◆文王姫昌◆
「それぞれが修行中じゃ」
緋扇片手に女は笑う。この先の最高司令官となるべく太公望は亜空間での修行中だ。
この崑崙号が目指すのは遥かなる蓬莱の都。まさしく星の海を進む船となる。
「で、君が操舵室に来る理由がいまいち分からないんだけども」
「向こうの方の目と相互通信が出来るようになった」
太乙真人の左手が道行の頬に触れた。
人工皮膚の下に埋め込んだ基盤を起動させれば彼女の瞳が銀色に変わり始めた。
それを合図に始まる緩やかな放電。
「制御(リミッター)解除しておくよ。君の能力も重力制御……あの老人は同じ能力を与えた」
「すまぬ。これでようやく責務を果たせるわ」
「責務?」
「わがままついでにもう一つ頼みがある、太乙よ」
結いあげた黒髪は水を纏う純潔の仙如。携えたのは重力を自在に操る太古の宝貝の一つ「盤古幡」だ。
使いこなすには相応の強さと精神力を必要とする。
スーパー宝貝はいかに天才であろうともそうやすやすと扱えるものではない。
「竜吉公主はおいでか」
太乙真人と韋護を従えたのは大仙の一人、道行天尊。
緋扇を両手に構え公主が常にそうするように宙に浮かぶ姿。
「道行天尊様。それに太乙真人様に韋護まで。ここは男子禁制でございます!!」
従者の一人、赤雲が三人を制した。
「こやつらはなにもせぬよ。いや……正確には儂もだがのう……して、公主はいずこだ?」
絡みつく羽衣に揺れる巻き毛。道行は礼を以ってこの場所に来たと窺わせる立ち居姿。
「ここに。いかがされた道行天尊」
御簾が静かに上がり見えるは座したままの仙女の姿。
盤古幡を纏っているせいだろう、額にうっすらと浮かぶ汗。
それで居ても笑みを絶やさないのは彼女もまた強きものだからだ。
「おぬしに稽古をつけようと思ってな」
ぱちん!緋扇が閉じて再度開かれる。ぱらり、と小気味いい音を上げてそれはゆっくりと変貌した。
「亜流の宝貝ならばここに天才がおるからのう。作れぬわけはないのだ」
それは蓬莱で待ちうける妲己の手にあったはずの五火七禽扇。一振りするだけでその衝撃波はあたり一面を
焦土と化すことができるのだ。
七色の光の粉がぱらぱらと砕けてそれが胡蝶の姿となる。
戦であれども優美であれ。それは彼女一流の闘い方だった。
「儂が相手じゃ、竜吉公主」
喉元を掠める扇の切っ先。まるで鋭利な刃物のようにそれは赤い体液を誘導する。
「……さしずめ太乙は救護ということか?」
「あいや、おぬしがそんなに弱いとは思ってはおらぬ。太乙は……」
道行が悪戯気に片目を閉じた。
「儂の能力解除の為の要因じゃ。介護はそこの馬鹿弟子だ。行くぞ、竜吉公主!!大仙の力……その身で解くと味わうが良い!!」
「よし、完了」
姚天君の周囲に張り巡らされた灯篭。それは酸漿に鬼火を込めた特性の物だ。
「懐かしいね。息子が小さい時によく持たせていた」
灰銀の髪を持つ女は常に宙にいることが当然であり、大地を踏みしめる必要もないと言わんばかりの
華美な靴を脚に纏わせる。
「歩くのは苦手?」
「お主らと違って慣れてはおらぬ。妖怪はそういうもの」
同じように銀髪の少女が手を伸ばせばその手にも酸漿の灯篭を一つ。
朱色の中にともる青銀の光はこの世では無いからこその美しさ。
「これがあればね、ジョカがこっちに来てもある程度の結界は張れるんだ。封神台内部まで壊れちゃ
何も手を打てなくなってしまうからね」
教主は顎先を一つ撫でてふう、と溜息を吐いた。
「君が身重でなければ彼女が稽古を付けるんだろうけども。僕じゃそっちの彼の稽古はつけられないし」
教主が指すのは道徳真君。空間術を主とする教主と剣舞の道徳では分が合わない。
「だから、彼に頼むことにしたよ」
「ちょっと弄った。すぐ馴染んだぞ。こいつも元々仙骨持ってたからな」
姚天君が件の男の肩に手を突き、まるで逆立ちのように舞いあがった。
天然道士としてその強さは実証されていた男の姿。
「黄飛虎、出番だぞ。お前の息子の師匠が相手だ」
しゃらんしゃららん。金光聖母の打ちならす鉄輪の音色。
「私たちはそっちの残りの仙人だ。掛かっておいで。この金光聖母と……」
「姚天君との……」
生まれ出す亜空間が封神台そのものを包み込んだ。
「多重亜空間へそうこそ」
「教主さまぁ。これを」
閻魔がたどたどしい面持ちで手渡してきたのは浄玻璃の鏡。映し出される三界の姿に姫昌は僅かに
眉を顰めることになった。太公望、封神台にいる面々、崑崙の姫のそれぞれが亜空間での過酷な修行を受けているのだ。
太公望は太極図を使いこなすためにあらゆる精神への攻撃を只管に繰り返し受け続けている。
眠ることも呼吸することも忘れるようなその一撃一撃は発狂できるならば楽だろう。
同じように亜空間の公主は道行天尊と宝貝合戦の真っ最中。
全ての制御を解除した状態の大仙は伊達でも酔狂でもなくその強さを知らしめた。
優美な笑みを浮かべるのは道行天尊。足蹴にされたも同然に食らいつく公主の姿には姫の面影などもはやない。
髪を振り乱し重力場を操るそのさまはまさしく純潔の仙女にしかできない荒業だ。
「お姫様まで大変ですね」
封神台内部では金光聖母と姚天君を従えた通天教主が同じように制御無しで十二仙を翻弄して行く。
黄飛虎の相手は道徳真君と戦友でもある聞仲だ。
習うよりも慣れろの実践型には丁度いいだろう。
「ふぅむ……だと私も少し動きますか。今日の仕事は終わりましたし」
「教主さまおでかけでございまするかぁ?」
「はい。ですので、現世までの道を少しだけ開いてくだいますか?」
「あいや。それはおおごと」
上げ巻きの黒髪にそっと簪を一つ刺す。
「御代はこれでいかがです?」
「数刻ばかりでござりんすよ、教主さま」
国の礎となった少女の姿を人々がゆっくりと忘れる程の日数は流れて行った。
同じ血をもつ少女は王の傍らに静かに立つ。
「武王。もうそろそろお休みになってください。あなたが倒れたらこの国も倒れてしまいます」
遊び人と呼ばれていたのはいつの日のことだろうか?
今や賢君として激務の中に身を置き不自由という名の自由を少し含んだ空間を愛するように。
「だなあ……流石に今日はこれ以上無理か……」
「はい。残りは私と姫旦さまで執り行いますので……」
言い終わるか否か、ゆっくりと降りてくる闇、闇、闇。
金環輪を打ちならす音が鼓膜の奥にゆっくりと響き始める。
朱色の衣を纏った閻魔を従えるのは幽冥朗伯、次代の幽冥教主となるその人。
「教主さまのおなりでございまする」
「そこな人間、下がるがよい。教主様の御前になりまする」
染まった頬。閉じたままの双眸。小さな唇は真っ赤に彩られ誰かの肉を食らいたてのよう。
「……な、何人たりとも武王の前の無礼は許さない!!」
剣を抜き従者を切りつける。その瞬間にぎろり、と開く瞳。
「ひっ!!」
そこにあるべきはずの眼球はなく、目の中全てに広がる闇。飲み込まれそうなその空間。
「あいや、先にしかけたのならば……」
金輪をかちんかちかちと打ち鳴らす。
「こちらの行為は非に為らずやな」
開いた唇から覗く牙。
「……くっ!!」
剣に齧りつきばきり、と噛み砕く。そのまま砂糖菓子でも食らうように零れた刃を死神は飲み込んだ。
ぺろり、と唇を舐めて邑姜を闇の目が捉えた。
「そなたの剣、口に甘しや。こんどはそなたの魂(たま)をもらうぜよ」
「お待ちなさい。時間もそんなにないのですから」
その声に武王が前に歩み出た。
何度も何度も聞いたその懐かしい声。
忘れえぬ最高の武人でもあり恋敵でもある存在。
「久しぶりですね。発」
「……親父……!!」
同じ顔をした異なる二人。軍師が生涯をささげ、その命を持ってして西の国に彼女を幽閉した男。
「今は彼の世で教主の真似事をしてますよ」
凛々しい青年の姿は武王姫発が二人いると言っても過言では無かった。
むしろ姫発よりも雄々しさと思慮深差を覗かせるのそのまなざし。
太公望が恋した理由は言わずもがなだった。
「そうそう、時間がないんですよ。何せ私はもう死んでますから。そう、お化けですよ、うらめしや、なんてね」
「親父……本当に親父なんだな……」
「さて、武王。太公望が今大変な修行をしてます」
玻璃鏡を取り出させて姫発の前に差し出させる。
そこに映し出されたのは風の刃に全身を切り裂かれ、倒れることも許されずに蘇生させられては繰り返される光景。
苦痛などではもう追いつかず死ねない苦しさを乗り切るための行為だった。
「太公望!!」
「叫んでも呻いても届きませぬ。そしてあの人は死ぬこともできませぬ」
鏡を折りたたみ死神は静かに教主の後ろに下がる。
「裁くこともできませぬ」
同じように閻魔も。
「発。私はお前ときちんと話すことがありませんでしたね」
教主の右手が武王の頬に触れた。
「!!」
「言葉にしてはいけないこともあるのです。なので……私の知っていることを少しだけ残して行きます」
もはや彼は彼の世の存在なのだ。そして次代の幽冥教主となるべく永遠に彼女と隔絶された。
この恋は悲恋として成就し、お互い思い合いながら実ることはない。
黒衣の青年はまじまじとみれば人間の姿はしているものの、もうその気配はこの世のものではないとわかった。
「発。お前は私の自慢の息子ですよ」
「……親父ッ!!」
「みっともないから涙と鼻水は拭きなさい。お前も知ってるでしょう、私は女性の涙はぬぐいますが男の涙は放置しますよ」
姫昌という男はたいそう民に仙道に愛されたと言う。
それがなぜなのかぼんやりながら邑姜は理解できたような気がした。
「だっでよう……親父にまた会えるなんでおぼってもながったんだ……」
憚ることなく涙をこぼす姿。太公望が守ろうとした存在。
それもおぼろげに理解することが出来た。
(ああ……太公望さんはとっても素敵な二人と恋をしたのですね……)
打ち鳴らされる金輪。離別の時間を告げる音。
「しっかりしろ。お前がそんなんじゃ俺も死んでも死にきれん。国はお前にやる。だがあの女は俺が貰った」
「冗談じゃねェぞ!!太公望は俺の女だ!!」
「決着はお前が死んだらつけてやる。それまでは精々歯ぎしりして足掻け。俺はお前が簡単に追い抜けるような男じゃない。
親の凄さを思い知るがいい、うつけ息子め」
鬼火が教主を包みゆっくりとその姿が蕩けるように消えて行く。
空間に融和するようなそれはまさしく彼が教主である証明だった。
「あいや、御子息。死相ですわ」
死神がとてとてと歩み寄り、発の唇を齧る様に接吻した。
「これで大丈夫。あな、いや、長生きできるように……今しがたの死相はわちきが頂きました。教主さまはいつもいつも、
御子息のことを重んじられておりまする。いないな、大事大事でございます。でわ、でわ」
しゃらん、しゃららん、鳴り響く音。
文王姫昌の数刻だけの王都凱旋。
「さて、これで明日からのお仕事もがんばれますね」
「教主さま意地悪でする」
「あいや、まったく」
二人の頭を優しく撫でる大きな手。
「本命の女だけは譲れないもんでね」
彼の世とは何とも明るく穏やかで愛しい所である。
16:13 2011/07/26