◆座標軸上のナイトメア◆





「あ"ー、とうとう逝ったかぁ」
電池の数値が一瞬で消滅するようになった携帯電話。できればもう少しだけ長持ちさせてから交換したかった。
暑さには勝てないとヘアバンドでドレッドを纏めて欠伸を噛み殺す。
「雲子ちゃーん、携帯壊れたぁ」
言い終わる前に飛んでくるボール。
回転の綺麗なそれは確実の彼の肩を狙うが、簡単に片手で受け止める。
百年に一度の天才は生活態度の悪さも百年に一人だろうという有様だ。
「きーしゅーへーんーっ!!」
今度はヘルメットが飛んでくる。神龍寺の正投手のコントロールに狂いはない。
「雲水さん……阿含さんとこ行ってあげてくださいっす……」
「雲水、あれうるせぇ……」
一休とゴクウの二人に詰め寄られ、さすがの雲水も困り顔になる。練習には参加せずにチームを暇つぶしをかねての観察。
「山伏先輩」
つかつかと近寄ってじっと見つめる。いくら坊主頭とは言えども整った顔の少女が見上げてくるのは悪い気分ではない。
「受け身、得意ですよね?」
「ん、まあな」
神龍寺ナーガのディフェンシヴラインの山伏は、チームの中でも温厚で頼まれれば断れない体質だ。
「困っている後輩を助けてはくれませんか?」
胸の前で指を組み、少しだけはにかんだような表情。
「ん、まあ。雲水の頼みなら……」
「ありがとうございます」
にぱ。まるで花でも咲いたかのような乙女の笑顔。
金剛雲水がこの笑みを浮かべるときは大抵地獄の蓋が開くときと決まっていた。
(ひいぃいいい!!うううううう雲水さんが鬼可愛い笑顔をぉぉおおおお!!)
(ぎゃあああああ!!阿含居る前でやーめーろー!!雲水!!やるなら俺の居ないところでやれーーー!!)
ムンクの叫びよろしく震えだす二人などお構いなしに雲水の手が伸びた。
「では、遠慮なく」
右手が山伏のユニフォームを握る。
「んなっ!?」
手のひらにびきびきと血管が浮かび般若もはだしで逃げ出す様な形相でそのまま山伏を投げつける。
回転を付けた山伏が飛ばされたのはもちろん双子の弟、たわけたことをぬかした金剛阿含だ。
「ア?山伏先輩ったら空も飛べちゃうわけぇ?」
腐っても天才阿含の実姉は時折弟以上に手がつけられない。
ばきぼきと左手が音をあげて手刀一撃で華麗に沈める。
「……っち、外したか」
心底忌々しいと言った表情に一休とゴクウが涙目に変わった。
(舌打ちしてるーーーー!!雲水さんっ!!)
(うわあああああ!!姉弟喧嘩は家でやれってんだよコノヤロー!!)
次に右手が伸びたのは清水弥勒。たまたま雲水の近くいに居たという不幸だった。
「わーーーっ!!待て待て待て!!雲水落ちつけ!!どうせ飛ばすなら一休にしろ!!」
「そっちも後で投石予定だ。すまない、弥勒……数学と物理のノートで勘弁してくれ」
「二教科だけで阿含に殺られんのは嫌だーーーー!!」
「日本史と古文も付ける」
言い終わった瞬間にさらに先ほどの山伏よりもきつい回転とスピードで弥勒が阿含を襲撃した。
「ん?眼力片割れもかよ。テメー大体雲水になれなれしいんだよ、中で死んでろ」
鳩尾を直撃する左手。この姉弟のケンカに巻き込まれるのは災難以外の何物でもない。
次々に正確に飛んでくるチームメイトを沈めていく左腕。
「げっ!?」
ゴクウの胸倉を掴んで投球姿勢に入る。右足に重心をしっかりと移して照準を定めた。
角度、速度、計算の全てが絡まり合う。
「雲水やーめーろー!!阿含に殺されるーーーー!!」
「追試のマンツーマン対策で勘弁してくれ。ゴクウ」
「え……マジで……?」
小さく頷いて雲水は再び弟を狙い定めた。
人間弾道ミサイルと化したゴクウを見て、阿含がにんまりと笑う。この笑顔は心底心臓に良くない。
「カァモォ〜〜ン、オサルちゃぁん」
わきわきと動く左手に死を覚悟して瞳を閉じる。普段から雲水と仲の良いゴクウこと斉天正行は阿含にとっては邪魔者の一人だ。
「テメー、雲水の弁当食ってんじゃねぇぞカスザルが。しかも教科書忘れたから見せろだ?くっつき過ぎなんだよゴラ」
すでにストーカーの領域など通り越して戻ってきたレベルだ。授業など出ても居ないというのに。
ランニングの鮮やかなオレンジが死出の色だとゴクウは意識を手放した。
「………………」
すでに鬼神と化した雲水から立ち上る殺気で体感温度が軽く五度下がる。
「一休」
「ははははいっっ!!」
両手が肩に置かれて。
「う、雲水さん?」
にこり。まさしく、お願い聞いてくれるかな?の笑顔があたりを北極に変えた。
肩から手が滑り落ちて一休を胸に抱きとめる。さわさわと髪を撫でる手にうっとりと目を閉じてしまう。
彼女の背中を突き破って襲い来る殺気。
「あんのホクロ……ッ!!」
今までで一番のキレ度と米神に浮かぶ青筋。
「ぶっ潰す」
まるで砲丸でも投げるかのようにスピンさせながら撃ちこまれる一発。
ぎりぎりと右腕が悲鳴を上げるのを噛み殺してスピードを増幅させる。
「期末考査対策で……手を打ってくれッ!!」
「俺、愛の為なら死ねますッ!!」
自らの加速も付けて人間砲弾、細川一休が阿含にかけたブリッツ。
「一休、テメーに理由は要らねぇ」
ただ一点を見つめて。
「 死 ね 」
渾身の力でグラウンドに叩きつけられるコーナーバックの姿。
止めを刺そうとした瞬間に頭上に浮かぶ影。
「へ?雲子ちゃん?」
「仕込みは完璧だったな。この勝負……殺(と)ったぞ」
急加速をつけての奇襲。
「痛ッッデェエエエエエエッッッ!!」
「機種変くらい一人で行って来いッ!!この馬鹿!!」
鮮やかに決まる頭突きは今世紀最大の一撃だったらしい。






「と、いうことがあったんだが」
真新しい携帯電話を手にしながら雲水はヒルマにここまでの経緯を話した。
「で、何で雲水まで携帯変える必要あんだ?まさかそこの糞ドレッドが『お姉ちゃんも一緒じゃなきゃヤダ!!』とか
 糞戯言かましたってわけか?いくら糞ドレッドが真性シスコンでも……」
「まったくその通りだ。よりによって私の携帯を真っ二つにしたんだ、この馬鹿は」
『まだ壊れて無いから良い』といった雲水の携帯を手にして阿含はそれを力いっぱい捩じった。
当然、携帯は真っ二つになり、あと一歩で阿含本人も真っ二つになるところで。
無ければそれなりに困ることも多いので結果として携帯を買わなければいけない。 
思えば中学で携帯を持った時から同じ日に機種交換をしてきた。
ようやく使い慣れたころに弟は携帯を壊して帰ってくる。しかも交換するのはその時の最新機種。
「んで、なんでわざわざこんな場所まで来てんだよ……暇だな、神龍寺も」
珍しく銃を持たないヒルマの姿。こんな時は大抵特定の男と居ることが多い。
「悪趣味なカスタマイズするためじゃないのか?私は興味がないんだが」
表面はおろかボタンまでイルミネーションカスタムされた阿含の携帯は夜中でも電気代わりになるらしい。
「爬虫類とか好きじゃないし」
「そういや、ハイセンス通り越した携帯だな。糞ドレッドのは」
ぱちん。はじけるガム。もう一枚を口に放り込む。
同じものを雲水の手に握らせれば迷わずに口の中にそれを忍ばせる。
「雲子ちゃーん、場所いど……何やってんだカス」
頭頂部で結ばれたドレッドの彼も同じように新品の携帯が左手に。
「見ての通り世間話の真っ最中だ。女が寄れば井戸端会議ってのも定説だな」
「ハ?勝手に雲水に話しかけてんじゃねぇぞ、カス」
「それ以上ウチのをカスとか言うと蹴り倒すぞ」
見ればムサシも真新しい携帯を手にしている。阿含とは対照的にストラップすら付けない主義だ。
「で、ヒルマも携帯か?」
男二人の火花などどうでもいいとそんなことを呟けば「そうだ」と返ってくる声。
何時も通りのケンカは手元が狂いお互いの携帯を携帯だったものに変えてしまった。
毎日顔は合わせるものの、無ければやはり困るもの。
面と向かって伝えられないことも電波越しにならば伝えられることもある。
「糞ジジイのは年季入ってたしな。丁度ぶっ壊れたことだ」
「それは壊した、が正しくはないか?」
「相変わらず品行方正なオネェチャンだな。本当に糞ドレッドと同じ遺伝子入ってのか?」
「残念ながら、あれが実弟だ。それに……言うほど品行方正でもない」
双子の弟との関係はお世辞にも清廉潔白ではない。
それ以外でも防衛という名目で雲水は多少のケンカも買うことがあるのだ。
中学の帰り道、阿含に恨みを抱く連中の襲撃でぼろぼろになりながらも何とか帰宅した。
切れた唇、腫れた頬、目の周りの鬱血と紫に変色した痣。珍しく家に居た弟がそれを見てしまったから始末が悪い。
「誰にやられた?言えよ。どんなやつだよ」
「覚えてない。よく見えなかったし、逃げるので精いっぱいだった……」
引き裂かれたシャツと腕に残る痣。おそらくは逃走の際に鉄パイプか何かで打たれたのだろう。
身体を弄る手と傷口の生温かさ。それでも強姦された形跡がないことだけが安堵できた。
「折れてねぇな……マジでなんもされてねぇか?嘘吐くなよ?つか、顔……絶対ぇ殺す……」
その言葉に静かに頷く。
「よし。面倒だからまとめて殺してくる」
その言葉の通り、阿含は一週間帰ってくることはなかった。そして、雲水を襲撃する愚行も激減したのだ。
自衛手段として身に付けた護身術という名目の力。
それでも己の拳一つで男が沈むのを見るのはまるで映画でも見るような感覚でそして妙に滑稽だった。
これが彼が常に味わう感覚なのだと。
「キレるとまずいのは阿含よりも、テメーだ」
ウイッグの前髪を触る指先。対照的で非対称な双子の姉と弟。
「そこまで強くない。必要最低限だけだ」
「どうだかな……あの糞ドレッドが言うこと聞くのもテメーだけだしなぁ……ケケケケケ」






手を引かれて連れてこられたのは携帯電話のカスタマイズを専門にしているテナントだった。
普段からも来ているのか阿含は慣れた手つきで携帯を二つ手渡してあれこれと指示を出している。
「時間掛かるって。どっか行こ、雲子ちゃん」
こんな風ににこやかな場合は大抵ろくでもないことが起きることが多い。
「その辺で何か飲んで待ってればいい」
「えー。折角デートなのにぃ。この辺色々と面白ぇしさ」
遊び慣れた弟は何も知らないような姉を連れまわす。歩き疲れたと立ち止まるまで。
そしてようやくどこにでもあるようなコーヒーショップに落ち着くのだ。
「さっきの靴、なんでサイズあれしかねぇんだよ」
がりがりと氷をストローで掻きまわして頬を膨らませる。
道着とユニフォーム以外の服装は中々に拝むことのできない彼女を、できれば外装だけでも自分の好みにしてしまいたい。
真っ向からぶつかる二人の趣味と主張の間をどうにか見つけるのも阿含にとっては面白いことの一つだった。
「ああいう、足首に絡まるのって俺、好きなんだよ」
「悪かったな、足のでかい女で」
「べっつに。でかくねーもん。でかいってワダアキコみたいなのでかいって言うんだぜ?」
「背もでかいしな」
「俺よりちっちぇじゃん」
昔からこの手の事でからかわれるのは慣れていた。男子校に入学しても彼女の身長は低い方ではない。
チームにはもっと小柄なメンバーも居ればもっと女らしい男子も居る。
「そっち食いたい」
バニラの香りを絡ませたシフォンケーキ。そのままフォークで唇に押し当てて。
舌先がクリームに絡みついて飲み込む喉が上下する。
「あー……雲子ちゃんのケーキのが美味いわ。毎回思うんだけどよ」
部活中心の生活になってからは大分そんなものを作る時間も減ってしまった。
精々目の前に居る弟への苛立ちを紛らわせるために早朝に作る程度。
其の時だけはロードワークの汗では無くオーブンの前で汗を掻く。
そして必然的にその対象物たる彼はことごとく口にすることが出来ないのだ。
「でもアレもいいな……バレンタインの時の」
「お前に脅されて作ったガナッシュか?」
「脅してねぇよ」
「チョコレートを寄越さなければ退学すると言ったのは何処の誰だ」
その結果、当時の一年生を含むナーガメンバー全員が雲水のチョコを食べることに繋がったのだ。
買い直すのも面倒だからと一度に生産して纏めて箱に詰め込んで。
バレンタンデーは雲水とサンゾーのチョコレートに男子校の神龍寺は大騒ぎとなった。
「雲子ちゃんが可愛いのは事実だけどさ、もうちっと俺好みのカッコとかしてくんないわけ?」
「お前の好みはギャルとかそのへんだろ。無理だな」
「んでもさ、そのナニ?ロリ?ゴス?スタイル良いし顔も綺麗だからいいけどさ。あれってブスがやったらえらいもんよ?」
時としてこの服装は武器となる。外見を完全変えてしまえば誰も阿含の姉だとは思わない。
それほどまでに普段の坊主姿が印象的なのだと、雲水はストローを銜えた。
「ひっらひらでさ、ちょーっと引っ張ったらびりびりになりそうじゃん」
「その場合はお前が買ってこいよ。同じのを」
まったく違う自分になってしまえばいい。自傷行為を繰り返すよりは余程健全だと位置付けて。
左手首に巻かれたレースのリボン。
「ん?何、雲子ちゃん」
「鬱陶しい髪だから結んだらどうだ?」
「うっわマジで言ってんの!?俺にリボンって気持ち悪い以外のナニモンでもねぇよ」
テーブルに肘を突く彼女とフラペチーノとマグノリアの香。
包み込むものは全部偽物。この外見も何もかも。
「…………………」
ドレッドヘアの彼の差向いには絵本の中から飛び出したかのような少女。
この二人が同じ遺伝子と細胞を持つなどとは考える方が可笑しいだろう。
チェシャ猫は素知らぬ振りをして少女を異世界へと連れだした。
少女も騙されたふりをして追いかけた。太腿のリングベルトに銀のナイフを仕込んで。
「よし」
自分の左手と彼女の右手をリボンで結びつける。
「これならイケる」
お互いに随分と違う姿になってしまった。それでも、フィールドに立てば同じ姿になる。
もしも双子じゃなかったら?もしも姉と弟じゃなかったら?
不可能なことばかり繰り返し考えて馬鹿なことだと吐き捨てる。
「雲水」
この結んだリボンが手首を引きちぎろうとも、決して離れはしない。
時間軸も確立の座標も全て書き換えて二人だけの空間と存在だけを作りたい。
「好き」
「他に言うことは無いのか?」
「愛してる」
「胸焼け起こしそうだ」
金剛阿含は分かりやすい男だ。相手の対価に見合った行動を取る。
それがキスであれセックスであれ偽物の愛の言葉であれ、過不足はほとんど存在しない。
どれだけ磨かれた身体でも湯水のような現金でも、彼を所有することは出来ないのだ。
事実は阿含の女の一人というポジションだけ。
「本当に」
「ん?」
「こんな男のどこが良くて引っかかるんだかな……」
はぁ、溜息一つ。ひっきりなしに鳴り続ける携帯と夜毎出かけていく姿。
「えー、なんでぇ?俺、優しいよ?特に本命には」
其の本命というのが自分だと分かりきっていてもそう気分のいいものではない。何せ相手は実の弟だ。
胎の中から愛を育んだと言い放つ唇にケーキを押しつけて。
「なんでさ、リボン白いの?」
唐突な言葉に引き戻される。
「赤だったら良いのに。赤い糸よりもしっかりと結んでくれんだろ?」
天才は余程自分よりもロマンチストだろう。叶わないものは力で叶えるだけの天賦の才。
吹くだけ飛ぶような己の運命でも。生まれおちて果てるまでのその一瞬でも。
目の前の彼を一度でいいから越えてみたいと思うのは浅はかだろうか。
「ああ、でも俺と雲子ちゃんのは超合金の赤いワイヤーだわ。切れねぇ」
赤と黒がよく似合うと思う。赤は酸素に触れて黒になるように。
だからきっと彼は返り血が似合い、吐き出される黒をも纏うことができるのだろう。
「携帯できたかなぁ?雲子ちゃんのも俺プロデュース」
「変な柄とか入れてないだろうな」
「どうかなぁ?」
根本を覗けば彼は本当に無邪気だ。己の本能に忠実に振る舞うだけで全てが思うままになる。
その強さにほんの少しだけ羨望と憐みを混ぜて自分は隣に立つだけ。
積み上げられた屍の上、君臨するのは本物の天才だけに許されるのだ。
「行こ、雲子ちゃん」
いつかこの手が自分以外の誰かを求めるようになるその時まで。
それまでは少しだけ短い歩幅で彼の隣に居ようと思う。




カスタムされた携帯電話はボタンも慌ただしく光り輝く。
「黒に赤ってなんか良くね?」
同じ形で色違いの携帯は、初めて持った時からそうだった。そもそもは阿含がいつでも声を聞きたいという理由で買ってきたのだから。
それでも雲水の携帯の不携帯は今に始まったことでもなく、その度に出るまでなり止まない着信音。
「ああ、そうだな」
「でー、雲子ちゃんのは女の子っぽくボタンがピンクに光る感じ」
どうせこの携帯も数カ月の命だ。その度に覚えなおすのが面倒だと溜息を一つ。
彼女には赤を自分には黒を。
「夜中でも光ってそうだな」
どんな闇の中でも見つけられるように。その光と電波が自分たちを繋いでくれる。
ずっと胎内で二人だけで居れたらどんなに幸せだっただろう?
この手首を結ぶリボンのように指を絡ませてきた十ヶ月。
先に出て行く彼女に伸ばした手。『好き』の次に知った感情は『寂しい』だった。
「阿含?」
自分が先に取りだされ兄と妹だったら何かが変わっただろうか?
結果は恐らくかわらずに同じように手折っただろう。精々彼女があとに生まれたからと従順になる程度の差。
どうでもいいことを考えて仮定と仮説だけが頭のなかで回って廻る。
「どうかしたのか?」
胸が苦しくてどうにかしてほしいのに、この言葉を紡ぐことができない。だから左手を伸ばす。
どうかどこにも行かないで。置いて行かないで、二人だけで居させて。
「んー……ちょっと昔の事思い出してただけ」
にぃ、と唇がいつものように歪んで笑う。閉じ込めたはずの最初の好きという記憶の行方。
「思い出し笑いはあまり良くないらしいぞ」
「常に欲求不満でエロい事ばっか考えてっから仕方ないの。雲子ちゃんが毎日セックスさせてくれれば治まるのにぃ」
「一遍死んでこい。二度と戻ってこれないように読経くらいはしっかりとしてやる」
自分が死んだとき、彼女はどんな事を思ってくれるだろうか?
解放されたと安堵のため息か、それとも泣いてくれるのか、どの道自分は知ることは無い。
「…………………」
それが本意でないことくらいは分かっている。それでも形になる言葉が欲しいだけ。
「……余り馬鹿な事は言うな。できればそんな読経は無い方がいい」
自分の左手を引いて進む後ろ姿。
喧嘩をしても喧嘩を買ってきても、血まみれで帰っても、彼女は最終的にいつも自分の味方だ。
半歩分だけ早く進む右足。
きっと、生涯一度の恋だろう。
「雲子ちゃーーんっっ!!」
「うわっ!?何だ急に!!」
後ろから抱きつけば、じたばたと逃げようとする。
「いやもう大好きっ!!好きすぎてヤバっ!!」
きっとこの先も平坦な道などないけれども、一緒に生まれてこれて良かったと思うだろう。
「だからさぁ…………俺の事置いていくなよ、一人にすんなよ……雲水……」
「わかったわかった。だから離れろ。暑苦しい」
掌をつねられて、腕が引きはがされて。
「痛ってぇ……俺の事愛してないのかよー」
「よくわかったな。それに愛情は安売りするものでもないぞ」
「嘘吐き」
「?」
「俺がプロポーズした時、良いって言った癖に」
「……すまないが、記憶にない」
解けるはずのリボンは結んだまま。
「三歳と五歳と十歳と十三歳の時に、プロポーズしてる」
「十三はともかくとして……三つの頃なんか覚えてるわけ無いだろ、馬鹿」
「俺は覚えてる。全部。そんときに言ったんだ、大きくなったらねって。もう十分でかくなったろ、俺もお前も」
「帰り道で聞いてやる」
「ヤダ。今聞いて」
 抱き寄せて泣きそうな視線が絡みつく。
「そんな顔するな、阿含」
「だぁって……いっつもそうじゃん、俺の気持ちなんか分かってて分かって無い振りしてさ」
 手首を掴むその力も、本気を出せば簡単に折ってしまえる。
「……阿含」
 手を伸ばしてその首を抱いて。
「雲水?」
「帰ろう、家に。その方が良い」
 きっとこんな姿は誰にも見られないほうが良い。自分も彼も。
「帰ったら二人っきりだもんな……」
「ああ」
「うん」
「だから……そんな顔しないでくれ」
 言葉使いも随分と変わってしまった。彼女をそうかえてしまったのは自分が起因なのは分かっている。
 壊れても壊してもどんな形になっても、誰にも譲れないこの思い。
「雲子ちゃんがそう言うならッ」
 わざと抱きあげれば抵抗せずにされるままに。
「んじゃ愛の巣に帰りまショ」
「何が愛の巣だ、馬鹿」






ドアを蹴り飛ばさなくなったのは成長したと言うべきなのだろうか。
上機嫌で真新しい携帯を弄る弟を尻目に自分の部屋へと向かう。
手早に着替えて再度ブーツの紐を結んだ。
「へ?雲子ちゃんどこ行くの?」
「お前はそこで待ってろ。くれぐれも勝手に出かけたりその辺をちらかしたりするなよ」
ぎろ、と睨んでくる瞳。見慣れたシャツとジーンズとトートバッグ。
ドアの閉じる音。一人きりのリビングは色を失った世界。投げ出した携帯プレーヤーと絡まったままのイヤホン。
(つまんねぇの……この年でお留守番ってかよ。だったらヤラせろっつの)
ソファーに寝転んで脚を投げ出す。恵まれた才能と天性の身体。
左手を伸ばしてもこの手を取ってくれる彼女が居ない。
(いいじゃん……なんで好きじゃダメなんだよ……)
あの日から彼女は変わってしまった。ただ愛したいだけなのに。
壊してしまったのは自分。手を伸ばしてどうしても触れたかった。
本当はもっと優しく抱きしめたいのに、この強い力をどうしたらいいのか分からない。
(気ぃ狂いそ……いや、もう俺頭逝っちゃってんだよ……とっくの昔に)
自重気味に笑うところなど見せなくても良い。必要のないことは教えなくても良い。
永遠に明けることの無い夜に閉じ込めて二人で居たいだけなのに。
(あ"ーー……俺ってなんて一途なんでしょうかねぇ……あれだろ、雲子だって俺の事
好きじゃなかったらヤラせねぇって話なんだよ……)
 ウトウトと消え始める意識。
 伸ばした手に触れる暖かな肌が恋しい。
(だから……こんなときは傍に居ろってんだよ馬鹿雲子がよ……)
 無機質な携帯電話でも二人を繋ぐ大事なツール。
 彼から掛けることはあっても彼女からは滅多なことでは掛かっては来ない。
(惚れちゃってる俺が負けってことなんでしょ……)
 鳴らない電話を握る夜も、隣に知らない誰かのいる夜も。
 欲しい人はたった一人だけ。






「居睡とは随分な御身分だな、阿含」
額に触れる金属の感触。目を開ければ至近距離にある彼女の顔。
「ほら」
かつん、と投げられた缶コーヒー。
突き付けられるコンビニ袋には目一杯入ったシュークリームとロールケーキ。
「とりあえず、十三歳までの結納分だ。あの頃のお前の好物はこれだろ?」
いつも先に食べ終わる自分に、半分を手渡してくれていた。
「へ…………」
「口約束で婚約不履行だとか言われるのも嫌だからな。ついに言っとくが、それ以降は受け付けないぞ」
ぼんやりとしていたところに投げつけられる小さな箱。
小さな女の子が好きそうなファンシーな絵柄。箱の側面には二番の文字。
「中は玩具の指輪だ」
「………………」
「三歳と五歳の私だったら、それをお前に渡したんだろうな」
見上げる雲水の姿は十七歳で随分と大人になってしまった。
「あとは面倒だから受け付けない。まったく、探すのに八キロ先のコンビニまで行ってきたんだ。
 夕飯くらいはお前が作っても良いんじゃないか?ただし、キッチンを汚すなよ」
足首近くに座りこんで、ぷいと横を向く姿。
終わらない悪夢は自分で切り裂くしかなかった、彼も彼女も。
身体を起こして手を伸ばす。腕の中で感じる暖かさはずっと変わらない。
「……好き、世界で一番愛してる……」
「わかったわかった。何人目に言われてるかは分からないがそういうことにしておいてやるから離れろ」
「一番最初だよ。初めては雲水に言った。俺の本当の気持ちも雲水にだけ言ってる」
肩口をかぷ、と噛まれる。こんな時には突き放していけないことも知っている。
「もう少しこうさせてて」
「後五分だけだぞ」
「……ん、分かった……」
 見せられない涙交じりの笑み。きっとこんな顔は彼女しか知らない。
 他の誰にも見せる必要は無いのだ。
「これさ、指輪のおまけにチョコ入ってんのな……」
「そうなのか?」
「そうだよ」
 唇に丸いチョコレートを挟み込む。
「雲水」
 顎を取ってそのまま口移しで入りこむ甘いかたまり。
「随分と甘いな」
「キスは甘いほうがいいだろ?」
 世界で一番大好きな人だから。
「そうだな」
 大事にしたいだけ。
 だから、ずっとずっと一緒に居てほしいだけ、願い事は一つだけ。
 抱きしめあって眠ることがただの惰性だなんて思ったことなんか一度もない。
 枕を抱くなら自分を抱いてほしいから、同じように彼女を抱くのだ。
(投手だから指輪……嫌がんだよなあ……今まで何回も嫌がられてっし……)
 右手に左手を重ねてみる。薄闇に浮かぶ肌はやけに生々しくて。
 うなじに唇を落としてそのまま背中に小さな痣を刻んだ。
(……指じゃなきゃ良いか。うん)
 銀色の細い鎖に通されたプラチナリング。
 目が覚めないようにそっとその首にかけてチェーンを止めた。
(知ってっか?その指輪にには俺から一生離れられない強力な呪いが掛かってっからな)
 額に小さなキスを一つ。
(おやすみ、愛してっぜ)
 銀色の小さな光は星にも似ていた。




捻じ曲げてしまった時間軸も心も解けないならばいっそ絡ませてしまえばいい。
其の重なった部分ですら愛しくて苦しいから。
「阿含さん、なんすかその鬼プラスチックな指輪は」
ベンチに座りこんだ問題児二人は練習はせずに表向きはミーティングでさぼりを決めた。
ぎりぎりまで広げられたワイヤーの銀色の指輪は彼の左手の第四指を飾る。
「あ”ーーー、これははな、時を越えて三歳の時の雲子ちゃんが俺にくれたのよ。俺、三歳、五歳、十歳、
 十三歳とプロポーズしてっからな。あとはあれか?やっぱ十八禁とけねぇとうちのハゲ子は俺の愛を受け止めねぇってのか?」
にんまり、と嬉しそうに笑う唇。視線は当然のように投球姿勢の雲水に。
「あーやっぱいいよなー、脚とか腰とか……ほんっと、俺好みに育ったっていうか、俺が育てたっつーか、仕込んだっつーか」
「雲水さんにそんな生々しいこと言わないで下さいよ……俺だって雲水さんにプロポーズしてんすから」
「あ”!?」
「言っときますけど、阿含さんにも負けないっすよ」
「殺すぞ」
「愛の為なら俺は死ねますっ!!」
 レシーバーとコーナーバックの不毛にして熾烈な争い。
「!!」
 睨みあう二人のちょうど真ん中をすり抜けていく回転の利いたボール。
 溜息一つ、こりきと首を鳴らす。
「雲水……今本気だったろ……」
 ゴクウの声に騒動の根源は首を横に振った。
「投球で人が殺せたらなって……ちょっと思った」
 ユニフォームの下、誰にも見えない場所に隠された指輪。
(まったくあの馬鹿……一体いくらつぎ込んだんだか……)
 朝起きてみれば首から下げられた銀色の指輪。一目見ただけで金額は考えない方が良い物だと確信して。
 呆然としていれば同じようにのろのろと身体を起こした阿含が手を伸ばした。
「なんだこれは……」
「何って……婚約指輪ぁ……雲子ちゃんが俺にこれくれたからぁ、お返しっ」
 左手の薬指には玩具の指輪が窮屈そうに存在していた。
「馬鹿、指を痛めるだろ」
「指ぃ?別っつにいいじゃん。雲水が俺に指輪くれたってことのが大事なの。俺には」
 絡ませた小指。
「約束したじゃん……おっきくなったらって……」
 まだ眠いと閉じられる瞳。
「………………………」
 外してしまうのは簡単なことだ。けれども、すぐにそうしてしまえば彼の気持ちをも捨ててしまわなければならない。
 そこまで割り切れない思いを抱いたまま育ってしまった。
 まだ、彼が起きるまでには少し時間がある。
 そっと部屋を抜けて日課のロードワークに向かう。少し考える時間が彼女にも必要なのだ。
(ああもうまったく……あの二人は後で別メニューだな……)
 もう一度右手がボールを勢いよく投げつけた。
 二連打の剛速球も簡単に受け止めてしまうような存在。
「あっぢ……雲水さーん!!鬼熱いっすー!!」
「雲子ちゃーん!!ダーリンにそんなもの投げちゃダメっしょーー?」
 今度は回転を利かせたヘルメットが阿含の頭を直撃した。
「誰がダーリンだ馬鹿者!!お前ら二人は後で山伏先輩乗せて腕立て千回だ!!」
「えーーーー!?鬼酷いっすーーー!!雲水さーーん!!」
「あ"ーー、俺は雲子ちゃんに乗りたぁいッ」
「阿含さんはいっつも乗ってるじゃないっすか!!俺だって乗りたいっす!!」
「……細川君、あっちでちょっと二人でお話しよっか♪」
「い!?」









神龍寺ナーガ、関東で最も大はしゃぎするチーム。
そんな愉快な毎日の一コマ。








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