の国に
縛り付けたんだ。あなたの思惑通りに望ちゃんは今も戦ってる。予想外だったのは……
そうだね、ボクがここにきたことかな?」
「本当に。あなたが彼女の立場だったならば私は恋には落ちなかったでしょうね」
「まったく」
杯に留まる琥珀の蝶。
指先が触れれば砂でも舞うかのように砕けてしまう。
「歴史の道標……ジョカにも死はあるの?」
「それを知りたいのですか?」
「うん。それと……」
「太公望にも死はあるのかと?」
閻魔十王を纏めるその男は外見にそぐわぬ単刀直入さ。
空の杯に酒を注いでため息を一つ。
「私もここにきていろいろと調べました。物事にはすべて理由が存在するからです」
そして彼は知ってしまう。彼女の存在意義を。
それは知らないままだったならばどれだけ幸せだっただろうか。
「彼女もまた同じ存在です」
「……そう……その名を……」
形のいい唇が静かに言葉を刻んだ。
「伏羲、と」
夜雀の声が煩いと耳を塞ぐ。
羽虫は夜の王には成れないと女は帯を締めなおした。
「道行。出力を上げてみてくれる?」
操舵席の女の両腕に繋がれた夥しい管。
その一本一本を通り抜けて貯蔵されていく仙気。
「うーん……まだ半分か……できるだけ純度の高いものを核にしたいから代役は
考えられないし……」
ふらり、と空間がゆがんでうっすらとした影が現れる。
闇夜に浮かぶ白い肌と揺れる黒髪。
従えた二人の少女は神妙な表情だ。
「太乙真人」
鈴を転がしたような細い声。
「……竜吉公主……なぜ、ここに?」
こほこほと咳き込みながら前に歩み出る。
羽衣が擦れて生まれる光はどことなく蛍のそれに似ていた。
「母上に逢いに来た。ここのところお顔が優れぬ」
「……まあ、それは僕のせいだけどね……」
全身に張り巡らされた器具と管に飲み込まれるようにして彼女は操舵席に座っている。
その姿を確認して女は眉を寄せた。
「私が代わる。それくらいの力はあるはずだ」
「馬鹿なこと言っちゃいけない。君は外界の空気をすうだけで死を近付けるんだ」
清浄なる空気の中でしか生きられない強く弱い姫君。
それがこの女だった。
「竜吉公主……儂は何ともないゆえに戻られよ」
機械処理された歪な音声。
「母上!!その御姿を見て尚、私に戻れと言いますか!!」
「この程度、苦しいものではない」
左目が痛むのか、片手で抑える姿。
赤錆色の体液が静かに涙の代わりに流れ落ちる。
「どけ!!太乙真人!!私が入る!!」
「そうは行かない。君に何かあればそれこそ道行に殺される」
浮かぶ画面の中に映し出される女の姿。
それは異形とさえ思えるようなおぞましささえ感じさせた。
「道行!!補足できたかい!?」
「ああ。後は……任せたぞ!!」
一気に放出される仙気は閃光となって四方八方を照らし出す。
さながら小さな太陽でもその場にあるかのように。
そして画面に再度映し出されたもの。
「!!」
歪な体躯と黒だけの瞳。
薄く不気味な唇と伸びきった黒髪。
浮いた肋に節くれた四肢は禍々しく、爛れた皮膚は死人のそれに思えた。
その化け物がゆっくりと振り返る。
「いけない!!気付かれた!!」
「母上!!」
操舵室に飛び込み管を引きちぎる。
破片が腕を切りつけ、辺りに二人の血が飛び散った。
必死に手を伸ばして全ての器具を取り払う。
「母上を……死なせはせぬ!!」
運命をどれだけ呪っただろうか?憎しみだけでは進むことなどできないとわかっていても。
いつまでも縛られたままの自分をどうにかして変えたかった。
あの戦いは、それぞれの歴史をゆっくりと変えてしまったのだ。
それを操るものが気付くことができないほど遅い速度で。
「!!」
絡まりあった指先から溢れる夥しい光。
それは一瞬で画面を吹き飛ばし辺り一帯を包み込んだ。
「道行!!」
ぐったりとした女を抱き起こして軽く頬を打つ。
「……見つけたか?目的のものは……」
「ああ。一度補足すれば逃がすことなんかないよ」
「そうか」
手を借りてゆっくりと体を起こす。
いまや自分の背丈よりも大きくなった女の前に彼女は静かに降り立った。
「礼を言う」
「……母上……」
「しかし、おぬしは崑崙の姫君。あのような無謀な動き、弟子の前でとるものではない」
その言葉にうな垂れる姿に従者二人が声を荒げた。
「道行様!!あまりなお言葉でございます!!」
その言葉に、女はそっと左目から手を離した。
「!!」
蕩けて腐食した眼球がどろり、と視神経を絡ませて落下していく。
戦闘に特化させた彼女の体ですらこの有様なのだ。
「誰が自分の娘にこんな思いをさせたいと考えるものか。儂はまだ替えが効く」
掌の中でぐちゃり、と握り潰される眼球。
「あの化け物が歴史の道標」
夜を刻む月時計。
一瞬だけ止めた真夜中の針。
「そなたが討つ、最初にして最後の敵」
ゆっくりと重なる二人の女の視線。
「その力、蓬莱の都で使ってくれぬか?」
そして彼女が生まれた本当の意味を知る。
「そなたに何の抑制もなく戦える場所。それが目指す蓬莱の都」
「……母……上……」
「そなたにしかできぬ戦。皆を率いて太公望の隣に立ち、戦ってくれるか?」
純潔の仙女の存在意義を静かに告げる唇。
「我が子よ」
「……はい……っ……」
終わらない夜をとめた。
朝を見つけるために。
22:04 2009/03/04