◆右肩の蝶◆





指先にコードを絡ませてイヤホンをそのまま引き抜く。
「ずっと聴いてると脳味噌やられんな」
預けられる背中があれば寄りかかってしまう。
今までは壁に凭れることも多かったのに。
「お前は俺を責めないんだな」
「責められるようなことしたのか?糞ジジイ」
打ち消すように重なる声。
「責めろってんなら立ち直れないくれぇ責めてやるぜ?」
ぺたんと座って立ち膝に肘を着いて。
身体を余計に細くしてしまう黒いシャツとジーンズ。
「勘弁してくれ……お前の叱責は本気で再起不能になる」
重ねた時間の量は思いの深さに比例して。
どちらともなく一緒に居るようになったのはいつからだろう。
悪魔と恐れられるようになったはずの彼女が彼の前ではそのままの十七歳。
「明日はムカつくくらい晴れるんだってよ」
練習も休みとした日に限って青天の空。
口に入れた無糖ガム。膨らませていつも考え事。
「責める道義なんかねぇよ……ちゃんと戻ってきただろ?俺のライフプランが狂ったことなんか
 ねぇんだ。クリスマスボウルは泥門が貰うぜ」
「学校も練習も休みに晴れってのもあれなもんだな」
ぱたん。と閉じられるノートパソコン。
今度はにぃと笑って男の背中に抱きつく細い身体。
「糞ジジイ。でかけっぞ、明日」
「で……出かけたいッて態度かヒルマ……ッ……」
遠目に見れば男の背中に抱きついて肩に顎を乗せる睦まじい風景にしか見えないだろう。
ぎりぎりと細い腕は確実に関節を締め上げ顎での固定で見動きは取れない。
絡ませた脚は腰の動きを完璧に封じた。
「ン?こんなに俺が思ってンのにつれねぇのな。糞ジジイ」
耳元にちゅ、と触れる唇。
その間にも容赦なく関節はぎりぎりと悲鳴を上げる。
「ベンチプレス75まで上げた。でもまだ足りねぇんだよ」
「……いや、確実にそれ以上あったぞ……久々に彼岸を見た……」
今度は一転してヒルマはムサシの膝の上に。
「まあそう怒んなって。明日はでかけっぞ。買いものしてぇんだよ。荷物持ちたくねーし」
わしゃわしゃと金髪を撫でれば相変わらず猫のように目を閉じて唇だけで笑う。
身体能力は女子としては規格外だろう。
それでも、一人のプレーヤーとして考えれば中堅どころにも潰されてしまう。
「身体は俺が足りなくたってオメーや栗田がいるじゃねぇか」
背中を預けられる存在はそれだけで貴重なものだ。
ましてこの女を抱くならば相応の覚悟が必要になる。
背負った敵ごと全部受け止めるだけの強さが。
「基礎トレはサボってねぇんだけどな。どうやっても押し負ける」
不満だ、とムサシの手を取って自分のそれを押し当てて。
触れ合った掌。ともすればこのまま折ることもできるだろう。
「ムカつく」
「そう言われてもな」
「何もかも足りねぇ凡人以下のテメーにムカつく」
それでもその唇と目が諦めない光。
「脚は手に入れた。こっからが俺の反撃だぜ」






「……ん……」
寝ぼけながら目をあければ自分をしっかりと抱いたまま眠る男の顔。
(ああ……そうだった……明日ガッコも練習も休みだからコイツは泊って……)
筋骨隆々とした身体は自分が男だったならと何度も思い描いたもの。
現実は過酷なまでに非力で無常だ。
生白い身体に細い手足。
簡単に組み敷かれて抱かれてしまうような体躯。
ぎりぎりと奥歯を噛んでも変わることのない事実。
(……呑気に寝腐りやがって糞ジジイ……)
伸びた無精髭。大工仕事で焼けた肌。安心しきった寝顔。
暗がりの中、手を伸ばして愛用のガムを探してもこんな時に限って指先にかすりもしない。
「…………………」
それは、つい先日までの自分のチームと同じだった。
どれだけあがいても空を睨んでも力なきものの遠吠え。
(いけんだろ。何ビビってんだよ。ムサシだって戻ってきてんじゃねぇか。俺がビビってどうすんだよッ!!)
拭えない不安を消し去るための奇策。
しかし最後にものを言うのは自分の能力に他ならない。
「……どうした。寝れねぇのか?」
右腕上腕部にできた無数の鬱血痕。
行き場の無い感情を殺すために彼女が選んだのは己の非力な身体を傷めつけることだった。
増え続け色素沈着と化し、刻まれた毒。
「あー……まだその癖直ってねぇのか……」
振り返らないのはその表情を見せたくない時。それがわかる距離と関係。
耳の奥でチクタクとなる時計は心音のように規則的だ。
「!!」
細い肩に乗せられる男の顎先。
「髭痛てぇっつてんだろ、糞ジジイ」
「あー……柔らかくて気持ちーもんだなー」
「棒読みかよ。ったく……」
後ろから抱き締められるのは嫌いじゃない。
「ヒルマ」
「発情したか糞ジジイ」
「そりゃ、ここに惚れてる女が素っ裸でいるんじゃ発情だってするだろ」
「やっきヤったばっかりだ」
右肩に加わる真っ赤な噛み痕。
強がりとハッタリを意地に変えて素顔はいつも隠したまま。
苛々が形になってその手を解こうとした。
「…………ア?」
ぱらぱらと金属片が乳房の上に落ちる。
拾い上げてみて、左耳に思わず指先を当てた。
「あーーーーーーーーーーっっ!!俺のピアス―ーーーーッッ!!」
両耳のピアスは一つが欠けても落ち付かない彼女にとっては一大事。
「ゴラ!!てめぇキックだけじゃなくて全部爆発荒れ球なのなかのよッ!!」
「俺のせいか?」
「お前のせいだ」
腕組みをして睨んでくる。
今度は向い合せ、その表情も見えれば右肩を傷めつけることもない。
腕を組んでいるのはそれだけでも彼を安心させた。
「……わかった。明日弁償する」
「まったくだ。全部交換じゃねぇか……」
じゃらじゃらとピアスを外しだす。外部の物がない素体の彼女。
「!?」
思わず組み敷いて瞳を覗きこむ。
いつも通りどこか笑って逸らすことなく返る視線。
「寝坊とかは無しだぜ?糞ジジイ」
「腰たたねぇから後五分も聞かねぇぞ、悪魔猫」
舐めるようなキスでもう一度彼の身体を抱き寄せた。





「あれ、ヒルマじゃないか?」
「あの金髪と耳とガトリング抱えて歩くのは間違いなくヒルマだと思うぜ。な、セナ!!」
「うう……陸も筧君も手を離して……ううう……ガトリングだけで特定できるよ……」
たまの休みのときくらいは買い物に出てみようと街へ向かった。
電車通学のセナからしてみれば逆方向に進むほどに安全圏だった。
そう、あくまで過去形だったが。
「泥門向かう途中で、まさかセナの方から俺に会いに来てくれるなんてな」
「俺なんかセナの家に普通に入れる関係だぜ。わかるか、親公認ってやつなんだよ」
身長差など弾き飛ばすような視線合戦。
混ざりたくないと視線を別方向に向けてみる。
少し大きめのジャケット。編み上げのブーツ。隣に並ぶ男。
制服とユニフォーム以外の姿は珍しいと思うのはそれだけ私生活がわからないからだろう。
いつものフーセンガムもなく、風に揺れる金髪と響く靴音。
「セナ!!映画行こう!!」
「セナ!!俺と飯食いに行こう!!」
驚異のハンドテクニックと高速の爆走。
同時に振り切るのは至難の業だ。
(ヒ……ヒルマさんならこんな時どんなふうにカードを切るんだろう……)
少しずつ遠ざかる姿。
決断は早いに越したことは無い。
「た……助けてヒルマさぁぁぁあああんんっっ!!」
叫ぶのと同時に巻き起る爆風。いつもの習慣でそのままバックランでガードしてしまう。
「ったく、気ぃつけろっつてんだろ糞チビ」
面倒だとその爆炎の中にガトリングも投げ込む。
(やっぱりなんかいつもと違う……)
つかつかと進んでヒルマは二人の前にしゃがみこんだ。
「ケケケケケケ。御機嫌はいかがだド早漏」
「誰が早漏だ!!」
その言葉に陸がげらげらと笑いだす。
「ド……ド早漏……ッ!!ぎゃはははははははっ!!」
「おっとオコチャマも居たんだったな」
ジャケットの内ポケットから取り出した一枚の写真。
それは失神した甲斐谷陸の全裸と記念撮影するヒルマの姿。
例によって煙草とライターは並べられている。
「うわあぁぁぁぁぁあああっっ!!」
「別アングルから撮ったケツに陸っくんって書いてるのもあるぜ。毛の生え方とかまだオコチャマだな。ケケケケ」
その瞬間、筧は心底の憐憫の視線を陸に向けた。
ベンチに座り込んでジャケットを脱ぐ。
アメフトの選手としては筋力の足りなさが露呈される細身の身体。
「えっと……ヒルマさんたちはどこへ行くんですか?」
ごきごきと首を鳴らしてジャケットから銃を引き抜く。
無数に所持はしていても最終的に選ぶものは決まっていた。
「ぶぶぶぶ武器屋ですかぁぁぁあああっっ!!」
「どこのRPGだっての。糞チビ」
「こいつのピアス買いに行くんだよ。昨夜、俺が壊したから」
違和感はいつもあるはずのピアスが無いことだったのだ。
両耳に二つずつ。どんな時も外していることなど無いほど、身体の一部になったもの。
「ケケケケケケ、ガキどもの金じゃ買えねぇ金額だがな」
「マジか。俺の給料何カ月分だ」
「婚約指輪相当額程度だな。糞ジジイ」
ヒルマの隣に座ってまいったな、と笑う姿。
タンクトップ越しに分かる張りのある乳房。
「糞チビ」
ばさりと投げ出されるジャケットを落とすまいと受け止める。
「!?」
ずっしりとしたそれは通常のジャケットからは想像の付かない重量だった。
「ケケケケ。糞ジジイのジャケットは糞チビにゃ重てぇってよ」
持ってこい、と右手が動く。
「何入ってるんですか、これ」
ライダースのレザージャケットだけでは成しえない重さ。
「スタンガンとベレッタ。あとゴムと何だっけ?ムサシ」
「お前、人のジャケットに何突っ込んでんだ」
「いいじゃねぇか。オメーの物は俺のもんだっての」
ポケットから取り出したフーセンガム。
(ああ、でもガムはいっつもあるんだ。やっぱりヒルマさんだ)
隣の男の唇にも押し当てれば、同じような姿が二つ。
(もしかして、いつもヒルマさんが記念撮影用に持ち歩いてる煙草とライターって、ムサシさんのかな……)
たった一年違うだけでこれだけの差が生まれてしまうのか。
「で、そこの早漏とオコチャマは、糞チビに何をしたかったんだ?」
ベンチの背に腕を投げ出して、少しだけ近付いて二人の視線が三人を捕えた。
「糞チビに何かしてみろ。てめぇら写真公開だけじゃなく動画配信も始まるぞ。小早川瀬那に手ぇつけるのは
 この蛭魔妖一に手ぇつけるのと同じだと思っとけ」
それは確実に地獄の断頭台へと送りこまれるという事実。
「……あ……あんたに手を付けてる勇者がそこに居るんだから、俺はセナを諦めねぇ!!」
「ホゥ、イッテクレマスネ、オコチャマガ」
「なんでそんな片言の日本語!?」
「こいつが手ぇつけたんじゃねぇ。俺がこいつに手ェつけんたんだ」
欲しい物があるなら勝ち上がるしかない。
その勝ち方は個々にして違うもの。
「悪魔振り切って逃げきる自信があるなら獲れ。失敗したら即テメーは死ぬぞ」
くい、と顎を持ち上げる銃口。
「あのキッドのところのランニングバックだ。ここで潰すのも手だってことよ」
戦略がパワーを爆発させるという言葉は、まさしくこの女の為にあるのだろう。
能力の前に性別など意味を成さないと証明する存在。
「手をだすなら、クリスマスボウルが終わってからにしてくれ。そうしたら俺らも引退してる」
「アラヤダアナタ、インタイダナンテ」
「分かったから何か飲むもん買ってきてくれ……お前を労働に使う対価はきちんと払うから」
「ただ働きはしねぇ主義だ。請求させてもらぜ。糞チビ、荷物持ちに来い」
ヒルマが消えれば目の前に居るのは一番話の通じそうな男だ。
「で、巨深と西部の選手が何が楽しくてうちの選手のケツ追いかけてんだ?」
慣れているのが眉ひとつ動かさない。あのヒルマと一緒に居るということは相応の実力者だ。
「特に、今からうちとやりあうつもりの西部の選手がな……世の中変わったもんだ」
「まったくです。俺もセナのことだから文化部とかだと思ってたのにアメフトだなんて。しかも男子扱いとか
 最初冗談としか思えませんでしたけどね。でも昔と同じで可愛いし」
「お前、人の話聞かないって成績表に書かれたことあるだろ」
「ええ」
「で、そっちの巨深のも書かれたことあるだろ。お前らヒルマと一緒だ」
しかし、件のヒルマの場合は人の話を聞かないのではなく聞く必要がないであって。
猪突猛進と来た二人とは別物なのだ。
「……おっさん、一個質問いい?」
「何だ?ついでに言えば俺はお前らと一個しかかわんねぇぞ」
「なんで悪魔(ヒルマ)と一緒にいんの?」
大方の予想は弱みを握られているからだろう。
これだけの攻撃力を持つキッカーを他に取られたくないというのは当然のことだ。
「お前らがセナを追いかけまわすのと一緒だ」
「……………………」
「好きだからだよ」
言い終わるか終らないかに飛んでくるスタンガンの山。
「恥ずかしいこといってんじゃねぇぞ、糞ジジイ」
その全てを蹴り飛ばしたのを確認してから缶コーヒーを突き付ける。
「ド早漏とオコチャマにはコーラな」
破れ鍋に綴蓋、そんな表現では足りない。悪魔を守る剣士がここに居るのだ。
「あー……落ちつかねぇ……」
無意識に左耳に触れる指先。
始めは一つだけだった。次第に増えていくピアスと痣の痕。
どうしようもない現実を知ったときだけそれは増えていた。
傷つくたびに増えるピアスの数が止まったのはいつからだっただろう。
「んじゃ、買いに行くか。それが目的だ」
ブラックコーヒーを飲み干せるほどまだ大人にはなれない。
この足りない身長も腕の長さも闘う武器になるのだろうか。
「糞ツリ目は言わなくてもわかってんだろうけど、オコチャマには言っとく。テメーの脚を止めるのは
 俺のアイシールド21だ」
自分に足りない物を彼女は正確に把握していた。
どれだけあがいてもどうにもならないものがあることも。
自分を守る壁、破壊力のあるキック、そして高速の脚。
全てのカードを揃えて悪魔はフィールドに降り立つのだ。
「糞チビ。余計な情報漏らすなよ?」
「あんまりビビらすな。行くぞ」
いつもの癖で彼の手が彼女の両耳を摘まむ。
「……ン……ッ……」
かちん。一瞬だけ完全に停止する悪魔の肉体。
「ああ、すまん。つい癖でな。そこにお前の耳があると触ったり噛みつきたくなる」
「……何しやがるこの糞ジジイ!!今すぐ死ね!!」
顎下から決まる華麗な頭突き。
「あーってぇな……今のは効いたぞ……」
「たりめーだ!!馬鹿!!とっとと行くぞ!!」
半ば引き摺るようにして進みだす。
隙間に見える二人の生活と習慣。
「なんか……ヒルマでもあんな顔するんだな……」
「……前に、ムサシさんの事を話してくれた時もあんな感じだったけどね……」
二人の居なくなったベンチに三人並んで座ってみて。
「陸も筧君も気持ちはすごくうれしんだけど、今は試合のこと考えてたいんだ」
甲斐谷陸として小早川瀬那の隣に立ちたいという気持ち。
そして、同じランニングバックとして高速のアイシールド21と戦いたいという本能。
「俺も、セナと本気でやりあえたから好きになった。それは嘘じゃない」
進化していく走りの行きつく先。
その最終進化形を見てみたい、そして闘いたい。
「だな……しばらくは練習に集中しなきゃなんねーし……だから今日は会えるかなとか考えちゃったわけで」
「巨深(うち)ももう一回組みなおしだ。アイシールドなんてとんでもないランナーがいるわけだしな」
一人の選手として認められること。自分の意志でここに居ること。
この脚を必要としてくれる人が居ること。
そして、自分で目指す高みへと走ること。
「クリスマスボウルが終わるまでは試合に集中したいんだ。でも、たまにはこうやってのんびりしたい」
恐らくセナの中でヒルマは特殊な位置に置かれているのだろう。
司令官は人知れずに終わらない努力を重ねる。
「うん。本気で俺もセナと勝負したい。でも…………こいつだけは今潰す!!」
「上等だ!!俺のハンドテクニック受けやがれ!!」
「ううう……ヒルマさぁぁああん……」





ショーケースの中に並ぶピアスを眺める姿。
「同じもの四つで準備できるもんなのか?」
「言えばできんだろ。でも、俺が欲しいのこういうのじゃねぇんだよな……」
ハッタリでも上等だとそれ相応の金額を覚悟して選んだ店。
落ち付いた店内はシルバーアクセサリーを中心に揃えられている。
「いいや、出るぞ」
ムサシの手を掴んで外へと向かう。
揺れる髪に伸びた耳。そして足りないピアス。
「落ちつかねぇ」
掴まれた手を解いて、指を絡め直す。
「……なんだよ、糞ジジイ」
「手ぐらい繋がせろ」
ようやく並んで歩いても不安を感じることは無くなった。
同じフィールドに並ぶようになって同じ空を見上げるようになったこと。
過去だけを刻んでいた時計が正常に動き出す。
「あー……あのピアス気に入ってたんだよな……」
物に執着するのは珍しいと思う反面、冷静さの殻に隠した激情が見え隠れ。
「思いいれでもあったのか?すまなか……」
「ハァ!?テメー忘れたのかよ!?」
「?」
少しだけ拗ねたような表情に戻って視線は斜め下。
あのピアスが大事だったことだけは確かなことだったようだ。
「あのピアスは……」
「……テメーが俺にくれたんじゃねぇか。何個か割れたから同じの買ったけど……
 あれ、最後の一個だった……」
思いだせば何気なしに送ったピアスの存在。
子供が手を出せる安物でも彼女にとっては宝物だった。
(そういえば、そんなこともあったな……三年も前だと忘れるもんだ)
それでも絡ませた指を振り解かないことに意味があるから。
まだ機嫌を直すチャンスはあるということ。
「んじゃ、また俺が選んでもいいか?」
「……テメーが金出すなら」
「んじゃ決まりだ」
全部交換だと言ったのは、彼がくれたピアスはもう無くなってしまったからだった。
思わず伸びた手が耳に触れる。
きゅ、と閉じられる双眸と僅かに寄せられる眉。
そのまま両手で頭を包むようにして額に唇を当てた。
「……似合わねぇことしてんじゃねぇよ」
「デコじゃ足りねぇな」
「そう思ってんだったら口にしろよ」
腕の中に納まるような細い身体。
地獄の司令塔と恐れられる女の薄膜に守られた内面。
「テメーなんか大っ嫌いだ」
ぼふ、と胸に顔を埋めて。
言いたいことなど何時も空回り。それでも伝わってしまう。
「そりゃ参ったな。俺はお前のことが好きなんだが」
「言ってろよ。糞ジジイ」
背中に回れる手。
「続きしてぇな、ヒルマ」
「帰ったらな。それよりか俺のピアスは?」
今度は彼女からのキス。
絡ませた舌先と布地越しに重なる心音。
「髭が痛ぇ」
「剃るか?」
「別に……俺はどっちでもいいよ」
肯定も否定も無い時は肯定の意志と受け取ればいい。
それは最初に決めたフィールドの暗号の一つ。
「そか」
ひょい、と担ぐようにして持ち上げる。
「何すんだよ糞ジジイ」
「大工仕事で鍛えてあるからな。お前を持ち上げるくらいは造作ないってこった」
右肩の蝶を羽ばたかせないために。これ以上ピアスを増やさなくても良いように。
「で、俺の金で買える範囲になるんだが」
「テメーの給料三カ月分だ」
「そりゃ、お前にプロポーズするときまでとっておきてぇもんだな」
ぎゅ、とジャケットを握る指先。
「バーカ。前倒しで今払えっていってんだよ。糞ジジイ」
「可愛くねぇな。お前は」
ちゅ、と頬に触れる唇。
「そりゃどーも」
「……訂正。可愛いわ、お前」
「な……馬鹿言ってんじゃねぇ糞ジジイ!!」
「さっさとピアス買って帰るか」






「器用なもんだな」
両耳に二つずつ銀色の輪が静かに輝く。
「ずっと付けてるから慣れてんだよ」
気に行ったのか何度も触りながらいつもよりも良く笑う。
胸板に重なる乳房。
「ん……噛むなって……」
右肩に咲く真っ赤な花。紫の蝶を消すために何度も何度も刻まれる噛痕。
不意に伸びた手が投げだれたプレーヤーに当たって落下する。
イヤホンから零れてくるメロディー。
「そういや、何を聴いてたんだ?頭がやられる曲ってのは……」
「あぁ……うん……」
覆いかぶさるようにして視線を絡ませる。
「知りてぇか?」
「まあな」
「右肩の蝶、ってんだよ」
何度も掠めるようなキスが降ってくる。星もないこんな夜に。
「………………………」
抱えた傷も悲しみも全部抱きとめる強さはまだ少し足りない。
一緒に傷つくことしかできないのかもしれない。
「ありがとな……ピアス」
「さすがに三カ月分じゃねぇがな」
「ま、それは追々貰うけどな、ケケケケケケ」
猫の肩に留まっていた紫の蝶が、光の粉を撒きながらゆっくりと離れる。
二人手を繋いで、おやすみなさい。







18:57 2010/06/19








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