◆三千針山の夜会と茶会◆








浮かぶ鬼火は冥府が近いことを静かに囁く。
少女の右耳に揺れる飾りは魔よけとなり、死霊たちはただ指をくわえるばかり。
清き御霊の仙道はこの上ない味となりその力を高めてくれる。
しかしながら酸漿の灯篭を手にして歩く銀眼はそうさせてくれない。
「……死んだら、普通はこうなるさ……?」
先頭に立つ少年がそんなことを呟く。
彼の持つ宝剣もまた魔除けとなるもの。
冥府渡りの儀式に則り少女が纏うのは陰陽の刻まれた弔慰装束。
薄紅の衣に刻まれた呪詛と両手に絡ませた羽衣の美しさ。
目尻に塗られた朱と頬に描かれた八卦陣。
「悪いことすると、そうなるよ」
左隣の男が一瞥すれば死霊たちはわらわらと逃げ去っていく。
「簡単に幽冥教主さんにあえるといいんだけれども」
「望むならば引きずり出してやるぞ」
「玉鼎ならできるかもね。その前に出てくる死霊たちは文官を好むから」
三人の剣士に囲まれるようにして少女はゆっくりと歩く。
一足ごとに響く銀鈴の音色。
悲しく優しいそれは魂を安らがせるための儀式の一つ。
手にした酸漿は偽の魂を示すように。
眠れない夜を止めてこの永遠の闇の中を朝を騙して進み行く。
「ずいぶん長い階段だな……降りるだけでも結構な……普賢、大丈夫か?」
恋人の声に小さく頷く顔。
「もうしばらくボクは目を開くことができなから、道徳……代わりの目でいてね」
幽冥の門の前までは彼女は道標の媒体とならなければならない。
それゆえに一時的に視覚をたち、その分見えざるものを見る目に代える。
「戦えないの。玉鼎、剣でいてね」
少女の手を取るのは道徳真君。さすがの彼でも片手では宝剣を振るうにも限界があった。
「天化、ボクは足元に何があってもわからないことになってるから、君もわからない。
 決して何があってもわからないままでいてね」
自分たちが下っていくのは髑髏で作られた螺旋階段。
彼女自身が魔除けとなっていることを除けばいくら大仙でも一溜まりもない。
妖怪の血で刻まれた呪詛はすべてを跳ね除ける。
ましてその血の主が通天教主なのだからその強さは計り知れないものだ。
「まだまだ長いからね。気をつけて」









伸びた影を追いかけていたのは幼い日のこと。
幼年期を脱ぎ捨てた少女はいまや女の香りが漂う。
うなじにかかる黒髪も艶やか、書物の山に埋もれて咳き込む姿。
(我が姜族はすべて消えたわけではない……邑姜が生き延びたように希望は必ず
 存在する……しかし、この胸騒ぎは何なのだ……?)
紂王は傀儡ではなく妲己が住まうまでは賢君として名高かった。
しかし、妲己の行動はこの世界を終わらせるためのものしか思えない節もあった。
一度は聞仲に追いやられた彼女がたった数十年で凌駕する力を得る。
その才能を考えればある程度は考慮されるものの、その桁数が外れすぎていた。
(おかしい……修行だけであれほどの力は得られぬ……)
その疑問符を紐解くために彼女は書庫にこもった。
発に強請った書庫の鍵もそのためのもの。
殷王家は仙道を多く排出してきた名家。
それゆえに理解の深い宦官も多く存在していた。
そして同時に皇后妲己に人間では何かを感じるものも確かにいたのだ。
隠れて記された皇后の生活から読み解く謎は彼女が望む答えを与えてくれた。
(……聞仲が目指した蓬莱の都……そこに住まう女は禍々しく凶となる……)
夜空を流れる星は竜の鱗という話もある。
十凶の星の光はいよいよ眩しくなり、胸騒ぎは増していくばかり。
(歴史の道標はその意味ではなく……隠語であれば……この考えは総じてつじつまが合う)
抱えていた疑問が静かに溶けていく。
そこにいきつくまでに失った大切なものは数えきれない。
(もっと……早くにからくりに気付いていれば……)
最後にこの腕の中で見送った彼の姿。
故郷に別れを告げたあの日から復讐は終わることを知らない。
生きる意味を探し続けた彼と、生きる意味を変えることをしなかった彼女。
狡猾な老人は運命を操ろうとした。
その歪みが生み出したこの世界に果して幸福はあるのだろうか?
「太公望」
自分の名を呼ぶ声に顔をあげる。
「……道行……」
「おぬしは冥府に行かずとも良いのか?」
唐突な問いに少女の眉が寄せられた。
冥府はその名の通りに死者の行きつく国。
十王に罪を裁かれ行きつく先を決められるという。
六道を知る者はかくも残酷な世界と言い、その美しき花園を知る者はかくも美しき世界と称する。
「生きながらにして冥界に行けるものなのか?」
「儂と同じ顔を知っているだろう?」
本来彼女は太上老君の傀儡として作られた。
同じ顔を持つ二人の女はいまやまったく違う道を歩んでおる。
「儂は偽物だが、そのせいで本物がどこに居るかくらいはわかるらしい」
すい、と女の左手が少女の頬に触れた。
「おぬしの親友がそこに向かっておる。おぬしの代わりに」
「普賢が!?」
「三人の剣を引き連れて、幽冥の境に」
封神台に祭られるものは死んでいて死と切り離された者たち。
彼らは生きながらにして生に縛られることのない老子に限りなく近い存在となっていた。
「おぬしが行ったらば裁かれるしな。人の罪は十王が裁く。我らの罪は……教主が赦す」
見えないものに縛られるのはもううんざりだと首を振って。
ぱん、両手で自分の頬を打った。
「ならばそれは普賢に任せる。いずれ会うことになるだろうし」
「うむ」
「道行、おぬしも知っておるのだろう?歴史の道標なんてまどろっこしい名前の主を」
「その女、名を女禍という。青い桃を生み出す禍々しい生命」
自分の名を残したその女の姿。
「元始様は何を隠しているのだ?」
「何もかも。あれは我儘な男だ」
静まり返った書庫に二人の女。
茜に照らされた影が黒く伸びて忌々しくも美しい。
燃える緋色の巻き毛と、凛とした黒髪。
「今の教主……この次の教主……その男の名を昌という……」
その言葉に呼吸が止まる。
たった一人、生涯をささげると誓った彼の名。
「それは……真か?」
転生すら叶わない教主は不死となる少女と永遠に引き離された。
全ての輪廻を断ち切られた空間に存在する冥府。
「嘘など言わぬ。この目で今見ている」
「……………………」
「三千本の針の山でも、おぬしの為に座るであろうな……実らぬ両想いか……」
ぼろぼろと零れる涙を払う指先。
「同じ顔、同じ声でも……思いまでは同じにはなれぬな……」
留まることの許されない不死の存在。
目指す場所は唯一つ、女の待つ蓬莱の都。
夢と憎しみを織り上げて幻想は今日も艶やかに狂って行く。
「女禍を討つ」
「そうか……ならばいずれおぬしの力になるものが現れるだろう」
「おぬしでも十分だ。その強さ、本物だ」
静かに首を横に振り、瞳を閉じる。
「儂よりもずっと強い男が一人いる。儂と同じ色の目だ」
残された時間は無限ではない。
だからこそこの有限の身体を使って幽玄に繰り出す。





灯篭の火がじりじりと小さくなっていく。
響く鈴の音と閉じたままの恋の瞳。
牛頭馬頭の鬼たちが鎌を持ち立つのは冥府の厚い門。
朱塗の扉と墨染の門構えはそれだけで圧倒される存在感を持っていた。
「教主に御目通りを」
「お前たちは何者だ?生きても無ければ死んでもいない」
「教主とその友人ならば解ること」
たんたんとした少女の言葉に少年が首を傾げた。
未だに開くことのない閉じたままの瞳と、剣を下ろすことのない二人の男。
「コーチ、普賢さんは何で目、閉じたままさ?」
いつでも斬りつけることができるように彼の宝剣はまだ構えたまま。
「玉鼎さん、別にここ……危ないとこじゃないさ」
二人から生まれる仙気は蠱鬼を寄せ付けることがない。
きいきぃと泣きわめく鬼を爪先で蹴りとばす。
「どうしても通してはもらえないのかな?」
これが二回目の問いかけ。
唇に浮かぶ小さな笑み。
「天化、準備しろ」
「え……?」
「普賢の性格を考えろ」
莫邪の光が強まって行く。
「これが二度目だな。三度目は……」
斬仙剣を手にして少しだけ脚を下げる。
「どうしても駄目かな?」
「ならぬものはならぬ」
「そう……理解できないって悲しいことだね……」
ゆっくりと開く双眸。
全ての外界を断絶してきた分、その仙気は増幅されている。
逆立つ銀髪と獲物を捕らえる銀眼。
開かれた両手から放たれる閃光弾を合図に男二人が門を斬りつけた。
門番の牛頭馬頭を斬り倒して四人はそのまま幽冥楼閣へと向かう。
艶やかに美しい咽返る桜の芳香。
飛ぶのは可憐な紫紺の蝶。
「教主様には会わせはせぬ!!」
幽女たちを宝剣は一瞬で消し去り、幻楽の琵琶を斬仙の光が打ち砕く。
「天化!!おまえは普賢を連れて教主の方へ行け!!」
「ってコーチ!!俺っちここがどこだか……」
「普賢が知ってる!!早く行け!!」
背中合わせの二人の男。
手を取り合って走りだす少年と少女を送りだす。
揺れる羽衣が遠くなってその光が消えて。
「あの役目は俺だっていいじゃねぇか」
「無理だな。お前では少年には成り得ぬ」
「んじゃお前も無理だろ」
四方をぐるり、と悪鬼に囲まれて男は呼吸を整える。
宝剣の光は魂を写し取ったような色合い。
響く音さえ切り裂く斬仙剣。
「まさかお前と手を組むなんざ、思っても無かったぜ」
「そうだな。ここでお前が巻き込まれたとしても事故で済む話だ」
同時に大地を蹴りあげる。
砂埃と舞い散る桜が絡み合い、楼閣は燃える夜と化す。
「そうだな。ここでお前が逝っても事故で済ませてやるぜ!!」
薄紅の桜はその根元に夥しい死体を抱く。
裁き切れない罪を持つものを礎として冥界の桜は咲き誇る。
「普賢さん!!どこまで走ればいいさ!!」
永遠に続く墨染めの回廊。
目印は少年の手にした酸漿の灯篭唯一つ。
偽物の扉を開けば再び見える長い廊下。
幽冥に終わりなどないとあざ笑うかのように。
「まだ。もっともっと奥を目指して」
息を切らせて走り抜ける。
少女の手をしっかりと握って、どこまでもどこまでも。
勢いよく開いた扉の先には深淵の巨大な月が浮かんでいた。
歪んだ空間に見る偽物の月の恐怖。
「ありがとう。ここが目的地」
少女の手のひらから光が生まれ、ゆっくりと弓と矢に姿が変わる。
ぴん、と張りつめた弓弦と空気。
青白く光る矢が月の真中を射抜いた。
「!!」
硝子でも砕くかのように月は崩壊してその奥に見える扉。
古びた音を上げて開いていく。
「……あーた……なんで……」
書簡の山に見える一組の男女。
「お初にお目にかかります、太上老君、幽明教主姫昌」
その声ににこり、と笑う姿。
「遠いところをよくぞおいでなさった。ここは穏やかな幽明の楼閣。まずはゆっくりと」
猫のような瞳がにい、と歪む。
「逢いたかったよ普賢真人。さ、おいで」
「失礼します。天化、行くよ」



終わらない夜に永遠に輝く月。
どちらもそれは偽物にすぎない。




14:19 2009/02/11

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