◆Sleeping lotus◆
「おそようー、雲子ちゃん」
目覚めて一番最初に目に入ったのは心底嬉しそうな顔で笑う弟だった。
「……………………」
「あっれ〜?起きたんだったらアイサツはぁ?」
普段は彼よりも早く起きて身支度する彼女が寝過ごすのは大抵前の晩の寝不足になる。
案の定腰は軋み脚もだるさが残って疲れ切ったまま。
「あのくらいでばててちゃ、試合中持たないんじゃねぇの?」
「うるさい!!全部お前のせいじゃないか!!」
枕を投げつけてそのまま拳を入れる。僅かに感じる感触と同時に枕は振り払われた。
人間の限界の反応速度を持つ天才は相変わらず上機嫌のまま。
「まあ、泣くまでヤったのは久々だけどよ。お前だって腰振って……痛い痛い痛い!!ひっぱんなハゲ!!」
ぎりぎりと力任せにドレッドを引っ張れば涙目の阿含が睨みつけてくる。
「ハゲと坊主は違うって何回も言ってるだろ!!馬鹿!!」
「で、おそようのゴアイサツはぁ?もう十時回ってんぞ」
「……おそよう……」
身体中に残されたキスマークと寝不足の身体を引き摺って立ちあがろうとしても覚束ない。
右手を取られて抱き起こされる始末に溜息を吐いた。
春大会も終わって少しの休養のために練習もない休日。
色々と計画していたことは崩れてしまって不機嫌顔で同じように阿含を見つめるだけ。
ぷい、と顔をそむけて枕を抱きこむ。
「なんだよ、無視すんなって」
聞こえないと反対側を向いてもう一度眠りなおそうとする態勢。
薄い背中に視線を落とせばうなじが「おいで」と誘うから。
「なーってば、雲水」
投げ出された足。
「無視すんなっつってんだろ」
べったりと抱きつけば今度は引きはがす気配は無い。自分よりも柔らかな肌と筋肉は
剛速球を狂いなく投げてくるとは到底信じられないだろう。
ざり。頬が触れてきゅっと身体を丸める動作。
(あ″ー……髭……)
それでも今ここで離れてしまえば恐らく今日一日は快適には過ごせない。下手をすれば雲水は
部屋に籠城を決め込むだろう。昔から融通が利かないところは変わってはいないのだ。
何度か頬に唇を悪戯に当てて。
「阿含」
「やっとこっち見たな、雲水」
「髭が痛い」
それでも口調はずっと柔らかい。抱き寄せれば大人しく身体を預けてくれる。
額や鼻筋にキスをすればうっとりと閉じたままの瞼。
(なんでこんな坊主の女で俺も勃っちまうかな……普通萎えんだろ……)
右手を取って舌を這わせれば指先のざらつき。
(爪欠けてんな……練習馬鹿だから手入れなんか大してしてねぇだろうし)
阿含が連れて歩く女たちは彼に気に入られるために全身に磨きをかける。髪の一筋、
爪の一枚まで完璧に。それでも得られるポジションは『阿含の女の一人』にすぎない。
不変の位置に座するのは同じ血を持つ蓮華の少女。
「阿含?」
「もうちっと寝たらちょっと付き合えよ」
ああ。愛しいと思うこの気持ちは同じ血を持つからなのだろうか?答えなどでないままにずっと
堂々巡りの恋いの迷路。迷って惑っても二人ならばそれで良いのに。
「付き合えって……どこに……」
「ナイショ。人生どんなに愛し合っててもちょっと秘密あったほうが楽しいんだぜ?」
通学時はさらしで締め付けられる胸も休日はゆるりとシャツの中。ボーダーニットの
ロングカーディガンと七分のパンツ。
「手」
阿含の膝の間に座らされて後ろから包み込むような形で右手が取られる。
「?」
左手が握るのは硝子の爪やすり。蓮の花が刻まれた美しいそれが雲水の爪に触れた。
しゃり。何度か鑢が往復してふ…と息が掛かる。丹念に確かめるように先端に指の腹が
触れて満足したのか今度は人差し指に。
「爪ならちゃんときってるぞ。伸びすぎても投球できないし」
「じゃなくってな。爪欠けてんだよ。投げすぎ、手入れ足りな過ぎ、俺の事放置しすぎ」
器用に滑る鑢の動きと彼の鼻歌を背後から感じる奇妙な面白さ。
「最後の、関係なくないか?」
「あ"?大有りだっつの。俺と息も心も身体もあってなきゃダメだろ」
右手を終わらせて今度は左手を。その一連の動きに自然に預けられる背中。
(お……今日は警戒心薄いな……)
肘でやんわりと押さえ込んで左手の指に鑢を当てて。
「硝子の爪やすりか……」
「そ、もらいモン」
出所は聞かないのがこの二人の暗黙のルールの一つ。無意味に傷つくことを回避するのはお互いに
大切なことで理解しなければいけないこと。
「お前が持ってると不思議な感じだな」
恐らく柄は彼が選んだのだろう。ブルーグラデーションに白で刻まれた蓮は水辺に浮かんで
居ることを静かに想像させてくれる。
「こうやって使ってんだから、道具だって喜んでんだろ」
「そうだな」
整えられた十枚の爪。
「んじゃ次はこっちな」
「まさかお前に手入れされるとは思わなかったな」
ファイリングで一本ずつ丁寧に磨いていく。普段の手入れのクリームだけでは形も艶も
ここまでは不可能だ。きらきらと輝く爪は十七歳の女子高生の指先。
俗世間から隔離されたような校風の中、男子生徒としての生活を強要されて麻痺していた何か。
「阿含?」
膝抱きにされて今度はソファーの上に降ろされる。
「次、足な」
同じようにやすりが滑って形を整えていく。指先の動きと暖かさに誘導される甘い眠気。
思えば彼の足の爪は黒いことが多い。
(……眠く……なる……)
武骨な指に似合わない動きと時折確かめるために触れた時の暖かさ。
滅多なことでは人前で居睡も転寝もすることのない雲水の小さな失態。
(お……めっずらし……寝ちゃったよ……)
春大会、決勝戦までは阿含は出場しなかった。
その間に攻撃の前面に出ていたのは雲水。同じ動きを忠実に再現して、いつ阿含が投入されても良いようにチームを
馴らし且つ相手に対する小さな恐怖を植え付けていく。
その動きが完璧であればある程に本物の強さを知った時に感じる絶望は深い。
(んじゃ、さくっとやっちまうか)
表面の凹凸を整えて今度は静かに刷毛を滑らせていく。手順は一度自分がされればほぼ完全に
覚えることが出来る能力は便利なものだった。見た物を再生し、聞いたことを忠実に再現する。
完全な才能を持つ頭脳と肉体を与えられた天性の選ばれた人間。
同じ遺伝子をもつはずの姉は勤勉な秀才と揶揄されるばかり。
「…………………………」
分かっているのだ。自分の存在が彼女を苦しめて、歪ませていることくらい。
それでも彼女の根幹となる思想を思考を自分が染めているのだと思うと歪みも苦しみも些細な
事にしてしまいたくなる。
桜色に染まった爪。見えない場所ならば多少、少女めいていても構わないだろう。
このキャンバスに何を描こうと少しだけ考えて選んだ蓮。
蓮華座に座り眼を閉じる彼女を思い浮かべて。
光るラメを散らして踝に小さく口付けた。
フィールドを駆るには頼りなく細い脚。高身長を除けば女らしい体躯。
神話の中では女が狂うような修業を耐え抜き男に心身ともに変わることもあったらしい。
同じように姉弟間の近親婚も普通にあったのだ。
この感情の名前を探したときに知ったその小さな物語を読み漁り、やがて様々な書物に
眼を通し始める。古代の神は姉との間に様々な神を成して世界は形成された、と。
この思いが間違いでも偽物でもないと気付いてから隣の彼女に対する視線が変わった。
「……雲子ちゃんだって俺の事愛してるくせにねぇ」
願うことは恐らく同じなのに彼女は決してそれを口にしてくれない。
小指に絡まったはずの赤い糸はそろそろ互いの指を根元から腐らせてくる頃合いだろう。
何万回も繰り返した『愛してる』という言葉など意味を成さない。
「あー……クソ……なんで俺はこいつに甘いんだよ……ッ……」
どれだけ傷つけあっても彼女は最終的に彼の手を取ってくれる。
きっと世界中が彼の敵になっても永遠不変の味方として存在するように。
否定されたのはたった一度だけ。
初めて彼女を抱いたあの夜、月を背にした姉は幽鬼のような妖しさでこう言ったのだ。
『おまえなんかだいっきらいだ』
憎まれても恨まれても良い。それでも一番聞きたくは無かったその言葉。
どうか、どうか、嫌いだなんて言わないで。
伸ばした左手を振り払った腕は白く細く、それでも強い意志を持っていた。
そしてあの日から二人の関係は変わってしまったのだ。
(……どーしても我慢できなかったんだよ。お前が他の男にヤられんのとか考えるだけで
死ねるっつーの……冗談じゃねぇぞ。雲水は俺のなんだからよ)
他人が入ることの無いこの空間は二人の匂いしかない。自分たちだけの閉鎖されたこの小さく
幸福で甘い場所を守れるのならば何だってできる。
小さな喧嘩も泣き顔も人生のスパイスならば。
「ん、あ……あれ……?」
ぼんやりとした眼を擦る右手。
「おそよう、雲子ちゃん」
「……私、寝てたのか?すまない……」
「寝てたから好きにした」
「?」
視線を下ろせば整えられた足の爪は自分ではおそらくやらないであろうアートが施され
ちらちらと輝くラメは星のようだった。
「綺麗だな」
「やっぱねぇ、自分の女は綺麗にしときたいもんでしょ?」
「ありがとう、阿含」
その言葉が胸に浸みこむように季節はゆっくりと変わる。ただただ、世界も彼女も美しい。
ドレッドの間に差し込まれた指先。両手が彼の頬を包み込む。
「雲子ちゃん?」
僅かに重なった唇と閉じた瞳。
空気の流れも時間も何もかもが止まるのはキスの瞬間だけ。
「ありがとう」
「んー……」
絡ませた互いの指先。触れた肌。瞬きと小さな笑み。
左耳のピアス。彼の爪。焼けた肌。
「もっとシテ」
こつん。触れる額。ああ、自分たちは同じ形を持つ異なる命。
「もっと、呼んで」
抱き寄せれば同じように絡まる左腕。日差しはまだ夏の手前。七夕の願い事にはまだ早い。
お互いに身体は大きくなったのに、何も変わらないまま。
「好き。大好き。愛してる」
そっと髪を撫でる指先に目を閉じる。
「阿含」
名前を呼ばれる度に繰り返して恋に落ちる音がして。
「あごん」
「んー……もっと……」
「そんなにでかい身体してるのに」
怠惰な午後も悪くないと思わせる小さな魔法。
「なあ、ファーストキスって覚えてるか?」
その相手は当然の如くお互いだ。
「んー……幼稚園?その辺じゃないのか?」
「ちげーよ、ファーストキスはおふくろの胎ん中だ」
ちゅ。と今度は少し厚みのある彼の唇が彼女の薄いそれに重なった。
「まあ……あながち嘘じゃないのかもしれないな」
同じようにキスを返して。
どちらも戦い終えてくたくたな心と身体を散々に引き摺っている。必要なのはこんな時間なのだ。
お互いに依存し合っていることも十分に理解したうえでの甘え。
「あ"ー……ちゅーしたら腹減った……」
「確かに。キスじゃ腹は膨れないから」
「いーの」
雲水の手を取って自分の胸の真ん中に押し当てて。
「ココが、満たされる方が俺は大事だから」
同じように彼の左手を取って胸に押し当てた。
「そうだな。同じだ」
こんな時にしか聞けない感情のかけら。
「雲水だって俺のこと好きだろ?」
「ああ」
たった一言で良いから。
「好きだよ、阿含」
その言葉だけで幸福という名のドラッグが飲み込んで世界を薔薇色にしてくれる。
「阿含。苦しい」
「黙ってろよ。してぇんだよ……」
堕ちるならば。狂うならば。違えぬように互いの心臓を狙おう。
「愛してる。狂いそう」
もうとっくに狂ってるのに、と今更ながらに呟いた。
「死にそう……なあ、雲水」
彼女の胸元を握る指先。祈るようなキス。閉じた瞳。
形骸化した儀式でも自分たちには必要なのだ。
このかなえてはいけない邪恋。
痛む胸が二つ。心音を重ねることで消えるそれ。
「愛してる。ずっと」
紫陽花が色付き始めたこの季節は空と海の境界が消えるような蒼。
「土曜だしぃ、明日の練習もないしぃ、雲子ちゃんは俺と一緒だしぃ」
「……お前、練習来ないだろ」
しっかりと絡ませた手。
「あ?んなこというかこのハゲ子が」
「一々うるさいぞ、このもじゃもじゃ頭」
ブーツの踵を鳴らして、歩く道。実家からは電車で一時間半の距離。
通えないわけでもなかったが阿含の意思で部屋を借りることになった。
黒髪ショートカットのウィッグは少年と少女の境界線。
その位ならば伸ばしても許されると言われても彼女は頑として首を振らない。
「あ、そこ曲がったとこ」
こうして並べばこの二人が双子だと思うものは少ないだろう。絡まる指先も視線も
恋人同士のそれにしか思えないのだから。
「ピザとか美味ぇの。お酒もちょーっとだけ飲めるしぃ」
ちら、と向けられた視線が重なればにぃ、と口が笑った。
「良い気分になったら、気持ちイイ事もしたいっしょ?ホテルも近いしぃ」
「夕飯には少し早いけどな」
「せっかく一緒にいるんだからよぉ、ゆーっくり呑んで飯食ったっていーじゃん」
アルコールに弱い彼女が楽しくすごせるように。甘めのスパークルワインの隠れ家を。
人目を気にしすぎる彼女が安らげるように。少しだけ灯りの少ない地下を。
青が橙に飲み込まれて溶けて彼女の眼の色になるように。
「あ」
「どったの?」
少し離れたところに見えるチームメイトの姿。
普段の彼女ならきっと声をかけて誘うだろう。いつもそれを自分は止めようとするのだ。
「…………………………」
それは一種の賭けだった。
チームメイトを取るのか、それとも――――――――自分を取るのか。
分かっていても押さえられない独占欲が渦巻いて手を伸ばす。
祈りなど最も似つかわしくない彼の唯一にして最大の弱点の存在。
「阿含」
きゅ。少しだけ強く指先が絡まる。
「走るぞ」
「!!」
歩道橋を越えて、人混みを抜けて、この手を引いてくれて。
たとえ一般常識でこの恋が間違ったものだとされても離れることなんてできない。
(愛されてんじゃん、俺)
街を空をフィールドを、十七歳は走り続ける。
「雲水!!」
一歩分だけ彼女の前に飛び出して。
「こっちだ」
ほどかれない指先。ほどいてはいけない。彼女の手を離してしまえばきっともう同じ道には
戻れない。この左手に覚悟を込めて走るために。
「ほら、早く」
「よくこういうところ見つけてくるよな」
甘めのスパークリングワインとスモークサーモンのピザ。
薄い唇が蕩けるチーズを飲み込んでいくのはどこかしら淫猥さも絡ませる。
「そりゃ、雲子ちゃんと一緒に来たいから」
銀色のフォークが仕留めたカルパッチョと運ばれてくるクリームチーズのパスタ。
栄養管理から外れた日にはこんな食事が色鮮やかで楽しい。
「あんまり明るくねぇし。でも、飯うめぇし。雲子ちゃんのよりはあれだけど」
「そこまで買い被るな。でも……おいしいな、阿含」
握られたスプーンに覚えるちりちりとした嫉妬。
手早にメニュー表を奪い取って追加のついでに小さな変更。
ほんの少しだけ度数を上げたワイン。
(そりゃねぇ……お楽しみはまだまだこっからってこって……)
それでも目の前で笑ってくれるのならば下心さえもどうにかなってしまいそう。
かちん。グラス同士が先に交わしたキス。
「阿含?」
「んー……グラスのが先にキスできて俺はお預けくらってんのがな……ちゅーしてぇ……」
「…………お前、秩序と言うものの破片で良いから持ってくれ……」
頭が痛いと片手で顔を覆う姿。
「!」
それでもテーブルの下、そっと指先が触れあった。
(あーでも……ちょっとは同じく思ってんのね……こういう確認作業ってのは大事なんだぜ?オネエチャン)
ゆっくりと染まっていく頬。甘さに隠したアルコール。
(あ"ー……やっぱかわいいよなぁ……はやく食いてぇ……ホテル近けぇしまた今夜も泣かせてやっからな。
覚悟しとけよ雲子ちゃん)
吐く息が甘くなるまでもう少し。
「雲水」
グラスに触れた薄い唇。
「好きだぜ」
頬がほんの少し赤みを増した。
ああ、世界は案外自分中心に回せるのだ。こんな風に。
どんなに迷っても泣いても。共にあれば幸福になれると魔法を掛けてしまえばいい。
「今まで何人に行ってきた台詞なんだかな。それほど上手く行くほど甘い物でもないだろう?」
憎まれ口が淡く色付く。
運命なんて皮肉めいたものを信じるのは主義じゃなかったはずなのに。
「上手く行くようになってんの」
その理由など簡単な物で彼女も自分を愛してる。ただそれだけの事。
磨かれた爪が光を受けてグラスを彩る様に。
「…………………………………」
彼女の指に一番に似合うリングはどんなものだろうか?
在り来たりなシンプルな物をきっと望むのだろう。
あの指を他の男が送る指輪などで汚させてはなるものかと頭の中でぐるぐると廻る恋。
事実、姉にはこの年齢でも見合い話が持ち込まれるのだ。
誰かの物になど絶対にさせない。
「あー、やっぱ爪綺麗だといいわ」
「何日持つか分からないけどな、ありがとう」
きっと少し酔っている。自分も彼女も。
「また磨いてやるよ。俺とずっと一緒にいりゃずっと綺麗だ」
不安がる心を隠して彼女はゆっくりと大人になっていく。
この手を離してはいけない。
「雲水は一生他の男なんか知らなくていいんだよ」
無意識のうちに仕草の一つ一つが彼の色に染まっていく。
「……お前が言うセリフじゃないな」
三分の一だけ残ったワイン。
「なんで?他の男知りたいの?」
グラスを持つ手に彼の左手が触れた。
「知らなくていーじゃん。俺だけでいてよ」
蓮の花びらは水に溶けてしまう。同じようにいつか彼女もこの腕を離れてしまうのだろうか?
誰よりも恐怖を先に知ってしまったのは自分と彼女が姉と弟だという事実を認めた時だった。
眠れない夜に隣で眠る最愛の存在。
意識しての最初のキスは彼しか知らないままだ。
唇の柔らかさに胸の中が暖かくなり、もっと、と繰り返した。
その身体を押さえつけて最初に抱いたあの夏の日はとても暑くて、彼女の肌の白さが余計に
浮き立っていたのをよく覚えている。
一生忘れられないように彼女の一番最初の男になりたかった。
「あ"ー……飲み過ぎた……軽いととまんねぇのな……」
ふらつく足取りとしっかりと繋いだ手。
「うーんすい」
少しだけ唇を開いて押しつける。乾きがちな彼の唇がやけに寂しそうに触れた。
路地裏。灰色の壁。押しつけた身体。
何度かそんなキスを繰り返して身体を離した。
「俺だけじゃ駄目?他の男とキスしたい?セックスしたい?」
「……考えたことないな……よく、わからない……」
膝のあいだに割りこませた左脚。
両手を壁に押し付けてもう一度キスをした。
「……っは……ん……」
入り込んでくる舌先が絡まり合ってじんわりと熱くなる仄暗い思い。
「…ん、ふ……ぅ……」
拒めないのは自分の弱さ。結局は彼を手放したくないのだ。
出来る手段の一つがこの身体を与えれば良いということだけ。
いつの間に押さえつけられていた手が解放されてしっかりと抱かれていた。
「ヤダ。雲水は俺の物だ。絶対に誰にも渡さねぇ」
耳の奥で繰り返されるその呪文。
「言ったじゃんか。大きくなったら阿含のお嫁さんになるって」
幼いころの子供じみた約束。
「指きりして、キスして」
赤い糸を信じるのはむしろ彼で。
「もう十分大きくなったろ?」
こつん。額が触れた。
いつもの歪んだ笑みではなく、消えてしまいそうなその儚さ。
「あー……俺、雲水が俺以外の男選んだら生きてるの無理っぽい……」
死を以ってこの恋を永遠の物にしてしまえるのならば。
「好きなんだよ……畜生……ッ……」
その背中を抱きしめることもできないまま。
「愛してる、雲水」
触れる頬。車の音。誰かの声。
崩れる彼を抱きとめる。
幼いころはこうして胸によく抱いた。
いつの間にか彼の方が立派な身体になってしまった。
偽物の優しさじゃ誰も救えない。
「阿含」
自分の手が硬くなってしまったように、彼の心も随分と硬くなって。
「私たちは姉弟だ」
何度同じ答えを繰り返しただろう。必要なのは向き合うことなのだ。
この答えは逃げるためのものなのだから。
「わかってんだよ……んなこと……」
彼の頭を抱いて、深く息を静かに吸い込んだ。
「誰も私たちの事なんか祝福してくれない」
禁忌とされる双子の恋。
「お前が望むような未来は、無いのかもしれない」
右手がそっと、彼の眼を覆った。
「この世のどこにも、私たちの居場所は無いのかもしれない」
ああ、でも二人ならば。どこでも、地の底でも。
「一度しか言わない」
視界を遮断したのは今の自分の顔を見られたくないから。
「私もお前を愛してる」
一度だけの告白に呼吸が二人分止まった。
「うんすい、手……離して」
「嫌だ」
「顔みせてくれよ。なあ……」
お互いに泣きそうな顔で笑いあって。
彼女の唇が彼のそれにそっと重なった。
「やっべえの……死にそ……」
頬を包む大きな手。
「世界で一番愛してる。雲水」
路地裏に降る星の光は何よりも優しくて。
たとえこの腕の中だけが互いが許される空間であったとしても、それで構わない。
「酔ってる。私もお前も」
「酔ってねぇよ」
困ったような顔の彼女の頬に、唇を押し当てた。
耳に頬に何度も接吻を繰り返す。
「手、貸して」
左手の薬指。愛しくて敵わないと降るキスが一つ。
「俺、雲水がくれた指輪ずーっとここにシテんの」
銀色のチェーンに似つかわしくないプラスチックの指輪。
同じように雲水の首に掛かるチェーンに通された対になるための物。
一緒に居ることは簡単なことでは無くて、きっと彼女はその性分ゆえに苦しむことが多くなるだろう。
七十億の中で同じ遺伝子を持つたった二人きり。
壁も障害も、普通の恋人たちとはまるで違う険しさだろう。
「何があっても、どんな時でも」
繋いだ左と手と右手。
「死ぬまで離れねぇ」
「……死は、二人を別つものだぞ?」
「一緒に生まれた。だったら一緒に死んだっていいはずだ」
「……そうなのかもしれないな……どうにも私は臆病だ」
それがたとえ夢物語だとしても。
世界から彼女を奪い取る力がこの手にはあると信じている。
「俺が守るから何の心配もいらねぇ」
「随分と高い金額になりそうだ」
ねぇ、だから。
「雲水の残りの人生全部くれりゃ、そんでいい」
「ああ、それなら払えそうだ」
ずっと一緒に居よう。
流れ星の降るこんな夜は少しだけ素直になって優しくなろう。
隣に居てくれる君の為に。
18:15 2010/11/02