◆SWEETS TIME◆





「正直言うと俺、かなり驚いたッすよ!!入学式の時にやけに綺麗な男だなーっては思ってたけど」
ヘルメットを外して、ごき、と首を鳴らす。
「まあ、普通は男子校に女子は入学しないからな」
「しかもあの阿含さんの双子って」
「二卵性だからな……普通の弟が欲しかった……」
どんよりとした表情で壁に手を突く姿。
アスリート体系の女は端正な顔立ちに反した坊主頭。
手際良く着替えて愛用のウィッグを取り出す。
黒髪のボブスタイル、切りそろえられた前髪。
「そうしてると違う人っすよ」
「元々こんな顔だ。阿含は今日もさぼりだし、先に帰らせてもらう」
「雲水さんって、そうしてると美人っすね」
神龍寺学院は本来は男子校であり女子の入学は認められてはいない。
金剛雲水は特別枠での入学だった。
入試終了後に校長室に呼ばれ目にしたのは凄惨な光景。
「あ、雲子ちゃーん。センセー、入学認めるって言ってるよォ」
「……またやったのか」
「俺、一緒じゃなきゃいかねぇってのをお話しただけ」
特例措置は男子と同等の生活および外装を保つこと。
剃髪姿の女子に初めはクラスメイトも難色を示したが、弟の名を聞いて皆が納得した。
暴れまわる金剛阿含を止めることのできる数少ない人物。
それが実姉にあたる金剛雲水だった。
「いっつもそれなんすか?」
「ロングもあるぞ」
「えー!!見たいっす!!絶対鬼可愛い!!」
同じ学年のはずなのに、さん付で呼んでくるチームメイト。
「気が向いたらな」
「じゃあ、気がむくついでにまたケーキ食べたいっす!!雲水さんのケーキ鬼ウマだし!!」
「そ……それも気が向いたらな……」
「あ、でもこっそりで。阿含さんに見つかったら全部取られる」
実弟もこのくらい素直だったらとどれくらい考えただろうか。
「山伏先輩!!お先します!!」
「おーう!!阿含にも練習でる様に言ってくれ!!」






金剛阿含は百年の一度の天才といわれるプレイヤーだ。
その身体能力、運動能力は全国レベルでもトップクラスだろう。
ただ、天は二物を与えずとは言ったもので素行の悪さと性格の悪さもトップレベル。
その癖に目上の人物や危機的状況には合わせて好青年を演じられる頭脳もあった。
二卵性の双子は性別を違えて生まれ、ごく普通の姉と弟のはずだった。
慕情とはどす黒く甘いもので、羊水まで共有してきた相手を支配したいと弟は手を伸ばした。
覚えているのは自分に覆いかぶさるその顔と鈍い痛み。
何度も何度も耳元で繰り返される「愛してる」に怖気を覚えた。
愛しいと接吻された黒髪。
気付いたらそのすべてをそぎ落とした己の姿が鏡に映っていた。






「阿含くーん、もう帰っちゃうの?」
放課後の練習も授業も全てサボって遊び歩くのはもう日常。
特徴的なドレッドヘアとサングラス。
「帰んねーと、おねーちゃんに怒られっからさ」
切りあげたい時の決め台詞もずっと同じ。
「んじゃ、そういうこって」
時計を見ればそろそろ件の姉は帰宅しているころだろう。
喧嘩上等で生きてきた阿含にとって唯一の執着が姉の存在。
(晩飯は何が出るもんかってのは……)
マンションまでの道をだらだらと歩けば前から走ってくる自転車。
「糞ドレッドが道歩いてやがる」
背中にバズーカを装着して公道を走るのが許されるのもヒルマという悪魔だけだろう。
「気安く話しかけんな、カス」
「ほほう。テメーが欲しい情報持ってんのに」
右足を軸にしてバイクを止めてケタケタと笑う。
「ア?とっとと言えよカス」
「俺がただで教えっと思ってんの?」
器用にフーセンガムを膨らませて、視線だけで意味深に問うのはこの女の得意技。
「条件はなんだってんだよ」
ぺし、と押しつけられる一枚の紙。
「それ全部。テメーの無駄な腕力でブチ飛ばせ。日時は後で電話する」
「んで、テメーは何をしってんだよ、ゴラ」
「さっき雲水とあった。まだあっちで買い物してっぞ」
要件はもう終わったとひらひらと手を振りながら消えていく姿。
相変わらず悪魔は何を真意として行動しているのかは分からない。
「大好きなお姉ちゃん、知らねぇ男に話しかけられてたな」
欲しい情報などその一言でこの男には十分だと、ヒルマは理解している。
原因も要因も外見も理由も必要はない。
阿含にとっては雲水が男と話していたという事実だけが必要なのだ。
「要求に見合った情報だろ?」
ぱち、と悪魔が片目を閉じた。まるでにゃあ、とでも鳴きそうに歪む唇。
「上等だ」
ぱきぱきと指を鳴らして再度ゆっくりと歩き出す。
晴天の空、雲はなくとも不穏な雲行き。
「今日の天気予報は、所により血の雨が降るでしょうってやつだな」






ガラスに映る自分の姿はきっと、どこにでもいる平凡な女子だろう。
せいぜい身長が少し高いのが目につく程度。
(なのに、なぜ毎回こうも勧誘されるのか……)
うんざりだと饒舌に話しかけてくる男にため息を吐いた。
こんなときに一番効果があるのはこのウイッグを無造作に外してしまうこと。
しばらく同じ場所に買い物には来れないが時間のロスはカットできる。
(第一、このビルは勧誘禁止……)
その瞬間にガラスの雨が目の前に降り注ぐ。
ショーウインドウをぶち破った拳とそのままフロアに叩きつけられる男の体。
「ここ、勧誘禁止って知ってますか?オニーサン」
わざとサングラスを外してにこやかに笑う姿。
「さ、お嬢さん。ここはお店の人が片付けてくれますから。危ないし、向こうに行きましょう」
手首をつかんでそのまま外へと歩き出す。
喧騒もざわめきも振り切り方はもう心得たものだった。
「ったくよぉ、雲子ちゃんはイイヒトだからすーぐ絡まれんじゃんよぉ」
「だからって、あれはやり過ぎだ」
その一言にぴたり、と足が止まる。
「なんで?だって雲子ちゃんに話しかけてたじゃんか。嫌がってんのに」
彼の中に存在する数字は二つだけ。ゼロと一の間は存在しないのだ。
「あー、そうだ。久々に手ェ繋ごっ」
きつく握ったままの手をほどかせて絡ませる。
「晩飯なーに?」
「うどん」
「えー。違うモン食いたい」
「カレーうどん」
「……どっかのカスみてぇなこと言うなよ、雲子ちゃん。肉食いたい、肉」
二人の姿だけを見れば恋人同士に見えるだろう。その実は同じ肉から生まれた双子の姉と弟。
「冷蔵庫に入ってたかな……ネギがあったのは覚えてるんだけども……」
「んじゃ食ってく?」
「うどんをか?」
「肉だっつてんだろ……頼むよぉ、お姉ちゃん」
「肉うどん」
同じ遺伝子を持つはずなのに、まったく違う二人の存在。
「……しっかたねぇ、雲子ちゃんがそこまでうどんにこだわるなら冷麺で妥協してやるよ」
顎先を持ち上げる指先。
「代わりに、帰ったら肉食わして。雲子ちゃんの」
粗野でも嘲笑でも「笑う」という感情に富む弟と、富まない姉。
「そのカツラよりも、長い方がいいなあ。雲子ちゃん」
「……………………」
神に愛された弟は生まれてくるときにおそらくモラルを忘れてきてしまった。
そうでも思わなければ自分が報われない。
「香水の臭いがする。練習サボるのも女のところ行くのも構わないが、試合だけは出ろ」
力が全てと示す弟に打って出るには其の同等の力が必要だった。
限界値まで引き上げた肉体能力で金剛雲水は正クオーターバックのポジションに着いた。
「ヤキモチ?もしかしてヤキモチ?」
嬉しそうにのぞきこむ弟に侮蔑の視線。
「あー……やっぱ違う感ジぃ?。俺、泣きそー、うわーん」
「……阿含」
「何?」
「気持ち悪いこと言うな。今ものすごく殴りたくなったぞ」
繋がれていない左手が拳を作り、雲水はこの上ない笑みを浮かべた。
「うわーあ、お姉ちゃんゴメンナサイ」
「お前が私を姉だと思ってるとは思わない」
「思ってるよ?世界で一番大好きで愛してるお姉ちゃん」
愛の言葉にこれほど虫唾が走ることもそうないだろう。
「いいねぇ、学校だと『俺』って言ってるけど、俺の前だけ『私』って」
生徒として就学するための条件の一つ。
ただそれを忠実に守って弟の監視役としての生活。
「晩御飯は雲子ちゃんと一緒。嬉しいなー」
それでも選手としては一流なのだ、この弟は。
あらゆる局面を読みとる天賦の才能の持ち主を制御する役目。
それが自分の生まれてきた理由だと飲み込んでもう一度隣の男を睨みつけた。







「ン?何これ」
夕食も怪我人を生み出すことなく終わらせて、帰ってきたマンション。
2LDKは二人暮らしにはちょうどいい空間だ。
無駄だとわかっていても個室とするために選んだ間取り。
弟は姉の部屋に転がり込む。正確にはベッドの中に。
「練習試合の日程表」
「見ればわかるモン、んなの。問題はなんで夏休み中全部埋まってんだってことだよ」
びり、と二つに裂いてそのまま投げ捨てる。
二人掛けのソファーを一人で占拠してぶつぶつと何かを呟く唇。
割かれたそれを拾い上げてテープで修復させる指先。
「夏休みって遊ぶためのもんじゃん。海行ったりィ、バイク乗ったりィ、思い切って海外行っちゃったり?」
「あのな、阿含」
眼前にもう一度日程表を突き付ける。
ずい、と出されたそれは無視して両手で弟は姉の腰をつかむようにして抱いた。
「海外だと携帯通じなかったりしたらさ、じーさんがわめくから沖縄行こう、雲子ちゃん」
「ああ、好きに行ってくるが良い。残念がら私はその日程に全部参加だ」
さわさわと腰を触る指先。
「えー、夏休みくらい俺のこと構ってくれンじゃねぇの?」
「クオーターバックなしでどうやって試合しろって言うんだ」
強引に引き寄せて自分の膝の上に乗せて。
「俺も出なきゃ駄目なモン?」
「……出たくなかったら出なくてもいいぞ、阿含」
不意に伸びた手がドレッドを撫でる。
「あ、それもっとして、雲ちゃん」
うっとりと眼を閉じれば、今度は額に唇が触れた。
「もっともっと」
「お前が来なかったらその分、一休を使うだけだ」
「ああああああっ!?んじゃ俺行くしかねぇじゃんかよ!!きったねー!!極悪だな!!」
「無理して参加しなくても良いんだぞ、阿含。一休なら私の言うこともちゃんと聞くしな」
チームメイトの中で阿含が認めるのは細川一休と山伏権太夫と、姉である雲水のみ。
あとは居ても居なくても変わりはないと常に吐き捨てている。
「一休は隙あらば俺の雲ちゃんを獲りにかかるからな……油断ならねぇ、あのホクロ」
「あと、たまには授業にも出ろ。寝てていいから。担任に泣かれた」
怠惰な弟と勤勉な姉。二人のあからさまな禁忌には誰も触れない。
触れてはいけないものとしての認識ではなく、そこに踏み込めば生きては帰れないだろうという確信。
「んじゃ、試合でっから、ちゅーして、ちゅー」
「………………………」
「してくんなきゃ、出ない」
その答え代わりに無言でウイッグを外す。
自慢の黒髪はあの日で全て捨て、形のよい頭がそのままの姿であるだけ。
お互いの胸に小さく残る棘があの日を思い出させる。
忘れることなどできない日。
「……へいへい、俺が悪かったですよォ。だから、んな怖い顔しねぇの。綺麗な顔が勿体ねぇ」
「他の女に言ってやれ」
右手からウイッグを奪ってぼふ、と被せる。
「ここに一番好きな女がいるから言ってんじゃん。気付けよ」
「残念だが弟に言われても嬉しい台詞じゃない」
ぎりぎりと阿含の手を引き剥がして、少し離れた場所に座り込む。
「要件は伝えたからな」
オールラウンドに神経を張り詰める投手として、試合前にはほぼ全てのチームのデータを脳内に叩きこむ。
指揮官が崩れればチームは通常ならば崩壊してしまうからだ。
しかし、神龍寺は違った。金剛阿含という天才が全てをひっくり返す力を持つ。
彼女は自分にできるのは精々その足を引かない程度だと呟くだけ。
「どうした?」
伸ばした手が、彼女のシャツの裾を掴んだ。
「雲たん♪」
「……気持ち悪いぞ、お前」
「耳ん中、痒い」
「そんな髪型してるからだろ」
「あー、なんかどっかのカスみてぇなこと言うなよ」
べたり、とラグの上に寝そべって下から見上げてくる瞳。
「雲たーん、耳ん中痒い」
「……授業、出るか?」
「出ても良いぜ」
獰猛な阿含を大人しくさせるための手段は、最終的には己を差し出すこと。
「わーい♪お姉ちゃんの膝枕ッ」
「本当に、なんでこんなのが天才なんだろう……」
面棒と耳掻きを手にした姉の呟き。
「やっべ……眠くなるなコレ……」
「寝るなら風呂に入ってからにしてくれ。いろんな臭いが混ざってて吐き気がする」
「俺そんなに今日は付けてねぇよ」
欠伸をかみ殺しても、うとうととした心地よい眠りは彼の意識を離そうとはしない。
欲しい物を欲しいと言えるのはある意味純粋だ。それゆえに彼は完全なる悪にもなる。
その狂暴なまでの強さに鍛錬を加えればまさしく鬼神となるだろう。
「終わったぞ。風呂に入ってこい」
「えー、一緒に入んじゃねぇの?一緒じゃなきゃ入んねぇもん」
双子ゆえかそれとも弟言う立場ゆえか。
「あれがいい。もっこもこのふわふわのヤツ。あっまーい匂いの」
その気になれば彼女の手首など簡単に粉砕するであろうこの指先。
愛情に応える感情は憎悪と嫌悪の入り混じったもの。
それですら視線があるのならば構わないと彼は指を伸ばす。
絶対に逃がさないために。
「なんでそんな怖い顔してンの?」
唇の隙間から見える舌。覚える苛立ち。
罪悪感などこの弟に求めてはいけない、制御できるなどとは思ってもいけない。
「俺たちたった二人の姉弟じゃねぇの?雲水」
愛しくて恋しくて手に口づけてもこの思いを受け入れることのない相手。
一番近くて一番遠い同じ血を持つ他人。
「…………………」
「生まれる前から決まってたんだぜ。俺ら恋人になるって」
同じ遺伝子を持つからこその嫌悪を彼は理解などしない。必要のないことだと切り捨てて。
「俺、世界中の女で雲子ちゃんが一番好きだもん」
耳をふさぎたくなる愛の言葉。
脊髄まで浸食して打ち砕くようなその感覚。
消したくとも消せない痣。消える前に重ねて増えていく。
最も近い他人の吐息がこんなにも嫌なものだとは知らないほうが良かった。






金剛阿含をコントロールするのに一番確実な方歩が対価報酬交渉だ。
それに見合った条件となればその分だけの行動をとる。
この関係を上手く利用している一人がヒルマになり、もう一人が実姉の金剛雲水だ。
「風呂、サイッコー!!」
持ち込んだ缶ビールと腕の中には一番大事な存在。
プラスチックバスケットに並ばせた銀色のアルコールたち。
「やっぱね、風呂っつーのは楽しく入んねぇと」
肩口に触れるドレッドを摘まみあげる。
元々は同じような黒髪のはずだったのに、お互いに随分と変わってしまった。
「くすぐったい?雲子ちゃん」
「少しな」
「んじゃ結びますかぁ」
上機嫌は反面すぐにこわれる可能性をはらんでいる。まだ、あたりかまわず殺気を出している方が気楽だ。
左手が米神に触れて、すい、と引き寄せる。
「伸ばせよ、髪。その方が似合ってんじゃん」
「……その場合は退学か転校だな」
「んなもん、俺がちゃちゃっと片づけりゃいい話でショ。でもま……本当は違う理由だよなぁ?」
回り始めた酔いは宵に蕩けはじめて。
「そうやって坊主でいるかぎり、俺ん中のつまんねぇ良心ってやつがちょっと働くって思ってる」
指先に絡まる泡を振り切って頬を撫でる。
「んなつまんねぇことで、目の前に居るイイ女を諦めろってかァ?」
彼にとってつまらないことは彼女にとっては最大の痛み。
「だかだか姉弟ってだけだろ」
そう簡単に割り切れるものではないこの血の交わりを、簡単に打ち砕こうとする拳。
肩口に触れた唇が、やんわりと噛み痕を落とした。
「こんなに相性いいのに、離れろってか?」
「……風呂場でもめても仕方ない。一旦保留だ」
「難しい事ばっか考えてっと、可愛い顔が勿体ねぇぜ?雲子ちゃん」
「同じ顔だろうが、お前も」
「違うね」
少しだけの思案顔。ビールを一口飲み込む。
「!!」
逃げられないように顎を固定してそのまま口移しでアルコールを流し込んだ。
押し返そうとしても腕力で叶うわけも無く。
「風呂は楽しく、酒はおいしくってなァ」
「い、飲酒は好きじゃないッ」
じんわりと耳の先が赤くなり始めるを確かめる。
今度は全身にロックを掛けるように形に抱きこんで残りの殆どを飲み込ませた。
「っしゃ、完了!!」
くらくらと回りだす景色と意識。握りつぶされるアルミ缶。
ストイックな双子の姉は極端にアルコールに弱い体質だった。
程なくして力と半分理性の抜けた身体が腕の中から沈みそうになる。
「っと危ねぇな、弱すぎだろ」
理性でがちがちの雲水の唯一の弱点、それがアルコールだった。
「ふぁ……ア……?」
視点の定まらない視線のまま、ゆっくりと振り返る。
「ほぉら、ちゃんと掴まってねぇと溺死すっぞ?」
額からゆっくりと下がっていく唇。両手で頬を包んで舐めるようなキスを繰り返す。
普段ならば引き出せない言葉を引き出すために、多少の反則も許容範囲。
「阿含」
「んー、俺の事好き?」
ぐいん。纏めて髪を引っ張られてバランスを崩しそうになる。
バスタブの淵に投げ出した長い脚。逞しい身体を跨ぐようにして向かい合う裸体の女。
「好きとか嫌いとか言う前に、もっと言うことあんだろうが……阿含ッ」
「うわぁ、今日の雲子ちゃんは絡み酒かよ。この間みたいにしっとりしっぽり期待したのにィ」
厭らしく唇が笑い背中を抱き寄せた。
「よしよし、飲み足りねぇってな?オネーチャン」
プルタブを引き抜いて手渡して、片手で彼女を抱いてもう片手に同じものを持って。
「はい、カンパーイ!!」
勢いよく煽る阿含に対して、雲水はちびちびと飲んでいく。それでも十分に酔いは回るのだ。
本人の言葉を借りれば「一口でも十分」とう認識になる。
「……うー……もう良い……」
「残さず全部食べなさいって、いっつも俺に言ってなかった?お姉ちゃん。ほらほら、溢さないで飲んで」
缶の淵を舐める舌先に覚える欲情と恋情。
銀色の缶を奪い取って一口ずつ飲み込ませていく。理性の皮を一枚ずつはがしていくように。
「俺の事好き?」
普段の阿含からは想像できないだろう軽く甘いキス。
相手が男であれ女であれ自分の力で服従させられないなどは無いと振る舞う天才の暴君。
それが金剛阿含という存在だ。
「嫌い」
完全に座った視線と真っ赤な顔。明日が土曜でなければ大失態といったところだろう。
「うわー、酔ってまでそう言われんだ。マジショックで死ぬ、死ねる」
「嘘」
「嘘?」
「それも嘘」
けらけらと笑いだし、支えが欲しいと首に抱きつく腕。
「どれが本当なんだよォ、雲子ちゃんよォ」
「さぁな」
吐き出される吐息もアルコール交じり。
姉の人生を狂わせた負い目が無いわけではなかった。
けれども、負い目よりもずっと思いの方が深かっただけで、どうしても誰にも渡したくは無かっただけ。
一番嫌悪したのは自分の身体に流れる彼女と同じ血液。
ただ同じ肉から産まれたと言うだけで何もかもを諦めなければいけないと定期付けられたことが悔しくてならなかった。





逆上せる前に引き上げて、自分よりは丁寧に彼女の身体をタオルで包む。
そのまま寝室のドアを蹴りあげてベッドの上にそっと降ろす。
このマンションに阿含が誰かを連れ込んだことは一度も無かった。
他人の気配も残り香もこの空間には置きたくはなかったのだ。
「こりゃ明日二日酔いだな、雲子ちゃん」
幼いころは自分たちの違いなど分からなかった。覚えているのは同じように育ってきたことだけ。
気がついたのはいつからか姉は髪を伸ばし始めた。
艶かな黒髪と凛とした横顔は同年代のだれよりも彼の眼には眩しくて綺麗だと思えたのだ。
姉は彼を弟して見て、弟は姉を女として見た。
「……一度も姉だなんて思ったことねぇよ……」
十三歳の夏休み、あの日もやけにあつくて蝉の声が鬱陶しいくらいに響いていた。
風鈴の音と縁側で脚を伸ばした彼女の姿。
仄かに落ちる日差しが影を落とした横顔に胸が締め付けられた。
他の誰にも渡したくないとこの手を伸ばした。
腕の中の暖かさが消えて身体を起こして、目にしたのは足元に散らばった黒髪。
鋏だけでは全てが断てないと剃刀で黒髪をそぎ落とした姿。
赤黒い月に見たのは魔物ではなく狂う一歩手前の雲水の姿をした何か。
ぼんやりとした視線にはすでに怒りも憎しみも無く、路傍の石でも見るかのようなものだった。
「……………………」
あの時と同じようにもう一度組み敷いてみる。
自分の下に居る女は静かに瞳を閉じて寝息を立てていた。
同じ遺伝子を持つ世界で一番愛しい存在。
「雲水」
乾いた唇が重なって呼吸を奪う。
抱き締めれば重なる心音に呼吸が乱れた。
窓枠に縛られた月が赤いこんな夜はどうしても思い出してしまう。
裸の身体を絡ませてもまるで死体でも抱いているかのような感覚に眩暈を覚えた。
「なんでだよ、なんで駄目なんだよ。高々同じ遺伝子持ってるだけだろ」
閉じたままの恋の瞳。埋もれ火篝火胸の奥底に。
「愛してる……愛してんだよ……なんで駄目なんだよ……」
首にかけた指先。このまま力を込めれば確実に彼女の心臓はその機能を停止させるだろう。
赤い月に魅入られればその心を水面に全て映し出されてしまう。
悪鬼と恐れられ天才と謳われる彼の素体は脆弱な男。
欲しいものがたった一つだけ手に入らなくて、這いずり回り必死に手を伸ばす。
憎いのは誰でもなくこの身体に刻まれた同じ遺伝子。
苦しくて苦しくて嗚咽を飲み込んだのは彼のほうだった。
「なあ……お前だって俺の事好きだろ?俺じゃなきゃダメなんだろ?そうだろ?」
投げ出された手脚。夜に溶ける吐息。
「そうだって言えよ!!俺だけだって言えよ!!」
乾いた頬に落ちるのは誰の涙だろう?
「なぁ……雲水……ッ……」
守られていたのは彼の方で、静かに狂って行ったのは彼女の方で。
支配されていたのは彼の方で、その実に支配していたのは彼女の方で。
「…………………」
世界中で二人だけ。この月に飲み込まれてどこかに水没してしまいたい。
沈んだ水底が仄暗くこの身が腐敗して溶け合ってしまえるのならばそれも天上の至福だろう。
「愛してる。ずっとずっと……世界で一番愛してる……」
誓いのキスのようにもう一度唇を重ねる。
「絶対に誰にも渡さない」







痛む頭を押さえながら身体を起こせば、隣で眠る弟の姿にも見慣れてしまった。
(ああ……昨日、阿含に飲まされて……)
それでもいつもよりも痛まない身体と普段ならばべったりと付けられるキスマークが無いことに気がつく。
(珍しい。何の気まぐれだろう)
起きる気配も無くだらしなく爆睡する姿は百年に一度の天才の名前が泣いてしまう。
「……………………」
さわさわと髪を撫でれば僅かに緩む頬。
寝顔だけはまだ十七歳なのだと感じられる瞬間だった。
「?」
無意識に自分の手首を掴む彼のそれ。幼いころはこの手を引いてよく歩いていた。
時計に目をやればもうすぐ正午。随分と遅い朝を迎えてしまって苦笑するしかない。
「ほら、阿含。起きろ」
身体を揺さぶれば枕に顔を埋めての小さな抵抗。
「んぁ……おはようのちゅーしてくれたら起きる……」
「永眠させても良いんだぞ?」
「……ちゅーしてくんなきゃ起きねぇ……」
寝起きの悪さは両親でさえ怯えるレベルの弟を唯一起こせるのも姉だけだ。
中学卒業と同時に家を出た二人に与えられたマンションはさながら手切れ金のようなものだろう。
「いい加減に……」
遮る様に重なる手と声。
「たまにはしてくれたっていいじゃんか」
ぼふ、と枕を置き直して今度は仰向けで視線を向けて。
「ちっちゃいころはオヤスミのちゅーしてくれたのに、なんでおはようのちゅーは駄目なんだよ」
「お前の年齢が上がったからだ、馬鹿」
「してよ、キス」
時間をつぶすよりはましだと僅かに触れるキスを一つ。
「!!」
そのまま頭を押さえ込まれて入り込んでくる舌先。
「……ぅ、ん……ッ…!!……」
角度を変える時だけに許される呼吸。
なんとか引き離そうとして咄嗟に頭の下の枕を引き抜いた。
「んが!!っ痛ェ!!」
「さっさと起きろ馬鹿!!」
「耳元で怒鳴んなよ。耳元で言っていいのは阿含大好き、だけ……ごふっ!!」
脇腹に突き刺さる鮮やかな手刀の一撃。
「王城戦で見たやつを真似してみた」
「あんのヤロ……ぶっ殺す……」
本気で蹲る阿含の髪をそっと撫でる指先。
「すまない、加減ができなかった」
「あーもう死ぬ……マジで効いた……」
「とりあえず起きてくれ」
この喧騒がただの男女の間の事だったならばどれだけ良かっただろうか?
どれだけ拒んでも弟はこの身体を抱くことに飽きることがない。
耳の奥で響き始める蝉の声。
夏は今年もまた巡って来るのだ。






手早に家事を終わらせるべく奮闘する姉の後ろから抱きついては邪魔だと殴り飛ばされる弟。
「お前が毎日帰ってくると、洗濯物が増える」
「だってぇ、ここは俺のオウチ」
「邪魔だから座ってこれでも見ててくれ」
ばさばさと適当に積まれた広報やらフォーメーションやらの束。
暇つぶしはこんなものを眺めるよりも掃除機と格闘する雲水を見ている方がずっといい。
「ああ……うん、時間があれば行くけれども……」
ぼんやりと考え事をすれば愛しい姉は誰かと会話中だ。
「雲子ちゃーん、お腹減ったー」
「阿含、丁度いいから代わって」
携帯を受け取れば耳に入るのは聞きなれた声。
『阿含さん?今日お祭りなんすよ!!で、みんなで集合して行こうって話してて』
「あーーー?祭ィ?」
『屋台とかも出てて、楽しいっすよ!!』
夏には憂い事、もう少しだけ楽しめる季節になるきっかけになるのならば。
「雲子ちゃーん、どーすんの?」
「ん?私は行くぞ」
「んじゃ俺も行くしかねぇじゃんかよォ」
ずい、と携帯を返してソファーに寝転がる。余り笑わない雲水がチームメイトと居る時は笑うのだ。
関西の帝王を無敗の龍が撃ち取れば自分の前でも笑ってくれるだろうか。
「わかった。阿含は無理かもしれないが着てはいくよ」
ぱちん。閉じる携帯。
「ア?雲子ちゃん何か着るの?」
「ああ、浴衣。一休たちも浴衣で来るからできれば着てくれって」
「アァ!?持ってんのかよテメー」
「実家を出る時に持たされた。一応、お前の分もあるぞ、阿含」
にこり、と笑う時は大概にして彼にとっては厄介かつ断れない事態を想定させる。
「安心しろ、着物は無理だが浴衣なら私でも着付けられるからな」






黒紺に浮かぶ格子模様。面倒だとシューズを履こうとしたのを止められてからころと下駄の音。
半分肌蹴たようにすでに着崩しているものの帯は強固に結ばれたまま。
愛用のオークリーはそのままに、結びあげたドレッド。
(靴よりは下駄のほうが喧嘩しにくいしな……)
隣を歩くのは言わなければ双子とは思わないだろう姿の雲水。
白地に鮮やかに咲く百合の花。留まるは紫紺の蝶。
黒髪のボブによく映えるスワロフスキーの髪飾り。
「あ!!阿含さーん!!雲水さーんっ!!こっちっす!!」
飛びあがるたびにカランと下駄を鳴らすのはチームメイトの細川一休。
「やっぱり鬼綺麗っす!!」
「アァ?何人のお姉ちゃんに気安く掛けてんだよ一休、ゴラ」
がし、と頭を押さえつければ器用に後ろへと避ける。
バック走の達人の名前は伊達でも酔狂でも無く、本物であるが故のもの。
「おお、そうしてると雲水じゃないみたいだな」
「山伏先輩」
半ば強制的な学生生活でも仲間と出会えたことはきっと幸せなこと。
「雲水さんっ!!阿含さんを止めっ!!うえぶっ!!」
「誰の許可取って雲子ちゃんにくっつこうとしてんだ?アァ?」
牽制だと言わんばかりに繋がれる手。
「大変だな、雲水も。度を越したシスコンだぞ阿含のは」
「まあ……だいぶ慣れましたんで……」
話を遮る様にして引き寄せる。
「雲子ちゃーん、俺、腹減ったぁ。何か食わして」
そのまま屋台の並ぶ境内へずかずかと進めばその後ろを一休が追いかけていく。
「何一休の癖に食ってんだよ、寄越せ」
「えー!!阿含さんこういうの鬼喰わないじゃないっすか!!」
手にした林檎飴を奪えば、隣の雲水も同じ物を齧っている。
「やっぱイラネ」
今度は同じように雲水のそれを奪い取る。
「うわァ、甘んめぇのな……何だよコレ」
同じ十七歳が三人並んでこんな夜は月も少しだけ柔らかくて優しい。
擦れる笹の葉の音と散りばめられた短冊。
「折角だから書いてみないか?」
チームカラーになぞらえて選んだ短冊三枚。
ペンで滑らせた文字がそれぞれの願い。
「やっぱこれっきゃないっすよ。全国制覇。やれるって俺、鬼信じてるっす」
その一言に流石は双子というタイミングで顔を見合わせた。
「そうだな、うん」
「雲水さん違うっすか?」
「いや、同じだ」
誰にも見えないような場所に括り付けられた短冊が二枚。
彼が書いたのは彼女が自分だけを愛するように、と。
「雲子ちゃーん、何て書いたの?」
「全国制覇」
「その眼は絶対に違う……ごふ!!」
食べかけの林檎飴を阿含の口に押し込んで二人の手を引いて足早に歩く。
願い事は誰にも見られてはいけないのだ。
(そういや……昔もこうやって……)
手を引かれて縁日の中を二人で歩いた幼い記憶。
あの頃はまだ彼女の方が背も高くてよくかばってくれていた。
「雲水さん、速いっす!!転ぶッ!!」
甘い時間は過去を刻む時計の中にだけ。
「…………言っても仕方ねぇしヤッちまたのもどうにもなんねぇ……」
がりがりと噛み砕くのは過去の味。
一つの林檎飴を二人で齧ったのはいつの日の事だっただろう。
「あー……短冊あと百枚くらい要るな……」
「そんなに鬼沢山何にするんすか?」
「決まってんだろォ?毎日雲子ちゃんとセックスできますよ……うがっ!?」
容赦なく決まる一撃。
神速のインパルスでも太刀打ちできないスピードの存在。
「いいいいいい今の、王城の進の……」
「見よう見まねでもなんとかなる。来週からの練習にはこれも取り入れて……」
「ああああああ阿含さん、泡吹いて……」
「加減ができなくてな。大丈夫だ、この程度で死ぬような生き物じゃない」
「でででででも、あの阿含さんがッ!!」
「一休」
肩に両手を置き、にこりと笑う。
「……はい、鬼大丈夫だと思います……」
「よろしい」
別名、時折阿含よりも手を付けられない雲水を知る神龍寺ナーガのメンバーは物分かりが早い。
見上げた空に流れる星一つ。
「あー……入った。今のは痛かったぜ……雲子ちゃんよぉ……」
「流れ星でも見て落ちつけ、馬鹿」
埃を払ってからころと下駄を鳴らして。
(阿含がまともになりますように……)
(雲水が完璧に俺の女になりますように)
手を合わせて顔を上げるタイミングまで狂わずに重なる。
「流石双子……鬼ぴったり……」
SWEETS TIME(甘い時間)はまだまだ遠く。
今はここまでが精一杯。










19:05 2010/07/06







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