◆申公豹という名の道士―中編―◆




其の道士は最強にしてまた最凶の存在でもある。
十凶星を閉じ込めた鞭を持ち、靈虎を駆るその姿。
世界など興味もなく、その瞳は遥かなる未来と過去に思いを馳せるばかり。
名を申公豹と言う。






「面白い子供だ」
眠りに寄せた蓮の花に接吻して、青年はその視線を少年へと向けた。
太上老君は珍しく崑崙の宮に招かれ、悪戯に宝玉を齧るばかり。
「帝位を捨てて仙となる。普通だったら自分の力で世界征服のほうが面白そうだけどね」
ふわふわの巻き毛をまとめ上げて、ぐい、と伸びをする。
夢の中でもう一つの歴史を見つめる太上老君はどの世界にも存在してしない存在だ。
「人の名は許由じゃ」
「へぇ。本物の王子様だ。ねぇ、元始。あの子、私に預けないかい?」
浮世にたたずみ世を儚み誰よりも世界を愛する大いなる傍観者。
「あなた誰ですか?」
「ん?私かい?ただのはぐれ仙人だよ、許由」
竹林の賢者はのちの最強道士を育てることとなる。
飄々たるその師弟は同じように世界を見据えて穏やかに笑うばかり。
羊の群れの上で眠るだけの老子からは何も得られないと同期の仙道たちは彼を笑った。
時折遣いとして宮に赴き、気が向いた相手と剣を交える。
許由の動きは誰も読むことができないのに、許由は誰の動きも先の先まで読んでしまう。
「ああ、あなた。その先二歩下がれば私はあなたを殺せますよ」
影の動き、指先、空気の鼓動。仙籍に入りたての少年とは思えないその洞察眼。
「ほう、面白い子供じゃな」
羽衣を手繰り寄せた大仙が、同じく師表座する男の肩に手を突いた。
「んー……ほれ、あれだ、この間入ったひよっこに良い剣士が居たな。アレだったらやりあえるんじゃないか?」
顎ひげをざりざりと摩る。柳腰の少年はまるで童女のように目尻に朱を乗せて。
まるで性別すらも無くしてしまおうかと言わんばかりのその姿。
「話にならん。将来の大仙を殺す結果になるぞ」
文殊広法天尊と道行天尊は、先の大戦からの十二仙としての眼力はあるほうだ。
ともに始祖の側近として実力も確か。
「まったく。ここには野蛮な相手しかいませんね」
硝子玉のようなその瞳は何を移すのだろうか?空と海の境界のその色。
境目に潜む太上老君は全ての能力を凌駕する術の使い手でもあるのだから。





宝貝とは使い手の仙気を吸い取り奇跡をおこすものを定義する。
しかしながら太上老君の持つ太極図はそれとは真逆なものだった。
対象物の仙気を吸い取りそれにより全ての能力を無に帰す。いわば無効空間を生み出す宝貝。
当然使い手の披露は尋常ではないものとなる。
「そんな物騒なもの持ってるんですか、あなた」
「そろそろ師匠って呼んでくれても良いんじゃない?許由」
「道士名もくれないような相手を師と呼ぶのも」
切りそろえられた栗色の髪。頬に落とした柔らかな桃。
蓮の花を誂えた道服は恐らくは少女が身につけてもおかしくは無いものだろう。
「ちょっと持ってごらん」
球体を受け取る。
「!!」
それは決して重くは無いはずなのに持っているだけ全身の体力が奪われて視界がかすんでいくのが分かった。
言いようのない焦燥感と鼓動、そして僅かばかりの悲しい気持ち。
「太極図って言うんだ。原始に存在する七つの宝貝の一つだよ」
老子の手に突き返してその場に座りこむ。ぜいぜいと肩で息をして乱れた呼吸を整えるために袷の前を開いた。
「君にあげてもいいけども、君はもっと違うものの方が良いだろうなぁ」
目の前にいる師は残像であり本体はまだ夢と現実の境目にあるだけ。
「他にこんなものを持っているのですか?」
額の汗を拳で拭う。
「持ってるよ。どの宝貝にも負けることの無い最強の武具、雷公鞭をね」
十凶の星の光を閉じ込めた比類なき鞭は、最強と名乗る者だけが持つにふさわしい。
それゆえに今までは誰も持つことができずに太上老君があずかっていたのだ。
力無き道士が持てばその瞬間に魂魄までも消し飛んでしまう。
「その宝貝、私がもらいます」
「いいよ。でもまだあげられないなぁ……」
あふ、と欠伸を噛み殺して消えてしまう残像。いつも続きは良いところで遮られてしまう。
それでも彼は知っている。老子がこの世界に生きるものとしての存在としては最強だということを。
だからこそ徒弟することを認めたのだ。
「さあ、許由。歴史の道しるべを探すんだ。そうすれば君は誰よりも強くなり、誰よりも人生を楽しめる」





二つの仙界のどちらにも属さない太上老君という稀有な存在。
それは全てにありて全てを無に帰す力と言っても良いものだった。
人の歴史とは単純なもので一定周期で争いを繰り返すばかり。
大概にしてその裏に見えか売れするのは色恋沙汰という定番にも飽きてしまった。
(だから帝位なんかいらなかったんですよ。どうせこんなつまらない人生やって終わってた)
この身体に仙骨があると言われた時、迷うことなくその手をとった。
人の世は仙界からすれば瞬き一つで歴史が変わってしまうほどの速さ。
悠久を生きることを選ぶのは何ともゆるりと過ごすことだと許由は笑った。
(しかし、この世界の祖となるものはどこから来たのでしょうね)
様々な仮説を並べては壊していく。どんな些細な欠片からでも許由はあらゆる思考を巡らせた。
その結果たどりついたのは外の世界からやってきた存在。
(さて、そうなると私のこの人生もその外来の物が定めたというのか?)
他人に敷かれた道を歩きたくないから仙となったというのに、それすらも誰かに決められていたのかと思う。
ぎりぎりと奥歯を噛んで経典を投げつけた。
暗闇に消えていく数多の文字とちぎれた神様の身体。
(ならばその外来の物を殺して、私は私を取り戻してやる)





それからの彼の修業は過酷を極めた。老子の修業は主に夢の中での事が多い。
夢ならば肉体に及ぼす影響は最小限にして掛かる負荷は最大限という理由からだった。
太極図が細い糸に変わり許由の身体をぎりぎりと締め付ける。
もう、何度四肢はちぎられて血反吐はどれ位吐いただろう。
死ぬことの無い修業は痛みを継続し狂うことすらも許されない。
全身をすり潰される感覚をしっかりと刻みこまれて半覚醒のままもう一度同じ夢を繰り返す。
「まずはね、怖いって感情と痛みの限界値を変えなきゃいけないのさ」
無数に突き立てられる針。耳に、舌に、唇に、眼球に。
呪術にでも使う人形のようなその容姿と呻き声だけが響きだす。
「…か……っは……ァ!!……」
「死にたいかい?許由」
老子が弟子を取らなかった理由はこの修業にあった。
誰も耐えることなどできないとわかっていたからこそ、無駄な時間を注ぐことはしたくなかったのだ。
「私は……死なない……ッ!!」
許由という青年の外側は帝位を捨て仙となった浮草のような穏やかさ。
しかしその実、内側に抱いた情熱と怨嗟は推し量ることなどできないものだった。
「忌々しい過去のがらくたを殺して……私になる……それまでは……」
ぶちぶちと切れて行く血管と筋組織。
噴き出す血液が視界を真っ赤に染め上げた。
「絶対に死なない」
絶え絶えでもはっきりとした声。
「そう。君を弟子にしてよかったよ、許由」
引き出された内臓が暖かくそれが胎内の温度に近いということはこの時に知った。
死なない肉体を持つのならば臨死もその恍惚も知ることができる。
仙人とは痛みに弱く長く生きるだけの者と言われるのはこの由縁だろう。
死とはこんなにも痛みと暖かさが混同する。




どれだけ眠っていたのだろう。
若葉の色が僅かに違えて首を傾げる。
「三年ちょっとかなあ。君が夢に入ってから。でも、あの中での時間は夢幻で無限だから君はどれだけ死んでどれだけ
 再生してきたのかな?許由」
迷う意思も惑いもない。凛として清しい青年の姿。
「君に名前をあげる。君の名は申公豹だ」
後の最強の道士と言われる青年の誕生。
「これ、卒業祝い」
投げつけられたのは一振りの鞭。球体の中に十凶星の光を閉じ込めたと言われる伝説の武具の一つ。
「それを受け取ったからにはもう後には退けないよ。君は最強を名乗るんだ」
帝位を捨てた青年は仙となり、その本物の強さを手に入れた。
竹林の奥で静かに、静かに手を伸ばして。




その名を捨てて申公豹となり、彼は世界中を飛び回る。
雷公鞭の風圧と仙気を利用して空を飛ぶよりも、己の意思で宙を舞うことができるようになった時の解放感。
かつての王国は今や砂に還り見る影もない。思い出すほどの思い出も無く彼はただそのあるがままを見据えるだけ。
(さて、今夜はこの岩の上で休むか)
降り立った岩場は霊穴と呼ばれ仙道がその仙気を高めるに適した場所でもあった。
どっかりと腰を下ろしていつものように膝に肘を突いた。
まだ勝気な瞳は若い仙道にはありがちなもの。
『勝手に人の上に座らないでくれない?』
鼓膜に直接響くような声。
「ほう……霊獣の孵化手前か?」
『分かってんだったらどきなよ。僕は男に座られる趣味は無いね』
たん、と地に降り立てば岩場が光り出す。太陽と月の香気を浴び続けてこの霊穴は意思を持った。
流れる時間が意思を与えその姿を今、変えようとしている。
『んーーーーーーー!!ようやく動けたよ』
巨大な猫のような生き物。額にある黒点がなんとも可愛らしい生物。
「でかい猫だな」
「ちっがーーーう!!僕、虎を具現したはずだよ!!」
「私の眼には猫に見えるが?そら、鳴いてみろ」
それでもこの生まれたての霊獣の実力は確かなものだ。誕生の際に周辺の生命は小石の細胞一つに至るまでに吸収してしまった。
万物の生命を糧とする最も危険な部類の霊獣。
「ちょうどいい。乗り物を探してたんだ」
「だから、男を乗せるのはごめんだね」
申公豹の指先が光を帯びてやがてそれが糸状に変わる。
「!!」
首に巻き付いたそれは少しでも力を入れれば簡単に獣の首を切り落としてしまえるだろう。
「さて。もう一度言おう。私は乗り物を探してるんだ」
「だって仙道にくっついたら草しか食べられないじゃない」
「……妖精ならば食ってもいいぞ。ただし、人間と仙はダメだ」
自分とこの距離に居ても彼は顔色も変わらなければ笑みを絶やすこともない。
弱い仙道ならばこの霊獣の傍にいるだけでも仙気を吸われ、下手をしたら消滅してしまうだろう。
「わかった。良いよ」
その言葉と同時に糸が皮状に伸びて修飾していく。
「首輪だ」
「ああ。霊獣の所有権は周りに晒さないといけないって、老子も言ってたからな」
さわ、と撫でる青年の手。頭に置かれたその手の小ささ。
それでも彼は恐らく現存する仙人を凌駕する強さを秘めている。
「黒点虎。お前の名前だ。どうだい?」
「いいよ。君は?」
「私は申公豹。よろしく、黒点虎」





どれほどの時を過ごしただろう。人の世は幾つも幾つも流れてしまった。
暇つぶしに覗いた王宮に住まうのは絶世の美女。
窓枠に凭れて見えた影はまぎれもない九尾。
「へえ……王宮に狐がいますよ、黒点虎」
「うん。美味しそうな雉もいる」
「ああ、でもそれは仙道ですから。食べるなら違うものに」
一撫でして霊獣の口に宝玉を含ませる。ばりばりと小気味いい音を響かせて紅玉が飲み込まれた。
狐に触れるもう一つの影。
この世界のどこにも存在したことの無いその気配に申公豹は眼を見張った。
狐は其の影に取引を持ちかけた。この世界を手に入れるための力を。
其の影は狐に力を与えた。自分の望む世界を得るための手順として。
「あれが……古代の神……」
本物の強きものを見た時、同じように強さを持つ者は好機を知る。
そして今討てば死ぬのは自分だということをも瞬時に理解したのだ。
「し、申公豹……あれ、なに!?怖いよ!!」
「あれは……がらくたの神様です」
ようやく見つけた。何千年もかけて自分の存在を証明するために壊すものを。
「ふふふ……あの首、掻っ切ってあげます」
歴史は静かに狂い始める。全ては始まりの終わりの為に。
そして彼は知ることとなる。老子の目的と思惑とするところを。




虹に腰掛ければ足元に転がる屍の山。皇后の民族狩りにあったであろうその一族。
生き残った少女の足首に刻まれる花の焼印。
奴隷として売られるためだけの存在と生きることを放棄仕掛けた銀色の瞳。
「珍しい。銀眼の魔女ですよ」
虹は闇に溶けてやがて月が昇る。脚を縛る鎖を断ち切って少女はそっと逃げだした。
行く場気場所など無い。逃げる場所など無い。それでも此処にいるよりは、と。
「ああ、あの子も仙となるのかもしれませんね」
痛む脚が告げる二つの選択肢。
「あの子、良い仙道になりますよ」
やがて少女は名を変え師表十二仙に座して、その運命を知ることとなる。
まだこの十六夜の月がその小さな影を照らしているばかり。




焼け野原にたった一人で立つことはどんな気持ちだろう。
皇后は姜族を殊更に根絶しようとして、焼き打ちを掛けた。
吹き抜ける風が頬を撫でる。
「あの子も、仙界に拾われるのですね」
羊雲に紛れて覗く階下には薄汚れた運命の少女。
「しかし……不思議ですね。あの子、生きているのか死んでいるのか分かりません。まあ、多分にして
 生きているんでしょうけれども……不思議な存在だ」
顎先を一撫でして、申公豹が首を捻る。
全ての駒がそろい始めるこの劇的な瞬間。
それは彼にさえ分からないところで静かに動き始めていた。





御簾の奥、数えた夜の長さは意味を成さない。
少女は霊獣を駆り、親友に手を振って旅立った。
春の空はどこまでも澄んで殺戮には持って来いだ。
あの銀眼の魔女は仙となり、薄汚れた少女は始祖の直弟子となった。
「……面白い大戦争が起きますよ、黒点虎。女同士の戦い程残忍なものはありませんからね」
皇后に復讐するために少女は名を捨て名を変えた。
其の道士の名を太公望という。





足元に転がる虫のような身体。
始まる蘇生に彼の唇が嬉しそうに歪んだ。
「申公豹?」
「昔を思い出してました。ええ、本当に昔を……」
見届けてやろう。この歴史の全てを。
そして壊してやろう、あの忌々しい初期型の神様を。







17:48 2010/07/28

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