◆申公豹という名の道士◆
月を射る其の矢は弧を描き光と化す。
穢し世を捨ててどこに向かおうするのか。
湖面に映る影は本物か否か。雲の通い道、少女はただひたすらに最果てを目指す。
内部の振動に普賢の膝が崩れる。操縦士は結界の中から出ることでは出来ない状態だ。
銀髪にぱちぱちと絡まる七色の光と緑色の数値たち。
「余化。このままだと此処が崩されることもありうるか?」
同じように操縦士として座標軸を描き続ける仙女が問う。
「はい。しかし、最深部まで到達するにはあちらの方が分が悪うございます。姚天君さま」
三人を結びつける光の輪。封神台は阿空間を進みながら幻の都を目指していく。
「余化」
暗闇に浮かぶ画面に映るのは趙公明の姿。縛竜索を一振りしてにぃ、と笑った。
「はい。公明様」
「潰しても潰してもきりがない。こちらには通常の宝貝しかないんだ。さあ、どうしよいうか?」
球体に手を突き余化は操舵室の中を水魚のように歩く。
その度に波紋のような光がまるでここが水底だと言わんばかりに産まれては消える。
「公明様のお力ならば、偽物のジョカなど相手にもなりませぬ」
「僕はね。ただ、そうじゃない人たちはどうすればいいかな?」
其の声に普賢が視線だけを画面に向けた。
「……もし、道徳がそうなったら構わずに戦って」
「おやおや。随分な言葉だね。彼は君を守るために必死になってるのに」
かといって反則的な宝貝を持つ普賢が操舵室を空にしていい理由は無い。
教主の片腕ともいえる姚天君と趙公明の懐刀の余化の三人がいることで封神台は生業できている状態なのだ。
「そんな弱い男に惚れた覚えは無いって伝えておいてくれないかな?」
「そうだな。儂も同じだとアレに伝えてくれ」
(たしか……この辺だったはず……)
二つの仙界の落下地点の破片の中、どれだけ探しても目当ての物が出てこない。
最終決戦は恐らく神といわれるものとの戦いであろう。
そのために必要なのは元始に存在したと言われるスーパー宝貝なのだ。
教祖の血を持つヨウゼン飲みが使いこなせるであろうそれは、いくら探しても糸一本すら見つからない。
「何を探している?」
細く鈴を転がしたような声に顔を上げる。
「……張奎……」
艶やかだった長い黒髪は短く切られまるで少年のような顔立ちに。
彼女を守る様に烏煙の手綱を持つのは夫の高蘭英だ。
「六魂幡ならば私が預かっている」
薄い唇がそう笑う。ただし、簡単には渡さないと付け加えて。
本来、張奎は聞仲の側近であり直属の部下でもあった。年月を得て妖怪となったものではなく、
仙界に於いて妖怪同士の間に生まれた純粋な種族。
「姚天君さまの遺言だ。教主に何かあれば六魂幡を護り……伝えよと」
元来、十天君の一人であり教主の正妻だった姚天君の部下として張奎の父親が存在した。
聞仲も姚天君には礼を取り張奎を部下とするときもきちんとした手順を得ていたのだ。
「母上の……遺言……?」
「そう。あの方の遺言だ」
「どういうことだ?」
教主の心がもう壊れてしまっていたことは分かっていた。それでも離れることなど出来ないと彼女は最後までともにあることを選んだ。
いつかこの思いが息子に伝わればいいと、そっと張奎にそれを告げたのだ。
教主の側近の一人である聞仲が仙界よりも殷王朝を取ることも。
その結果二つの仙界を同時に消滅させようと考えることも。
彼女は大まかな予想を立ててその中で女狐を討つための準備をしていたのだ。
「おいで。ヨウゼン。教えてやる」
その言葉に頷いて哮天犬に乗り込む。どの道逃げることなくぶつからなければならない壁なのだ。
左手でしっかりと張奎を抱いて高蘭英は烏煙を駆る。
太陽針が無数に放たれてこじ開けられるもう一つの空間。
「これは……」
「空間秘術は姚天君様から教えていただいた。早く来い。閉じるぞ」
そこはまるで小さな世界で、星が瞬く優しい偽物の夜だった。
草原の上にいつの間にか放りだされたかのような錯覚。
「蘭英」
「ああ」
偽物の小さな太陽が彼の掌から生まれてそれはやがて湖に飲み込まれていく。
その湖面に映るのは懐かしい顔ぶれ。
「……普賢様……道徳様……師匠……ッ!!」
映し出されたのは封神台の内部の大戦争。歴史の道標と戦うかつての師表たちの姿だった。
「聞仲……それに、趙公明まで……」
ゆらり。水が擦れる度に切り替わる画面から目が離せない。
老いた姿はもうなく己と酷似した姿で闘う教主の姿。
「……父上……」
手を伸ばしても届くことも無く、触れれば全てが消えてしまう。
そう、それはこの先の世界の行方にもよく似ていた。
仙道の無い世界を作るには自分たちは存在してはいけないのだ。たとえそれが夢の中だとしても。
「姚天君様がお前に渡すようにと」
そっと手渡される六魂幡の重み。それは強さの無いものが纏えばその瞬間に存在さえも消えてしまう妖気を帯びている。
「悲しいか?ヨウゼン」
いくつもの可能性があったはずだった。しかし結果として双方に大きな損失と打撃を与えたあの仙界対戦。
彼女もまた大切な存在を失ったのだ。
「私は悲しかったぞ」
だから、もう振り向かないと髪を切った。
仮初の其の墓前にともに沈めて前に進むための小さな儀式。
「禁鞭は私が受け継ぐ。他の誰にも聞仲様の禁鞭は触れさせない」
少女は脆弱な蛹を脱ぎ捨てて艶やかに羽化した。
それは戦地に赴く軍師の姿にも重なって思わず息をのむ。
「悲しかったら、悲しいって思っていい。そう、蘭英が教えてくれた」
彼女の胸に住む男の存在を知っていてもともに歩むと決めた青年。
繋がれた右手と左手の暖かさ。
「私も蓬莱へ向かう」
閉ざせし雲の通い道を越えて、あの星空さえも超えて。
「聞仲様がみようとした未来。私も見てみたい」
幼さの消えた瞳の色は深紫の光が宿る。それは傍らに立つ彼と同じ色。
「その前に……お前相手にちょっとした練習だ、どうにも、私たちが向かう相手は神らしいからな。
なにせ、あの趙公明が苦戦してるくらいだ」
張奎の右手が前に突き出た瞬間に生まれる圧縮空間。
「六魂幡の使い方を教えろというのも」
「母上の遺言というわけか」
「その結果」
「どちらかが消滅したとしてもそれは双方がその程度の強さでしかないということだね?」
指先が斜めに滑る。その裂け目から飛び出してくる弾丸のような星達。
「その通りだ。流石はあの御方の血を引く男」
「美人にほめられるのは好きだけど、人妻には手を出さない主義なんだ」
六魂幡を纏うその姿はかつての教主と瓜二つ。
同じように空間を歪曲させてヨウゼンが笑った。
「お手柔らかに頼むよ、張奎」
「……食えない色男はこれだから嫌だ」
人差し指がぱき、と音を立てた。
この閉ざされた空間での小さな死闘の始まりの合図のように。
「おらぁああっっ!!これで最後だっ!!」
莫邪がジョカの影を突き破る。封神台の周辺を襲撃していたジョカの分身たちは全て消えうせた。
しかしながらその疲労も疲弊も相当なもので、肩で息ができれば良い方だと言えよう。
「きっついな……太公望たちはこんなのとやりあうのか?」
慈航の呟きに天を仰ぐ。本体であるジョカの強さは計ることなど不可能に近い。
この世界の元始の神と今から正真正銘の一騎打ちになるのだ。
頬の汗を拳で拭えば、左手の指輪に視線が落ちる。
操舵室の彼女はまだ全ての仙気を吸い取られながら自由にはなれない状態だ。
「聞仲」
直接耳に響くような其の声は姚天君。
「教主、あれを」
通天教主が両手を組み合わせて前に突き出せば浮かび上がる二つの影。
其の影は次第に人の形をとり、それがヨウゼンと張奎に変わった。
(すげえな……普通なら平面なのに本物の力だと立体になんのかよ……)
六魂幡を纏うヨウゼンは目の前の青年によく似ている。
教主と十天君の血を持つその純粋な妖怪もまた、この戦いで強くなった。
「ほう……張奎が本気で殺りあうとはな……」
忠実だった部下が今度は自分の宝貝を持って戦地に向かおうとしている。
常に従い慕い後ろを突いてきていた姿。
「うわっ!?」
「片付いたから見に来たぞ」
空間を裂いて教主の前に現れた女の姿。ちょこんと其の膝に座って息子の姿に目を細めた。
「ヨウゼン、ちゃんとあなたの宝貝を引き継いだ」
「そうだね。あとは使い方になれればいい。おそらくあの子もそのつもりだろう」
十天君の得意としてきた空間圧縮を宝貝無しで使いこなす少女の姿。
かかる負荷は今までとは比にならないもので六魂幡が細腕に触れる度に吹き飛ぶ筋組織。
「すごいね、再生速度もあがるもんなんだ……」
はぁ、と息を吐いて普賢が道徳の隣に腰を下ろした。
「もういいのか?」
「面倒な領域は抜けたからね。自動操縦(オートモード)にしてきたよ。それにこれ以上吸い取られたら倒れちゃう」
肩を抱く手に、にこりと笑う少女の唇。
「あれ?あの子……折角禁鞭持ってるのに使わないの?」
それは至極当然の疑問だった。最強の武器である禁鞭を使えば六魂幡を纏っていても無事では済まない。
加減をしているわけではないのは見ている側には明らかだった。
「……使えんのだ。禁鞭は私の宝貝だからな……」
聞仲の声に趙公明が笑いだす。
「まったく厄介だね。元の主とおなじで気位が非常に高い、あれは」
従者を抱き寄せて彼が続けた。
「張奎クンが禁鞭を使うにはまだ時期尚早ってことさ。禁鞭は使われることを認めない、意思を持った宝貝だからね。
だから聞仲クンが現れるまでずっと保管されたままだった」
それを知ってなお、彼女は誰にも触れさせたくないと禁鞭を携えた。
ただ身にまとうだけでも仙気も妖気も吸い取られていく。ましてその速度は尋常たるものではない。
おそらくは立っているのもやっとであろう。それでも倒れるわけにはいかないのだ。
「けど、聞仲クンの意思を継げるのは張奎クンだけだ。それも曲がらない事実」
ごほごほと咳き込み、噴き出す血液。神経を蜘蛛の糸のように張り詰めて。
「うん、予想よりは長くもってるね。さて、側近の姚天君はこの勝負どう見るかな?」
まるで猫でも撫でるかのように姚天君の喉元を教主の指先が撫で上げる。
「三割の確率でヨウゼンが死んで、四割の確率で張奎が死ぬ」
「おや?それじゃ余りがでるよ」
歪曲空間がぶつかりあって星が生まれる。
「三割の確率で二人とも強くなる。私はその三割が正解だと思ってる」
赤黒いそれは空気にさらせばより黒に近付く。
「生臭いですね。これでは呂望に嫌われてしまいます」
瀕死状態の少女を見下ろして、最強の傍観者は静かに笑うだけ。
元々彼は妲己の部下でも仲間でも無く、客人として王宮に招かれていたのだ。
どこにつくのもその意思一つ。仙とならずに道士として仙人を越える存在になったもの。
神の強者は常に笑みを絶やさないというように申公豹もそれに倣っていた。
其の笑みはあるものには優しく、ある者には禍々しく。
「あなた、蓬莱へいくのでしょう?あなたを探すために」
座りこんでこんどはにこやかに唇だけが笑う。
「……ぐ、ぎ……ァ……!!……」
斜めに裂かれた傷口に無造作にねじ込まれる左腕。
「ぐああああああッッ!!」
腸を引っ掴みそのまま握りつぶす。
其の痛みに声も上がらずにただ口をぱくぱくと引くつかせることしかできない。
見開かれた瞳と潰されかけた声帯。
「ああ、知ってますか?絶頂を繰り返し与えるとみんなそういう顔になるんですよ。ま、もっともそういうのは
褥の中で見るからこそ淫靡で素敵なんですけどね」
ぐじゅ。そのまま指先が内側を登って肋骨に触れた。
「あなた、女になりたいのですよね?」
一対欠けた骨が女の身体になる。
「だったら、これは邪魔ですよね。手伝ってあげますよ」
みし。聞きたくも無い音が耳に届いた。
ゴキグジャ。何かが壊れる音がどこかでした。
ぐじゅ。何かが捨てられる音がした。
それは血にまみれた真っ白な自分の骨だと消えそうな意識の底で知った。
「おや……この程度で失神ですか……呂望だったらこの程度耐えますよ」
虫のようにびくびくと蠢く身体。
完全なる蘇生劇を見るためには徹底的に痛めつけるしかないのだ。
それも死の手前で止めるという前提で。
「脚も……まあ要りませんね」
膝に手を掛ける。まったくあらぬ方向に捻じ曲げてそのまま引きちぎる。
噴き出す血液に霊獣が眉を寄せた。
「申公豹、こっちに掛かるよー!!僕、臭いのヤダよー!!」
「その辺に里芋の葉っぱでもあるんじゃないですか?傘にするにはいいでしょうし」
ぱきぽきと枝でも折るかのように指を一本ずつ捻り折っていく。
「死んじゃうんじゃない?」
「脳と心臓は無傷にしてあげてますよ。楽しいですね、久々にこういう遊びも」
半分以上引き出された内臓。桃色の臓器を踏みつける靴底。
「これくらいしてもいいんじゃないですか?この子は私の呂望を傷めつけましたから」
彼もまた恋にとりつかれた存在。
「さて、見せてもらいますか。神様の欠片を」
16:57 2010/07/27