◆微熱◆





「お前、今日は帰って寝ろ」
「誰に物を言ってんだ?糞ジジイ」
体温計を投げ合えば栗田がそれを拾って救急箱にしまいこむ。
真っ白な肌を少し染めた悪魔は発熱で足元がおぼつかない。
「とにかく。俺は大丈夫だって言ってんだ」
「俺が駄目だって言ってんだ」
ふらふらとしている細い肩を掴む大きな手。
「何様のつもりだ!!糞ジジイ!!」
「ん?お前の彼氏」
さも当然だと言わんばかりの態度にヒルマが瞬時に銃を手にした……はずだった。
銃に触れた瞬間にバランスを崩して後ろに倒れ込む細い身体。
「ヒ……ヒルマさんっっ!!」
「ハァアアアア!?悪魔の撹乱!?この世の終わり来たか!?」
「ヒルマ先輩!?」
ぐったりとしていつのような覇気も妖気もない。
抱き起こして額の汗を拭ってやれば荒い息と速い脈動。
「人間だったんだな……ヒルマも……」
戸叶の呟きに三兄弟とセナモンペアが激しく頷いた。
鉄壁のヒルマは一度も体調不良を訴えたことも見せたこともない。
あのデスマーチでさえ一貫して態度も表情も変えなかったほどだ。
「ムサシが帰ってきて、ヒルマは安心してるんだ。だから熱だってちゃんと出たんだ」
内側にため込んで薬をがりがりと噛み砕く姿を見なくてもよいということ。
全部自分で背負いこむ彼女の荷物を取り上げる存在。
「オッサンすげーな。同じ高校生とは思えねぇわ」
「つか、ヒルマと付き合える時点で人間じゃねぇな」
「最悪、ヒルマを選ぶなら俺いっそ男でいい」
恋人の散々な言われようは相変わらずでだいぶ慣れてはきた。
他人の目にどう映ろうと彼にとってのヒルマは可愛い恋人であり大事な存在だ。
「馬鹿ぬかせ。一個しかかわんねぇよ……問題はこいつをどこに運ぶかだな」
髭を摩りながらムサシは一人でうんうんと呟いている。
「病院じゃないんですか?」
「医者を論破した揚句に薬の調合まで指示するんだ」
その言葉に全員がげんなりとした。悪魔は医者にも従わないらしい。
「効率よく短期間で確実に治すものだけ飲むんだ、コレは」
硬く絞った冷たいタオルで覆われた額と瞼。
投げだされた手脚はまるで人形のようだ。
「仕方ねぇ。うちに持って帰るか。その辺に捨てたら大変だしな」
のろのろと着替えをして同じようにヒルマのユニフォームとプロテクターを手際よく外していく。
制服よりは緩やかだとロッカーに置いていたパーカーを着せて背負い込む。
「その辺に捨てたら被害が拡大しますからね……」
「ん?他の男に持ってかれるだろ。折角俺のになったのにな」
惚気は無自覚であるほど周りへの被害は大きい。
まさしくこの二人はその王道を進んでいた。
「ムッキャアアアアア!!そんな人生捨てる発言嫌だーー!!」
「ヒルマだけは無い!!無い無い!!絶対無い!!」
「ヒルマと結婚かジャンプ卒業か迫られたら俺はジャンプを卒業する!!」
口々に飛び出す言葉にムサシは小指で左耳を塞いだ。
「安心しろ。その心配はねぇから」
首筋に触れる頬が熱い。
それは制限時間が短いことも示していた。
「んじゃ先に帰る。明日は練習も休みだから無茶なことも女のケツ追いかけるのもやめとけよ、
 おめーらも」
「オッサンも週明け生きて会おうぜ!!」
突き上げられる拳に零れる苦笑と溜息。
もう一度恋人を背負い直して帰り道を急いだ。



マンションの鍵を取り出して差し込む。
指先は慣れたもので暗証番号を臆することなく並べて、内部への侵入の許可を引き出した。
ベッドに横たえれば先ほどよりも青白い顔色。
「こりゃ相当無茶してやがったな、俺が居ないのをいいことに」
額に張り付いた前髪を払う指。
「無茶すんなっていってもな……」
「……ムサシ……?……」
「おう。寝てろ」
「……ん、ぅ……」
従順なのは抵抗する体力がないということ。大人しく瞳を閉じる姿はそう拝めるものは無い。
しかし、彼にしてみればそうそう拝みたいものでもないのも事実だ。
「熱ある時くれぇじっとしてろ、悪魔猫」
ぐしぐしと髪を撫でる手に閉じたままの瞳。
「じっとしてたら勝てねぇだろ?クリスマスボウルは待っちゃくれねぇもん」
唇だけで笑って手を伸ばしてくる。
それを取ればやはり熱く、じっとりと汗ばんでいて。
「倒れるのは全部終わってからでいいんだ」
「…………………」





夢現、霧の中を歩けば記憶は深い深い奥へと落ちていき。
それは一番受け入れたくないものを目の前に差し出してくれる。
銀皿に載せられたそれはサロメのほうが余程ましだと言えるほど。
この夢はいつも決まった時に見るものだった。
「起きたのか?」
「………………」
唇はからからに乾いて声も出ない。それをどうにかして伝えようにも体力もいよいよもって尽きそうだ。
「声でないか?喉もやられてるもんな」
まるで猫の喉でも撫でるかのように喉元に触れる指。
僅かな熱差が傷みを伝える。
「?」
人差し指が、何かを話そうとする。掌に押しつけられた指先がゆっくりと文字を書き始めた。
『もう大丈夫。さっさと帰れ糞ジジイ』
「帰れるわけねぇだろ、アホ!!こんな熱あんのに放置して帰ったら俺が親父に火葬場に送られるわ!!」
『薬。引き出し』
「二段目のケースだろ。分かってる」
『冷蔵庫にポカリ』
「さっき買い足してきた」
『じゃあもう大丈夫だ』
「人の話聞けよ」
『ヤダ』
何度か額のタオルを交換する。冷たいタオルが触れる度に綻ぶ唇。
絶対に彼はここから立ち去らないだろうという予測のもとに引き出される言葉達。
「家には言ってあるから、お前が治るまでこっちから通うって」
「……………………」
頬に触れる手。
「あっちいな、熱あるから……ん?何だ?」
一文字ずつゆっくりと刻む文字。
『ありがとう』
ヒルマから感謝の言葉を貰えるのはきっと彼だけであろう。
背中合わせでいつも一緒に居て。離れて。今度は隣に並んで。
もしも彼女が一人ぼっち、部屋の中で膝を抱えるならば。
鉄パイプを持って窓を打ち破って泣きながら飛び込んでくるような男。
「……少し寝ろ、悪魔猫」
高校生が所有するには不釣り合いなマンション。
始めは少なかった荷物も今では二人分になった。
食器もコップもスプーンも。
一人分だったものは箱にしまって二人分を新しく揃え直させた。
誰かが一緒に居る空間に慣れさせるための儀式。
強がりな夜は意地っ張りな三日月に黒猫の影を落として魔女が箒で空を飛ぶ。
(寝てると普通に綺麗なんだけどなあ……口開くとファッキンだの……)
水曜日、この部屋でヒルマを抱いた時はそんな気配は無かった。
考えられるのは木曜から金曜の早朝に体調不良に陥ったのだろう。
わさわさと髪を撫でれば気持ちよさそうな表情。
「お前な、辛い時は言えよ……こんなになるまで我慢して。俺はお前の何なんだよ……
 どんだけチームを底上げしたってお前の居ない試合なんか面白くもなんともねぇんだぞ。
 だから俺はお前がアメフト続けんのは……いや続けんのは良いんだけど、もう少し肩肘張らねぇで
 やってく感じで、俺のことももう少し大事にする感じで……まあいいや……」
何とも投げやりな告白はこんなときにしか言えない。
出来ることは傍に居ることだけで、それさえ拒否されてしまえばどうにかなってしまいそうで。
たとえそれが言葉だけのものだったとしても、拒絶の声は胸を締め付ける。
「…………ん?」
シャツの裾をきゅ、と握る指先。
同じように素直になれない彼女なりの小さな意思表示。
「……うん……」
まじまじと見れば細く頼りない身体。
それでもフィールドでは地獄の司令塔の二つ名が似合ってしまう。
「……んー……ぅ……」
「あ、悪ぃ」
いつもの癖で耳を摘まめばくすぐったいと寄せられる眉。
僅かに開く瞼。
「寝てろ」
「………………」
「ん?」
『喉乾いた。薬持ってこい』
「薬は何か食ってからじゃなきゃだめだ」
『食べたくない』
「なんでもいいから食え」
『じゃあ、フォアグラ』
「…………お前、遊んでないか」
最後の一言でにぃ、と唇が笑った。
「何か作ってくる。それまで寝てろ」
薬を飲ませるにも恐らくは朝から何も食物は口にしていないだろう。
冷蔵庫の中を確かめて野菜を数種類取り出す。
(偏食も大分治ってきた。よし、これは俺の愛の力だ)
野菜を食べやすいように細かく切って、鍋の中に流し込む。
偏食は大分良くなったものの、ヒルマは自分が嫌いなものは一貫して口にしない体質だ。
その性格も相まって調理器具と調味料はある程度がそろっている。
「ま、こんなもんか」
スープカップに移し替えてスプーンを差し込む。
「ヒルマ」
枕の後ろに腕を入れてそっと身体を起こさせる。
パジャマ代わりのシャツが汗で肌に張り付いた。
「飯食って、薬飲んだら着替えな」
珍しく従順に頷く姿。
どうにも熱には勝てないと観念したらしい。
「ほら、口開けろ」
「?」
「食わせてやるよ」
「!!」
思わず伸びた手がムサシの胸倉をつかんだ。
「ぶ、ざけ……な…ッ……!!」
その瞬間にごほごほと咳き込む。呼吸さえも封じるようなそれは相当に押さえつけられていたものだろう。
肩で息をすればひゅるひゅると喉が鳴る。
口元を押さえた青い顔。
「器官拡張剤も貼るぞ」
嫌だ、と首をぶんぶんと振る。
「駄目だ。あと口開けろ」
力技で来られれば自分に勝ち目は無い。余計な体力を失うよりも従った方が得策だ。
ぱくん、とスプーンに噛みついてそのまま匙の中身を飲み込む。
「美味いだろ」
じとり、と見上げてくる瞳。
「おーおー、悔しいか?治ったらもっと美味いの作って俺のことを負かしてやるって顔だ」
カップの中身を一匙ずつ、負担の無いように飲み込ませてやる。
武蔵家特製のミネストローネは息子にも立派に伝授されたらしい。
「今度はこっちな」
錠剤を渡されて水と一緒に飲み込む。
「貼るのは風呂入ってからだな。こんだけ汗かいてると拭くだけじゃまにあわねぇ。
薬効いたら少し寝ろよ」
ひりひりと痛む喉の奥。
「ああ、水だな」
ミネラルウォーターを渡せばおぼつかない手つきでシュリンクを外そうとする。
「悪い、今開けるから」
飲み込むのを見届けて食器を片づける。
ぼんやりと見送るうちに襲ってくるゆるやかな眠気。
(……眠ぃな……糞ジジイもいるし……寝るか……)
誰かに心配されるのも悪くはないと体を横たえる。
暗く優しい闇は悪夢をそっと退けてくれた。
時折戻る意識とぼんやりとした視界に映るのは。
心配そうな顔をした恋人と大きな右手。
自分の髪を何度も何度もなでるその動きが優しくてそのまま意識を再度手放す。
無意識に伸びた右手を受け止めてくれる存在。
「なんでもっとちゃんと俺を頼んねぇんだよ……俺はお前にとっちゃその程度の存在か?」
言葉で伝えなければきっと思いなんてその程度のもになってしまう。
飲み込まずにお互いにぶつけられるというのは幸福だ。
汗ばんだ手を改めてとれば随分と傷だらけなことに今更ながら気付かされる。
司令塔は一秒でも揺らいではいけない。
背中を預けられる相手が漸く戻ってきた結果の発熱なのだ。
「この意地っ張りの悪魔猫が」
せめて喉を鳴らして懐いてくれればいいのだろうが、喉笛を噛み切りに来るのがヒルマという女。
何度かタオルを交換してふと、自分がこんなに甲斐甲斐しかっただろうかと苦笑する。
(あとは……追々枕の下に銃を仕込むのをやめさせねぇとな……)
金色の毛並みの猫はなんとか安定した呼吸になってきた。
育てるにはまだ相応の覚悟は必要だ。





「むくれるなよ」
全力で不満を表す表情に同じように腕組みする男の姿。
「今一人で風呂なんか入ったら倒れるだろ」
ぐい、と手を取って指が滑りだす。
『だからってテメーも入る必要はないだろう。この糞エロジジイ』
「言うに事欠いて今度は糞エロジジイって……兎も角、俺も一緒に入るからな」
『い・や・だ!!』
それでも少し力めばそれだけでふらつく程度に体力は失われている。
「神に誓って何もしねぇ」
『悪魔は神には誓わねぇ』
「そうだったな。わかった、お前に誓って何もしねぇ。だったら信じるだろ?」
まだ何か言いたげな視線がじっとりと絡みつく。
『どうだかな』
「熱下がったら全部徴収させてもらう。朝が来たって離さねぇから覚悟しとけ」
抱きあげて浴室のドアを蹴りあげる。
体温よりも少し高めのお湯を溜めた湯船は二人で入るには少し手狭だ。
「お前は先見の目があるよな。風呂広いところに拘ってマンション選んだし」
預けられる背中と頭。
「よしよし、大人しくしてろよ」
『ガキじゃねぇ』
「へいへい。そうだったな」
バスタブに掛かる指先。視線が何かを探すように動く。
「ん?」
『あれ、取って』
窓際に置かれたカラフルな入浴剤。
「右?」
こくん、と頷くのを見てからそれをお湯に溶かしていく。
ほんのりと緑が溶け始めて鼻先に届く森林の香。
「塩か」
一度風呂に入ると長くなるのはこういうものも関係しているらしい。
金髪を維持するのはなんだかんだと大変だとも付け加えて。
「んじゃ目瞑って」
ざば、とお湯を頭からかけられてさながら借りてきた猫。
ふるふると首を振るのも猫が水を被った時によく似ていた。
「痛くないか?他人(ひと)の頭洗うのなんか初めてだからな……」
指だけでOKと作って再度お湯の攻撃に目を閉じる。
誰かに尽くされるのは悪い気分じゃない。
ましてそれが自分の恋人ならば殊更だ。
「どれで洗えばいいんだ?」
指が示したものを取れば今度は紫色の液体。
蓋をあけてナイロンタオルに出そうとしたら『違う』と止められる。
「あ?こっち?」
まるで花のようなそれは泡立てるには丁度いいらしい。
ふわふわの泡に包まれた恋人の肌はいつもよりもずっと扇情的だ。
(ああ、この匂いなんだ……やけに良い匂いがして……)
そんなことを考えていたら見上げてくる瞳。
『欲情したか?糞エロジジイ』
唇の動きだけで伝わる言葉と意味。
「ああ。したけども今は我慢してんだよ」
掠れた笑い声がやはり彼女の体調を静かに告げてしまう。
甘さとスパイスの混ざった匂いはシャンプーのそれとは全く別物。
肌に浸みこんだ香は本能を目覚めさせるには十分なものだった。
「んじゃ、もう一回浸かるぞ」
自分の前に抱くようにすれば警戒心無しに預けれる体重に感じる幸福。
頬を悪戯に撫でれば指先が絡まる。
いつもの癖で耳を噛めば振りかえって掠れ声で『死ね!!』と言うのも。
「悪かったって。このくらいの役得あってもいいじゃねぇか」
ゆっくりと上がる体温と染まっていく肌。
『?』
「いいからじっとしてろ」
脹脛に触れる指先に少しだけ力を込める。
試合の緊張はまだしっかりと身体に残留していてかちかちに固まった筋組織。
「痛くないか?」
リズミカルに動く指先に全身の力がゆっくりと抜けていく。
『気持ちイイ』
いつものあの笑顔で。
「こんだけパンパンに張ってたらそりゃ熱も出るわな」
左右の脚、右腕、左肩関節。
傷む癖の場所は本人よりも熟知している存在。
うっとりと眼を閉じて御機嫌なのか今にも喉を鳴らしそうな表情。
「ま、これもしたかったから一緒に入りたかったんだよな。あとはベッドでもう一回調整してやるよ」
にぃ、と横に唇が動いて。
『ありがとう』
ざらつく頬に触れた唇。
『あとは治ってからで良いんだろ?続きしてもらってから幾ら払うか決めるし』
それでも頬にキスなど滅多なことではしないのを考えれば十分な気持ちで。
「おれはキック専門だからな。脚の治し方は知ってる」
『荒れ球もう少しコントロールしやがれ……まあ……』
もう一度だけ耳元に触れる唇。
『戻ってきた分だけでも、少しは許してやるぜ?ムサシ』
この腕の中に抱きとめられるほどの細くやわらかな身体。
こんなときでもなければ聞けない本音も。
「あちこち痛ぇだろ……背中とかは俺じゃなくてちゃんとしたところだな」
『わかんね……痛ぇの当たり前だし……』
うなじに唇が触れて軽く吸い上げる。
左肩に触れていた手がそのまま乳房に降りた。
『テメ……ッ……』
「普段ならこれくらい簡単にガードできるだろ。それくらいお前の体はいっぱいいっぱいってことだ。
 だから、たまには俺に甘えろ。愚痴でも泣き事でもなんでも聞いてやる。俺はお前にとってそんなに頼り
 ねぇか?寄りかかることもできねぇ男か?」
なんでも背負い込むのは責任感だけじゃなく。
「何のために一緒にいるんだよ……ヒルマ」
こんな気持ちをどう伝えたらいいかわからないまま。
声が枯れていてよかった。
ここがバスルームでよかった。
頬を伝う涙をごまかせる。
「よしよし、お前は頑張ってる。頑張りすぎてる」
こんな時、彼は決して自分の方を向けとは言わない。
泣き顔を見たのも数える程度だ。
いつも声を殺して唇を痛めつけての嗚咽。
「ヒルマ?」
顔が見えないように体をずらして、彼の肩口に顔を埋めて。
この少しだけの縮まった距離。
「……だな……ああ……」
二人をつなぐ糸が何色であったとしても。
自分から手放すことなどもうしない。
『離れるな。もうこれ以上』
たとえその糸が自分たちの指を切り落としたとしても。
もう後悔だけはしたくなかった。



ほかほかの身体が冷めないように着替えさせてベッドに座らせる。
温まったのと先刻の軽いマッサージでだいぶ状態は持ち直してはいるもののまだ硬さは取れない。
「痛かったらすぐ言うんだぞ。女の脚なんか揉んだことねぇからな」
男もののシャツは丈と袖が彼女には大きい。
汗を吸う分を考えれば少し余裕があったほうが良いだろうとの選択だった。
「……んー……ぅ……」
「悪い。痛いか?」
ぶんぶんと横に振られる首。けたけたと笑うあたりお気に召してはいるらしい。
「続けるぞ」
膝の側面、向う脛、踝。満身創痍の身体は疲労困憊で悲鳴を上げた。
倒れるほどの熱は外部へのSOSだったのだ。
指先に感じるのが硬さから柔らかさに移行していく。
攻撃も防御もどちらにしてもヒルマが倒れればチームの力は一気に激減する。
「相変わらず細ぇな……タックルで簡単に折れそうだ」
『俺を守るのがテメーらの役目だ』
「ああ。全くその通りだ」
足の裏を軽く押せば、びく!と肩が揺れた。
親指の腹を使って土踏まずから指の付け根までを丹念に押しながらほぐしていく。
「うー……ぅ……」
「ちっとだけ我慢しろ」
「……むー……ィ、ッ!!……」
「おし、こんなもんだな」
解放された瞬間に仰向けに倒れこむ。全身の力は抜けるだけ抜かれてしまった。
それでも熱も少し下がれば身体もまだ温かいまま。
(マッサージなんて出来たんだな……結構気持ちいい……)
わしゃわしゃと髪をなでられて目を閉じる。
何時もならばこのままキスをしてセックスがセオリーでもこの体ではそうもいかない。
「寝ろ」
「…………………」
手のひらに書きこまれる文字。
『一緒に寝ろ。糞ジジイ』
フィルムをはがしてシール状の薬を右乳房の上に張り付ける。
「剥がすなよ。お前がかぶれやいのは知ってるうえで貼ってるんだからな」
「……ぅー……」
まるで子供を寝かしつけるようにして隣に入ってくる体温。
「?」
絡ませた指先。確かめるようにきゅ、と力が入る。
明りを消した部屋の中ぼんやりとした薄闇に浮かぶ生白い肌。
「ん」
わかるのは、はっきりと嬉しそうに笑うヒルマの顔。
「寝ろ」
絡ませた指先に感じる温かな何か。
「ああ」
抱きよせて額にお休みのキスを一つ。
体調不良と熱のせいにできるこんな夜にしか甘えてこない黒猫。
しっかりと手をつないだまま瞳を閉じた。



ムサシの献身的な介護もあり、週明けには無事に登校できるまでに身体も持ち直していた。
「ヒルマさん、もう大丈夫なんですか?」
「俺がそう簡単にくたばるわけねぇだろ」
いつも通りに膨らむフーセンガム。
「糞ジジイ、遅ぇな。糞デブ、ムサシどうした?」
これまたいつも通りにショットガンを肩にしてあたりを見回す。
遅刻は彼の専売特許にしても何かしら胸騒ぎがするのだ。
「悪ぃ……遅れた……」
明らかにふらつく足元。
「おい、ムサ……ッ!!」
抱きつくようにして崩れ落ちる身体。
「ムサシさんっ!!」
「ムサシ先輩ッ!!」
「オッサン!!」
恐る恐る額に手をやればはっきりとした高熱。
考えられる原因は一つしかない。
「移ったか……」
戸叶の呟きに一斉に全員が反応する。
「おっさんはあんたを担いで帰ったな!!」
「当然ヒルマもおっさん担いで帰るんだよな!!」
「献身的に看病してやれよ!!」
三兄弟の言葉に弾丸一発。
「うるせーよ。俺がどうしようと俺の自由だ」
ぽふぽふと男の頭を抱く腕。
「糞長男」
「な、なんだよっ!!」
「そこにフォーメーションのあるだろ。それみてお前と糞ハゲで調整しろ。お前らの
 リクエストにお答えして帰ってやるからよ」
止めの一撃に投げつけられるヘルメット。
「ったく……こんなでかいのどうやって持って帰れってんだよ……」
「あー……肩だけ借りれちゃおまえんちまでは持つ……」
「たりめーだっつの……この糞ジジイ。俺様の看病は高くつくってわかってんだろうな」
男のユニフォームを手早くはがして自分も着替える。
「んじゃ、あとはちゃんとやっとけよ」
肩に腕を回させて半ば引きずるようにして消えていく二人分の後ろ姿。
「おっさん愛されてんねぇ……悪魔だけど」
「顔だけ見るとそこそこ綺麗だけどな、絶対に無理」
「乳と腰だけだったらいい感じなんだけど、命がけの生活は嫌だな」
きっと愛されてるのは一人ではなく二人。
ようやく全員揃ったのだから。







「ほら口あけろよ、糞ジジイ」
自分が食べさせられたのと同じミネストローネ。
味は武蔵家伝来とは違うものだが、彼にとってはおいしいものに変わりはない。
「もう少し優しくできないもんか、お前……」
「ん?優しくされたいってか」
もう一匙掬って口元に。
「口あけろ、糞ダーリン」
「……それ、優しいのか……?」
「優しいだろ、ファッキンマイスイートダーリン」
薄い唇は相変わらずケタケタと笑う。
「さっさと治して武蔵家に帰りやがれ」
「んじゃしばらく治さねぇように……」
「試合近いのに何を言ってんでしょうかねぇこの糞ジジイ様は」
唇にぐいぐいと押しあてられるスプーン。
「もっと食う?」
「ああ」
「……雨降ってきやがった。あいつら練習サボってんじゃねぇだろうな……」
ぺち、と頬に触れる大きな手。
「休ませてやれ。雨の日くらい」
霧雨は優しい灰色を落として眠りを誘う音色に変わる。
「食ったら寝ろ。糞ジジイ」
「一緒に寝るんだろ?お前が来るまで待ってるぞ」
「言ってろ、糞エロジジイ」
大きな枕が二つあっても結局は眠る場所など決まっていて。
逆らうのも面倒だと昼寝という理由を付けて目を閉じた。
雨が上がる頃には熱も少し下がるだろう。
終わらない胸に抱いた熱と引き換えに。






11:09 2010/06/27

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