◆チェリーパイ一丁上がり◆
「雲子ちゃん何処行くの?」
ソファの上に身体を投げ出した弟が視線だけを姉に投げかけた。
「ココアが切れた。ついでにその辺も見て回りたいから出かけてくる」
「んじゃ俺も行く」
手際良く愛用のウィッグを被ってジャケットを着込む。坊主頭を隠してしまえば、彼女は少しだけ
大人びた風景の少女に戻る。
隣に並ぶドレッドヘアの弟は言わなければ恋人に見えるだろう。
「たまには雲子ちゃんとデートしたいしぃ」
「その積極性を試合にも出してくれ」
右手を取った左手。そのまま指先が絡み合う。
少しだけ硬い皮膚と欠けた爪。
「お前といると目立つ」
振りほどこうとしない右手。それだけでも彼はにんまりと笑う。
隆起した筋肉はオレンジ色のタンクトップと不思議な調和を産む。
少しだけ浅黒い肌は野性味を増し、そのくせとびきりの笑みで女を落とす。
「いーじゃん。俺、目立つの好き」
「私は好きじゃない」
たった一人を除いては。
テナントのひしめくショッピングセンターで目当ての物を買いこむ。
彼女が欲しかったのは菓子作り用のココアパウダーだった。
金銀のアザランやチョコレートペンシル。剥き身のピスタチオにドライフルーツ。
それらがぎっしりと詰められた袋を左手に持って、彼女は満足気だ。
「んなにいるもんなの?」
「要るんだよ、阿含」
姉の作る菓子はそこいらの店の物よりもずっと彼の口に合っていた。
細かな味の調整もさることながら口の中に入れた時の蕩けるようなチョコレートの食感。
砕かれたナッツの刺激とほんのりと子が焦されたキャラメル。
神龍寺以外に入学したならば、彼がいなかったならば、彼女には相応の恋人が出来ただろう。
「……っと、携帯」
ポケットの中で震えるそれを無視しても、途切れることなく振動は続く。
「……っち……ちょっと切って来る」
「ちゃんと話して来い。馬鹿」
目的の物を買い終った彼女は機嫌が良い。
(このままどっかホテルでもいけちゃう感じィ?いや、家でじっくり戴くのも悪くねぇな)
要件は五秒で終わらせて雲水の姿を探す。
いつものように壁に凭れてスカートの裾を摘まんでいる姿が見当たらない。
(あ"?どこいきやがったんだ?)
ぎろり。見渡せばコスメカウンターの一角に見える長身と黒髪。
(あんだよ。そーいうとこは俺と一緒にはいりゃいいじゃんか)
お決まりの営業用スマイルをうかべながら左手を雲水の肩に伸ばした。
「雲水」
「うわ!!気配を消すな馬鹿!!」
「ごめんごめん。つい癖で」
さも彼女を気遣う彼氏のような仕草。誰もこの二人が同じ遺伝子を持つ双子とは思わないだろう。
彼女が手にしていたのは所謂マニキュア。ボトルのデザインも彼女の好みそうなゴシックローズ。
ガラス瓶の中に揺れる薄紅と光の海がとろり、と揺れた。
「んー、こっちのが似合うかな?」
オレンジ、グリーン、キャラメルミルク。次々にボトルを拾い上げてトレイに入れて行く。
「あ、阿含っ!!そんなに沢山あっても!!」
眺めているだけでも彼女が嬉しそうに笑うならば。
そのきっかけになるものを与えられるのならば。
「あとは、女の子だからやっぱピンクだよな」
学校でもチームでも、彼女は女子としてなど立ちふるまうことはない。せめてこんな時くらいは一人の
少女に戻せるならばと考えてしまう。
「でも……私はこういうのには……」
「俺がやる。他の誰にもさわらせねェしさせねぇよ」
レシーバーでもある彼の手よりもずっと硬くて武骨な彼女の指先と割れた爪。
ふとした時に目に入るそれは十七歳には思えない。
「さぁって、オウチ帰って雲子ちゃんのネイルケアしまっしょぉ〜♪」
この恋が永遠に続くなどとは誰も思わないだろう。
しかし、彼だけは違うのだ。この思いは永遠であり消えることなどないと提唱する。
そして、彼女が同じように思う日が来たならば。
この願いは成就して永遠の物になると。
焼き上げたパイ生地に敷き詰められた生クリームとカスタード。
練習だと作り上げたそれは小さなものだった。
なべられたさくらんぼや桃。部活に持っていけば喜ばれるだろう。
「おっはよぉ雲子ちゃぁ〜〜〜ん♪」
いつものように後ろから抱きついてくる弟を軽く張り倒そうとする。
相変わらず俊敏な彼は想定内だと華麗にかわして椅子に座りこんだ。
「おはようのキスはぁ?」
もうすぐ十八になるというのに、相変わらず彼はこの調子だ。おそらく変わることもないだろう。
「ダーリンに甘ーいキスくらいあんじゃねぇの?」
「甘いのが好きか?」
「そりゃ、あんまーいのがいいっつーか」
「そうか」
右手で彼の頬を押さえて左手を構える。
その手には小さなパイ。
「甘いのが好きならこれでどうだ阿含ッッ!!」
勢いよく顔面に叩きつけられるパイ。流石の天才のこの至近距離での姉の奇行と蛮行の予想は付かなかったらしい。
クリームだらけの呆けた顔。
それがあまりにもおかしくて柄にもなく雲水は大声で笑った。
「あ、阿含……ッ!!ひゃ…っはは…その…顔っ!!
「あ"ーー!!てめーがやったんだろうがこの雲子が!!」
テーブルの上のパイを手にして今度は彼が彼女にパイを押しつけた。
避けることも逃げることもなく受け止めて。
「……っは……何その顔……雲子ちゃんの可愛い顔がすっげーことになってんじゃん」
ドレッドのウィッグを外せば同じような姿の二人。
彼の親指が彼女の唇のクリームを拭った。
「超甘ぇ」
ああ、こうやって騒いで一緒に年を取れるのならば。
「……っくく……天才も台無しだな……」
「あ"ーー……俺がどんな風になっても雲水は俺の事捨てないって知ってっから」
あと数回、夜を越えたら十八歳。未来も少しだけ明確になる。
「当たり前だろ。お前をその辺に捨てたら被害が拡大する」
「あ、ちくしょテメーこの雲子。今夜泣かせてやっからな」
どんな台詞もクリームまみれの姿では台無しだ。練習の無い朝にこんな騒動を起こせるような関係。
そうなれたのはきっと今まで重ねた時間だろう。
無駄な物など一つも無い。
「酷い顔だ。お互いに。シャワーでも浴びてくるかな」
「待て。俺も一緒に行く。俺をこんな姿にした責任とれよ雲子ちゃん」
遅めの朝食をとって彼の淹れたコーヒーに口を付ける。
のめれば良いと大まかに定義づける彼女と、豆と時間計算もきっちりの彼。
「でさ、この間買ったココアとかはいつ使うのさ?」
おそろいのマグカップ。
「ああ、あれか?あれはお前の誕生日ケーキ用だ」
「俺のってことは雲子ちゃんもじゃん」
「ああ。だから自分の好きな物で揃えさせてもらった」
「俺もすっごいのプレゼントしてやるよ」
「指輪なら要らんぞ。あれがあると集中して投球出来ない」
「男のロマンをいきなり打ち砕くなこの雲子」
三歳から始めたプロポーズは、今の今まで成功したためしはない。
それでも諦めるなどとは彼の辞書には存在せず、天才の人生に彼女は不可欠なのだと。
「グローブ無しには慣れてないんだ。それに、疵が付く」
何気ない一言。
彼女は指輪が欲しくないわけではないのだ。
それに疵が付いてしまうことを危惧しているのであって、彼の思いを否定しているわけではなく。
「……チェーンに通して付けてりゃいいじゃんか」
「石がなかったらな」
「ったくよぉ、雲子ちゃんは素直じゃないよな!!可愛げ薄いっつーの!!」
「その可愛げがない女が良いと言うお前も相当おかしいぞ」
してやったりな姉は相変わらず可愛さは少々若干そこそこ足りない。
「うわー、最悪極悪」
「阿含」
伸びた右手が彼の胸倉を掴んで引き寄せた。
少しだけ乾いた唇が僅かに触れて離れる。
「お前のまねをしてみたが……上手くはいかないもんだな……ってなんだその顔……」
あまりにも意外な理由で呆けてしまう。
間の抜けた天才は随分と残念だと彼女は溜息を一つ。
「ものすごくカッコワルイな」
「そういう俺ごと愛してよ」
もうすぐ一つ年をとる。泣いて笑って喧嘩してこの先もきっと右と左になるように。
十八回目の誕生日はお互いに笑ってられるような日でありますように。
互いの思いが今度こそ届きますように。
願いがかないますように。
happybirthday to you&me!!
14:28 2011/05/31