◆紅い月◆






窓から差し込む光に血がにじむと思えるようになったのはいつからだろうか?
あの月は色など無いと知った時にどうしてこんなに赤いのに?と感じた。
すでに生命などはほとんどなく、太陽の光を受けて月面は輝く。
其の満ち欠けは人間の身体にも影響を及ぼし様々な現象をも起こすらしい。
そう考えれば傍らで眠る弟が返り血塗れで返ってくるのもそんな月の夜が多い気がした。
望まれたその真円を望月、欠けたる翌日を十六夜。細い三日月よりも消えそうな繊月。
(三十一日は末にカウントされるから……だと、晦日月になるのか……)
今夜の月は十三夜の月。まだ満月には少し遠く帯びた光も柔らかな金色。
(……そういえば、前は金髪だったんだな……)
自分の右手にしっかりと絡まる彼の左手。
指を絡ませたまま枕に顔を埋めて寝顔だけならばまだ十七歳。
其の胸も腕も随分と大人になってしまい、背中には龍が踊る。
「……………………………」
月は自分では輝くことができないという。
それでも人はその欠片に思いをはせて様々な名前を与えた。
天才の弟の影になる自分はあの月と同じなのだろうか?自分で輝くことのできないように。






伸びた手が小さな頭に触れる。
本来ならば艶やかな黒髪が存在するであろうそこは、少年のように刈り込まれ形のよさだけを誇示した。
なだらかな肩と浮いた鎖骨。散らばる赤い痣。
「あー……あっちぃ……」
治まらない熱はまだ体内をめぐってしまう。
こんな風に眠る彼女をまじまじと見つめるのは久々かもしれない。
すらりとした手脚には細やかな筋肉が張り巡らされ、長身を引き立てる。
黒く塗られた足の爪。弾力のある上向きの胸。
右腰に刻まれた龍だけが異物で異質だった。
(やっぱねぇ……おそろいにはしたいってもんでしょ?)
自分の利き手が触れる右腰に同じものを刻ませたい。自分たちが一つなのだと、自分が居ない時にも彼女に知らしめる為に。
(エロいっちゃエロいけど、そうじゃねぇんだよな……コイツの身体って)
腰骨をがり、と噛めばぴくりと身体が震えた。
「……阿含……?」
唇が肌に触れる度にくすぐったいと頭を押しのけようとする右手。
「なんだよ、起きたの?」
「そんなことされれば起きるだろ……まったく……」
ぺち、とシーツに沈められる。不規則に刻まれた皺が残雪のように心を掻き乱す。
「なーんか、あっちぃし……治まんねぇの……」
伸びた腕に包まれて肩越しに見上げる月の形。
「もっかいヤラせて。熱くて死にそう」
「……まあ、いいが……どうした?熱があるのか?」
こつん。ぶつかり合う額。重なる視線に思わず笑えば耳を掴む彼女の指。
「何がおかしいんだ」
「そっちじゃねぇモン」
右手を掴んでそのまま自分の脇腹に当てて、滑らせる。
「コッチ。あっちぃの治まんね……」
掠めるようなキスをして身体を押しつければ空いた左手が背中を抱いてくれた。
柔らかった指先はボールに触れる度にしなやかにそして硬くなっていく。
割れた爪。硬化した節。浮き出た血管。中性的な身体はストイックな彼女を其のまま表してしまう。
「刺青なんか彫ったから熱いんじゃないのか?」
「だったら雲子ちゃんだってそうなるっしょ。俺のはただの欲求不満」
「……まだ少し、痛い時がある。お前もそうだったのか?」
正味二週間過ぎた雲水の右腰は、シャツで隠せるギリギリの位置に龍が住む。
腫れは漸く引いて汗が染みることも少なくなった。
「んー……どうだったろ」
面倒だと抱き寄せてそのまま倒れこめば自分の上に重なる姉の身体。
「あー、そうだ。雲子ちゃんピアス開けよ。絶対ぇ似合うから」
喉元に触れる唇。軽く吸いつけばぼんやりと残る小さな痣。
「んー?付けるんだったらもっとキツメに付けて。すぐ消えちまう」
甘える声と絡まってくる腕。この左腕を折ったら彼はどんな顔をするだろうか?
それとも誰かがそうするのを望んでいるのだろうか?
「阿含」
ぺたぺたと触ってくる手を引き剥がして。
「私はこれ以上、自分の体に傷をつけたくないんだがな。大体……コレだって不意打ちみたいなもんだ」
思いだしても納得のいかないことの一つ。
ちりちりとした引っ掻くような痛みと何かが肌に触れる感触。
両手を頭上で縛られて動きを封じられた状態で目を覚ます。
やけに嬉しそうに笑う弟の顔と金属音。
「あ、起きた?」
「……?……」
状況を理解するには情報が少なすぎる。不安が籠る視線が絡んで彼は満足そうに唇をにぃ、と動かした。
「俺と同じの入れちゃおうと思って。大丈夫、背中とかじゃねぇし。そんな痛くないっしょ?そんなにおっきくないし」
右腰に刻まれたそれを見て声を失う。
「俺の手が触るとこにしたの。俺って頭良いよなあ。雲水に変なものなんか入れたくねぇし」
三分の二程打ち込まれた墨と身体を走るじんわりとした熱。
じくじくとした痛みに眩暈を覚える。
「クスリきれちゃったかな?」
「クスリ……?」
「予定じゃ完成してから俺のキスでお目覚めのはずだったんだけどな。薬慣れしてっから早く切れたんだ」
チープな言葉にするならばそれは素敵なサイコホラー。
自分の知らないところで改造される自分の肉体。
普段は人前にさらすことの無い肌に打ち込まれる黒は其の白をかえって強調してしまう。
「あ"ーーーコンマでもずれたら殺すぞ。俺と全部同じじゃなきゃ意味ねぇんだからよ」
上着のポケットを漁って錠剤を取りだす。歯列を割って入りこむ指先。
その指先を関節ごと噛み砕いてしまいたい衝動を飲み込めば、錠剤は喉を滑り落ちて行くだけ。
「大丈夫、大丈夫。コレ、ただの痛み止めだから。雲子ちゃんは何も心配しなくていいからネ?」
何をどうしてこれを心配するなと言うのか。
「俺とお揃い。嬉しいっしょ?」
そんなときの笑顔は昔から知ってるあの阿含なのだ。
「右耳に、ピアス開けてさ」
不意に意識が引き戻される、其の声に。
「開けない」
「雲子ちゃんのケチ。開けたほうが絶対に良いって」
右側に執着するのは彼が左利きだからだけではなく、もっと奥深いところにもあった。
彼女が最も使役する右に自分を刻みこむことで離れていてもどんな時でも互いが一つだと理解させるための手段の一つ。
「開けてくれたら合宿行く」
それでもこれ以上自分の体に異物を入れるのは嫌だと首を振ってしまう。
「合宿は刺青で足りないのか?」
鎖骨に触れた唇。頭を抱いてくる左手。
「練習試合もでる。だからピアス開けて。普段から付けろっていわねぇから」
そのうち、この取引は命も簡単に入ってしまうのではないかという錯覚。
絡まるように抱いてくる腕が身体をひっくり返す。今度は覗きこまれる立場になり、どうしたものかと視線を泳がせてしまう。
右耳を噛まれて目を閉じる。
「本当に出るんだな?」
「んー」
「ただし、これが最後だ。これ以上身体に何か入れるのも削るのも嫌だ」





「雲子ちゃーん。練習終わったぁ?」
作為的なほどにこやかでさわやかな笑顔の阿含が現れるときは大抵災難が降りかかる前兆だ。
こんな時はさっさと雲水を人身御供に差し出してしまったほうが良いこともよくわかっている。
「雲水、阿含来てっぞ」
ゴクウの声に小さく頷く。ヘルメットを外して首を一回、こき、と鳴らした。
練習が終わったらピアスを買いにいくという約束の為に、いそいそと弟はグラウンドまで来たのだ。
(そこまでピアスを開けさせたいものか?)
ゴクウの腕が右腰を軽く打った。
「早く行けよ。また大暴れされちゃたまったもんじゃねぇ」
「すまない」
「だったら物理のノート貸せよ。ま、なんだかなんだ俺は阿含もお前も嫌いじゃないけどなっ」
青空に浮かぶあの雲が流れるように、己の名の意味を考える。
名前というものは不思議なものでまるで決められた道筋のようにその運命を示唆することもあるという。
流れる雲のように水のように、形を変えても存在するもの。
「雲子ちゃーん!!まーだー?」
返事代わりにボールを投げつければ簡単に片手で受け止められてしまう。
完全に嫌いになれればどれだけ楽だろうか?考えても仕方のないことばかりを繰り返す。







クッションの上に座らせてキスを繰り返す。
ちくちくとしたアルコール特有の冷たさが耳朶に触れた。
「……ピンで開けるのか?」
中学に入って早々に弟はピアスを付けた。固定されたホールも今では気まぐれに飾られる程度。
「いや、これ使うわ。変な角度にはいったら嫌だし」
左手がピアッサーを持って右耳を挟み込む。トリガーを引けば後は簡単なこと。
「痛くねぇから」
がちゃん。響く音と耳に感じるじんわりとした熱さ。異物の打ち込まれた個所の小さな拒否反応。
無意識に寄せられた眉。
「ま、これで良いか。んで、ピアスはこっち」
アルコールを吸ったコットンで耳朶を押さえて既存のピアスを外して引き抜く。
小さなボールのついたシンプルなピアスが耳を飾った。
透明の中に解けたように揺れる赤。
「固まるまではそれつけてさ、学校行くときは外してこっち付けれてばいいし」
シリコン樹脂の小さなピアス。
「最初からついてるのじゃ駄目だったのか?」
硝子の部分を触りながら何気なく呟いた一言。
「完成するまで刺してるってのはさ、それが雲子ちゃんの穴を固定させるわけじゃん?」
「まあそうなるな」
「だ・か・ら。そのピアスじゃきゃダメ。それ、世界に一個しかねぇんだから」
唇が横に歪に笑う。
「どういうことだ?」
「中に俺の血、入れたの。そういう店があってさ。だぁってさ、二十四時間挿れっぱなしにしたいけども
 できねぇからせめてピアスで我慢しとこうっていう俺の男心?そんな感じ」
「…………阿含、誰が何を二十四時間どうしたいって言った?」
じりじりと痛む右の耳朶。
「二十四時間、雲子ちゃんの中に挿入してたいっ」
「そうか、そういうことか」
「うんっ」
「よし、死ね!!」
関東で最も喧嘩を売りたくない男、金剛阿含を殴り飛ばせる拳が容赦なく炸裂した。





付けかえるのも面倒だとガーゼを切って右耳を包む。そのままテープで固定すれば怪我に見えるという寸法だ。
洗面台の鏡で見てもそう怪しまれることは無いと思う程度。
「んあ……雲子ちゃんもう起きたのぉ……俺まだ眠いんだけどぉ……」
のろのろと後ろからだらしなく抱きつてくる腕を剥がす。
「あー……おはようのちゅーして」
「もう学校に行く時間だ。気が向いたらお前も来い」
もぞもぞと胸や腰を弄る手をぺちん、と跳ね除けて。
「んじゃ俺も行くかぁ……マジねみぃっての……」
自分よりも仕度に時間がかかる面倒な弟。その間に昼食になる弁当を作り上げ自分のトートに突っ込む。
珍しく袖の通された道着姿のほうが普段の恰好よりも随分と似合うように思える何か。
欠伸を噛み殺してオークリーを押し上げる親指。
「で、おはよーと行ってきましょうのちゅーは?」
「なんだその『行ってきましょう』というのは」
「ん、だって一緒に行くから。それとも『行きましょう』のちゅー?」
「くだらな……」
ドアに彼女を押しつけて奪うように重なる唇。
「んー、ぅ……」
入り込んでくる舌先と角度を変える時にだけ許される呼吸。
薄い背中を抱きこんで支配するようなキスは朝からするものではない。
「んじゃ行きますか」
その言葉に雲水が親指で唇を拭った。
「あ、ひでぇ。泣いちゃうぞ、お姉ちゃんがいじめるっ」
この弟と生活するには多少じゃない強さが必要だ。
「お前のせいで遅刻しそうだ。あの石段の全力疾走は勘弁だな」
シリンダーが重なる音と駆けだす靴音。
神龍寺ナーガのレギュラーメンバーの脚は伊達ではない早さだった。







神龍寺の石段はちょっとした修業になる長さだ。ロードワークの延長として捉える雲水には苦になることが少ない。
しかし、通常の感覚を持つ生徒にとってはまさに心臓破りであり遅刻者殺しの石段だ。
絡まった指先を解いて荷物を持ち直す。ご丁寧に弟は全力疾走の間もずっと手を繋いでいた。
「ん?登んの?」
「ああ」
「手ぇ繋げねぇじゃん」
阿含の体力からすればこの石段程度は数には入らない。天才とはかくも残酷で横暴な生き物だ。
「あ!!雲水さーん!!阿含さーん!!」
砂煙をあげながら爆走してくるのは細川一休。
「雲水さん、荷物持ちま……げふっ!!」
がつん、と頭上から落ちる拳。
「鬼痛いっす!!」
「たりめーだ。痛くしてやったんだからよ、感謝しろ、このホクロ」
「遅刻するぞ、お前たち」
その言葉にひょい、と阿含は雲水を膝抱きにしてしまう。
腹の上に乗せられた二人の分の弁当が揺れたりしないような絶妙な角度と位置取り。
「んじゃしっかり掴まって、行きますんでぇ」
「ああ」
心臓破りの石段の大爆走。
神龍寺名物、金剛阿含の通称滝登り。呆れ顔の姉を抱えてトップスピードのまま最上段まで駆け上がる。
唯一の欠点は抱えられる側が酔いそうになることだと、雲水が呟いた。
それでも遅刻をするよりははるかにマシだと無理やり自分を納得させて。







一年の時は同じクラスで二年になってからは二人は別のクラスの配置になった。
雲水にすればそれはきちんとした授業を受けられる環境であり、阿含にすれば引き離された形になる。
「雲水、次の問題当たんだよ。悪ぃ」
両手を合わせて此方を拝むのはチームメイトの一人でもある斉天正行。
「この問題か?」
「サンキュ」
後ろの席で居睡をするのも同じチームメイトの細川一休だった。
進学校らしく成績である程度はクラス編成されているのだが、授業に出ても出なくてもさほど困ることの無い頭脳を持つ
阿含はその性格と腕力を最大限に考慮して若干血の気の多い人間が配属されたクラスに。
居ても居なくても常に付きまとう恐怖。それが金剛阿含の特性の一つだった。
(あ″ーー……ヤル気ねぇっつの……こんなカスの集団に突っ込まれても。俺は雲水に突っ込みてぇんだっつの)
授業など端から受ける気は無いと机の上に投げ出された脚。
クラスメイトが思うのは早く授業終了の鐘が鳴れば良いのにということだけだった。
無論其の中には教科担任も入ってる。
このクラスの支配者は他ならない金剛阿含だ。
(雲子ちゃんの弁当の中身なんだろ……つかマジであっちいな……ウゼェ……)
今頃彼女は右耳のガーゼを少しは気にしているだろうか?そんなことばかりを考えてしまう。
やけに蒼すぎる空に浮かぶ真昼の月はそれが空洞だとは思わせない。
届かない恋はあの月に手を伸ばす物に似ていた。
捲って眺めるだけで覚えられる文字の羅列よりも、彼女の横顔を眺めるほうがよっぽど良い。
昼休みを告げる鐘の音と同時に机を蹴り倒した。
「雲水さーん、一緒にお昼食いましょうっ」
「雲水、おかず寄越せ」
「雲水クンっ、お弁当トレードしましょっ」
机を四つ合わせていつもの面々が揃う。一休、サンゾー、ゴクウ、そして雲水。
中でもサンゾーと雲水の弁当は他のチームメイトに狙われる事も多い。
「あ″?何テメーら雁首そろえて雲子ちゃんの弁当狙ってんだよ、ゴラ」
「阿含、ここで食うなら椅子持って来い。どっかで食うなら弁当(これ)だけ持っていけ」
かといって阿含が移動するとは考えられない。固まったままの三人を無視して雲水の隣に椅子を並べた。
「ほら、お前の分だ」
「んー」
並ぶ弁当箱は苺とパイナップル。
「何回見ても阿含に苺って似あわねーな」
パックの果実ジュースを飲みながらゴクウが指す。ドレッドにサングラスの男が食うにはどう考えても似合わなさすぎるのだ。
もちろん選んだ雲水にすればそれは狙っての行動。
「自分で選んだんだよな、阿含」
「マジで!?その顔で苺選んだのかよ!!腹痛ェーーー!!」
ぎゃはははと笑いだすゴクウの顔面を苺の蓋が直撃する。何のこともないプラスチックを武器に変えるのも天才のなせる業か。
「雲子ちゃんが苺(コレ)とたれぱんだとリラックマのどれが良いって言うからだっつの。可愛い弟にヒデー仕打ち」
慣れた手つきで交換されるおかずたち。自炊の一休と寮生のゴクウは兎も角、サンゾーの弁当は出来栄えも味もレベルが高い。
「鰻巻き卵なんて、サンゾーに出逢わなきゃ覚えてないな」
「雲水クンのクリームコロッケ、アタシ大好きー」
一通りの交換が終わったところで揃う『いただきます』の声。
十七歳が五人揃った平穏とは言い切れない昼休みの普通とは言い難い光景。
「ひっかひ、雲水も大変だよな……ふひゃりぶんつくって……」
「飲み込め、ゴクウ」
喉元を軽く叩いて隣の一休から牛乳パックを取りあげる。
「あ、それ俺のっすよ!!」
「早く飲まねぇのが悪ぃんだよ」
サンゾーの鰻巻き卵を一切れ隣の弟の口に放り込む箸先。
「今更飲んだってもう身長は伸びないっすよ!!」
その一言にゴクウを除く三人が一斉に噴き出した。
「おいおい、一休……そこまで言わなくとも……」
「そうよ、一休ちゃん。あんまり苛めちゃ可哀そうでしょ」
「あ"ーーーやべぇ、笑い過ぎた。雲子ちゃんお茶」
笑った三人はものの見事にゴクウと一休よりも身長が高い。男子二人はともかくとしても性別上は女子の雲水も174センチ。
如意棒でがすがすと一休を撃ち付けるゴクウも気に障ったのか涙目だ。
「あームカつく!!テメーの弁当全部よこせ!!」
「嫌っすよ!!せっかく雲水さんと交換したのに!!」
ぎゃあぎゃあと騒ぎ立てる二人に笑う二人の姿。それをぼんやりと見つめながら彼女はこんな風にも笑うだと思いだす。
(どうやったら俺の前でもあんな風に笑うもんかね)
気まぐれで登校してみれば小さな発見もあるもので、却ってそれが胸を締め付けてしまう。
(つまんねーの……こっち向いてもっと俺のこと構えよ)
「阿含」
「あ?」
唇に押しあてられるプチトマトの赤があまりにも鮮やかで。
「珍しいな、お前に隙があるなんて。今なら襲い放題だな」
「あ"ーーー雲子ちゃんにならいつ襲われてもオッケー」
両腕を広げれば、それに応える様に飛び込んでくる姿。
「雲水さんっ!?」
「ははははは……死ね!!」
インターセプトよろしく抱えられた頭を一気に締め上げる。
「ぎゃああああああ!!やめてやめて首折れる!!おねーちゃんやーめーてー!!」
ぎりぎりと容赦なく締め上げてくる右腕。ナーガ正クォーターバックの腕力は半端なものではない。
「安心しろ。クラス……いや、学年全員で読経してやる!!」
「痛だだだだだだだッッ!!俺まだ死にたくねぇっての!!」
どうにか振り解いて呼吸を整える。ここ数年で随分と彼女も強くなってしまった。
「何時見てもお前らの喧嘩は心臓に悪いぜ……そういう喧嘩は個室でやってくれ」
それでも三人の瞳には「雲水、そのまま殺っちまいな」の光があることも確かだ。
不機嫌の阿含の暴行に慣れ切ったチームメイトもそこそこに鍛えられてもいるのだ。
「何時でしたっけ、ゴクウさんと出かけて何か変なのに絡まれて。そんときに、『こんなの阿含のパンチと雲水の蹴りに比べりゃ
 全然痛くねぇな』って言ったの」
サンゾーの作ってきたフルーツゼリーを摘まむ指先。
「事実だろ。こいつら二人に殺られるのより痛いもんなんかねぇよ。阿含に比べりゃ温い殺気だし」
その間にも弟をぎりぎりと締め付ける姉の姿。
「アタシたち、殴られ慣れてるしね。阿含クンの手刀よりも痛いって言ったら王城の進君のあれくらいだし」
それぞれのプラスチックのカップに注がれた麦茶。
「あ、阿含死んだ」
完全に床に落ちた弟と道着の袷を直す姉。そして何事もなかったのように昼食を終えて二人分の弁当箱をしまい込む。
午後からは少し湿度は減って、その分気温は上がるらしい。
汗を流すにはもってこいの放課後まではもう少し時間を潰さなければならなかった。







フィールドに立てば彼女はむしろ彼になり、彼はまさしく天才となり変わる。
並ぶその姿は畏怖されるべきものでありその強さこそが絶対だと知らしめて。
「珍しいな、お前が練習に出るなんて」
狂うことの無い弾道と揺るがない指揮官の姿。
「たまに出てやろうか思って。んで、一緒に帰る」
このフィールドの自由を作るために必要不可欠な存在は、産まれ落ちた時からずっと一緒だった。
同じタイミングで同じ動き。一挙手一投足までも完全な同率。
一秒のずれさえも許さないと己を叱咤する姉と、一秒のずれさえも引き裂かれると嫉妬に狂う弟。
「雲水と阿含が並ぶと、それだけでも迫力が増すというか……空気が変わりますね、先輩」
レシーバーとして雲水のパスを受ける機会の多い弥勒がにやりと笑った。
「金剛の片割って言い方は、わしは違うと思うんだよなあ。阿含は阿含で雲水は雲水で」
「生まれ持った天才と……天才を支配する最強の凡人ってところですか?雲水の言葉を借りるならば」
試合にすら出てこない時は金剛阿含の名前を守るために、姉は時に弟に酷似したプレイになる。
見るものにまるで阿含が居るかのような錯覚を覚えさせ、そして本物を見たときの恐怖を増幅させる為に。
「ん、なんつーかな……ありゃ形は違えどもどっちも天才だと思うぞ。阿含の隣なんかに並べたら誰だって凡才以外にならんだろ」
「それが正解でしょうね……っと、また姉弟喧嘩ですよ。まったく、どっちも血の気が多い双子だ」
ヘルメットがぶつかり合う音と互いの胸倉を掴む手。
「一々人の腰を掴むな!!」
「そこにあったら触るだろ!!」
「一遍死ね!!」
「腹上死だったら死んでやるよ!!今すぐヤラせろ!!」
関東最悪の双子は、全国規模で見ても恐らく最凶であることは確実だろう。
「うわー、雲水さんも阿含さんも喧嘩しないで……ぴぎっ!!」
当時に決まる右腕と左腕のラリアット。天才細川一休は成すすべもなくグラウンドに倒れ込んだ。
「お前ら二人、それ試合で使ったらいいんじゃねぇの?」
弥勒の声に眼力コンビのもう一人の千里が頷いた。
「だったら……」
「テメーらカス全員で練習してやんぜ!!」
藪蛇とはこういうこと言うのだと沈み行く意識の中でナーガのメンバーはしみじみと思ったらしい。





「あーもうしばらく学校イカね。マジ疲れた。マジダリぃ……」
相変わらずしっかりと繋がれた左手と右手。
結局あの後も意識の回復した一休がシャワー室に突入してきたりそれを阿含が沈めたりと騒ぎは中々収まらなかった。
「そう言うな。たまにでいいから」
「あ"ーー……気が向いたら行ってやるよ」
「私は楽しかったけどな。一日お前と過ごせて」
「あ”?」
宵の明星が連れてきた夜が降りてきて。彼女の左手が右耳のガーゼを剥いだ。
まるで紅い月のようにまだ腫れの引かないそこに打ち込まれたピアス。
「月は、自力で輝くことが出来ないらしい」
彼の才能の影に隠れて、彼が存在するから自分の姿も見えてくる。
「……月ってさ、確かにそうかもしれねぇけども、人を狂わせんじゃん?ルナティックなんて言葉もあるくれぇだし」
赤い月の光が糸になって二人の小指を繋いでくれれば良いと願うには絶好の夜。
「太陽の神と月の女神が双子なんだっけ?」
「そんな説もあるな」
「やっぱさ、神話とかそーいうのでも決まってんだよ」
同じように余程彼のほうがロマンティストで彼女の方がリアリストだ。
それでもまだ十七歳。強くなりきれない二人のまま。
まだ終わりの無い道を月光を頼りに二人で進む。





差し込むのは深淵で真円たる紅い月。窓枠がまるで十字架のように胸を刻んだ。
黄色の混ざる赤はまるで血液のようで、西洋では吸血鬼が東洋では妖怪が跋扈するような夜。
不規則なシーツの皺と傍らの寝息。
膝を抱えてその光をぼんやりと眺めれば何とも言えない気持ちになるのはどうしてだろう。
「!!」
重なる手。
「……んなに驚くなよ」
同じように身体を起こして、彼女の視線の先を追う。
窓枠に刻まれた望月はまさしく幻想の王が統べるものだろう。その美しさと禍々しさ、どちらにも惹かれるように。
「そういや、俺……この部屋で良いっつったの、この窓が気に入ったんだよな……」
「窓?」
「そ。黒い格子枠で丸い窓。出来る影がすげー面白くて見たときに此処で良いって思った」
気難しい一面のある弟がこの部屋で良いと言ったきっかけ。
「どっちの部屋になっても俺が寝るのには変わんねぇし」
後ろから包み込むように抱きしめる腕。手錠のように絡まる其の影。
自分たちは同じ罪人。縛られた罪も時間も何もかも同じ咎。
「十字架みてぇ、俺ら」
なだらかな肩に噛み痕を一つ残す。背中へのキスは背徳の証し。
「こっから見る月が一番綺麗だよな、お前もいるし」
「…………………」
「雲水」
乾いた唇が触れるようなキスを繰り返す。吐息一つでも誰かに渡すなんて考えられないと。
「どーすりゃいいんだかな、俺。悩める弟を救ってやろうとか考えてくれねぇの?おねーちゃんは」
泣き出しそうな月明かり。影に縛られた罪。
「救えるものなのか?その罪は私にも同じだろう?」
堕ちていくどこまでも。無間の底を目指すように。
「じゃあ、どーすりゃいいの?」
求める答えは一つだけ。彼女がそれを口にしてくれるのをずっとずっと待ってる。
彼の背中の羽根は真っ白でどこまでも高く飛べるから。
地の底で手を伸ばした彼女のその黒い羽根に目を奪われた。
「どうしようか、阿含」
こんな時は彼よりも彼女の方がずっと性質が悪い。
まぎれもなく自分たちが双子なのだと感じられるように。
月光の下に晒された一組の男女の影。
「どーにもこーにも……好きなんだよ……畜生……ッ……」
あなたに縛られる代わりに、あなたを縛りたい。二つに分かれた器を心を一つに戻したい。
彼に抱かれて彼を抱きしめて、同じ空間で繰り返される異なる行為。
身体中に付けられた所有印と龍に走る爪痕。
胸の奥が痛んでも、それを飲み込んで隠さなければいけない。
「知ってるか?愛の言葉はそんな風に吐き捨てちゃいけないんだぞ」
「あ?」
「どうにもこうにも、好きなんだ」
「…………え?」
「こんな風に」
それは恐らく彼女の最大の譲歩。これ以上を出してはいけないから。
「……やばいくらい好き。もう、なんだってどうだっていいくらい愛してる」
「ああ、その位なら……聞いてもいいぞ」
「イジワル」
「今頃気付いたか」
じゃれあうようにして組み敷けば右耳に小さな赤い月。
「意地悪されたから、俺も雲子ちゃんに意地悪しよっと。朝まで寝かせねぇ」
「阿含」
背中を抱いた手。耳元で囁く声。
「……ちょ、待って!!もう一回言って!!今のもう一回!!」
「私は意地悪だからな。おまけに忘れっぽい、記憶力も天才のお前よりもずっと低いからもう忘れた」
「……よし、朝まで寝かせねぇでもう一回聞く!!」




格子に囚われた赤い月。
差し込む光に浮かぶ影。



18:28 2010/08/05







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