◆キス◆




甘いキスから始まる朝。
一番好きな人がくれる甘いキス。
「んなもん知らねぇな」
重火器類の手入れに予断の無い姿。ベンチに座り込んでいてもその手からライフルが離れることは少ない。
「で……でも、ヒルマさんでもファーストキスは甘かったんじゃないんですか……?」
「血の味がした」
きっぱりと言い放つ唇。
「その……相手は……」
「あそこで荒れ球蹴りまくってる糞ジジイ」
銃口が、くい、と男の背中を指した。
「分かったらとっととグラウンド出ろ糞チビ!!」
いつものようにきつく胸を締め付ける黒いさらし。
その上にシャツを被りプロテクターを装着していく。
(実際に血の味だったもんな……あんときは口の中とか切れてて……)
ぶつかることが多かった日々はその苛々を外部に向けていた。
押さえ込まれて一人だけ自力で跳ねのけることができなかった相手。
力に勝てないと自覚した瞬間だった。








「っつーわけで、俺と栗田とオメーとでデビルバッツだ」
「なんだその名前は」
「悪魔の蝙蝠だ」
さもいいことを思いついたという表情のヒルマにムサシが溜息を吐いた。
「そもそも、女がアメフトするっつーのも俺はどうかと」
「アラヤダ、ソンナサベツ」
「なんでそんな片言の日本語なんだ……」
同じ中二とは思えない容姿と落ち付き加減。
しかし、当人であるムサシの言葉を借りれば同じ人類とは思えないのがヒルマだった。
派手な金髪、両耳のピアス。常に銃を持ち歩き普通に発砲する。
無糖のフーセンガムとカフェオレ。
「まあ、俺はオメーが俺のことを女だと思ってたことに驚いたわけだが」
「いやどうみてもそうだろう……」
女子の制服ではなく学ランを着用した悪魔はのんびりと紙パックのカフェオレを飲み込む。
男装の麗人というには些か色香は足りないのは否めない。
「俺が投げてテメーが蹴る。こりゃクリスマスボウルっきゃねぇな。ケケケケケ」
荒っぽいがセンスはある投手として、鍛えれば育つだろう。
その頭脳を駆使して足りない筋力をカバーする智謀。
(文句なしのテストもトップだしな……)
その外見に反してヒルマは努力家だった。
だからこそ、実力を測り損ねて大怪我を相手が負うことになるのだ。
「テスト休みだし、部活してても文句言われっから帰る。来るか?」
ビジネスホテルの一室が彼女の城。
家も何もかも捨ててただそこにある存在。
「お前の部屋銃とか転がってそうだ」
「ん?転がってる」
いつものように折りたたみ自転車を組み直して。
今日は乗らずに彼と同じスピードでゆっくりと歩く。
「女子の服のほうが似合うと思うけどな」
「アラヤダ」
「いや……お前脚とか細いし綺麗だし。何も無理に痛めつける必要ねぇんじゃってな……」
「……見てたのかよ?」
「そりゃ、そこにあったら男だったら目につくだろ。生白い脚で細ぇんだし」
他人の弱みを握るのは少し知恵を使えば簡単なことだった。
しかし、この男にはそれが通用しないこと彼女は本能で知っていた。
「いいんだよ。これで」
肩触れるか触れないかの距離。
今はこれだけが真実。




ビジネスホテルは彼女にとってはほどほどにいい空間らしい。
学校にも近ければ清潔なベッドと風呂も保障されている。
「どうやって住んでるんだ……ここ……」
「ハートビル法の事突っ込んだら快くタダで泊めてくれてる。今物件探しはしてんだけどな」
「物件?」
「マンション買う金溜まったから。風呂が広くて寝やすいとこ捜してんだ」
テーブルの上にはノートパソコンと教科書。
積み上げられたアメフト雑誌とフォーメーションの走り書き。
「んで、数学の追い込み?」
「ああ」
握りつぶされたカフェオレのパック。
この部屋で盗まれて困るものは恐らくは無い。
必要なものは全部脳内にしまいこむのがこの女だった。
「いや。勉強よりはお前に興味が湧いた。数学は自力でも何とかなる程度だ」
「俺の事?」
自分の分だと置かれたカフェオレ。
「ああ、ヒルマの事が知りたい」
「みたまんま。そんだけ」
隣のクラスの通称悪魔は目の前にすれば意外なほど普通の十四歳。
外など出たことが無いような肌の白さと緑色のカラーコンタクト。
両耳のピアスに細い身体。
「なんでこんなとこで暮らしてんだ?」
「親いねぇようなもんだから。いつの間にか一人になってた」
キラキラとひかりを浴びても、さみしいとその細い影が呟く。
其の声を何人が聞けるのだろうか?
「?」
ばさり、と投げつけられる書類の束。
それは武蔵工務店の内情、武蔵家の内情など事細かく書かれた調査報告書だった。
ストローから離れる薄い唇。
「テメーのこと調べた」
「……………………」
「まともな家だ。脅迫するネタもねぇ」
それはこじつけの言葉。この悪魔が一工務店を牛耳るくらい簡単なことだった。
「すげーわかりやすい。テメーも栗田も」
たまにどこか遠くに向けられる視線。外見を変えることは内面のもろさを隠すという意味合いもある。
「脅したくらいで屈するか?そういうタイプじゃねぇだろ?だったら正面切って当たったほうがいい。
 奇策なんてハッタリだ。最後は力勝負になる」
それはヒルマの口癖の一つ。
派手な外見に火薬の匂いを絡ませる。
それでも、煙草の匂いだけは混ざらないのだ。
「俺のことなんてその程度」
過去は変えられないから過去となり、未来は定まらないから未来となり、今は足掻くから現実となる。
聞かれなくないことも話したくないことも。
テーブルの端に投げ出された腕時計だけがチクタクと針を忙しなく進ませる。
「もっと、聞きたい。お前のこと」
「知ったって何の得もねぇぞ。それとも俺のことでも脅してみてぇのか?」
いつもの皮肉った笑みではなく、どこか疲れて諦めた表情。
本当は誰かが触れてくるのを待っているように。
「んなつもりじゃ……」
「脅せば俺のことでも抱けるとでも考えたか?」
「んなわけねぇだろ!!馬鹿!!」
思わず胸倉を掴んでしまう。
にぃ、と猫のように歪んだ唇。
失うものは無い彼女と守るものの多過ぎる彼。
「ケケケケケ……腰ぬけが」
挑発誘発火薬の匂い。
「その気になりゃ俺の腕折るくれぇ軽いだろ。けどしねぇ。オメーはそういう生物じゃねぇ」
手を払いのける。
「殴れねぇだろ」
「殴られてぇのか?」
「そこまでドMじゃねぇよ」
下から覗くように見上げてくる挑発的な瞳のはずだった。
それでもその中に見える僅かな揺らぎ。それが何なのかを理解するにはまだ時間が足りなすぎる。
感情に名前を付けられるほどまだ年を経てはいず。
それを抑制できるほど大人では無い。
「!」
なぜそうしてしまったのかもわからない。
細い手首を掴んで抱き寄せてキスをした。
「!?」
唇に走る鈍い痛み。
「……っざっけんじゃねぇ!!コノヤロー!!」
ヒルマの独特の牙にも似たそれに噛まれた個所は僅かに腫れて血が滲む。
拳で唇をぬぐって睨みつけてくる緑眼。
テーブルの上の銃を掴んでそのまま残弾全てを撃ち込んでいく。
「死ね!!今すぐ死ね!!全身に風穴開けて死んで樹海に行け!!」
「待て!!落ちつけ!!」
「ふざけたこと言ってんじゃねぇッッッ!!!!」
バズーカに手を伸ばしたところで思わず手が出る。
そのまま押さえ込むようにして倒れこめばヒルマをプレスする形で床に転がる二つの身体。
「何しやがる糞ジジイ!!」
「ジジイって……同級生だろ……」
「んな老け顔三十路後半みたいな十四歳なんて見たことねぇよ!!馬鹿!!」
「俺だって金ピアスに学校自由に操れる十四歳なんて見たことねぇよ!!」
唇を傷ませたのは自分だけではなく、彼女も同じ。
端に滲んだ赤黒い血が零れて白い肌を甘く汚した。
「……血の味なんだな」
「?」
「ファーストキスっての。もっと美味いもんかと思ってた」
思いもしかなかった言葉に今度はムサシが声を失う番だった。
家業の手伝いがあるせいで学校外での友人とのかかわりのない自分。
誰も近付くことを許されない悪魔は奴隷は居ても友人はいないのだ。
「損した。よりによってテメーかよ武蔵厳」
ふいにその唇に触れたくなって指先が掠める。
打ち付けたときに絨毯に擦れたのか少し傷のできた頬。
そのまま輪郭を確かめるように頬を包む両手。
「……何だよ」
「綺麗な顔してるもんだって思った」
額に触れた唇がなぞるようにして鼻筋、頬に触れた。
「や……やめろよ馬鹿!!」
「嫌だ」
両手首を押さえつけられる。
どれだけはがそうとしても勝てない力の差。
非力なのも身体が細いのも自分が一番に知っていた。
だからこその戦略と智謀だったのだから。
「撃ち殺すぞ」
「やってみろよ」
それでも心までは折ることは無く、遥かなる高みを目指してその黒い翼でどこまでも昇るから。
自由は完全に奪われた。これが自分にある現実だ。
「……好きにすりゃいい。煮ても焼いてもまずいだろうけど、これでも女だ」
諦めたように瞳を閉じることもなく、言い放つ。
猫のような緑眼、長い睫毛。
「………………」
ちゅ、と重なる少し厚めの彼の唇。
「……何だ今の……」
「好きにしてみた」
きょとんとした表情のヒルマを見ることができるのは何人いるだろう。
そもそも他人との関係を支配以外で築けるとも思えない。
「目、閉じろ」
「命令スンナ」
「んじゃ、目を閉じてください」
「………………」
言われるままに閉じられる瞼。
白い肌に影を落とす漆黒の睫毛はやっぱり長く色気がある。
御丁寧に眉も金色に染められた隣のクラスの悪魔は意外なほどに細く儚い。
今度は確かめるような優しいキス。
「やり直してみた。美味いかどうかは別もんだけど」
「……………………」
しょうがない男、と笑う唇。
組み敷かれて息が掛かるほど近い距離でキスをして。
「……ま、いっか。テメーにゃ勝てねぇ」
初めてのキスはお互いの血の味がした。
何とも自分達らしい馴れ初め。
「オメー、キスしたことある?」
唐突な問いに思わず首を振る。
「なんだ。一緒かよ」
雑誌やドラマで見ていたようなキスとは遥かに離れたキス。
少しだけ身体を起こして今度は彼女からの小さなキス。
「野郎の唇って硬いんだな」
「硬いのか?」
「俺よりは硬てぇ」
この感情の名前がわからなくてどうしたらいいのかもわからない。
そうしたいと思ってしたのはその細い身体を抱きしめることで。
「……重てぇ……圧死すんだろ……」
この小さな空間に存在する二つの心音。
チクタクと響く秒針だけが時を刻んでいた。




「真っ暗だな」
「そりゃ、十時回ってるし」
冷蔵庫からコーラを取り出してプルタブを引き上げる。
「……俺、今家帰ったら明日から生きてる保障がねぇな……」
大工の棟梁の父親はそのままの職人気質だ。
あまつさえ女子生徒の家でこの時間まで居たなどとしれれば無事である方が低確率だ。
「携帯使えよ。俺が熱出したってことにして泊ってけ」
「あ!?と、泊ってけ!?」
「当然テメーはそこの椅子で寝るんだがな。とっとと電話しろ。話は通じる親父だろ?」
その推測は概ね正しく、母親は父親に上手に取り次いでくれたらしい。
その代わりに今度その相手を一度連れてきなさいと気の早いような一言も戴くこととなったが。
「飯、外にコンビニあるけど……テメーも行くか?」
学生服から私服に着替えたヒルマは椅子に投げ捨ててあったジャケットを羽織る。
ホテルの目の前のコンビニで仕入れた食料とカフェオレ。
「カフェオレ好きなのか?」
「ブラック飲めねぇんだよ……テメーは?」
「飲めない」
「ししし……上等だぜ」
向かい合って袋を漁れば悪魔は普通の十四歳。
隣のクラスにこんなに興味深い女が居たことに改めて気がつかされる。
たった三人のアメフト部。それなのに面白いと思えるのはヒルマの存在だろう。
「先に風呂使えよ」
「ああ」
ひらひらと手を振る後ろ姿。
誰かがこの部屋に一緒に居るなど一度もなかった。
(変な感じ……悪くねぇけど……)
モニターの中に映し出される数字を読み取ってキーを押していく。
(フィリピン国債……売り時だな……でももうちっと粘れねぇかな……船欲しいし……)
ヒルマにとって国債取引も株も全て計算で勝てるゲームだ。
その一瞬を計算で読み取りそれが巻き起こすゴールドラッシュが楽しくて仕方ない。
「風呂、一応新しく溜めといたぞ」
タオルで頭を拭きながらひょん、と顔を出す。
「今、超忙しい」
「何やってんだ?」
「愛しのフィリピン国債がいい感じに熟成醗酵してる。太陽の卵もびっくりな糖度だぜ」
椅子に体育座りをしてモニターを真剣に見つめる姿。
しかし、ムサシにしてみればその面白さは分からないし冷めないうちに風呂に入ってしまった方がいいと考えてしまう。
「風呂入っちまえよ」
「んー……ん……あ!!そうだ、ちょっとこれ見ててくれよ」
手招きされてパソコンを覗きこむ。
「な、この線がここまで来た瞬間にここ押して。で、こなかったら押さなくていい。
 で……押し間違えたら……テメーの家ごと破壊する」
「……分かった。とりあえず風呂はあったかいぞ……」
ちかちかと点滅する赤い数字。
傍らには何パターンも書かれた数字の羅列のメモの山。
その内容は中学生が学ぶ数学の葉になどとうに超えていた。
(言われたままにすればいいか)
少しずつ上がっていくグラフ。そしてそれはヒルマが言っていた箇所に達した。
(よし!!ジャストだ!!)
左下の数字が一気に巻き戻されていく。
ほどなくして同じように頭を拭きながらぺたぺたと歩く彼女の姿。
「どうだった?」
「ああ、言われたところで押したぞ」
「え……マジ……で……?」
その一言にムサシを押しのけて画面に飛び付く。
予想通りに頂点に居たのはコンマ一秒。その後に始まった急激な下落。
「YA−−−−−−!!HA−−−−−−!!」
手近に居たムサシに思わず飛びついて抱きつく。
「ヒ、ヒルマ!?」
「聞けよ!!テメーのおかげで俺の資産激増!!やった!!船買う!!あと島!!」
中学生が買うようなものとして上がらない物に今度はムサシが驚く番だった。
「ええと、どういうことなんだ?」
「フィリピン国債、上がりだったんだけど危険物件なんだよ。だから今日の最高で売ろうと思って
 ここ数日はってたんだ。んで、テメーが押した後すぐゴミになった」
余程嬉しいのかぎゅっと抱きついてくる始末。
「!」
まるで猫が舐めるようなキス。
「一回すると抵抗なくなるもんだな。ケケケケケ」
悪魔というよりは毛並みのいい黒猫。それでも魔女の隣に居ることを思えば悪魔には違いないのだろう。
「マンションもグレード上げよう。いっそデザイナー雇うところからでもいいな……」
まるで雲の上のような金額を操るのはやっぱり悪魔なのかもしれない。
「髪乾かさないと風邪ひくぞ」
「んー…………」
ベッドに二人で腰掛ければ、にぃ、と笑う。
「んじゃやって」
「は?」
「ドライヤーで乾かして」
断ればまたそれはそれで何かしらの火種になるだろう。
面倒なことは避けて通りたいと言われるままに髪に手を入れながら乾かしていく。
(結構……柔らかい髪なんだな……)
ふわふわの猫っ毛を逆立てているのは外への威嚇。
「ヒルマ」
「んー?」
見上げてくる顔は予想よりもずっと幼い。
「ヤッハ!!人にされるってのは楽チンっ」
バスローブから伸びた細い脚。
少し薄らいだ警戒心と形の良い額。
伸びた襟足、ふわふわの金髪。
「んー……気持ちイイ……」
それは彼も同じでさらさらとした金髪が指の間を抜けていく感触が心地よい。
「よし、寝る!!」
御機嫌の悪魔はいそいそとベッドの中へ。
毛布を一枚奪い取って彼は椅子に身体を置いた。
どれくらい時間が経っただろう。僅かなようで長いようで。
どちらともなく口を開いた。
「なあ」
「オイ、糞ジジイ」
少しの沈黙と笑い声。
「やっぱ寒い」
「ケケケケケ。何もしねぇんだったら来てもいいぞ」
うっかり何かしてしまえば脳を一撃で即死だろう。
そんな無謀はしないと誓ってベッドの中に入り込む。
案の定、こちらに背を向けて丸まって寝むる姿。
「お邪魔します」
指先の触れる距離に居る別の体温。
(これって物凄く、ものすごいことなんじゃないか?もしかしなくても)
しかも相手はあの悪魔、蛭魔妖一。
「なぁ」
「ん?」
「蛭魔妖一って、本名か?」
「違う」
あっさりと肯定される自分の予想。何もかもが秘密主義の悪魔の背中。
「!?」
後ろから伸びてきた腕がヒルマの身体を抱きしめる。
「テメ……ッ……」
「寒い」
「……っち……面倒な奴だな……」
背中に感じる他人の体温に、柄にもなく鼓動が速くなる。
「なぁ、誕生日何時?」
「……………」
「できればこっち向いてくれると嬉しいんだけどな」
むくれ顔かと思えばそうでもなく、眠いのが視点が定まらない。
「んー……眠ぃ……」
今度はムサシのガウンの袷をぎゅっと握って腕の中にすっぽり納まってしまう。
(ほっそいな……こんなんで投手ができるってのも……)
思わずそのままさわさわさと髪を撫でてしまう。
(殴られるかな……)
ぽふ、と胸に顔を埋めるようにして寄せられる細い身体。
小さなベッドに男女で密接な距離。
それでも妙なことをすれば確実に死ぬ。
「……ん……何……」
嫌がる様子もなく、小さな寝息。
「な、誕生日いつ?」
「……………………」
少し屈めと胸を掴まれて耳元で囁く声。
「俺と一年近く離れてんだな」
「直線距離にしたら差はねぇよ」
少しずつ距離を縮めて、その心に触れられるように。
まだこれが恋だとは二人気付かないままに。
「だから白いんだ」
「非科学的な発言だな」
暗がりに浮かぶ生白い肌が瞼に焼き付く。
「……名前聞きたいって言ったら怒るか……?」
ぴく、と肩が揺れた。
「いや、別に教えたくなかったら良いんだ」
「……まだ教えね。そのうち教えてやるよ」
「…………うん」
窓枠に縛られた細い三日月は完熟マンゴーの赤。
彼女を引き立てて魅せる魔法の色。
「……寝る……」
「あ、うん……」
ほどなくして聞こえてくる寝息。
寝るに寝付けず、寝顔を見つめる。
普段の大人びた姿とは別物の、十四歳の少女。
細い手足にかけた魔法も今は効力を失っている。
「…………んー………」
腕の中の小さな小さな悪魔の寝顔。
「おやすみ、ヒルマ」
三日月に覗かれたくないとサイドランプを消して、彼も瞳を閉じた。






「ほれ、くれてやる。代わりに今日の晩飯作りやがれ」
突き付けられるミネラルウォーターが頬に触れた。
「随分な取引だな」
「糞チビがな、『ヒルマさんのファーストキスはどんな味だったんですかぁ?』とか抜かして
 俺は機嫌が悪ぃんだ。だから晩飯不味いもん作ったらぶっ殺す」
どういう基準でヒルマが不機嫌になるのかは恐らくムサシにしかわからない。
言葉の割に棘が無いのはヒルマにとって悪い質問では無かったからだろう。
「何食いたいんだ?」
「カレー。お前のカレー美味いんだもん」
ヘルメットを引っかけたまま笑う姿。
相変わらず悪魔はどうしようもなく愛らしく笑うのだ。
もっとも、それは彼の前だけで彼にとってそうなだけなのであったとしても。
「お袋と同じ作り方だけどな」
「だったな。お前のかーちゃんの飯は美味い」
気が向けば武蔵家にやってきては見積書や余計な税金関連の書類を裁いていく。
母親は息子が将来の嫁を連れてきたと何かと構っているようだった。
ブラックコーヒーと手作りの菓子程度では懐柔されないはずの悪魔。
それでも居心地も味も悪くないと遠慮なく口を付ける。
「ケケケケケ。息子が不純異性交遊してても何もいわねぇ優しい御両親」
「不純じゃねぇからだろ」
「…………………」
耳の先がほんのりと赤くなる。
いずれはそうなりたいと彼は望み、彼女も恐らくは同じように望んでくれている。
と、信じたいと気弱になってしまうのもまた真実。
「うちの職人連中も、金曜は俺を早く帰したがる」
「アラヤダ、職場公認ノ私タチ」
「片言の日本語、流行ってんのか?」
お前の中限定で、と付け加えればそうだと返る声。
「カレーの材料なんざねぇからな。帰りに買い出しだな」
「あと、夏野菜の冷てぇスープ」
「面倒な猫だな。わかったからさっさと着換えろ。帰るぞ」
「ケケケケケケ」
プロテクターを外して制服に袖を通す。
夏と秋の間の暑さは身体の内側を蝕むように熱くしてしまう。
「ヒルマ」
「ア?」
押しあてられる唇にそのまま背中に手を回す。
「あんだよ、発情したか?」
「ああ。カレーの対価はあとできっちりと貰う」
「ケケケケケ。望むところだ糞ジジイ」
今度は彼女から悪戯のようなキス。
「汗臭ぇ」
「お前もな」
もう一度、示し合わせたようなキスは少しだけ深い。
続きは後でと片目を閉じたのはどちらが先だっただろうか。







(ぜぜぜ絶対に動くなよ!!セナ!!)
(十文字君!!苦しい!!)
覗くつもりは無かったのだが、うっかりと目撃してしまい固まったセナを見て同じように硬直したのは十文字だった。
泥門名物ヒルマのストリップに耐性はあっても、通称熟年夫婦のキスシーンはその比では無い破壊力。
どちらも怒らせれば命の保証は無い。
セナの口元をしっかりと押さえて足音と気配を殺して脱出する。
(セナが軽くて本当に良かったぜ……)
肩でぜいぜいと息をしながら笑いあう。
「あははは……びっくりしちゃったね……」
「お前、たまに命知らずな質問するよな」
「何か聞いてみたかったっていうか……十文字君にはばれてるから言っちゃうけども、
 ファーストキスってどんなものだったの?」
元祖デビルバッツ以外で唯一チーム内でセナが女子だと見抜いたのは十文字一輝だけ。
その洞察力と回転力は今やチームに欠かせないものだ。
「んー、血の味がした気がする」
「うわぁ……みんな血の味なんだね……」
喧嘩ばかりの毎日を変えてしまったアメフトでセナと知り合った。
「いや、そうでもないだろうけどもさ。セナは?」
「ええええええええええええっ!?ま、まだ……」
「んじゃ、俺としてみるか?」
「えええええええええええええええ!?」
「冗談だよ。そんなに拒否すんなよ……筧とかぶっとばしてそのうち俺が一番だって思わせるから」
「ええええええええええええ!?」
さりげない告白に今度は彼女が白黒する番。
「送ってやっから後ろ乗れよ」
「は、走って帰るから大丈夫!!」
良い終わる前に脱兎のごとく消えていく後ろ姿。
(バレバレだっつの。まずはクリスマスボウル。そこで劇的な俺たちになってみせるぜ)



ひとりごこちゆめごこち。
キスは甘い血の味がした。





18:32 2010/06/24



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