◆振り子◆
偽物の月の光など塵にもならないと薄い唇が笑った。
けたけたと煩い髑髏を蹴りあげて。
目障りな太陽はどこかへ消えてしまった。
「さて私が聞きたいのは貴女が何もなのかということです」
喉元に触れる雷公鞭の先。
手が届くまでは僅か半歩、死と隣り合わせの絶妙な距離だ。
「十天君の一人王天君としては知ってます。貴女の中身を見たいのですよ」
「裸にでもなりゃいいのか?それとも一回ヤッてみるか?」
「その理屈で言うなら貴女をばらしてから魂を捕獲すれば良いだけです」
歴史の残骸から見つかったものはこの星の核となる者たちだった。
その者たちを始まりとしてどうやら全ての生命は存在しているらしいということ。
いわば神と呼ばれるような存在だ。
灰色の世界にできた鮮やか色はその証明ともいえよう。
「さて、はぐらかしは私には通じませんよ。その中身……見せていただきます」
焔を纏う青年の姿が月に飛ぶ。
見上げた満月に掛かる影。
夢の中を進む船は宝船かそれとも魔の歌声を持つそれか。
「御義母上」
青年の前に降り立ったのは一人の仙女。
「封神台に向かうか?燃燈」
「はい。道徳たちが冥府より戻った気配がしますので」
鉄芯に絡ませた焔は青い。
本物の熱気は冷たく痛みを帯びた蒼白となる。
「妲己を討つか?」
「そのつもりです。こちらも随分と一時的な戦力が欠けております。向こうの戦力を少し
削っても問題はないでしょう」
不意に伸びた手が女の身体を抱き寄せた。
息が掛かるほど近付いて視線を重ねて。
「……隙があるようでありませんね」
女の手は青年の左胸、心臓の真上に触れていた。
このまま彼が彼女の脊椎を折ったとしてもその瞬間に彼の心臓も破裂させられるだろう。
「狐は我以上の策士だ」
「知っております。御義母上……ゆえに、封神台に向かわせていただければ。しばらく異母姉さまを
お願いします。私は……面倒なことを抱えております」
まっすぐな青年はその思いも曲がることはない。
同じ父を持つ母違いの大仙に恋をしてしまったことも。
苦しむとわかっていてもこの胸を焦がす思いを捨てることができないと。
「親友に会いに行くだけです。心配はいりません」
「儂が心配などするか。お前は十分に強いだろう?」
「……そのつもりです……」
両腕でぎゅっと抱きしめて、彼は一つだけ溜息を吐いた。
弱音は決して思い人の前で見せることはない。
「この最後の大仕事、何か起こるかわかりません」
「怖いか?」
「……はい……道行天尊様……」
だから彼女も子供を抱くようにその頭を優しく掻き抱いた。
不安に駆られる夜も彼は誰の前にも姿は出せない。
彼の不安定を消してくれる存在は生なき者しかいないのだ。
「ほんに……子供はこれだから面倒だ……」
「御義母様……」
「身体ばかり大きくなりよって。おぬしはまだ幼い。竜吉もな」
飲み込まれそうな月に映る二人分の影。
愛しさと欲望の入り混じる吐息。
「さっさと行け。儂はまた蓬莱(あそこ)に戻らねばならぬ」
魂魄分離は彼女の特徴の一つ。
それでも長時間の剥離は戻れなくなってしまうのだ。
「冥府に行くのか?」
「いいえ」
「ならば、どこへ?」
青年は緋色の瞳で笑う。
「狙うはあの月です」
書簡を開きながら青年は眉を寄せた。
冥府の長は己の情に流されることなどあってはならない。
紫紺の蝶の舞うこの官邸は閻魔たちの詰め所でもあった。
「朗伯様?」
命数の無い少女といよいよ人生の終わりへ向かう青年。
己の息子はどうにも短命らしいと溜息を吐く。
(困りましたね……あの子はどうにも時間がない……太公望が戻ってからそんなに間もなく
こちらに来てしまう……どうやって伝えるか……)
思い悩む横顔さえも美しいと、夜摩天たちが溜息を一つ。
それは牡丹や柘榴の花に変わり冥界を彩る。
「教主様にお目通りを」
「朗伯様、いかように?」
「小さきお願いです」
黒い衣を翻し進むのは楼閣の最奥。
潜むは冥界の主たる幽冥教主。
絡まりつく蝶は死人の欠片。生まれ変わることを拒み留まることを選んだゆえの姿。
「教主様、昌にございます」
麗しい姿の青年は冥府に住まうようになってから雄々しい気力を取り戻した。
賢君と呼ばれたあの日の姿を彼女が見たならばどう思うだろうか?
「何用だい?ここにくるとは珍しい」
「ええ。どうにも私の息子は短命に終わるらしく……まあ、それはいたしかたないことなのですが
ならば……目的だけは済ませるように伝えられないものかと」
本来、人の命数に関することを定義できるのは教主ただ一人。
それゆえに幽冥教主というものは全てにおいて平等でなければならない。
選ばれるものに求められることは私情を巻き込まないということだ。
死を司るものが自由を手にすればそれは暴力と変わり世界が壊れてしまう。
「んー……夢枕に立つ程度ならばいいよ?ただし、それを覚えてるかどうかは彼次第だけども」
「ありがたきお言葉」
「行くなら早く行きな。私が少しだけ時間を止めてあげるから」
御簾越しに青年の手が動く。
琥珀の塵を絡ませて止まるは鮮やかな柘榴の蝶。
もはや人間ではなくなった己を嘆いても未来など変わりはしない。
(さて……あの子はちゃんと覚えてくれますかね……)
「こちらから普賢たちがなにをしているか見えないのも……せつないものだのう……」
船内では闘うこともなく、のんびりと解かれた黒髪。
傍らに従う霊獣と少年はここ数日の彼女の様子に安堵していた。
宮中で見せていた険しい表情もなく、流れる時間を受け過ごす。
それは本来の仙道のあるべき姿であり今までの彼女が多忙すぎたことを改めて知らされた。
「おっしょーさま、近くまで行ってみるのはどうでしょうか?」
しかしながらこの船が目指すのは幻の都。
勝手な単独行動は危険極まりないだけではなく、士気を乱すことに繋がる。
「いいや……あちらからは見えるのではないだろうか。何せやつは神となるのだぞ?くくく……
あれだけ面倒なことが嫌なあやつが、祀られる存在とはな……」
その言葉の一つ一つが在りし日の親友への思い。
どんな時も離れることなく二人で進んできた。
(しかし……神として存在するのならば……それは新しき神となり、古い神はどうなるのだろうか……
新しい神は古い神を凌駕しうることはできるのだろうか……)
幻の都は花のように美しいらしい。
全ての芸術を極めて今が盛りと咲き誇る。
花は散るから美しいとする新しき神々。
「ま……なんとかなるかのう……」
人として生まれ仙となり、神として封じられる存在。
「ご主人がいるならきっと大丈夫っすよ」
どんな時でも離れることのない存在。
ずっと一緒に歩み、この先もきっと離れることはないのだろう。
振りかえる少女の姿に重なる異なる姿。
同じ顔、同じ背丈なのに、何かが違う。
「ご主人?」
「なんじゃ?」
瞬く間にそれは主の気配に変わり、何もなかったかのように時間は流れる。
彼女がゆっくりと彼女でなくなる日は近付いていた。
彼女自身が最もしらないままに。
「随分と面白い身体をしてますね」
細い首に掛かった手が容赦なく締め上げる。
「男でも女でもあり、どちらでもない……歴史の初期型の失作とでも言いますか……ふふ……」
ぎりぎりと締め上げられて軋む頸椎。
男の目が一瞬光、次には絞められた首はあらぬ方向に折れていた。
そのまま小刀で切り裂けば吹き出す赤黒い血液。
「さて、どれくらいの時間が要りますかね。私の計算ではおおよそ……ああ、もう蘇生が始まりましたか」
傷口に湧きだす気泡が皮膚を繋げ始め、王天君の身体が小刻みに痙攣しだす。
人形でも動かすかのように震える手脚と、ぎょろりと上を向く眼球。
「面白いですね。貴女が与えられた力の最後は脅威の再生……」
始まりの人の欠片を飲み込めば願いがかなうという。
もう一人の自分に会いたいという願いは、それを成就するまで彼女が死ぬことはない身体を与える結果になった。
どんな激痛でも受け止めてやむことのない腐食でも飲み込んで。
成就するまで解かれることのない呪いと化した。
「汚らわしくも美しい」
「…ぐ……ギッ……!……」
「そう簡単に私が貴女を逃がすと思いますか?この空間……いじらせていただきますね」
指先を静かに折る、まるで数でも追うかのように。
空気が渦を巻き始め生まれだした火花。
天才は生まれ持った者を言うらしい、それはまさしく彼のための言葉。
「太公望は渡しません。貴女にも誰にも」
さようなら、昨日に。
さようなら、此方に。
さようなら、夢に。
そしてどこに向かおう。
13:59 2009/10/23