◆ハッピーアイスクリーム◆






「懐かしいな、これ……一年の春大会の時のだ」
 入部して間もない二人は春季大会にQBとして登板した。当然の如く阿含の破壊的なランと
雲水のキラーパスの連打は対戦相手を混乱させるには十分だった。
「これ、王城とやったときのだな」
「そうっすねー。俺まだ出てなくて雲水さんと阿含さんだけでたんすもんね」
「一休は決勝で出ただろ?俺や阿含よりも隠し玉だったし」
 ロッカーを片付けながら雲水はゴミ袋に次々と不必要なものを詰めていく。定期的にロッカーの
清掃をしないとただでさえ汚れがちな部室は本当に塵溜めと化してしまう。
 そして残念なことにそのゴミの中心は実弟のロッカーだ。
 部活には滅多に顔は出さないのにロッカーには荷物が増えていく。不思議な現象である。
「その辺からだよな、阿含にシスコンってあだ名がついたの」
「ああ。百年に一度の天才。千年に一度のシスコンな」
 如意棒でタオルを拾い上げてゴミ袋に投げ込む。ナーガのムードメイカーは二年時からのレギュラー
メンバーだ。そもそも一年生が春大会から出る方がおかしいことに誰も気づかない。しかし、実力主義の
ナーガに於いては全く意味がないのが年功序列。
「そんなあだ名持ってるのか……あいつは……」
 頭が痛いと二度ばかり首を振る。
 その原因はどう考えてもあんたですよ、とは誰も言えないのだ。
(ん……ハンドクリーム……?)
 グリーンティーと書かれたチューブを握ればさわやかな香り。使っているクリームも丁度切れていたと
雲水はそれを道着にしまい込んだ。いつものように右腕だけ袖が抜かれている状態だ。
「阿含さん本当に一杯溜めこんでますね」
「好きなの持っていっていいぞ」
 その言葉に一年生を含め一斉に阿含のロッカーに手を伸ばした。
 金剛阿含は自分では物をほとんど買わない。女に買わせることがほとんどで買うとしたらそれは実姉で
恋人と彼が勝手に思い込んでいる金剛雲水の為だけになる。
 もっともその雲水は振りこまれる生活費で必要な買い物を済ませて、人生何があるか分からないと
最近はFXでちょこちょこと収入を得ているのだが。
「雲水さんは要らないんですか?」
「ハンドクリームは貰った。しかし……地層だな、こいつのロッカーは」
 三年生は基本的に部室の掃除は免除されている。こんな時はその分争う人数が減るから良いと弥勒が笑った。
「あいつにゴルチエの香水とか想像出来ないな」
 ぷしゅ。一吹きすればスパイシーな香り。手にした本人の清水弥勒の方が余程似合うだろう。
「あいつはエゴイストだもんな。百メートル先からでも分かるくらいに振って来るし」
 同じようにウルトラマリンを手にした芽力千里が呟く。
 香水もシャツも映画のチケットも全部一緒くたに突っ込まれた魔窟。
 なぜか入っていた割引券やクーポンは一年生が嬉しそうに奪いあっている。
(王城戦からだったな……一緒に出たの……)
 少し寄れ掛かった写真をそっと胸元に。たった一年前なのに随分と昔に思えてしまう。
 差し込む日差しはもうすぐ春大会があることを忘れさせてしまうから。
 郷愁はまだまだ必要ないと、箒に手を伸ばした。





 噂に聞いた王城ホワイトナイツのLBは予想したよりも強烈なタックルを持っていた。
 ランナーのサンゾーを突き倒した進清十郎のそれはスピアタックルの異名を持つ。
 槍のように強烈なリーチが確実に相手を突き倒す。
 当然その進からしてみればQBである雲水は倒さなければならないターゲットだ。
「サンゾー!!」
 倒れたサンゾーの手を取って起こす。ごほごほと咳き込んで蒼い顔のランナーは唇の端の
血を親指で拭った。まだ脇腹に走った痛みは健在だ。
「凄いタックル……まともにくらっちゃダメ、雲水クン……」
 努力する天才、進清十郎。そのタックルで止められないランナーは居ない。
「SET!! HUT!!」
 どの位置に誰がいるか。そして今から何処に動くかを冷静に判断できる投手。王城陣が手に入れ居た
金剛雲水の情報はその程度だった。そこに女子や男子の区分は必要ない。
(阿含があの位置に上がれば……阿含なら絶対にそこに来る!!)
 自分を護る盾にもなれば攻撃型ランナーとして敵陣に暴力的に踏み込んでいく。
 トップスピードとパワーを併せ持つ天才は予想位置より五度ずれて姿が見えた。
(なら射程距離範囲内……このまま阿含にパスすれば……)
 思考が切断される。
 痛みは後から追いかけてきて視界が一瞬真っ黒に染まった。
「!!」
「雲水クンッ!!」
 同じスピード型の進は投球を終える直前の雲水を横からそのタックルで潰しに掛かった。
 それでもボールだけは離さずに雲水はそのまま予定通りに阿含へのパスを選んだのだ。
 軋む肋骨と嘔吐感。しばらく忘れていた痛みと恐怖が身体を包みだす。
「…………………………」
 ボールを受け取った阿含はそのままディフェンスラインを殴り飛ばしながらタッチダウンを奪った。
 ここまでやられて失点でもすればその方が姉は悲しむことをしっているからだ。
「雲水クン、大丈夫?」
 今度はサンゾーが雲水を起こした。
「ああ……しかし、痛ったいな。久々に痛いの食らった」
「ねー。信じられないわよね。アタシもまだ痛いもの」
 ヘルメットの金具を留め直す。
「試合終わったら、薬局行こうな、サンゾー」
「そうね。新しい湿布買いに行きましょ」






 第四クォーターから参戦した金剛姉弟は神龍寺の無敗神話を守り切った。この一試合で金剛雲水を
女子にしては動けるQBという認識から天才阿含と同じ遺伝子を持つQBとして視るチームがほとんどに
なったのも事実だ。
 一年生にしてナーガの正投手になること実力が無ければありえない。
 双子が縦横無尽にフィールドを支配するドラゴンフライは難攻不落の要塞をも陥落させるのだ。
「大丈夫か、雲水。サンゾー」
「はい。ちょっと痣にはなってますけど鬱血が酷いだけで折れてはいませんし」
 スピアタックルは春大会で何人もの選手を病院送りにしてきた。それを食らってもその程度の認識として
受けるのだから雲水もある程度殴られ慣れているのは想像に容易い。
「先輩、阿含知りませんか?」
 見回せば実弟はどこにもいない。チームメイトも阿含の姿は見て無いという。
「ちょっと探してきますね。まったく……あれほどみんなに迷惑かけるなって言ったのに……あ、阿含」
 ばりばりと金髪を掻きながらいつものようにベンチに座りこむ。
「何処行ってたんだよ。ほら、着替えて……」
「ちょっとお話してきただけ。俺のオネエチャンにタックルかました男に」
 そうなのだ。自分以外が傷つけることなど一切認めないと声高に叫ぶ阿含は試合終了後に王城のベンチへと乗り込んだのだ。
阿含の左手の手刀を防ぐ進の右手。止めるために割って入ったのは高見伊知郎だった。
「な……!?あれは仕方ないだろ!!って阿含!!何するんだっ!!」
 がば。道着の袷を開いてシャツを捲り上げる。生白い肌に浮いた肋骨。そして飛散する鬱血痕。
「……ぶっ殺す!!」
「殺さなくていい!!折れて無い!!大して痛くもないから!!」
「俺の雲水に痣付けるたぁ良い根性してやがる!!あと……雲水のガードできなかったそこのつかえねーライン陣!!」
 サングラス越しでも殺意と悪のこもった視線は健在だ。
「てめぇら後で滝壺だ。逃げんなよ?」





 慌てて王城陣のベンチに行くものの、入れ違いとなってしまった。仕方がないと監督の許可を得て雲水は後日
単身で王城高校へと向かうことになったのだ。手土産には雁屋のシュークリーム。何んとも無しに選んでしまったが
姉弟揃って好きな物である。
「ええと、神龍寺の……QB……?」
 スコアボードを手にしながら高見は坊主頭の少女を見つめた。神龍寺特有の道着に身を包んだ坊主頭の少女は
深々とその頭を下げて紙箱を前に差し出した。
「すいません。阿含が御迷惑をかけてしまって……タックルを食らったのは自分の修業不足だって言い聞かせてるんですが……
なので、もし何かありましたらすぐにきますので。あ、殴ったりバックブリーカーとかしてもらって全然構いませんから!!」
 その程度で死ぬような不甲斐無い弟では無いから、は飲み込んだ。
「ああ……うん。しかし、女の子で神龍寺って凄いね……しかも、一年生で投手だ」
「阿含の方がずっと凄いです」
 それは謙遜でも何でもなく雲水からすれば常に認めなければならないものの存在。
「じゃあ、何かあった時の為に一応連絡先だけ教えてもらえるかな?」
「はい。王城ホワイトナイツ、投手の高見伊知郎さん」
 赤外線でお互いの携帯電話の番号とメールアドレスを交換する。そして高見は小さな異変に気付いた。
 その自分の名を呼ぶ声に感じた奇妙な感覚。分かりやすい狂気の阿含と一見しては分からない狂気の雲水。
 天才は阿含であっても最強の呼び名を持つことになるのは金剛姉弟。
「次は食らわないようにしますね。あのタックル……本当に痛くて痣になっちゃいましたから」
 鍛え上げた身体の選手ですら骨折させるスピアタックルを受けて痣になったと笑う唇。
 純粋な笑みのはずなのに重なる誰かの影。
「凄いね、君の弟クン」
「阿含は天才ですから、だから……」
 少女の手が彼の右腕に触れた。
「自分が最強にします。阿含を。ドラゴンフライで」
 ざわ。背筋に走る恐怖。神龍寺は鬼神金剛阿含を擁したという話に、彼はもう一つ加えた。
鬼神には同じ血を持つ姉がいる。さながら修羅のような少女、だと。
「何か阿含は言ってませんでしたか?」
「ああ。そう言えば……俺のオネエチャンになにしやがるんだって……」
「……出来れば忘れてください……」
「オネエチャンに触っていいのは俺だけだって……」
「今すぐ脳内から消してください…ッ!!」
 耳まで真っ赤にしながら否定するのはまだまだ十六歳。
「あはは。言っておくよ」
「……すいません……」
 何度も振りかえって頭を下げる姿。
(ああ、シスコンな弟クンだけじゃなくて、お姉さんも十分にブラコンだね)




 そして迎えたクリスマスボウル。隠す必要は無いと二人はスタメンでの投入だった。
「ちょっと待て!!なんで神龍寺に女いんだよ!!」
 そう叫んだのは元神龍寺生の天間だった。
 ユニフォームに身を包んだ正投手はまぎれもない少女だった。
「しっかも可愛いじゃねぇか!!」
 ずかずかと見知った顔の山伏に天間は詰め寄った。神龍寺は由緒正しき男子校である。
そこにいくら坊主頭とは言え女子が入学、あまつさえ神龍寺ナーガという攻撃型で実力主義の
チームにおいて一年生での正投手というのはおかしな話なのだ。
「おい山伏!!」
「ん、天間!?何しに来たんじゃ!!」
 男子校なんかはまっぴらごめんだと入学三日で帝国学園に転入したかつての同級生に流石の
山伏も良い感情は持ち合わせてはいない。
「なんで女が居るんだ!?」
「んあ、女?ああ……雲水か。雲水なら仕方ないんだ、ん」
「訳わかんねぇし!!」
 グローブを左手に装着して、サングラスを外す少年。それが視界に入った時にはすでに距離は無くなっていた。
「おいゴラ。てめぇ俺のオネエチャンに何か文句あんのかァ?」
 ドレッド姿のラインバッカーはそれだけで威圧的だ。
「阿含」
 彼の方など振り向きもせずに掛かる声。
「わぁってるって、雲水。フィールドん中で殺すから」
 正面からの殺人予告。しかも相手は天才金剛阿含。当然、帝黒からのスカウトマンは向かったのだが
一人は行方不明、一人は大けがを負って帰って来たのだ。
 阿含が帝黒アレキサンダースに入らなかった理由の一つが雲水と離れることを由としなかったこと。
そしてもう一つが自分にだけ声をかけて姉の存在など黙殺した事だった。
「はぁい、先輩ィ?俺の雲水にふざけたことしたら殺すかんね?つか死ね」
「阿含。早くヘルメット付けろ馬鹿」
「んー?」
 試合前の恒例となった二人のキス。雲水も慣れ切って眉一つ動かさない。
「俺が守ってあげんかんねぇ、オネエチャン」
「気色悪い。さっさとヘルメット付けろ馬鹿」
「やっだもう俺の事愛してるくせに。雲子ちゃんってば」
 そしてその言葉通りに阿含は天間を徹底ガードしたのだ。あらゆる場面での攻撃を緩めることなく決して走らせることも
無く、確実に追い込み逃げられない罠の中に。
 そしてそれは内外双方に発生する。帝黒のプレーに気押されたライン陣が崩れ、結果として投手である雲水が総攻撃を受けた。
それは試合としては仕方のないことであり予想もできることだ。しかし、阿含の眼からすれば守れる位置に居る人間が力での勝負で
負けを感じ放棄したようにしか見えない。それで雲水が攻撃を受けたのだ、と。
「……テメエ……今、負けても仕方ねぇって抜いたろ……」
 ラインの一人、仏野を見下ろす鬼神の姿。
「俺がいねぇ時に雲水守んのがテメーらの仕事だろ?あぁ?先輩よォ」
 容赦なく炸裂する拳。罰退として阿含は退場を言い渡された。春大会の一度は許したが二度目は無い。
「……神龍寺のごっついレゲエ……おもっくそシスコンだな……」
「あーだなぁ……アレ、ほんまやったらうちに来る予定やったんやぞ。それもお姉ちゃんと離れるのが嫌だって蹴った
って俺はきいとるで。まあ、綺麗な顔したお姉ちゃんやからなあ……気持ちはわかるけどな」
 そしてこの一件で金剛阿含は関西でも別の意味で名前が通る結果となったのだ。






「罰退なんて……お前はどこまで馬鹿なんだ!!」
「あ"?使えねぇラインブチ殺さねぇだけ優しいだろ!!」
 今にも殴り合いが始まりそうな姉弟の喧嘩は見ているものの心臓にもよくは無い。関西まで遠征したのだから
せめてこんな夜くらいは飲んで忘れてしまいたいものなのに。
「あ"ーそうですか!!雲子ちゃんは俺よりもその使えねーライン陣が大事ですかってんだ!!」
 勢いよく扉を開けて出ていく弟と珍しく剥れたままの顔の姉。阿含はともかく雲水が感情を吐露することは珍しく
それに慌てた山伏がただおろおろするばかりだ。
「………………………」
 阿含を欠いた酒宴の中、雲水の姿が無いのに気付いたのは一休が最初だった。
(ゴクウさん、ゴクウさん)
 浴衣の袷も肌蹴まくったゴクウの裾を握る。
(あんだよ?飲めよおめーも)
(雲水さんが居ないっす!!)
(マジでか!?あいつ真面目だからまさかどっかの滝壺に投身自殺なんてしてねぇよな!?)
(あほなこと言わないでくださいっす!!とにかく探しに……)
 そっと抜け出してその足跡を探していく。同じように浴衣姿のはずの二人はそう遠くにはいかなだろう。
それでもこの周辺には自然はあり、その気になれば簡単に首など括れてしまうのだ。
 月明かりぼんやりと雪が掠めて傘になる。
 欄干に腰掛けて月を見る姿は一人ではなく二人だった。
 思わず物陰に隠れて息を潜める。どちらも手のつけらない猛獣と同じだ。
「……なにも、殴り飛ばすことなんてなかったんだ」
 雪は吐く息で簡単に溶けてしまう。西国の珍しい朧月にかすむ雪。
 掌で溶けたそれを消すように左手が重なった。
「俺が戻れねぇって分かってて、手抜きしたんだ。あんぐらいだったら優しいだろ。それに
お前を守るのがラインの役目だ。最低限の動きもしねぇやつなんざ沈めて当然だ」
 彼女はいつも欲しい物を言わない。勝つことを望まない。
 常に全てを手に入れて、負けなどしらない彼が隣に居るせいだった。
 その彼女が唯一欲しいと望んだ勝利。
 だからどうしても勝ちたかった。
「……帝黒からのスカウト、断ったんだってな」
「あ"ー……んな話もあったねぇ……忘れてたわ」
「行けばよかったのに。お前が戦うには不足の無い場所だ」
 ともすれば堕ちてしまいそうな欄干に器用に座った二つの影。
「なんで?お前居ないのに?」
「私よりも能力の高い投手がいる」
「お前、俺居なくても良いの?いなくなっても良いの?居ないほうが良いの?」
「そうじゃない」
「じゃあ何なんだよ。お前が居るからだろ。俺だけ声かけてなんでお前に声かけねぇンだって話だよ。
誰が俺のフィールド作るんだよ、お前だろ。他に誰がいんだよ」
 吐く息が白い。
「雲水」
 触れた手だけが熱い。
「雲水は俺と離れても平気か?」
 試すような言葉を使わないで居られるほどまだ大人でも悟ったわけでもない。
「気ぃ狂いそ……お前と離れるなんて絶対に無理だ」
「……私じゃお前を活かすことが不完全だ。帝黒なら……」
「違ぇよ。そんなん聞いてんじゃねぇよ。俺と離れて平気かって聞いてんだよ」
 囚われたのはどちらも同じ。自分たちは罪深き生き物だ。
「どうなんだよ」
 答えようとしても声が喉の奥で詰まってしまう。
 分かっていても言葉が欲しい。
「……嫌だ……ッ……」
 いつだって感情を押し殺して生きてきた姉と、彼女にそうさせてしまった自覚のある弟。
 二人、いつも離れることなく離されることなく生きてきた。
「だから最後までお前と一緒にフィールドに居たかったんだ!!馬鹿!!」
 悲鳴にも似たその声。
「……悪かった。殴り飛ばしてから俺も気付いた……」
「なのに、なのに!!いっつも勝手な事ばっかり!!」
「次はしくじんねぇよ。確実に帝王ぶち殺してやっから」
 沈着冷静な彼女が感情を吐き出せるのは彼の腕の中だけ。
「だから……泣くなよ……」
 形の良い頭を抱く左手。
「お前に泣かれっとどうしらいいかわかんねーんだよ、俺……」
「泣いてなんか……無い……っ……」
「あ"ー……だな……雲水はそう簡単にゃ泣かねぇよな……俺のオネエチャンなんだからよ」
 今度は最後まで二人で居よう。決して離れてしまわないように。
「雲水」
 月明かり柔らかく君を包む夜に降る雪は。
 ただ触れるだけの接吻でも甘くて身も心も焦がれるような思いに包まれる。
「阿含」
 月明かり現世に移りて惑うならば迷うならば。
 二つ手を重ねて刃を握り一刀に斬としてしまえるように。






「入れねぇよな……ああいうのって……」
 どうにも癪だとゴクウがビールのプルタブを引き抜いた。この大会で引退する三年から
引き継ぐであろうタイトエンドのポジションだ。
「ありゃ双子だからやべーのか、あいつら双子じゃなかったらあーなってねぇっての?」
「……………………」
 同じように缶ビール持つ手。ボールを受け取ることは出来ても彼女の心を獲ることの難しさを
まざまざと見せつけられた衝撃はまだ冷めないまま。
「俺じゃ雲水さんの泣ける場所になれないのかなあ」
「ハァ!?お前、阿含と勝負するつもりか!?死ぬぞ!!」
「だって、俺だって……雲水さん好きっすもん……」
「……何泣いてんだよ……きめぇな……」
「へっ……泣いてなんかないっすよ!!」
 チームメイトとしてではなく、一人の人間として彼女を愛しいと思う気持ちは負けないのに。
 その結びつきの強さに歯軋りするしかできない。
「まあな、雲水、顔は綺麗だし乳もでかいから気持ちは分かんなくもないけどよー。相手が阿含だぜ?
よしんば上手く行っても義弟が阿含とか死ねるぞ?」
「ゴクウさんみたいのが雲水さんの弟だったら絶対に勝ってるのにーーー!!」
 やけ酒と言わんばかりに煽っていく。
 宴会場から寝室に戻って来る面子はまだいない時間だ。
 二人だけで転がした缶ビールの空。
「!!」
 不意に開く襖の音。
「なんだ?テメーら何こんなとこで飲んでんだ?」
 その声はまぎれもなく阿含のものだ。
「向こうで飲めば良い物を……先輩たちが潰れてたから今なら飲み放題だぞ」
 予想外の二人の姿。きっちりと双方の頬に一発ずつ入った拳の痕。
「う、雲水さんその頬……」
「ああああああ阿含!?その顔!?」
「不甲斐無い失態を互いに晒したから一発ずつ殴りあった」
 濡れたタオルを軽く頬に当てる姿。どうやら手加減なしでお互いにやりあったらしい。
「んじゃ飲みいくか、雲子ちゃん」
「刺身とかまだあったしな」
「海産物から離れろハゲ」
 この二人はそんなに器用ではない。きっとこんな風に手探りでずっと歩いてきたのだ。
「ハゲと坊主は違うと何度も言ってるだろ、それにそんなもじゃもじゃ頭に言われたくない」
 二人同時に振りかえる。
「来ないのか?」
「来ねぇのか?カス二匹」
 彼の隣に居る彼女と、彼女の隣に居る彼。
「行くっす。待ってください!!」
 




 ロッカーを片づけながら出てくる発掘品は次々に机の上に並べられていく。おおよそ阿含が自分では
手を出さないようなものから明らかに彼の好みのものまで千差万別だ。
「おいおい阿含……コンドームまで突っ込むなよ」
 ゴクウの言葉が終わる前に雲水がそれをゴミ袋に投げ込む。
「雲水、こっちは良いのか?」
「え?」
 弥勒が指すのはラベルに『飲めばヌレヌレ!』と書かれた所謂媚薬系のドリンクだ。しかも中身は
しっかりと入っている。ちら、と視線を落とせば賞味期限はとっくにきれていた。
「みそ汁にでも混ぜて飲ませれば、あいつの煩悩も少しは流れてくれるかな。賞味期限、三か月も前に切れてるし」
 溜息とともにそれもゴミ袋に。むしろ飲ませればプラシーボ効果で本人はノリノリになるよ、とはさすがの
弥勒も突っ込むことはできなかった。ある意味分かりやすい双子である。
「腹壊すだろ……こんな何はいってっかわかんねーもん」
 がさがさとまだ地層になっているロッカーをゴクウが漁る。
「!!」
 女子高生が持っていれば可愛いと言われるプリクラ帳。しかし、ロッカーの主は泣く子をも殴り
飛ばす金剛阿含だ。
(もしかしたら阿含のネタ、なんかあるかもしんねーし)
 すかさず道着の中にしまいこんでさらに地層を掘り進む。
 ほかの部員のロッカーも粗方片付き、テーブルの上の戦利品も分配された。
「雲水さんが欲しいものってあったんですか?」
 山のような顆粒のスポーツ飲料の素とテーピングを手にご満悦なのは細川一休。
「ハンドクリームとリップバームだな。どっちも貰いものだろうけど」
 そんな風に笑うところは彼女も十六歳の女子なのだ。
「片付けが終わったら帰っても良いぞ。俺も今日は帰らせてもらうから」
 実質上のチームの纏め役が自主練を始めてしまえば、清掃で困憊している下級生たちも帰れなくなる。
好きな香りのハンドクリームを指先に塗り込んでこんな日は早めに帰ってしまうのも悪くはないのだ。
 雲水を追いかけようとした一休をゴクウが呼びとめる。
「なんすか?雲水さん行っちゃうっすよ」
「おもしれーもん見つけたんだよ。阿含のプリクラ帳!」
「見るっす。鬼見たいっす」
 黒でカバーリングされたそれには表はべたべたとナンパした女に押しつけられただろうプリクラが
無数に張り付けてある。
 どの女にも大した興味はなく、一回寝たら終わりがほとんどなのだから救われない。
「でーわー、御開帳ッ!!」
 ぱら…一ページ目に張られているのは黒髪のロングの少女との一枚。隣の阿含から察するに相当昔のものだ。
同じ画像のもう一枚に書かれた文字は『祝!!俺たち中学生!!』になっている。
 しげしげと見つめればその少女が随分と変わり果てたことに気がついた。
「これ……雲水だ……」
 プリクラは最初の数ページだけで後はポラロイドカメラで写したであろう写真に変わっていく。
 長い黒髪は見慣れたボブに変わる。おそらくはそこが分岐点。
 寝顔、泣き顔、怒り顔、そして笑顔。
 どれも自分で構えて撮ったものだろう。そしてこの小さな手帳はきっと彼にとって大事なものだ。
「これ、寝顔だよな」
 唇から下、浮いた鎖骨とまだ膨らみの足りない柔らかそうな胸。
「……これって、ヤったあとじゃね?」
「いやでも……明るいぞ?」
「阿含なら昼からでもヤるだろ。だって阿含だぜ?」
 恐る恐るページを捲る。恐怖心よりも悲しいことに好奇心方が強い年代だ。
「……………………」
 彼らが想像していたような写真は無く、あるのはばらばらに撮られた二人の写真が一枚に
無理やり繋げられている物ばかり。今のような二人になるまでには時間が必要だったのだ。
 色褪せたテープの痕。
 中学の卒業証書を持ってしっかりと手を繋いだ二人の写真。
「だぁ〜〜〜〜ッッ!!あっぢぃっての……!!」
 勢いよく部室の扉が開かれる。
「あああああああああ阿含ッ!?」
「あ"?何してんのお前ら……んー……ゴラ、何見てんだ」
 ずい、と伸びた手が手帳を掴んだ。
「うわ、なっつかしーわ。コレ。どこにあった?」
「いや、今日ロッカー掃除して、んでお前のロッカーの地層から見つけた」
 いつものように拳が飛んでくるかと思えばそうでもなく阿含はのんびりと手長をぱらぱらと
捲っては目を細めた。
「雲子ちゃんが若ぇ」
 とっておきの一枚は自分にしかわからない場所に隠した。随分と色褪せてしまった大事な
一枚。決して誰にも見せることの無いその一枚。
「ま、コレは俺んだから返せ」
 取りあげてシャツのポケットに突っ込む。雲水を迎えには来たものの姿が無いならば
これ以上長居する理由も用事も彼には存在しないのだ。
 上機嫌で出ていく後ろ姿を見送って、はあ…と大きく息を吐いた。
「阿含のアレはシスコンじゃねぇんだよな」
 ほっとしたと紙パックのジュースにゴクウが手を付けた。
 春大会以来、試合で命知らずは阿含をシスコンと煽り、罰退すれすれのタックルを受けた連中は
数知れない。世の中には命知らずも多い物だ。
 関東大会では盤度の赤羽隼人がうっかりと『百年に一度の天才、千年に一度のシスコンか』と呟いてしまい
試合終了後に阿含の襲撃を受けギターを損傷したのも記憶に新しい。
「確かに、シスコンじゃないんだよな」
 香水を何個か臨時収入として手にしたのは同じレシーバーの弥勒。
「姉だなんて思ってないからな。阿含にとっちゃ雲水は一人の女だ」
 同じ血が流れているのも胎内から一緒なのも彼にしてみれば些細なことで。
「だよな。シスコンってのは姉だから好きってやつだし、阿含のは違うんだよなあ」
 兎にも角にも面倒な双子だ。お互いがお互いの惚気を何の気なしに言うのだから。
 姉は弟の身体能力と頭脳を理解し、そこは溺愛している。
 弟はもはや説明は不要だ。
 並べばどんな鬼でも土下座するような最強で最凶の双子。
「ま、戦利品ももらったし、練習もねーしかえろーぜ!!」
「おーーーー!!」






(あー……ほんっと懐かしいな……)
 手帳のカバーは二重になっていて、その中に一枚だけしまい込んだ写真。
 夏祭りのアイスクリームを二人で齧りながらうっかりと触れた唇。
 熱さと冷たさがまじりあった不思議な感覚。
 小さな双子のキスがほほえましいと誰かが撮った一枚なのだろう。
 実家のアルバムから剥がして持ってきたその写真。
(あん時から雲子ちゃんは可愛かった。あーもうなんで俺、あんな坊主に惚れてんだろ。
こんなに俺が愛してんのに全然無視してくるしよぉ……もー他の女んとこ住み着くぞ雲子
ちゃんってばよぉ)
 アイスクリームの味など覚えてもいないけれども、唇の柔らかさだけは覚えていて。
(あ"ーー……ちゅーしてぇ……)
 まだ熱気の残った空気を吸い込みながら頭の後ろで腕を組んだ。
「随分と間抜け面を晒して歩いてるな、阿含」
「うぉあ!!雲子ちゃんっ!!」
「暇なら荷物持ってくれ」
 突き出されたのは殺伐とした柄のエコバック。これもロッカーの戦利品の一つだ。
「あ、晩飯何?」
「冷麺と叉焼」
「それ俺好きっ」
 伸びた影が二つくっついて、出来れば同じように触りたいと思うこの心。
「……………………」
 無意識に彼女が額の汗を拳で拭った。
(そういや、ここちょっと行ったところにアレあったな……)
 荷物は持ったまま軽く走り出す。弟の突拍子もない行動に慣れ切った雲水にとってはこの程度
で自分も早足であるこうなどとは思わない。精々卵が割れなければ良い程度の認識だ。
(意外と速かったな……何か犬でも見つけたのか?)
 こちらに向かってくる阿含の左手にある物。
「雲水!!コレ!!」
 カラフルなポップロックキャンディーの散りばめられたアイスが一つ。
「あっちいから!!」
「なんで一個なんだ」
「昔は一個を一緒に食ってたじゃん。だ・か・ら」
「……訳が分からんな」
 右手に引っ掛けた箱の中にはぎっしりと詰められた色取り取りのアイスクリームたち。
「家帰って食う分も買ってきた」
 嬉しそうに自分の前に突き出されるアイスクリーム。どちらともなく同時に唇が触れた。
「ほら、やっぱ彼氏と彼女って感じじゃん?」
「お前一回死んでこい。涅槃に逝け」
「死ぬなら腹上死って決めてんだよ、俺は」
「その若さで枯れなきゃいいんだがな」
 その言葉に今度はねっとりと視線を絡ませる。
「あぁん?枯らしちゃってくれんだァ?積極的ィ」
「な!!なんで私がその相手になるんだ馬鹿!!」
「あーほら溶けちまうから早く食えよ。その後雲子ちゃんはじっくりと俺が頂くからよ。
そんな絞り取る宣言されちゃったら俺張り切っちゃうもんねぇ♪あー超楽しみっ!!雲子ちゃんと
いーっぱいエッチなことでーきーるー!!」
 ぎりぎりとドレッドを掴む手。
「馬鹿も休み休み言え!!」
「いやもう嬉しくて死にそ。今夜寝かせねェからな」
 アイスクリームが全部溶けてしまう前に早く帰ろう。
 一番溶けそうなものはすぐそばに居る。






15:13 2010/09/21





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